【書評】まだ日々にテーマがなかった頃【『天国』ゴトウユキコ短編集】
※多分にネタバレを含みます。未読で話を楽しみたいという方は一行も読まないことを推奨します。また、引用元はすべて『天国』内の言葉です。
子供のころはつらいことが多かった。これは境遇が不幸だったということではなくて、例えば鬼ごっこで全員に逃げ切られてしまってトボトボ歩いたり、友達とサッカーのゴールのルールについて揉めて泣いたり、気まぐれから自分の前髪をぱっつんに切ってしまって翌日の登校を本気で憂いたり、しょっちゅう転んで膝から血が出たり。常に自分は無防備・剥き出し。世の中には危機がいっぱい。でも本気でうれしいこともあった。
今私は大人になって、ここ数年、血が流れるほどのケガは数えるほどしかしていない。
始めて入った書店で本作を見つけ、表紙の淡くも力強いイメージに惹かれジャケ買いした。
『天国』は漫画家・ゴトウユキコ氏による短編集で、2020年9月~2023年6月までに発表された「天国までひとっとび」「2月14日の思い出」「家庭教師」「迷子犬とわたしたち」の四編を発表順に掲載している。
「天国までひとっとび」
幼なじみの園田晶(アキラ)が死んだ。受験生の中学3年生にして無気力に毎日を過ごす主人公・吉本太朗の目の前に、死んだはずの晶が現れる。地面から浮き自分だけに見える晶は、太朗に現世の未練を伝える。
「2月14日の思い出」
高校3年生の私(名無し)は担任でもある国語教師に思いを寄せていた。ある日、主人公は出来心から教師が愛用していた万年筆を盗み、体にペンを這わせ自慰行為に耽る。その後、教師が既婚者だと分かり万年筆(妻からのプレゼント)を川に投げ捨てるが、直後バレンタインデーには自分の唾液入りのチョコと一緒に新しい万年筆をプレゼントしようとする。
反省か挽回するためか、捨てた万年筆を探すために川をさらう主人公。だが、不運にも浮浪者にプレゼントを置き引きされ心が折れる。3年後、大人になった主人公がバレンタインデーに賑わうデパート(?)で当時の"馬鹿で幼稚で愚かな"自分を苦々しくも思い返す。
「家庭教師」
夏休み。母子家庭にて母と二人暮らしする中学三年生・上館研一のもとに男子大学院生の家庭教師「先生」が訪れる。人当たりよく学力的にも申し分ない「先生」は二人と食卓をもともにし「年の離れたお兄さん」のような「お父さんのような」立ち位置になる。
三角関係は、一角の決壊からドミノ倒しに露見されてゆく。
「迷子犬とわたしたち」
小学六年生の塔、判治、佐藤芽生は、捜索に100万円の懸賞金をかけられている迷子犬の捜索のためチームを結する。
廃墟のような一軒家に入り込んだことからトラブルに巻き込まれたり、チームでいることがクラスで冷やかしにあったり、日記を隠れ読み芽生の恋を知ったり……。
夜遅くに外にいた三人は、どこかから聞こえた悲鳴の下に駆けつける。逃走しつつあるひったくり犯にかかっていくが、かえって暴行を受ける。
◆
「天国までひとっとび」にて、霊として現れた晶は、太朗の登校についていき自分のいないクラスの様子を俯瞰する。花瓶の置かれた自分の机。それでも平常にクラスに流れる時間。
短編集の序盤に差し込まれたこの視点は、成人した読者が子供を主人公とする四編を読む視点でもある。子供としての自分は死に新たな世代の子供が生まれ"青春"の時間を歩む。その時間に対して生身の成人にできることは、せいぜい「角田先生」が草木の影の喫煙所から傍観する、そんなようなことくらいである。
「2月14日の思い出」はラストで成人した「私」の視点になるから除くとして、その他三篇を見ると、それぞれの物語について所謂"テーマ"は見受けられなかったように思える。物語のパーツがラストへの伏線となって読者にメッセージを投げかけている、という風には思われない。三篇は「~だから○○しましょうね」とも「このように人間存在には××なところがある」とも言わない。ただ、生身の未成年の印象的な日々が描かれるのみである。
詳しくないが、「物語」というものに「テーマ」がついて回るようになったのはそう新しい話ではないと捉えている。昔話の勧善懲悪、聖書、できる限り発表が古い物語を思い浮かべてみても、「テーマ」を志向していないものは少数派だろう。むしろ19世紀以降、「テーマ」が行き切ったあとの文学的探索の中にアンチ・テーマの物語が台頭したと思う。
「テーマ」は物語の値札である。大人は物語に触れ、そこからテーマを読み解いてこそ「読んだ価値があった」と納得する。この「テーマ」は言い換えれば"効能”だ。大人は効能を求めて物語を消費する。
物語は本の中にとどまらない。通常、人は思春期にまともな自意識をもち外界と自身とを相対的にとらえるようになる。これはつまり、世界という舞台における自分というキャラクターを発見する、自分の人生という物語を演じ始めるということに等しい。そしてその物語についてもやはり「テーマ」を引き寄せずには歩めないのではなかろうか。
例えば、誰しも大きな失敗をした後には「きっとこの経験が自分を大きくしてくれるはずだ」とか思ったり、成功したときには「これもあの時の失敗があったおかげだ」と思ったりするものだ。これはやはり人生を物語化しそのテーマを消費しているということだろう。
なぜそんなことをしなければいけないかというと、それは成熟の過程で繊細な神経が鈍磨して感じにくくなりポジティブな体験を貨幣的な「テーマ」に還元することで喜びを実感するためかもしれないし、逆に鋭利すぎるトゲに傷つかないように言葉でパッケージングするという防衛本能かもしれない。
無限の計算量・鋭さと滑らかさを持つアナログの現実から、安全なデジタルへ変換。言葉の使い方、心のもっていきかた、空気の作り方を知っている大人は、自らを取り巻く現実に対して物語(テーマ)という安全な温室を築くことができる(それが大人になる条件でもある)。
この短編集に付けられたタイトル『天国』とは、子供のみが触れられるその生身・アナログの現実世界だと受け取った。本作で子供たちはそれぞれに悲しんだり、驚いたり、傷ついたり、恋をしたりする。私たち読者はそれを傍観し自身の過去を思い返すことだろう。そういえばこのような危機があったな、と。胸に何かが本当に突き刺さったかのような痛みがあったな、と(人にもよるがその時系列の最後には性の初体験があったかもしれない)。
思春期で物語を歩み始める時分、それは自分の限界を知りだすころでもある。自分がいつか死ぬということを自覚してニヒリズムにも陥るし、才能の壁を実感して身の程の幸福などを志向するようにもなる。そんな時分には特に救いとなるべく「テーマ」が必要となるだろう。
ただ、成人も歴を重ねれば「テーマ」に飽きたり、アナログ的な世界の手ごたえを再発見したりする。『天国』を追放された大人すべての居所が地獄ではもちろんない。本作にも脇役としてだが活きた成人としての表情がそこかしこに描かれている。
最後に、先の「テーマ」が見受けられなかったという三篇から除いた、「2月14日の思い出」について。
本編では、主人公が高校三年生という四編の主人公の中で最年長である点からも、性についても自覚的に耽っているという点からも、他の主人公より経験的に1ステージ上であることが示されている。自慰の道具に先生愛用の万年筆を使うことは、プレゼントのチョコに唾液を混入することは、「現実(のアイテム)」を自らが奔放に思い描く物語のなかに引き込む実力の証左だ。他三篇が主人公の本名をフルネームで示されたのと比べて、本作においては「私」としか表されなかったことも示唆深い。土台、名前というものは記号でありデジタルだが、「私」という一般的な一人称代名詞とは違い固有性がある。それは三篇の主人公の“体験の固有性”の現れかもしれない。「私」の体験はテーマに還元されるという点で他のだれかにも再生可能であり、個有のものとは言えないかもしれない。
二十一歳になった「私」。モノローグが始まり、無表情の「私」のアップ。「私」はバレンタインデーで賑わう販売店で立ち止まり、道行く人に「先生」の面影を見る。そして店員に『この一番高いのください』と言う。
この行動をとる彼女はまだ「テーマ」のある物語の中にいる。昔の苦い思い出を振り返りながら、それでも渡す相手もいないチョコを買う、それを彼女は“絵になる”とか思っているかもしれない。身についた「テーマ」消費を味わいながら。
しかしその表情は乏しい。
思春期に多少こじれた「私」は二十一歳の現在、ここで言う地獄にいるのかもしれない。これから折り合いを見つけ、活きた表情の大人になっていくのかもしれない。
四編を通し、中三、高三~二十一、中三~大一、小六と、それぞれの段階が示され、定規の目盛りように読者の前に現れる。そこで読者は自らの位置を見定めつつも、子供たちを見る傍観の目を自らの過去・子供時代にも向ける。そして、自分の記憶の中からあの感触が消え去っていないことを確認する。それは自分の生身のままの生の肯定に繋がる。
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