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受験に落ちて人生終わったきみへ:補遺

 先日2024.3.11に投稿したエッセイ『受験落ちて人生終わったきみへ』(https://note.com/qe5aspuv/n/naa418edb0d71)について、本論に組み込めなかったことがいくつかあったので、補遺として当記事を残す。



 ぼくのいま務めている仕事は極めて一般的な事務職で、電話に出たり、エクセルを触ったりホッチキスを打ったり、一山どこにでもある仕事だ。ただひとつ大きな特徴があるとすれば、年に数百人単位で、大学生と高校生を相手に5分ほど電話で話す業務があるということだ。


 先日、Xでこんなポストを見た。
「思い返してみると、大学生の四年間ほど差が生まれる時期はない」
 誰が呟いたのかは今となっては思い出せない。なにか、技術か文化に関する仕事をしていた人のような気がする。

 これは正直な観察の報告だと思う。同じ入試で似たような点数を取って入学した同級生が、いつのまにかプロジェクトリーダーになっていたり、逆にいつまでも大学受験の思い出話をしていたりする。光陰は矢の如し。ふと気づいた時にはとりかえしのつかない差になっている。

 しかしこの観察には問題もあると思っている。それは観察者自体が同じ「四年間」の歩みの中にいたということだ。観察は過去完了進行形(have been ~ing)で行われていた。つまり定点観察ではない。同方向に移動しつつ見渡し記録する主観的カメラ。それは臨場感があるだろうけど、たくさんのものをとらえ損ねるだろう。

 仕事でその世代と多く会話して話を聞くぼくとしては、先のポストは、より正確にはこうつぶやくべきだったと思う。
「大学の四年間は、それまでについていた差が可視化される時期だ」と。

 いろんな人がいる。
 いいマンションに住んでいて、噛みつかれる可能性などみじんも頭によぎらずうまくやっていくであろう人。
 スポーツで結果を残していて、屈託のない気持ちのいい返事を返してくれる人。
 高校生にして、すでに社会に出る準備ができていて、「恐れ入ります」とも言える人。
 ちゃんと礼儀正しくしようと心がけてくれて、不器用ながら慣れない敬語を必死に使ってくれる人。

 いろんな人がいる。
 親・友達以外と話さなければいけないときに、そのための言葉を持っていない人。
 部活や課外活動に属したことがない人。
 優柔不断で返答がだらだらと長い人。
 思ってることがあるのに流されてしまう人。
 変人。

 大学生と話していると、同じ大学・似たような偏差値に属する二人でも、それ以外の要素について大きな個人差が認められる。
 そしてそれは、高校生についても同じである。
 よってぼくは、観察対象は同一の個体ではないが、総体の観察としてこう考察した。「既に差は開いていたのではないか」。
 
 もちろん5分間の通話だけでその人のすべてが分かるわけではない。その人にはその時の会話に上がらなかったなにかしらがあったのかもしれない。


 しかし、その他に長所なり誇りなり、興味なり嗜好なり、人格なり家柄なりがあったとしたら。もしそれがあったとしたら、その人は「受験落ちた。人生終わった」とは思わないのだ。受験に落ちたとしても十分にやっていけるのである。(つまり、当エッセイの対象者ではない)


 制服は、きみの異端さを免除する。許す。
 きみがへらへら笑って奇人変人を演じても、それをそれとして社会化してくれる。きみの行動は”絵になる"。お金は親が出してくれる。

 一本だけ罫線が引かれたエンヴェロープ。そこには偏差値を書いてもいい。

 きみは、免除されてきた。許されてきた。そして隠されてきた、特に何もできないことを。

 更に踏み込んでいってしまうと、きみは無意識では気づいているんじゃないか。おそらく自分は上手くやっていけないだろう。少なくとも、社会が"大人"に対して求める画一的なあれこれを、自分はそろえることができないだろう。


 だから学歴を獲ろう。冷え込む夜に、自分を温めるために。


 しかしきみは落ちた。それが現状で、そのことに気づいてほしい。誰かみたいになる前に。




 エッセイ『受験に落ちて人生終わったきみへ』には、「オマージュ」というタグがつけられている。冒頭で明らかに示したが、"影がない"という設定からして、村上春樹の諸作品(主に『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』)をもとにしている。
(そもそもエッセイという本来ノンフィクションで書くべき形式において、影がないという非現実的設定を入れて書いたことについて、その是非を自分自身悩んでいる。)

 ただ、困ったことに私の書棚には村上春樹の長編小説のすべてと短編小説やエッセイの一部がある。そして最新長編の『街とその不確かな壁』は11か月前、それ以外については少なくない数の作品が最後に読んでから1年以上が経過している。ただ、私の頭の中にはそれらから得た言葉がそのほかのすべての言語機能と溶け合って見分けがつかない。大規模言語モデルのAIのように。
 何が言いたいかというと、
①すべての記述について、影響元の作品がどれだかわからない。
 本を開いてそこから引用していたのだったら明確なのだが、逆に頭から出た言葉がどの本を元にしたのかわからない。
②明示的でない引用の仕方をしているかもしれない。つまり、誰かの受け売りを、さも自分で思い浮かんだような顔をしてかいてしまっている可能性がある(これは、村上春樹以外からもである)。

 たとえば、当エッセイで若干浮いている「外傷」のくだり。自分としてはこの記述は書かれる必然性があると思って残したが、どうも村上春樹(もしかして大江健三郎?)の受け売りである気がしてならない。少し探したが、見つけることはできなかった。

 瑕疵はひとえに私の不見識・未熟さにある。指摘は甘んじて受け入れ、必要な対処をするつもりだ。


 これは余談だが、読み返してみて、エッセイの中盤以降の文体に『めだかボックス』を中心とした西尾維新作品の影響を見た。ローティーンに読み、いろんな意味で私の原点となった作品だが、それが今なおこうして文章に顔を表すところを見ると、自分の変わらなさが空恐ろしい気もするし、くすぐったい思いもする。(2024.3.13)

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