カップ焼きそばが無性に食べたい日のどうでもよさ

カップ焼きそばって無性に食べたくなる。安いし、すぐできるし、何も難しいことを考えずに「うめー」ってできる。

今日はカップ焼きそばが食べたくなり、買ってきた。コロッケも買ってきた。一緒に食べる。うまい。栄養に良くないとかそんなのどうでもいい日がたまにある。今日がそれだ。

なんでこう、カップ焼きそばって魅力的なんだろう。自分は食にあまり興味がないので、基本的には小食なのだが、カップ焼きそばのときだけはついでになんか食べたくなる。

マヨネーズも当たり前のようについてる。ほんとありがとう。絶対にかける。かけさせていただく。これがあるからカップ焼きそばの日になる。これがあるからどうでもよさが証明される。

割と、カップ焼きそばを食べてる日は執念の日なのかもしれない。どうでもよさを前面に出したいから食べてるのかも。どっちが先なんだ。どうでもよくなりたさか、カップ焼きそばか。令和の鶏卵問題だ。あー卵も入れるか。

出来上がったカップ焼きそばを、ゲームの配信を見ながらダラダラ食う。最高。正直味なんかどうでもいい。カップ焼きそばは、食感と風味さえ致命的でなければまあまあうまい。まあまあうまければいい。どうでもいい日なんだから。

映画館のポップコーンみたいなもんなのかも。コンセプトがあるからうまい的な。カップ焼きそばも、どうでもよさがないとうまくない。どうでもいいときに食べるからうまくなる。そういう意味で、執念は、カップ焼きそばをよりおいしくする工程なのかも。それを無意識のうちにできる人類って何なんだ。何のためにこの能力を獲得したんだ。

どうでもいい日だった。




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