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新世紀探偵(6:『さあ、この物語の本題はここから』)

「さあ、この物語の本題はここから」とミネコ・サカイは青いBMWのエンジンをかけながら、いまこのテキストを読んでいるあなたにウインクした。「いまから熱海までぶっ飛ばすわよ」

「熱海のラボ」と私はイッセイ・スズキが言っていた情報を繰り返した。「熱海のラボっていったい何の話だ? それにどうしてキタロー・ユカワ教授がイッセイ・スズキに面会しに来たんだ?」

「いったい何がどうなっているのか、私にも全然状況が整理できない」とミネコ・サカイも頭を横に振りながら言った。「でも、一つだけ確かなのは、とりあえず熱海のラボとかいう場所に行ってみるしかないってことよ」

「もしかしたら、つぐもそこにいるのかもしれない」と私は言った。「そういえば、ついこの間、不思議な夢を見たんだ」

「夢?」とミネコ・サカイは聞き返した。「その夢が今回のことと何か関係があるの?」

「関係があるか、関係がないかはわからない。もしかしたら何の関係もないかもしれない。何しろただの夢だから。でも、その夢にはつぐが出てきたんだ。あと、ピンクの豚。つぐはその夢の中で『オッペンハイマーの箱、数字の羅列、Not Found』という三つの単語を口にした。まあ、オッペンハイマーの箱はわかるけど、その後の数字の羅列とNot Foundの意味がいまひとつよくわからないんだ。君にはわかるか?」

「オッペンハイマーの箱、数字の羅列、ノット・ファウンド」とミネコ・サカイは呪文を唱えるように繰り返した。「ねえ、その数字っていま思い出せる?」

「ちょっと待ってくれ、作者に聞いてみる。ヘイ、作者さん、申し訳ないがあの数字をコピー&ペーストしてきてくれ。ピンクの豚とつぐが夢に出てきたシーンだ」と私はひさびさに第四の壁を超えて、作者に話しかけた。

3504771131974883513907933530872901

「サンキュー、作者さん」と私は答えた。ユア・ウェルカム。「3504771131974883513907933530872901だそうだ」と私は言った。

 ミネコ・サカイはiSeeにその数字を記憶させてから「もしかしてだけど、これって座標なんじゃない?」と言った。

「緯度と経度? もしそうだとしたら、この数字はどこを指し示しているんだ?」

「南熱海原子力発電所」とミネコ・サカイはiSeeの検索結果をそのまま読み上げたようだった。

「南熱海原子力発電所?」と私は思わず聞き返した。「つぐと南熱海原発にいったい何の関係があるんだ? 熱海のラボというのは南熱海原発のことなのか?」

「もう、全くわからないことだらけね」とミネコ・サカイはため息をついた。「そもそも、さっきの数字ってあなたの夢の中のつぐちゃんが口にしただけなんでしょう。たまたまあなたの無意識にこの数字が記憶されていて、たまたま実在する座標だっただけで、今回の事件とは何の関係もないかもしれない」

「それでも、イッセイ・スズキの口からも熱海というワードが出たんだ。偶然にしてはあまりにもできすぎだろう。どうやらありとあらゆる情報が熱海に関係し始めている」

「まあ、とにかく行ってみないことには何ともね」とミネコ・サカイはハンドルを握った。「とりあえず出発しましょう」

「オーケー」と私は言った。「もし熱海で全てが解決したら、私と君とつぐの三人で温泉にでも行って、おいしいものをたらふく食べて、ちょっといい旅館にでも泊まろう。それから、次の朝にはゆっくり起きて、全員でこのBMWに乗りこんで、トキオ・シティまで帰ってこよう」

「最高ね。できれば私もそういうハッピー・エンドを期待したいわ」



 先ほど宣言した通り、真っ青なBMWは首都高をぶっ飛ばしているところだった。トキオ・シティから熱海までの所要時間は高速道路を使っておよそ2時間以上ということだ。カーステレオはまたミネコ・サカイによって音楽専門チャンネルに合わせられていて、「本日はイエロー・マジック・オーケストラ特集をお送りしています」というアナウンサーの声が聞こえた。「次はイエロー・マジック・オーケストラといえばこの曲。作曲は高橋幸宏さん、編曲は坂本龍一さん、当時の日本を席巻したメガヒットナンバー、『ライディーン』」

「いまから話すのは全て仮定の話だが」と私は言った。「つぐを誘拐したのはミスターではなく政府の人間だった。あるいはそもそも誘拐でも何でもなくキタロー・ユカワ教授と政府による自作自演だったのかもしれない。どうしてそのような偽装工作をしなければならなかったのかについてはまだわからないが、恐らくキタロー・ユカワ教授と政府の人間がイッセイ・スズキを訪ねたのは、つぐの中にあるオッペンハイマーの箱をこじ開けるためじゃないだろうか。キタロー・ユカワ教授の話が本当だとしたら、オッペンハイマーの箱はつぐの深層意識の中にある。深層意識に隠されたオッペンハイマーの箱を見つけるには、イッセイ・スズキの知見がどうしても必要だったんだろう。だからイッセイ・スズキを訪ねたんだ。でも、オッペンハイマーの箱をこじ開けて、それからいったい何を企んでいるのかということまでは、まだ私にもわからない。でも、この推理はそこまで的を外しているわけでもないという気がする。

 それから、つぐとオッペンハイマーの箱を追う私たちがもっとも危惧しなければならないのは、相手がすでにミスターのクラッキング技術を手中におさめているということだ。もちろん目的はオッペンハイマーの箱だろうが、敵対関係にある私たちはいつでもミスターのクラッキング技術を応用した攻撃を受ける可能性がある。もし我々に対してあれが使われたら、私にも君にも抵抗しようがない。オッペンハイマーの箱が開いて世界が滅亡なんて話も結構だが、私はよっぽどそっちの方を危惧している。かつて私はあれで上司を一人半殺しにされているんだ。その人はいまでも病院のベッドで植物状態になったまま目を覚まさない。ミス・サカイ、君にはそうなってほしくない。もう二度と私は誰かがあんな恐怖を体験しているのを間近で見たくはない。だから、私がいまから言うことを一つだけ聞いてくれ。ちょっとでも危険だと感じたら、君は一人ですぐ逃げろ。それより先のことは全て私に任せるんだ。このことを約束してくれるか?」

「『ライディーン』をBGMに聞くような話じゃなかったわね」とミネコ・サカイは言った。「でも、わかったわ。あなたの元上司のことは私も聞いて知っています。ミスターの技術がどれだけ恐ろしいものなのかということも、それを直接体験したあなたの言葉がどれだけの重みを持っているのかということも。ここから先は捜索の指揮権をあなたに譲ります。私はあなたが『やれ』と言ったら何でもやるし、『やるな』と言われたら何もしません。あなたの判断を何よりも優先します。これで構わないかしら?」

「ありがとう」と私は頷きながら言った。「そうしてもらえると非常に助かる」

 BMWのカーステレオから流れていた『ライディーン』はいつの間にかアナウンサーのトークへと移っていた。「続いてはYMOがもっとも影響を受けたといっても過言ではないドイツの伝説的グループ、クラフトワークから一曲お送りします。『レディオ・アクティビティ』、どうぞ」

「参考までに聞いておきたいんだけど」とミネコ・サカイは前方を見ながら言った。「あなたがいちばん幸せを感じることともっとも恐怖を感じることって何?」

「申し訳ないが、宗教の勧誘なら間に合っている」と私は答える。「両親が空飛ぶスパゲッティ・モンスター教の信者だったから。何しろ子どものころから、リビングのいちばん目立つところにこの絵が飾ってあったくらいだ」

 私はそう言って、ミネコ・サカイのiSeeに「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」の聖像を送った。

「これまで色々と変な人にはお目にかかってきたけど、あなたって私が会ってきた中でもとびきりの変人ね」とミネコ・サカイは呆れて言った。「何なのよ、これ?」

「聖像」と私は答えた。「我々は善なるもの全てを支持し、善ならざるもの全てに反対するものである。空飛ぶスパゲッティ・モンスター教の教義の中で、私がもっとも好きな一節だ。それでさっきの質問は何だった?」

 ミネコ・サカイは私を無視して運転を続けた。クラフトワークの反復する無機質なメロディが沈黙をより強調しているみたいだった。BMWが上げる唸りと周りの車の走行音だけが続いた。私は「ウィスキーを飲んでいるとき、煙草を吸っているとき、そして詩を読んでいるとき」と言った。

「何?」とミネコ・サカイは一瞬こちらを見て聞き返した。

「ウィスキーを飲んでいるとき、煙草を吸っているとき、詩を読んでいるとき」と私は繰り返し言った。「さっき君がした質問。私がもっとも幸せを感じること」

「あなた、詩を読むの?」とミネコ・サカイは疑わしそうに言った。「どう見てもポエティックな人間には見えないけど」

「見かけによらずポエティックな人間なんだ。ブローティガンの詩を読んで泣いたことだってある。ホイットマンやディキンスンも好きだし、キーツとブレイクも好きだし、ランボーやヴェルレーヌだってもちろん好きだ。ただ、マラルメだけは何度読んでも好きにはなれない。最近は松尾芭蕉と小林一茶の俳句にはまっている。ブローティガンも言ったように、俳人たちのエモーションとディティールとイメージを一点に凝縮するテクニックには、確かに感嘆するべきものがある」

「詩を好きなのはよくわかった。疑って悪かったわ」とミネコ・サカイは言った。「それで、もっとも恐怖を感じることは何なのかしら?」

「最も信頼していた人物が私のもとから突然いなくなること、自分のやって来たことがあらかた否定されて無に帰してしまうこと、そしてこれまでの人生が何の意味もないものに思えてきて、まるで重力に引っ張られるみたいに自分から死の方に引き寄せられていくこと。そういうことがたまらなく怖い」と私は正直に答えた。

「実際にそういうことがあったの?」

「あった。Mが──元配偶者だ──Wと──私の旧友だ──と肉体関係を持って、そのせいで離婚することになった。元々、私とMとWは同じ社会人の演劇サークルに所属していた仲で、私と結婚する前のMはWと交際していたんだ。でも、色々あって、MはWと別れて私と付き合うことになった。もちろんWはどうしようもないような人間だったけど、それでもどこかで私はいつも罪悪感を感じていた。MとWはそれだけで完璧な関係性だったのに、たまたま私が近くにいたことによって、その黄金比のごとき奇跡的なバランスを損なってしまったんじゃないかと思っていた。それでも、私とMはしばらくはうまくやっていた。お互いの仕事も順調だったし、二人の関係にもこれといった問題は持ち上がらなかった。でも、だんだん私が仕事に夢中になっていって、前ほどは家庭を顧みなくなった。ときを同じくして、Mの方は仕事に関係したことでだんだんと精神を患っていって、ついには休職して家に一人でいる時間が増えた。そこにWが再び現れて、Mと肉体関係を持ち始めたというわけだ。そして、話し合いの結果、私たちは離婚することになった。まあ、よくある典型的なパターンだ。でも、話にはよく聞いたりすることであっても、それが実際に自分の人生に降りかかってみると、とても典型的なパターンだなんて笑っていられなくなるものだ。そこにミスターのことが重なった。離婚して一ヶ月後のことだった。Mと別れてからというもの、私はますますミスター事件にのめりこんでいった。でも、君も知っての通り、いよいよイッセイ・スズキを逮捕するという段になって、私たちはミスをした。そして上司だったドンは植物状態になり、非公式の捜査本部として動いた私たちには上から重いペナルティが課せられた。私は警視庁を退職し、しばらく何もせずに過ごした。そのうちにだんだんと死の側に引き寄せられるようになって、クリスマスの朝に自殺未遂した。それでも、ぎりぎりのところで何とか生の側に踏みとどまって、何とかいまこうして生き延びている。精神科に行ったわけじゃないからわからないが、いま思えば当時の私は完全にうつ病だったんだと思う。でも、何とか乗り越えたんだ」と私は話を結んだ。

「そうだったの」とミネコ・サカイはハンドルを握りながら言った。そしてしばらく私の話したことについて考えているみたいだった。私もしばらく沈黙をまもって、自分が話したことについて考えていた。

「ついでだから告解しておくと、私も一度だけ自殺未遂をした」としばらくしてからミネコ・サカイは口を開いた。私は「うん」と相づちを打った。

「大学を出て『新世紀探偵』に就職したばかりで、かけだしのC級探偵だったころの話」とミネコ・サカイは話し始めた。「探偵さんも最初に経験したと思うけど、研修期間中にバディを組んでいたB級探偵がいた。いかにも中年という感じの小太りな人で、お世辞にも清潔感があるとは言いがたかったし、何かと言うとすぐ自分の功績を自慢したがるような鼻持ちならないやつだったけど、探偵としての腕は確かだったから、私も一ビジネス・パートナーとしては信頼していた。そんなやつでも結婚していて、高校生の息子と中学生の娘が一人ずついるということだった(そいつはやたらと子どもの写真を私に見せたがった)。初めからハラスメント気質なところはあったけど、あくまで仕事上の付き合いだけだし、私が耐えればいい話だと思って、あいつのそういう部分についてはできるだけ目をつぶるようにしていた。それにまだ新人だったから、一応先輩にあたる人間に対して、そこまで強く出ることができなかった。でも、それが大きな間違いだった」

 ミネコ・サカイはそこで一旦口を閉じた。前の軽自動車を追い越すために、車線を変更する必要があったからだ。

「依頼で大阪に行ったとき、私とあいつは同じホテルの同じ部屋に泊まることになった」とミネコ・サカイは話を続けた。「どうしてもそのツインルームしか空いていなかったということで、私は仕方なくあいつと相部屋することになった。さいわい、ベッドとベッドの間隔があるタイプの部屋だったから、私とそいつは別々にシャワーを浴びて別々のベッドで寝ることにした。そして、その次の日は朝早くから聞き込み調査をする予定になっていたから、私たちはそれぞれのベッドで早めに眠ることにして照明を消した。

 電気を消してからも私はしばらく寝付けなくて、ずっと目を閉じてはいたんだけど意識がある状態だった。すると、隣のベッドで何やらあいつが動く気配があった。そして、あいつは私のベッドのそばまでやって来た。私は全部わかっていたけど、怖くて動くことができなかった。あいつはそのうちにベッドにもぐりこんできて、私の身体を触り始めた。もちろん私は『やめてください』と言って抵抗したけど、あいつは言うことを聞いてくれなかった。ずっと私の乳房や臀部を後ろからなで回し続けていた。『やめてください!』ともう一度繰り返すと、あいつは私の身体を力ずくで仰向けにして、馬乗りになった。そして、私の両手首を思い切り押さえつけてこう言った。
お嬢ちゃん、お前はいままで何の苦労もなく暮らしてきたんだろう。いい家庭ですくすくと生まれ育って、金にものを言わせていい学校を出て、そのまま社会に出てきたんだろう。でも、現実の社会というのはそんな温室みたいな場所じゃないんだ。いまのうちに一度くらいは挫折を味わっておけ。圧倒的に巨大な力に対して、自分という人間がいかに無力かということを実感しろ。社会にはびこる不条理を知れ。くそ、お前みたいな生白いやつを見ていると、ぶっ殺してやりたくなる

 それから、あいつは私の服を無理やり脱がせて、すでに勃起していた陰茎を私の膣に強引に押し込もうとした。でも、それは無理な話だった。だからそいつは自分の唾を私の性器に塗りたくって、もう一度陰茎を膣に押し込んだ。私はあまりの痛みに悲鳴を上げた。そうしたら頬を強く張られた。『次また声を出したら今度は拳で殴るからな』とあいつは脅した。私はもうあまりの恐怖に繰り返し頷くことしかできなかった。それから私はあいつに犯されて、最終的に膣の中に精液を出された。私はその間、精神的なショックから一時的な乖離状態にあった。いわゆる幽体離脱というものだったんでしょうけど、私の魂は天井の方まで浮かび上がっていって、あいつに犯されている自分自身の顔を眺めていた。そのときの自分の表情をよく覚えている。恐怖のあまりに放心状態になっている顔。無力な自分に絶望しきった顔。一瞬のうちに不条理な暴力にさらされて何一つ理解できないという顔。いまでもたまにその場面が夢に出てきて、叫びながら目を覚ますことがある。

 あいつはことが済んでしまうと、私に『iSeeのデータを削除しろ』と言った。私は言われた通り、レイプされている間のデータを全て削除した。あいつはそれだけ確認すると眠りについて、すぐにいびきをかき始めた。私はしばらくベッドに横になっていた。あまりのショックに泣くこともできなかった。でも、少し経ってからようやくバスルームに行った。そしてシャワーを浴びようとしたときに昔何かで読んだことを思い出した。『もし、性的暴行を受けることがあったら、物証として相手の精液は保管しておくこと。シャワーなどで洗い流してしまうと、証拠不十分で不起訴に終わってしまうケースが多い』。私はショック状態にありながらもすぐ部屋まで戻っていって、自分のバッグから飲みかけだったペットボトルのミネラルウォーターを持ってきた。そして中身を全て洗面台に捨てて、ペットボトルの口を性器にあてがった。そのときが私にとってもっとも屈辱を覚えた瞬間だった。でも、何とかあいつの精液を全部ペットボトルに絞り出して、蓋を閉めた。そして、見つからないようにまた自分のバッグの奥底に隠した。

 次の日の夜、トキオ・シティに帰ってきた私は、本社に全てを報告した。iSeeのデータこそ削除されてしまっていたけど、私の保管していたあいつの精液が役に立った。『新世紀探偵』の顧問弁護士が出てくることになって、精液のDNA鑑定もしてもらった。裁判ではあいつとあいつの弁護士は『性行為があったことは事実だが、同意の上でのことだった』という主張を繰り返していた。でも、最終的にあいつは強制性交等罪で懲役5年を言い渡された。当然『新世紀探偵』を懲戒免職になって、以後公安に関わる仕事には二度と就けないことになった。でも、私はそのときに正直『たったそれだけ?』と思った。被害者の私は一生忘れることのできないトラウマを負って、死ぬまで苦しみ続けなければいけないのに、あいつは人生のたった10分の1くらいの間、臭い飯を食わされるだけで、それさえ済んだら何事もなかったかのように社会復帰するんだ。そうやって考えたら悔しくて涙が出てきた。涙を流したのはそのときが初めてだった。本当は私は裁判なんかに持ち込んで社会的制裁なんて生ぬるいことをするべきじゃなかった。あいつがいびきをかいて眠っている間に、鋭いナイフで喉元を掻っ切るべきだった。そして、あいつの性器を切り取って、二度と同じことができないようにトイレにでも流してやるべきだった。本当はそれくらいやって然るべきだったのに、そのときの私はとっさにそういうことができなかった。あいつが刑務所に収監されたからといって、私の身体と精神が受けたショックが消えてしまうことはなかった。いままで普通にできていたこと(たとえば街を歩いたり公共交通機関を利用したりすること)ができなくなった。もちろん誰も私がレイプされたことなんて知らないし、わかりようがない。顔に書いてあるわけでもないし、ぱっと見てわかるような特徴があるわけでもない。でも、私は周りの誰もがそのことを知っているような気がした。そして次第に外に出かけるのが怖くなった。私もいま考えれば、あのときの自分はPTSDのいちばんひどい状態にあった。このけがされた身体と精神で死ぬまで生きていかなければならないと思うと、もう耐えられなくなった。私はベランダに出て、そこから飛び降りようとした。下を見ると、たくさんの車が行き交っているのが見えた。私はベランダの柵に足をかけて、もう少しでそのまま飛び降りるところだった。でも、下の景色を眺めているうちにだんだんと怖くなってきた。一発で死ぬことができたらいいけど、何かの間違いで打ちどころが悪くて、一生残る障害をかかえたまま生きていくことになったらどうしようとか、そういうことを考え始めた。もしそうなってしまったら、もう一度自分で自殺することもできないし、本当に生き地獄としか言いようがない人生を送るはめになる。一瞬で私はそこまで考えて、自殺するのはやめにした。そして死ぬのをやめて生きていくことを選ぶのなら、まず自分自身がもっと強くならなければいけない。そう思った。

 それから私は毎日ジムに通って身体を鍛え、マインドフルネスの教室に通って精神を鍛えるようになった。前よりも色々な書物を貪欲に読むようにもなったし、ボクシングや柔道なんかの格闘技も一通り習った。馬鹿みたいだけれど、こういうところから始めるしかないと思った。そして、眠る間も惜しんで依頼を大量に引き受けてはこなして、一刻も早くS級探偵になれるようにがんばった。元々私はどちらかと言えば無口でおとなしい性格だったんだけど、仕事をこなしているうちに人格まで変わってきた。いや、むしろ自分で進んで作り変えたという方が正しいかもしれない。探偵としての私はミネコ・サカイという名前を自分に付けて、全く新しい人間になった。もう誰にもなめられたくなかったし、無抵抗なまま黙って暴力を振るわれるのもごめんだった。私はDVやレイプ被害に苦しむ同性からの依頼を中心に受け付けるようになり、私をレイプしたのと同種の人間に社会的制裁を加えてきた。ときには法に触れない程度に個人的な制裁を加えることもあった。そして私は『新世紀探偵』史上、類を見ないスピードで出世していって、いまのこのポジションに付いた。私はそうやって強くなった自分を誇りに思うし、圧倒的な暴力で誰かを支配しようとする人間は許さない。地球の裏側まで追いかけても制裁を加えてやる。それが私のやり方だから」とミネコ・サカイは話を結んだ。

 カジュアリティーズ、と私は思う。「戦闘における死傷者や犠牲者」を意味する英単語だが、いうなれば私たちも一種のカジュアリティーズなのかもしれない。表向きにはわからないものの、私もミネコ・サカイも、あるいはどんな人間も、毎日何かしらと戦っているのだ。それが自分の外側にあることもあれば、内側にあることもある。しかし、誰もが毎日その戦いに勝ち続けられるわけではない。日々の戦いに敗れた人たちは、暗闇からやって来たものによって魂のもっとも柔らかいところから蝕まれていき、取り返しのつかないほど損なわれ、最悪の場合には(かつて私がそうだったように)死へと限りなく近づいていくことになる。そのぎりぎりのところから、こちら側へ帰ってくるものもいれば、あちら側に行ってしまうものもいる。そこはまさに紙一重のバランスなのだとしか言いようがない。

 私もミネコ・サカイも一時的には死を選ぼうとしたものの、結果的には生の側へ帰ってきた。そして、この世界をサヴァイヴするために自己の人格を作り替えることさえした。それができないものはこの世界から滑り落ちていくし、それができるものはこの世界にしがみつき続けていく。

 そういうものだ。

「そういうものだ」と私は実際に声に出して言ってみる。ミネコ・サカイは不思議そうな顔をして、またこちらを一瞬見た。

「何が?」

「この世界が。私たちの人生が」

7へ続く)

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