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東京の鱒釣り


 
 ぼくたちは日本の夜から飛んできた

 東京の羽田空港を

 四時間前、六月三十日午後九時三十分に

    飛びたち

 そしていま太平洋の上

 日本へとむかう途中の朝日の上に

    飛びこんでゆく

 日本ではまだ暗やみがよこたわり

 太陽がやってくるまでに数時間かかる

 ぼくは日本の友人たちのために

 七月一日の朝日にあいさつする

 かれらが愉快な日を迎えるように

 太陽は日本へと

    むかっている途中だ

 (ふたたび六月三十日だ

 太平洋上の

 日付変更線をよこぎって

 故郷アメリカへむかっている

 心の一部は日本に

 おいたまま)

 リチャード・ブローティガン『東京日記』より「朝日ののぼる国」

 イントロダクション

 鈴木眼鏡『東京の鱒釣り』の表紙は、ある日の午前はやくに写された、日比谷公園の中ほどに立つ、ホセ・リサール博士像の写真である。

 『アメリカの鱒釣り』の表紙は、ある日の午後おそくに写された、サン・フランシスコのワシントン広場に立つベンジャミン・フランクリン像の写真である。

 二〇代も終わりに差しかかろうという年齢を迎えて、ようやくプロの作家をめざしだした私は、第三作となる『東京の鱒釣り』をこのように書き始めるつもりだった。元々はアメリカの詩人にして作家のリチャード・ブローティガンに対するオマージュとして構想したのだから、そのように始まって然るべきだろう。そのためにわざわざ東京の日比谷公園まで行って、ホセ・リサール博士像の写真なんて撮ってきたのだ。

 しかし、『日本語は絶滅しました』と『新世紀探偵』という二つの小説を書き上げ、先週、恋人のきみ(元恋人のきみとはまだ言いたくない)がいなくなってしまったばかりの私は、全く違う書き出しから、この『東京の鱒釣り』を始めようとしている。

「いいかい? 作家が真価を問われるのは三作目だ。一作目は自分の体験をそのまま書けばいい。二作目は、一作目で身に付けた技術と想像力で書くことができる。しかし、三作目は、自分の体験と技術と想像力を使い果たしたところから、書いていかなければならない。作家にとっての本当の戦いはそこから始まる」 

 これはブローティガンが東京にいたころ、日本人の作家に向けて語った言葉だとされている。当時、その作家は芥川賞受賞後の第一作を書き上げたばかりで、一種の興奮状態のまま、行きつけのバーの扉を開けた。カウンター席には東京滞在中だったブローティガンが腰かけていて、その日本人の作家は「僕はついさっき新しい小説を書き上げたばかりなんだ」と興奮さめやらぬ状態で話しかけに行った(日本語で話しかけたのか英語で話しかけたのかは書かれていなかったと思うけれど、ブローティガンはほとんど日本語を話せなかったはずだから、恐らく英語でだったに違いない)。

 しかし、ブローティガンはそのとき疲れていたのか、あるいはただ機嫌が悪かったのか、「へえ」という気のなさそうな返事をした。「おめでとう」の一言くらい言ったらどうなんだと思った、とその作家は書いていた。確かにそのまま会話が終わっていたとしてもおかしくはない雰囲気だった。でも、そのすぐ後で、ブローティガンは「いいかい?」と突然話し始めたのだ。

 ひとつだけ断っておくと、これは正確な引用とは言えない。私の記憶が正しければ、このエピソードは実際に出版されたその作家の二作目となる小説に書かれていたことなのだけれど、私はいま、その小説を手元に持っていない。恐らく東京から地元に帰ってきたときに売ってしまったのだろう。あるいは知り合いに貸したまま返ってこなかったのか、もしくはただなくしてしまったのかもしれない。

 いずれにしても、私の手元にはいまその小説がないので、本当はどのような文章でブローティガンとその日本人作家の対話が描かれていたのかについては、もはや確かめようがない。

 ところで、あなたはいま、どんな時刻に、どんな場所で、この『東京の鱒釣り』を読んでいるんだろう? 

 三月の日曜日の深夜、2LDKのアパートのリビングでソファに座って(隣の寝室ではベッドでパートナーがすやすや眠っているところ)?

 満員電車に揺られながら、朝一番にセッティングされている社内会議からの現実逃避として(それならハードボイルドな私立探偵が活躍するミステリーとか、時空を行ったり来たりするサイエンス・フィクションを読んだ方がいいかもしれない)?

 クラスメイトたちが騒ぐのを横目に教室のいちばん隅の席で(鈴木眼鏡の新しい小説を読んでいるから静かにしてほしいとは言いづらいだろう)?

 ヘルシンキ行きの旅客機の中で空港に着くまでの暇つぶしとして(機内上映の恋愛映画があまりにもくだらなくて観るのをやめてしまったから)?

 いずれにせよ、できれば、私はあなたが幸せな状態にあるといいと思っている。安全な場所、あるいは快適な場所、とにかくあなたがリラックスして過ごせるような場所で、もしそれが可能だったら、あなたが愛したことのある人、あるいはあなたを愛してくれた人の顔を思い浮かべながら、この小説を読んでもらえたらうれしい。

 ただ、恐らくこれはひどく個人的な小説になるだろうという気がする。「鈴木眼鏡? どうしてそんなどこの誰かもわからないやつのひどく個人的な小説なんて読まなきゃいけないんだ?」と感じた読者の方は、ぜひここでページを閉じておくことをおすすめします。それでも読んでみよう、という奇特な読者の方のみ、どうぞ次の章へ進んでください。

 追伸

 ブローティガンは『アメリカの鱒釣り』に「わたしは、ずっと、マヨネーズという言葉でおわる本を書きたいと思っていた」と書いている。そして、実際に「マヨネーズ」という言葉で『アメリカの鱒釣り』を締めくくった。だから、私もブローティガンへのリスペクトをこめて、『東京の鱒釣り』を「ケチャップ」という言葉で終わらせたいと思う。「ケチャップの章」といういちばん最後に書くはずの章を読んでもらえれば、私が本当に「ケチャップ」と書いたのかどうか、わかるはずだ。

 きみ(一)

 きみがいなくなってしまった先週の日曜日、その深夜(というかほとんど明け方近く)になって、私はようやくこの小説を再び書き始めた。

 それまで『東京の鱒釣り』にはいちばん最初の一節である「鈴木眼鏡『東京の鱒釣り』の表紙は、ある日の午前はやくに写された、日比谷公園の中ほどに立つ、ホセ・リサール博士像の写真である」という文章しか存在していなかった。私は何年も前にその一行だけを書いて、MacBookの中に眠らせたままにしていたのだ。そういう意味では、いつも通り、きみがまた私に小説を書かせてくれたということになる。

 きみは第六十六回群像新人文学賞に応募した『日本語は絶滅しました』のときも、第五十五回新潮新人賞に応募した『新世紀探偵』のときも、締め切りの一ヶ月前になっても腰を上げようとしない私に「そろそろ書き始めないと、本当に間に合わなくなるよ!」と警鐘を鳴らしてくれたものだった。

 でも、今回は違う。

 花、きみがいなくても『東京の鱒釣り』をちゃんと書き始めた。

 一泊二日のオデュッセイア(一)

 東京で病気になって、地元へ帰ってきてから(一応)病気が治るまでの間、色々なことがあった。

 大学時代から住んでいた東京のアパートを引き払って、実家で過ごして一週間が経ったころ、カーテンレールにバスタオルをくくりつけて首を吊ろうとしていたところを妹に見つかって、身内は私を精神病院に預けることを決めた。おかげでその年のクリスマスと大晦日、西暦二〇二〇年を迎えて、その次の正月とバレンタインデーとホワイトデーのあたりまで、私は精神病院で過ごすはめになった。

 精神病院には色々な「おかしい」とされている人たちがいた。元自衛隊員でいつも同じ大学受験用の数学のテキストを読んでいる(私はこの人といちばん仲がよかった)人や、ロードバイク用のヘルメットをずっと被り続けていないとどうにも落ち着かない(一度だけ自由時間のときに他の患者にヘルメットを奪われて半狂乱になっているところを見た)人や、四半世紀の閉鎖病棟生活で一度もオセロに負けたことがない(しかし日常会話をすることはほとんどできない)人や、悪魔がずっと耳元で「お前は食事をとってはいけない」と囁いていると思い込んでいる(病棟の看護師たちはいつも『悪魔なんていないんだから食べたって大丈夫だよ』と食事を口元まで運んであげていた)人がいた。

 病院で何もやることのない日々を過ごしているうちに、もしここにいる人たちが全員狂っているのだとしたら、毎日満員電車に乗って、会社に通って人並みに働くことができているような人たちはもっと「おかしい」と思った。そういう人たちは、だいたい自分のことを「まとも」だと思っている。私に言わせれば、そういう人たちは全然「まとも」なんかじゃない。

 精神病院を出てからの一年間は、ずっと実家の自分の部屋に引きこもっていた。その時期のことはあまり書きたくない。

 一泊二日のオデュッセイア(二)

 いや、やっぱりちゃんと書いておくことにしよう。

 引きこもっている間、本当に何もやることがなかった。正確に言えば、何もやる気がしなかった。それは病気のせいでもあった。毎日、自分の部屋のベッドに横たわって天井を見つめているだけの日々が続いた。ときどき眠りこんだりはしたけれど、目覚めている間はたいてい天井を見つめていた。私はもうここからどこにも行けないんだ。そう思った。

 TwitterやInstagramを覗いてみると、同世代のフォロワーたちが仕事の愚痴や恋愛の悩みについて話したり、色々な場所に行ったりしていた。当時は日本でも新型コロナウイルスが猛威をふるい始めていて、全国的に感染者数が増え始め、著名人も次々とコロナウイルスに感染していた時期だった。ニュースだけ見ていると、ソーシャルディスタンスだのロックダウンだの、何だかものものしい雰囲気だったけれど、私のタイムラインにいる人々は以前とほとんど変わらない生活を送っていたように記憶している。

 こんな小説を読んでおもしろかった、あんな映画を観ておもしろかった、行くはずだったライブや美術展が中止になって残念だった、マンガを全巻買ってお金を使いすぎてしまった、アニメを全エピソード観ていたら一日があっという間に過ぎていった。私にとってはフォロワーがタイムラインに投稿する日常の全てがうらやましかった。

 病気の影響で、詩集や小説は一行たりとも読めなかったし、映画もドラマも一分として観ていられなかったし、音楽でさえ何も聴く気にならなかった。中でもいちばんおっくうだったのは外に出かけることだった。週に一度の精神科への通院は中世ヨーロッパの拷問と同じくらい苦痛だった。担当の精神科医は「前回から一週間ですが、いかがでしょう」と「わかりました。今回も継続して同じ薬を出しておきます」の二種類の台詞しか口にしなかった。私は週に一度のペースで自殺未遂を繰り返していたけれど、そのことは医者には話さなかった。部屋のドアノブにベルトを縛り付けて、輪っか状にしたもう一方の先端を首に巻き付け、思いきり身体を前方に引っぱってみるということを一週間に一回はやっていた。しかし、いつも途中で苦しくなって、ベルトを首から外してしまうのだった。

 そういう生活が一年ばかりも続いた。

 NHKが引きこもり特集のドキュメンタリーを放送していたのは、クリスマス前のことだったと思う。私はリビングでテレビを見ていて、夕食を済ませた後も画面に釘付けになっていた。

 そのドキュメンタリー番組は、孤独死した一人の引きこもりの人生にフォーカスしているようだった。死後、疎遠になっていた妹が兄の部屋に足を踏み入れ、生前はどのような毎日を過ごしていたのだろうと思いを巡らせるシーンがあった。机に散乱していたノート類を見てみると、はるか昔に英語の勉強をしようとしていた形跡があった。兄は兄なりに何とかこの生活から抜け出そうとしていたのだ。でも、何らかの原因によって、途中で挫折してしまった。高齢の両親が相次いで亡くなってしまってからは、ほとんど外にも出かけることなく、最期の瞬間までこの部屋で過ごした。死の間際、兄はいったい何を思ったのだろう。妹はカメラの前で何とも言いがたい横顔を見せていた。

 啓示とも言うべき何かが私の魂をそっと揺さぶった。このままの生活を続けていてはいけない。少なくとも何かしら動き始めるべきだ。そうでないと、本当にどこにも行けないまま、この人生を終わらせる運命になってしまう。

 翌朝、私はタウンワークの求人一覧を眺めていた。

 一九七六年五月 − 六月、東京、リチャード・ブローティガン(一)

 『東京日記』という日本語のタイトルを持つ一冊の詩集がある。著者はアメリカ人のリチャード・ブローティガン。ちなみに『東京日記』の原題はJune 30th, June 30th。アメリカと日本では十二時間以上の時差があるから、飛行機で旅をするときには同じ日付から同じ日付へとまたぐこともある。

 一九七六年六月三十日、約一ヶ月半の滞在を終えて東京からモンタナへと帰るブローティガンの場合には、それがたまたま「六月三十日から六月三十日」だったというわけだ。そのとき、ブローティガンがどのような気持ちで旅客機のシートに座っていたのかまではわからない。少なくとも『東京日記』の一番最後に注意深く配置されている「朝日ののぼる国」という詩の中では、そこまでのメランコリーは見受けられないのだけれど、それから八年と四ヶ月後の一九八四年十月、このアメリカの詩人兼作家は、当時のカリフォルニア州ボリナスの自宅で拳銃自殺を遂げ、死後一ヶ月ほど経った腐乱死体として、近隣住民に発見されることになるだろう(歯型を調べなければ本人だとわからないくらいだったという)。

 ブローティガンにとって最後の詩集となった『東京日記』は、日本語訳のタイトルの通り、日記のようなスタイルをとってつづられてゆく詩集だ。ちょうど高度経済成長期まっただ中の東京に、一ヶ月半滞在したブローティガンは、異国の都市での日々を(日付とともに)記録しながら、まるで俳句でも書くかのように──実際、ブローティガンは芭蕉や一茶など日本の俳人を愛読していたらしい──一篇一篇の詩を書きつづっていく。

 表層的には明るく軽い筆致で書かれているこの詩集だが、深層の部分では深い孤独に苛まれているような印象もある。ここで一つ一つの詩を個別に引用することはしないけれど、どの詩を読んでも「異邦人」としてのブローティガン、大柄な身体をもてあまして人口一二〇〇万の東京をあてもなく歩くブローティガンの姿が浮かんでくる。故国においても決してメインストリームではありえなかった詩人兼作家は、異国の都会においてもやはり深い孤独をかかえていたし、東京で出会った誰一人として、その混沌とした暗闇からブローティガンの魂を救い出すことはできなかったということになる。

 シイナ・タカコ。ただ一人、東京でブローティガンの魂をつなぎとめていた人物がいるとしたら、この名前を措いてほかにはないだろう。

 一九七六年五月 − 六月、東京、リチャード・ブローティガン(二)

 椎名たか子。「ザ・クレードル」という、かつて六本木にあった伝説的なバーの経営者。翻訳者の藤本和子さんをして「ブローティガンをもっとも深く理解し敬愛していたのは彼女だろう」と言わしめた存在。「椎名たか子さんのことは姉のように、妹のように思い、『東京日記』は彼女にささげられているし、個別に献辞のある詩も多い」。

 ブローティガンは当初、椎名さんに対して恋愛感情をいだいていたようだ。「かれは初め、わたしに男女としての付き合いを求めましたが、わたしはその気にはなれず、『恋人とか夫婦は別れることがあるけど、きょうだいは一生きょうだいだから、姉弟になりましょうよ』といいました。それからは、わたしのことは、『マイ・シスター』と呼ぶようになりました」。

 『東京日記』という詩集そのものが「僕の日本の妹、シイナ・タカコにこの本をささげる──永遠の街」と椎名さんへの献辞で始まっているのだけれど、「シイナ・タカコに」と献辞のついた詩は全部で四篇。そのうちの二篇は『明治神宮のコメディアン』、『明治神宮の靴、サイズ12』と題されており、思潮社から出版されている日本語訳では、一二五ページから一二九ページにかけて、二篇連続で掲載されている。その二つの詩をいまここに引用してみよう。

 明治神宮のコメディアン──シイナ・タカコに

 
 明治神宮は日本のもっとも有名な神社だ

 そこには明治天皇とその配偶者照憲皇后が

 まつられている。一七五エーカーを占める

 敷地には庭園、博物館、競技場がある。

 明治神宮は閉まっていた

 ぼくたちは夜が明ける前に忍びこんだ

 石の塀をよじのぼって中に落ちたのだ

 酔っぱらってコメディアンみたいになった

 ぼくたちの姿はこっけいだった

 警官にみつかって連行されたりしなかったのは

    運がよかった

 中は美しかった 光がさしてくるまで

 木と茂みのあいだをフラフラ歩きまわった

 ぼくたちはほんとうにこっけいだった それから

 小さな牧場のような、やさしい緑の草たち

 その上によこになって手足をのばした

    草が体にふれるのが気持ちよかった

 ぼくは彼女の胸に手をやり キスをした

 彼女がキスを返して ぼくたちの愛の

 行為はそこまで それより先には進まなかった

 明治天皇と

 かれの配偶者照憲皇后が

 ぼくたちのちかくのどこかにいた

 明治神宮の朝の光の中では、それで十分だった

 東京

 一九七六年六月十二日

 明治神宮の靴、サイズ12──シイナ・タカコに

 ぼくは午後のさなかに目をさました ひとりだった

 ぼくたちの愛の行為はベッドに行くまでには

 いたらなかったが それでよかったのだと思う


 ベッドのそばに明治神宮の泥のついた靴が

 あった ぼくはそれを見ていい気分になった

 かわいた泥を見ることが心にもたらすものって

    ふしぎだね

 東京

 一九七六年六月十二日

 ブローティガンと椎名さんはその後も交流を深め、ブローティガンが東京に行ったり、椎名さんがアメリカに行ったり、あるいは書簡をやりとりしたりして、晩年にいたるまで交流を続けた。そして、ブローティガンが自殺した一九八四年、最後に椎名さんに宛てて書かれた便りがこれだ(『E.T.』というのは当時まだ赤ん坊だった椎名さんの娘さんのこと、『東京のかの紳士』というのは椎名さんが当時付き合っていたボーイ・フレンドのこと)。

 一九八四年八月十一日、ボリナスにて

 親愛なるたか子さん。

 やあ!

 数日前にサンフランシスコの路上でトム・ラディにあったら、「クレードル」からの長い愉快な挨拶を伝えてくれた。

 わたしはわたしがしていることを続けています。仕事です。

 今朝のことだが、浜辺から五十米の海上に二頭の海豹を見ました。もしE.T.がみたら、喜んだことだろうね。二頭はたがいに近づくと、海豹の流儀でさかんに話しあっていた。それから別々の方角へ泳いでいった。水に飛びこんでは、長いこともぐっていたから、きっと朝食を漁っていたのだろう。愉快に朝をすごしているのだった。見た目もうつくしいかれらだったよ。太平洋岸は気持ちのよい霧で、空気は新鮮ないい香りをはなっていた。E.T.のことを考えていたんだ。どれほど彼女を愛しているか、どれほどあなたを愛しているか。

 リチャード

 追伸 この手紙、きょう月曜日(一九八四年八月十三日)に投函します。週末には、わたしの最初の映画シナリオの初稿を書きおえた。西部劇なんだ! B級西部劇を愛する、東京のかの紳士に、そのことを伝えてほしい。それから、このシナリオを書きながら、かれが見ておもしろがるような内容の西部劇にしたいと考えていたとも伝えてほしい。

 *今年の初め、アムステルダムで書いていたシナリオは共作だったからね。

 追伸2 電話がつきました。415-868-24✕✕

 カリフォルニアから東京へこの頼りを送った一ヶ月後、ブローティガンは拳銃自殺を遂げることになる。そして、さらにその一ヶ月後、歯型を照合しなければ身元の確認が取れなかったほどの腐乱死体として発見される。

 もし、椎名さんがブローティガンの気持ちに応じていたら、という仮定が思い浮かんでしまったことを正直に書いておきたい。しかし、椎名さんがブローティガンと交際し、あるいはそれから結婚していたとしても、ブローティガンは同じように自らの命を絶っていたかもしれない。絶っていなかったかもしれない。ひとは「自殺の原因はあれがああなってこれがこうなったからだ」と思いたがるものだけれど、実際には色々なファクターが絡み合っていて、結果として、ふとした瞬間に一線を越えてしまう、というのがほとんどなのではないかという気がする。

 一人の自殺未遂経験者として。

 『東京日記』を贈った三人の異性

 きみには『東京日記』を贈ったことがなかった。

 *

 いままでの人生で、私がブローティガン『東京日記』を贈った人物は三人いる。三人とも東京に行ってから知り合った異性だ。それぞれ交流があった時期は微妙に重なったり、あるいはずれたりしているので、三人の間に直接的なつながりはない。そして、当時の私は、その三人の人物に対して、少なからず好意を持っていたと言うべきだろう。いや、こういう書き方はだめだ。もっと正直な書き方をしなければいけない。当時の私はその三人のことが好きだった。そして、もし相手さえ構わなければ、自分と付き合ってほしいと思っていた。

 しかし、結果として、誰ひとりとして私と付き合うことはなかった。椎名たか子さんがブローティガンに言ったように「恋人とか夫婦は別れることがあるけど、きょうだいは一生きょうだいだから、姉弟になりましょうよ」(もちろん三人はこういう言い方はしなかったけれど、ニュアンスとしてはこういうことだ)と言われて、私の気持ちはあてどなくさまようことになったのだった。

 あおい、ルル先輩、祈りさんというのがそれぞれの名前だ。もちろんこれは本名ではない。全員、私が付けた全くの仮名だ。三人のうち、いまでも連絡をとっているのはあおいだけで、ルル先輩と祈りさんに関しては現在、どこでどうしているのか、私は全く知らない(いまさら向こうも知られたくはないだろう)。

 「イントロダクション」という章でも書いたように、私はいままでに二作の中篇小説を書いてきた。でも、そのどちらも純粋なフィクションと言って差しつかえない作品だった。もちろんどちらの小説も個人的な体験にもとづいてはいた。しかし、作品の性質としてはやはり一〇〇パーセントのフィクションといってよかった。

 しかし、いま書いている『東京の鱒釣り』は、純粋な意味でのフィクションであるとは言いがたい。書いてあることの全ては私が実際に体験したことだし、出てくる登場人物も実際に私が知り合った人々だ。私が自分のことを書くのは構わないだろう。でも、私が知り合った人々のことをこうやって小説に書いてしまうというのは、創作の名を借りた一種の暴力なのではないかと思わずにはいられない。きみも、あおいも、ルル先輩も、祈りさんも、名前を伏せたり変えたりしているとはいえ、いまもこの現実の世界で血を通わせて生きている人たちなのだ。そういう人たちのことを許可もなく小説に書いてしまうということが、はたして倫理的に許される行為なのかどうか、いま私には判断することができない。

 でも、そんなことを言っていたとしても、私は書いてしまうのだろう。何故なら私は小説を書きたいし、もちろんプロの作家になりたいからだ。そのためなら何だって書くつもりでいる。書くということの暴力性だけはせめて忘れずにいたいとは思うけれど、もしかしたらこういうことを書いておくのも単なるエクスキューズにすぎないのかもしれない。

 白亜紀かジュラ紀くらい昔のこと。きみは「私が何を言ったところで、どうせあなたは全部書いてしまうんでしょう」と言った。

 その通りだ。

 きみに初めて贈ったのは、チャールズ・ブコウスキー『パルプ』だった。そのとき、きみと私は熱海で一日かけてデートした後で、ホテルのツイン・ルームに泊まっていた。私たちが会うのはその熱海旅行のときが初めてだったし、もちろんまだ付き合ってもいなかった。おまけに当時のきみには付き合っている相手がいた。言い訳がましいようだけれど、私はそんなことは全然知らなかった。エイプリル・フールの翌日であるきみの誕生日がちょうどその前の週にやって来ていたので、私はチャールズ・ブコウスキー『パルプ』をラッピングして、きみに贈ろうと計画したのだ。

 しかし、仮にきみに付き合っている恋人がいると知っていたら、はたして一泊二日で熱海に行かなかったのかと問われれば、やはり行っていただろうと答えるほかない。だから、こういうことを書いておくのも、やはり単なるエクスキューズにすぎないのだ。

 きみと付き合っていた当時の恋人もまた、私と同じ作家志望の人間だったと聞いた。きみとはそのころ付き合って一年くらいだった(と後からきみに聞いた)。元恋人はその年のきみの誕生日に一冊のフォトアルバムを贈っていた。きみと同棲を始めてから、私はその個人的なフォトアルバムを見せてもらう機会があった。そして、元恋人がどれほどきみのことを愛していたのかを知って(自分でもびっくりしたのだけれど)泣いてしまったのだった。

 イスカリオテのユダみたいにいやらしい人間だ。

 あおいについて(一)

 あおいについて書いてみたいと思う。

 あおいが『東京日記』を贈った三人の中で、ただ一人、いまでも連絡をとっている人物だということは先ほど書いた通りだ。

 あおいと私は日芸の文芸学科で同級生だった。私は日芸のAO入試に落ちて一般入試で何とか合格したのだったけれど、あおいは私が落ちたAO入試をやすやすと一位通過で合格して、山梨から上京してきたのだった。小さいころから両親の影響で詩集や小説が好きで(父親は若いころに現代詩手帖やユリイカに詩が掲載されたことのある元詩人で、母親はかつて地方の文学新人賞を受賞した経歴を持つ元作家だということだった。現在は二人とも一般企業に勤めていて、あおいが生まれてから創作活動はきっぱりやめてしまったそうだ)、何でも谷川俊太郎の「あいうえおうた」で五十音を覚えたのだという話だった。元詩人の父親と元作家志望の母親から生まれ、谷川俊太郎の「あいうえおうた」で五十音を覚えるような文学的サラブレッドがこの世に存在するだなんて、私はあおいと出会うまで全然知らなかった。

 正直、私はあおいのそういう生まれ育ちがうらやましくてたまらなかった。私の父親も母親もいわゆる文化系では全くなかったから(ついでに私に関するデイヴィッド・コパフィールド的なあれこれを少しだけ話しておきたい。私の父親は少年野球チームのコーチを務めるのが生きがいというタイプで、私の母親はその時代時代の流行に合わせて次々趣味を変えていくというタイプの人間だった。父親と母親は私が中学生のときに別居状態となり、以来十何年にも渡って仮面夫婦を続けてきたのだけれど、昨年の春にようやく離婚することを決めた。ロシアによるウクライナ侵攻が始まった一ヶ月後のことだった。父親にも母親にも、いまではもうあまり会う機会はない。最後に顔を合わせたときには、父親は少年野球チームのコーチを引退していたし、母親はYouTubeやTikTokで陰謀論関連の動画を見ることにはまっているようだった)、あおいがいままで蓄積してきた文化的な資本とも言うべきものに常に嫉妬めいた気持ちをいだいていたように思う。

「何を読んでるの?」とスクールバスを待っていた私にあおいが突然声をかけてきたのだった。これが私とあおいが初めて会った瞬間だった。そのとき、所沢キャンパスのバス停には、私とあおいのほかには数えるほどの学生しかいなかった。時刻表を見て、まだ次のバスがやって来るまでに多少の時間があることを確認した私は、バス停のベンチに座って大江健三郎の『個人的な体験』を読んでいたところだった。

「大江健三郎」と私はいきなり知らない人間から声をかけられたことにびっくりしながらも読んでいた文庫本を相手に見せた。

「大江健三郎」と相手は繰り返した。「おもしろい?」

「おもしろい」と私は答えた。「『個人的な体験』がはたしていったいどこまで本当に個人的な体験にもとづいているのか、あるいはどこからが虚構なのか、その落差について考えてみるだけでもわりとおもしろい。大江健三郎って、読んだことある?」

「ない。あなたは大江健三郎が好きなの?」

「好きって言えるほど、まだ読んでないんだ。きみは作家だったら、誰が好きなの?」

「宮沢賢治は詩も小説も好き、あとはジャック・プレヴェール」とあおいは即答した。「読んだことある?」

「ない」と私も即答した。「いや、賢治は国語の教科書で読んだことがある。『銀河鉄道の夜』とか『雨ニモマケズ』とか。プレヴェールは全然読んだことがない。正直に言って、名前も初めて聞いたかもしれない」

「あなた、文芸学科の人でしょう?」とあおいは帽子に柄シャツにチノパンという私の姿格好を眺めながら言う。話題が突然変わるのもあおいの癖の一つだった。

「君も文芸学科なの?」と私もボブカットの黒髪、黒縁の丸眼鏡、花柄をあしらった古着らしいワンピースというあおいの服装を眺めながら言った。背負っているリュックサックには何が詰めこまれているのかわからなかったが、大学の講義に出席してきたとは思えないような膨らみ方をしていた。これからエベレストにでも行ってくるのかもしれない。

「文芸特殊講義」とあおいは先ほどまで私も受講していた講義の名前を言った。『人生で初めて読んだ文学作品について2000字以内でレポートを書いてきなさい』。さっきあなたも出席してたでしょう。その帽子の人、教室で見かけたもん。ところで、この後って空いてたりする? デートの予定とかアルバイトのシフトとかあったりしない?」

 大江健三郎の『個人的な体験』をリュックサックにしまいながら、私は頷いた。大学一年当時の私はアルバイトも何もしていなかったから、基本的には大学と自宅のアパートを行き来していただけだった。さらに言っておくと、友人も恋人もいなかった。予定なんてあるわけがない。

「よかった」とあおいも二度ほど頷きながら言った。「それなら、喫茶店かどこかに行かない?」

「喫茶店なら気になっている店があるんだ」と私はちょうど校門をくぐりぬけてきた黄色と青のスクールバスを見ながら言った。「新所沢にある東京堂っていう喫茶店なんだけど」

「オッケー。それじゃ、そこで文学談義と洒落こもう!」とあおいは冗談めかして笑いながら言った。そして、私たちはスクールバスに乗り込んだ。

 「ユー・エフ・オーに乗りこんで、外宇宙からやって来たあおい」と題された短いテキストがある。これはあおいが大学四年のときに発行した個人冊子に寄稿した、私があおい本人について書いたエッセイだ。大学生のときに書いたものだから、いまよりかなり青臭く、そしてまじめくさった書きぶりの文章なのだけれど、その一部をいま、あえてここに引用してみたい。

 *

 あおい。

 ぼくが大学時代を通してもっとも影響を受けた人物。あおいに出会う前と出会った後では、確実にものの見方が変わったし、広がったように思う。もし、あおいに出会っていなかったとしたら(良きにつけ悪しきにつけ)いまのぼくとはかなりなりたちの違う人間になっていたはずだ。

 もちろん、現実的な面においても、あおいにはお世話になった。大学の四年間におけるほとんど唯一の友人であり、小説しか書いたことのなかったぼくに詩を書くという営みを教えてくれた詩人としての先輩でもあり、編プロのアルバイトを紹介してくれた頼れる同僚でもある。また、ひきこもりがちだったぼくがあちこち旅行に出かけるようになったのも、じつは旅行好きのあおいの影響が大きい。こうなってくると、大学の四年間を通してというより、人生でもっとも影響を受けた人物の一人といっても過言ではない。

 あおいの美点は、何といっても「他人に対する寛容さ」だろう。あおいは他人を差別したり、排斥したり、攻撃したり、拒絶したりといったことはほとんどしない人間だ。ほとんど、と留保を付けたのは、あおいももちろん人間だし、ぼくのあずかり知らないところで、多かれ少なかれそういった気持ちを持つことは当然あるだろうからだ。親友であれ、恋人であれ、あるいは身内であれ、誰かのことを100パーセント理解するというのは原則的に不可能である。いくばくかの推測と検証と誤解を積み重ねて、理解したつもりになるくらいのことしか我々にはできない。でも、少なくとも、ぼくがあおいと知り合ってからの四年間で、あおいが他人に対して(直接的にせよ間接的にせよ)不寛容だったというところは一度も見たことがない。これはものすごいことだとぼくは思う。

 当時、あおいは私が寄せたこのエッセイを読んで、「**がこのエッセイに書いてくれたほど、私は素晴らしい人間じゃない」と笑っていた。ついこの間会ったときにも、このエッセイの話が出た。あおいは現在、新高円寺に住んでいて、日本語教師とクリーニング店と釣り堀でのアルバイトをかけ持ちしながら生活している。「何だか、この前、あのエッセイを読み返していたら、不思議と泣けてきちゃったんだ」。そんなふうに時間をおいて、自分の書いたものを読み返してもらえて、あまつさえ人の魂を揺さぶることができるなんて、とても幸せなことだと私は思う。

「次に会うときは、**に釣りを教えてあげるよ」と先月顔を合わせたとき、あおいは高円寺ガード下の「鯨飲」でハイボールを飲みながら言った。

「釣り?」と私は煙草を吸いながら聞き返した。

「釣り!」とあおいは繰り返す。「『東京の鱒釣り』の著者が釣りをしたことがないんじゃ、お話にならないでしょう?」

 そう、私はまだ、一度も釣りをしたことがなかったのだ。

 *

 私信 あおいが私の恋人ではなく、私の友人でい続けてくれたこと、いま考えてみれば、ものすごくラッキーなことだったと思います。東京湾で釣りを教えてもらう機会を楽しみにしています。どうかそれまでお元気で。

 一泊二日のオデュッセイア(三)

 きみとはTinderで知り合った。

 元々、一週間くらい前にお互いのアカウントがマッチングしていて、雑談程度のやりとりを続けてはいたのだ。そのころ、私は引きこもりとして過ごしていた地獄のような一年間をどうにか抜け出し、近所にあったチェーンのイタリアン・レストランで働き始めていた。仕事から上がった後、スマートフォンの通知をチェックしてみると、きみからメッセージが届いていた。

〈来週、熱海に行かない?〉

 私は二つ返事でメッセージを返した。

〈日帰りで行く? それとも一泊二日?〉

 そうして、私たちは一泊二日の熱海旅行に行くことになった。そして、前の章にも書いた通り、ビジネスホテルのツイン・ルームに泊まって、誕生日プレゼントとしてブコウスキーの『パルプ』を贈ったのだ。

 しかし、私たちはその日のうちに付き合ったわけではない。

 きみに恋人がいることがわかったのはその一週間後の深夜、私が電話で「付き合ってほしい」と言ったときのことだった。

 その事実を聞いたとき、私は正直に言って驚いたけれど、同時に予感が当たったとも思っていた。熱海でいっしょにいるとき、さり気なく恋人の有無を聞いた際、きみは「特定の相手はいない」と言っていたのだったけれど、その言い方に(ほんの少しではあったけれど)引っかかる部分があった。でも、それはあまりにも微妙な違和感だったので、私はただの勘違いだろうと思ってやりすごしたのだった。

 それでも、私はきみのことが好きだった。そして、付き合いたいと思っていた。だから、何時間もかけて、きみを説得しようとした(話し合いが済んだころにはもう明け方近くなっていた)。最終的に、きみは当時付き合っていた恋人と別れ、私と付き合うことを決めた。きみは「もし、いま**くんと付き合わなかったとしても、私と**くんの関係は終わるわけじゃないし、**くんが私に来てほしいと思ったときには、いつでも私は**くんの住んでいる町まで車を走らせていく。そういう関係じゃだめなの?」と何回も言ってくれたのに、私の方が納得しなかったのだ。だから、私がきみを当時の恋人から略奪したのだと言われても、何も言い訳することができない。

 一ヶ月後、私たちは静岡で同棲を始めることになった。付き合って一ヶ月での同棲だったから、当然、どちらの両親も賛成はしなかったけれど、私たちはもうとっくに成人を迎えていたので、最終的には自分たちの判断で同棲を始めた。結果として、それは私にとっても、きみにとっても、よかったことだったと思う。少なくとも私にとってはよかった。ものすごくよかった。

 きみと過ごしたこの二年という時間は、私の人生にとってもっとも幸せな時期だった。死ぬ間際になっても、やはり同じように思い出すことだろう。

 一九七六年五月 − 六月、東京、リチャード・ブローティガン(三)

 一九七六年五月から六月にかけてのリチャード・ブローティガンの足取りをたどってみたい。

 ブローティガンが東京滞在中に拠点としていたのは、新宿の京王プラザホテル。東京にいる間に谷川俊太郎、寺山修司、大江健三郎、吉行淳之介、金井美恵子、長谷川和彦、安原顯などに会ったという記録が残っている。

 ただ、具体的に何月何日にどこへ行って、何月何日に誰と会ったのかという詳細まではわからない。詩集である『東京日記』にしても、もう一つ、東京という都市の名前をタイトルに含む小説『東京モンタナ急行』にしても、多くの詩篇やエピソードは恐らく実体験にもとづいたものなのだろうけれど、現実とファンタジーとが巧妙にミックスされていて、全てが本当にあったことなのかどうか、読者には判断できないようになっている。また、そのようなドキュメンタリー的な検証をあらかじめ受け付けない仕組みを持っているようにも思う。藤本和子さんによる素晴らしい伝記『リチャード・ブローティガン』においても、東京滞在中のエピソードはいくつか語られているものの、もちろん逐一足取りを追っているというわけではない。

 あくまでも私たちにできるのは、ブローティガンが書き残したテキストから、この詩人兼作家の足取り、そのときにその場所で感じていたであろう孤独、日常の細部に見出していただろう、ささやかなユーモアとペーソスを想像することだけだ。

 私が初めてリチャード・ブローティガンを読んだのは、大学生になったばかりのころだった。『アメリカの鱒釣り』の作家として、かねてより名前だけは知っていたものの、上京したばかりのその春まで、実際に小説を読んだことはなかった。

 いわゆるおのぼりさんだった私は、ずっと憧れていた東京に引っ越して来たばかりで、「あそこに行きたい」「ここにも行ってみたい」と色々夢を膨らませていた。その中でも、引っ越してすぐに向かったのが下北沢だった。

 当時の私は「サブカルチャー」という文化にあこがれていた。「サブカルチャーという文化にあこがれていた」なんて書くと、ばかみたいに見えると思うけど、当時は真剣にそう考えていたのだから、そう書く以外に仕方がない。そういうわけで、上京してすぐ下北沢まで行ったのは、個人的には必然性のあることだった。しかし、小田急線の改札を抜け、ずっと夢見ていたはずの下北沢に降り立ったときの記憶は(残念ながら)ほとんど印象にない。どこに行ったのかもあまり覚えていない。確かに覚えているのは、ヴィレッジヴァンガード下北沢店に行ったということだけだ。私はそこでリチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』に出会うことになる。

 『アメリカの鱒釣り』が陳列されていたのは、店の中でもかなり隅の方だったと記憶している。そこに並べられていたのが藤本和子の翻訳によるリチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』。

 見覚えのあるタイトルを見かけて、私はその小説を手に取ってみた。そして、サンフランシスコはワシントン広場、ベンジャミン・フランクリン像の前でポーズを決めているリチャード・ブローティガンとそのすぐそばで微笑みを浮かべているガールフレンドの姿を目にしたのだった。まだ、私はそのころ、ブローティガンがどういうポジションに位置している作家なのかも知らなかったし、詩人として詩を書いていたことも知らなかった。しかし、私はそのとき、まぎれもなく初めて「本物の詩人」と「本物の作家」に遭遇したのだといえると思う。その時点ではまだブローティガンの詩集も小説も一冊たりとも読んだことがなかったのに。

 仏教とキリスト教に同時にはまることが珍しいように、そもそも「本物の詩人」と「本物の作家」に同時に出会うということは、かなりのレアケースではないかという気がする。もちろん詩と小説を並行して書いている作家はたくさんいるが、普通は別々に出会うものだろう。たとえば、幼稚園児のときにホイットマンの詩集を読んで衝撃を受けるとか、小学生のときにカフカやドストエフスキーの小説を読んで圧倒されるとか。でも、私の場合はとにかく同時に「本物の詩人」と「本物の作家」に出会ってしまったのだ。あれはそうとしか言いようがない体験だった。

 のちにブローティガンの詩集『ロンメル進軍』や『突然訪れた天使の日』や『東京日記』、あるいは小説『アメリカの鱒釣り』や『芝生の復讐』や『西瓜糖の日々』や『愛のゆくえ』を実際に読んでみて、「ブローティガンのように詩や小説を書くことができたら、どんなにいいだろう」と思ったものだった。じつはいまでも、そう思っている。詩や小説を書くという営みの全てをブローティガンから学んだのだといっても過言ではない。

 リチャード・ブローティガン。(英語版ウィキペディアの記述を信頼するなら)一九三五年一月三十日にワシントン州タコマで生まれ、一九八四年九月十六日にカリフォルニア州ボリナスで拳銃自殺を遂げた、(私にとって)世界一の詩人にして世界一の作家という、神様みたいな存在との邂逅。

 やあ、リチャード、どうしてきみは拳銃で頭を撃ち抜いたりした?

 ルル先輩について(一)

 ルル先輩の口癖は「ばかばっかり」だった。

「君も社会に出たら理解できる。この世界にはまともな人間なんてほとんどいないってこと。この世界でまともなのは、私と君くらいのものだよ」

「まだ学生の僕が言うのも何ですけど、そんなことはないと思います」と私はルル先輩が口癖のようにそう言うたびに、いつも同じように反論したものだった。「まともじゃないのは僕たちの方です」

 でも、私がそうやって反論すると、ルル先輩はいつも満足そうに微笑むのだった。いま、ルル先輩とのやりとりをこうやって振り返ってみると、二人ともまだ若かったのだという気がする。月並みなことを言うようだけれど、あのころの私たちはまだ青く、世間という世間をばかにしてかかる典型的な文化系の若者だった。でも、別に私たちだって、非凡な人間というわけではなかった。私もルル先輩もいたって平凡な人間だったのだ。いま考えると、そのように思う。

 *

 ルル先輩は私と知り合ったころには、デザイン系の専門学校を卒業して数年が経っていて、立派な社会人と言える年齢になっていたし、実際にデザイン事務所で働いてもいた。ルル先輩はTwitterでは一万人近いフォロワーがいて(学生政治団体に所属していたころに投稿した、当時の首相と福島第一原発を絡めたいささか不謹慎なツイートが炎上して、その影響でかえってフォロワーが増えたのだと話していた。ルル先輩自身、福島の出身ではあったけれど、地元の南会津町は直接的な被災はまぬがれた地域に属していた)、定期的に弾き語りの動画や抽象的な絵画を投稿していた。ルル先輩と私とのファースト・コンタクトもTwitterのDMだった。

 Twitterのタイムラインに「#弟子募集」というハッシュタグとともに流れてきたセルフィーを見たとき、私はほとんど反射的にいいねをしていた。アッシュピンクに染めたセミロングの髪、テロでも企んでいるような印象を与える大胆不敵な光を浮かべた瞳、そばかすがちらばった魔女みたいに高い鼻、耳には無数のピアスが突き刺さっていて、唇は一直線に結ばれている。何だかアヴァンギャルドで魅力的な雰囲気の人だ、というのが第一印象だった。「何だかアヴァンギャルドで魅力的な雰囲気の人だ、っていうのが第一印象でした」と実際に本人に言ってみたら「君って私のこと、ときどきばかにしてるでしょう?」と笑いながら返されたこともあった。いいねをした後、ルル先輩からすぐに「私の弟子になりたい人?」とメッセージが送られてきた。メッセージを何往復かやりとりした同じ週の土曜日、ルル先輩が当時住んでいた東北沢まで、私は終電で向かうことになったのだった。

 ルル先輩が当時住んでいたのは、冗談抜きで築五〇年は経っていそうな古めかしいアパートだった。二階の部屋まで上がっていく外階段はあまりにも錆びつきすぎていて、上がっているいまにも崩落しそうだったし、一つ一つの部屋のドアの横には昔懐かしいすりガラスが取り付けられていて、その向こうの台所に並んでいる食器用洗剤やスポンジの影がぼんやり見えていた。

 後に続いて玄関を上がると、意外にも部屋の中はシンプルだった。そもそも、部屋の中にはほとんど物がなかった。部屋の中はシングルサイズのベッドと木製の書棚とレコード・プレーヤーとノートパソコン、それに冷蔵庫と洗濯機と電子レンジといった、最低限の家具と家電だけで構成されていた。木製の書棚にはいくつかの書籍とレコードとDVDが並んでいたけれど、それでもまだスペースには余裕があるようだった。ルル先輩は基本的に書籍は図書館で借りる主義だったし、一度聴いたレコードはキャッチ・アンド・リリースの精神でどんどん売ってしまっていたし、映画のDVDも基本的にレンタルでしか借りなかった。要するに書棚に並んでいるものは、ルル先輩が本当に好きな本やレコードやDVDだけだったのだ。棚の一番目立つ場所には『つげ義春全集』と『ユーリ・ノルシュテイン作品集』が飾られていた。

 ルル先輩は家に帰ってくるとまず、ろうそくにライターで明かりをともして回った。ろうそくは部屋のいたるところにあり、その全てに明かりがともされてしまうと、先ほどまで質素に見えていた部屋はなかなか素敵な雰囲気になった。

「さて、君はいまからどうしたい?」とベッドに腰かけながら、ろうそくの光に照らされたルル先輩は私の顔を見た。

「正直に言って、まだ全然眠くないです」と私もフローリングの床であぐらをかきながら返事をした。

「正直なところ、私もまだ全然眠くないんだ。眠くなるまで音楽でも聴こうよ」

「ルル先輩のいつも聴いてるレコードが聴いてみたいです」

 ルル先輩は頷いて、書棚から迷わずに一枚のレコードを抜いた(本当にいつも聴いているレコードだったのだろう)。そして、慣れた手付きでレコード・プレーヤーに盤を載せた。ノスタルジーを誘うようなアコースティック・ギターのイントロが流れ始める。

「誰です、これ?」

「金延幸子」とルル先輩は再びベッドに座りながら言った。金延幸子の声がひかえめな音量で響き始めていた。「いまのところ、私が日本でもっとも好きなシンガー・ソングライター」

「初めて聴きました。ちなみに金延さん以外だったら、誰が好きなんですか?」

「高田渡」とルル先輩は即答した。

 それから、私たちは金延幸子の『み空』や高田渡の『ごあいさつ』を聴きながら、眠くなるまで酒を飲んだり、煙草を吸ったりしていた。「そろそろ寝よう」と言ってベッドに横になったのは、夜中の三時を過ぎたころだった。ルル先輩のベッドで二人並んで眠りにつきながら、正直なところ、私は少しだけ性的な期待をしていた(していなかったと言ったら嘘になる)。でも、その夜は何もなかった。ルル先輩の方が先に眠りについて、私もいつの間にか眠りに落ちてしまっていた。目覚めたときには朝になっていて、ルル先輩はキッチンでトーストを焼いてくれているところだった。

 ルル先輩とはそれから一度も性的な関係を持つことはなかった。

 一九七六年五月 − 六月、東京、リチャード・ブローティガン(四)

 一九七六年五月から六月の東京で、もし、リチャード・ブローティガンが運命の相手に巡り合っていたら……という仮定はおもしろい。いくつか前の章で「もし、椎名たか子さんがブローティガンの申し出にイエスと答えていたら……」と書いたけれど、現実にはそんなことは起きなかったのだから仕方がない。椎名さんは実在の人物で、恐らくまだご存命でもあるし、そのような仮定をこれ以上続けることは(あるいは)一種の暴力にもなりうるだろう。でも、いま、一九七六年のリチャード・ブローティガンが東京で運命の相手に巡り合うことを想像したとして、それで誰かを傷つけることにはならないだろう、と私は考える。

 突然のようだけれど、私は自分の前世がリチャード・ブローティガンだったとしてもおかしくない、と思うことがときどきある。これは半分冗談で、半分本気で思っていることだ。この思い込みの一つの根拠として、リチャード・ブローティガンが亡くなったのが一九八四年の九月で、私が生まれたのが一九九四年の十月。つまりブローティガンの死からちょうど一〇年と一ヶ月後に私が生まれたのだ、ということになる。一〇年と一ヶ月というのは、次の生まれ変わりを待つまでの期間として、実際、ちょうどよさそうだ。

 そして、生前のブローティガンは(すでに何度も書いているように)東京という都市、日本という国の人々や文化に一種の憧憬の念をいだいていた。「もし、自分が日本人として生まれていたら……」というifが生前のブローティガンの頭の中に一度くらい浮かんでいたとしても、生まれ変わりの際に日本人になることを夢見たとしても、おかしくはないだろう(この章にはあまりにももしが多すぎるかもしれない)。

 だから、私はこれから一時的にいま生きている私の魂の半分を「もし」の世界のブローティガンに預かっておいてもらうことにする。ブローティガンも昔「すべての町をひっくるめて」という詩でこのように書いていることだから。

 想像力

 ってのは

 ニューヨークより

 大きい町だ、

 すべての町を

 ひっくるめたより

 大きいぜ。

 ミスター・ブローティガン、私もつくづくそう思います。

 ところで、リチャード・ブローティガンは一九三五年生まれ。日本語訳者の藤本和子さんは一九三九年生まれ。私の祖父は一九三三年に、私の祖母は一九三八年にそれぞれ生まれた。だから、ブローティガンは、私のじいじとばあばのちょうど間の生まれということになるし、藤本和子さんはいちばん後ろの生まれということになる。でも、ほとんどみんな同じ世代だと言ってしまっていいかもしれない。

 そういうわけで、私はブローティガンと藤本さんを文学的じいじと文学的ばあばなのだと思っている。

 一九七六年五月 − 六月、東京、リチャード・ブローティガン(五)

 ヘイ、リチャード、と誰かが呼ぶ声でわたしは目を覚ました。

 次にやって来るハレー彗星についての夢を見ていた、という何となくの記憶だけがあった。夢の中ではかたわらに誰かがいた。その誰かがわたしの名前を呼んだ。しかし、目を覚ましてみると、もう私のそばには誰もいなかった。

 モンタナなのか? 東京なのか? いつも目覚めたばかりの瞬間は、現在地がどこなのかわからなくなって、ひどく混乱してしまう(旅先ではよくあることだ)。しかし、わたしが目を覚ました場所は、おなじみの東京、京王プラザ・ホテルの一室で間違いなかった。一人で眠るにはもてあましてしまう大きなベッドに、昨夜も一人で眠った。部屋の窓からはすでに昼ごろと見える明るさの光が差しこんでいる。昨日は帰ってくるのが遅かった。ほとんど明け方になってからだったと思う。でも、何と素晴らしい夜だったことだろう。あんな夜は人生でそう何回も経験できるものではない。

 *

 深夜、明治神宮にタカコと二人で行った。タカコが経営している六本木の「ザ・クレードル」でしこたま飲んだ後で、二人ともたいそう酔っ払っていた。「酔い醒ましに散歩でもしよう」という話になって、店を閉めたタカコと二人で六本木から原宿まで歩いたのだった。

 明治神宮には人っ子ひとりいなかったし、正門はしっかりと施錠されていた。普通なら諦めて帰るところだったが、わたしたちはひどく酔っ払っていたので、そのまま石塀をよじのぼって、ほとんど転がり落ちるようにして明治神宮の中にしのびこんだ。お互いに身体のどこかを打たなかったのは運がよかった。境内にももちろん人影はなかった。わたしたちは意味もなく笑い合いながら、林に囲まれた道を歩いた。

 暗闇の中をしばらくまっすぐ歩いているうちに、遠くの方で空が明るくなりはじめた。新しい朝がやってくるのだ。そのころにはわたしたちは芝生が一面にしきつめられた広場のような場所にたどりついていた。歩き疲れたわたしたちは芝生の上に並んで横になることにした。明け方近くの空にはまだ忘れさられたように白い月が浮かんでいて、東洋的な詩情を誘うようだった。芝生の上に寝転がったわたしたちはふと顔を見合わせた。タカコの謎めいた美しい顔とていねいに刈り込まれた芝生とが並行になっていて、ちょうどこの惑星が真横に傾いてしまったのだ、という具合に見えた。先ほどまで子どものような冗談を言い合っていたわたしたちは、一瞬、とても神妙な顔つきになった。そして、どちらからともなくそっと顔を近づけて、相手の唇に自分の唇を重ねた。

 その流れで、わたしはシャツに覆われたタカコの身体に手を伸ばそうとした。しかし、タカコはやさしくわたしの手をつかんで、静かに微笑みながら頭を横に振った。拒絶されたとは感じなかった。ただ、私とあなたの関係はいまのままがいちばん美しい、と諭されたようだった。わたしもそれがわかったから、嫌な気持ちにはならなかった。性欲に由来するちょっとした事故の予兆だけで済んだのだ。予兆のうちにタカコがわたしをとどめてくれてよかったと思う。わたしたちはそのまま完全に朝の光が明治神宮を照らし出すまで、芝生の上に寝そべって喋ったり沈黙したりしていた。その夜、夜勤で働いていたはずの明治神宮の警備員は、きっと読んでいたハーレクイン・ロマンスがあまりにもおもしろすぎたので、夜の定期巡回をサボタージュしたのだ。おかげでわたしもタカコも助かった。三流のハーレクイン・ロマンスにも、缶切りや栓抜きに匹敵するくらいの実用的な用途がありうる、ということをわたしはそのとき初めて知ったのだった。

 眠気が残っていたせいでいまだにベッドから出られずにいたわたしは、明治神宮の素晴らしい一夜のことをちゃんと詩に書いておこうと思った。ベッドサイド・テーブルに置いてあったホテルのメモ帳から一枚破りとって、画家がラフ・スケッチでもするようにさらさらとペンを動かしていく。芭蕉や一茶が詠んだ俳句のように私の詩は短いから、トーストを一枚焼くだけの時間さえあれば、一篇か二篇は詩ができあがってしまう。調子がいいときにはまるで避妊手術をしていない雌猫のごとく、どんどん詩を生み出していってしまうこともある。たくさん書けばいいというわけでもないけれど、少なくともその逆よりはましだろう。何しろライターズ・ブロックというのは作家にとって太古よりの恐怖の一つだから。

 詩を書き上げたメモをベッドサイド・テーブルに置くついでに、目覚まし時計で時間を確認してみる。すでに午後の一時になろうというところだった。今日も特に予定はない。誰かに会う予定も、どこかに行く予定も、何一つとしてない。ここ、東京ではわたしは時間の軛から解き放たれて、自由に街をさまよう権利を与えられている。別に昼からバーで酒を飲んだって構わないし、カフェで煙草を吸いまくったって咎められない。当たり前のことだけれど、東京にあってアメリカ国籍の旅行者たるわたしは一人の異邦人であり、それゆえに孤独をかかえる運命にあった。一枚のコインの表と裏のように、自由であるがゆえに孤独であり、孤独であるがゆえに自由だった。

 (さて、今日はいったい何をしよう?)とわたしはベッドの中であくびをしながら考えた。

 *

 イサーク・バーベリの『騎兵隊』はわたしがカリフォルニアから東京へ持ってきた二冊の本のうちの一冊だった。もう一冊は谷崎潤一郎『痴人の愛』。バーベリの『騎兵隊』はもう何度も読み返している小説だったが、谷崎の『痴人の愛』に関しては、ぜひ東京で読んでみようとわざわざカリフォルニアで英訳版を買っておいたのだ。東京に持ってくる二冊としてはこれ以外にありえないという気がした。しかし、異国の都会で過ごす毎日は想像以上に気力と体力を必要とし、ホテルに帰ってきても、なかなか本を読もうという気にはならなかった。五月に東京に到着してそろそろ一ヶ月になるが、いまだに『騎兵隊』も『痴人の愛』もまともにページをめくっていない。

 (さて、今日はいったい何をしよう?)と考え始めたのは昼過ぎのことだった。しかし、一時間ほど経ってもこれといったアイディアが思い浮かばず、仕方がないのでトランクからバーベリの『騎兵隊』を引っぱり出して、日が沈むまでぱらぱらと拾い読みをしていた。もっと遅い時間になったら、ホテルからそう遠くはない「見張り塔」という行きつけのバーに顔を出してみるつもりだった。そこのマスターは日本人にしては珍しく英語を話すことができたので(横田の米軍基地で働いていた経験があるらしい)、日本語をうまく喋ることのできないわたしには大変助かるのだった。

 *

 イサーク・バーベリはたいていの肖像写真ではわたしと同じように眼鏡をかけている。

 『騎兵隊』のあとがきに記載されている著者略歴によれば、イサーク・バーベリは「一八九四年、ロシア帝国領オデッサのユダヤ人商人の家庭に生まれる」。そして「一九四〇年、スターリン政権下のソビエト連邦、モスクワのブティルカ刑務所にて、スパイ嫌疑のため処刑された」。

 一九四〇年といえば、わたしはまだたったの五歳で、ワシントン州タコマの実家に暮らしていた。そのころ、父親はとっくの昔に家から出て行っていて、いつも母親と妹たちにかこまれて過ごしていたと記憶している。さすがに中年と呼ばれる年齢になったいま、幼年期の記憶はすっかりぼんやりとしたものになってしまっているが、もしかしたらわたしがワシントン州タコマの実家のリビングで、妹たちと西部劇ごっこなんかに興じていた瞬間に(ジョン・ウェインさながらのガンマンになりきって妹たちに拳銃をぶっぱなしていたその瞬間に)、モスクワでは銃声が鳴り響き、一発の銃弾がバーベリの頭に撃ち込まれた、という情景はありえたかもしれない。

 そもそも、わたしがバーベリにもっとも影響を受けたのは、小説というものを書き始めた二〇代半ばのころのことだ。わたしはそれまで詩ばかりを書いていた。確かに詩を書くことは素晴らしかった。しかし、わたしはずっと小説を書きたいと思っていた。でも、どうやって小説を書いたらいいのか、その方法がずっとわからなかった。そんなときに偶然読んだバーベリの『騎兵隊』がわたしにインスピレーションをもたらしてくれたのだ。

 『騎兵隊』は三十四の短い物語からなる小説だ。舞台は一九一九年から一九二〇年、ソビエト連邦とポーランド間において、ガリツィア地方(現在のウクライナ南西部)を主戦場として激戦が続いていた時期。ソビエト軍の主力部隊だった、ブジョンヌイ将軍麾下第一騎兵隊所属の通信特派員として、イサーク・バーベリはこの戦闘に参加していた。その時期に得た見聞をもとに書かれた原稿が『騎兵隊』という短篇集として結晶することになる。

 わたしがもっとも衝撃を受けたのは、その完璧なまでに独創的なスタイル(簡潔でありながら詩情にあふれた語り口、一筋縄ではいかない飛び道具のような譬喩、歴史には残らない非英雄的な人物たちに向ける中立的なまなざし、まるで一冊の詩集であるかのように断片的なエピソードを積み重ねていく手法、そして、つまるところ、書くということは描写することだという作家的態度)だった。バーベリのスタイルから、何かしらの技術を学ぶことができれば、わたしにも小説を書くことができるかもしれない、と思った。そのような「バーベリ・ショック」を経て書いたのが、実質的な第一作となる『アメリカの鱒釣り』だ。

 だから、わたしはバーベリに対しては、並たいていではない親愛の情をいだいている。カフカがドストエフスキーやフローベールを「文学的血族」と考えていたように、わたしもまた、バーベリを自分の「文学的血族」だと考えている。

 *

 イサーク・バーベリに関して、わたしがもっとも好きなエピソードを一つ。

 バーベリがモスクワのブティルカ刑務所で銃殺刑になったことは書いた。死刑執行の直前、「死ぬ前に何か言っておくことは?」と問われたバーベリが答えた言葉(わたしの頭の中でつねにリフレインしている言葉でもある)。

一つだけ、要望がある。自分の仕事を完成させてから死ぬことだ

 死ぬ前にはぜひ、わたしも自分の仕事を完成させておくことにしよう。

 祈りさんについて(一)

 祈りさんは私が初めてセックスした相手だった。

 渋谷のユーロスペースでジャン=リュック・ゴダール特集が組まれるということで、私はその日『カラビニエ』を観るために足を運んだのだった。

 『カラビニエ』は期待していたよりおもしろくなかった。当時のフランスにおける封切り時には、観客の全てを合わせても二〇〇〇人弱しか動員できなかったというエピソードもある映画だが、(残念ながら)それも納得だという出来だった。ただ、一つだけ印象的な部分があった。主人公の男性が映画館で映画を観ているシーン。上流階級らしきセクシーな女性がお風呂に浸かる場面で、男性は思わず観客席を立ち上がる。裸になった女性の乳房を何とかもっとよく見ようと、男性はスクリーンの前まで行って、背伸びをして上から覗きこんでみたり、横からにらみつけてみたりする。あげくのはてには主人公はスクリーンそのものを引きずり下ろしてしまうのだけれど、スクリーンがなくなってもその向こう側の壁では変わらず映画が上映され続けている。コミカルといってもいいシーンだったと思うけれど、私はその場面にだけは本当にこころの底から感動してしまったのだった。

 『カラビニエ』の上映が終わった後、私はロビーの椅子に腰かけて休憩していた。そのとき、声をかけてきたのが祈りさんだった。

「キューくん?」

 ソーシャルメディアで使っているハンドルネームをいきなり呼ばれたので、私はびっくりしながら顔を上げた。

 ベリー・ショートといってもいい短さのヘア・スタイル、西洋人のように大きい二重の瞳、形のいい耳には上品な金のピアスが光っていて、わし鼻といわれる形状の美しい鼻筋と艶のある薄い唇が印象的だった。そのときの祈りさんはホワイトのパーカーにブラックのデニムパンツ、コンバースの白黒のスニーカーといういたってラフなファッションをしていた。本当にただ映画を観に来ただけという雰囲気の格好だった。

「はい?」と私は思わず聞き返す。

「キューくんでしょう?」と祈りさんは繰り返して、私にスマートフォンの画面を見せる。「私、Instagramでキューくんをフォローしている者です」

 チェシャ猫のアイコン。そのアカウントには見覚えがあったし、確かに私のフォロワーだった。直接的なやりとりをしたことは一度もなかったけれど、ときどき私の方からいいねをしたり、祈りさんの方からいいねをもらったりするという関係だった。Instagramでは私も祈りさんもほとんどプライベートな写真は投稿しておらず、観た映画の画像に感想のキャプションを付けて、ひたすら投稿していくという使い方をしていた。私はアカウントのアイコンを自分のセルフィーに設定していたので、祈りさんはそれで私だとわかったのだろう。

「**さん」と私がアカウントの名前を叫ぶと、祈りさんはほっとしたように微笑んだ。

「『カラビニエ』を観てたの?」

「はい。**さんも?」

「うん」と祈りさんは微笑みを浮かべたまま頷いた。「『カラビニエ』って観たことなかったから、ちょうど予定も空いてたし観に来てみたの」

「僕もだいたい同じです。『カラビニエ』だけ観たことなくて、ちょうど予定が空いていたので来てみました。金曜は大学の講義をいれてないんです」

「そうだったんだ」と言って、祈りさんは手首を傾けて装飾品みたいなサイズの腕時計を確かめた。私もスマートフォンで時間を確認した。まだ午後六時前だった。「私もこの後は何にも予定がないんだ。せっかく会ったのも何かの縁だから、キューくんも暇ならどこかで食事でもしない?」

「ぜひ」と私は頷いた。

 *

 祈りさんと私は道玄坂の路地で店を構える「壁の穴」というイタリアン・レストランに行った。テーブル席に座った私たちはそれぞれベーコンとナスのトマトソース・パスタ、スモークサーモンとマッシュルームのクリームソース・パスタを注文して、しばらく食事をしながら話をしていた。一通りの世間話をした後で、私たちはどちらからともなく映画についての話を始めた。

「私はチャップリンとキートンがいちばん好き」と祈りさんが言う。

「コメディ映画が好きなんですか?」

「ちいさいころから親といっしょに映画を見てたの。父親も母親も仕事が忙しい人だったから、なかなかいっしょに過ごす時間がとれなくて、週末に親子三人で映画を観ているときだけが家族団らんの時間だったんだ。父親はどちらかというとアメリカの西部劇とかギャング映画とかが好きで、母親はフランスの恋愛映画とかミュージカル映画とかが好きだったから、趣味が全くいっしょというわけじゃなかった。でも、二人が共通して好きなジャンルがあって、それがコメディ映画だったの。チャップリンやキートンは特にお気に入りで、ことあるごとに何回も観ていたから、私もすっかり好きになっちゃったっていうわけ。チャップリンの『キッド』って観たことある?」

「じつはまだ、チャップリンって観たことないんです」

「チャップリンのフィルモグラフィーをこれからたどっていけるなんてうらやましい」と祈りさんは微笑みながら言った。「それなら、なおさら『キッド』から観てほしい。チャップリンの映画はひと通り観たけれど、私はやっぱり『キッド』が最高傑作だと思っているから。笑いと、(たぶん)一粒の涙の物語」

 祈りさんと私は群衆でごった返している夜の道玄坂をJR渋谷駅まで歩いていって、改札前で別れることにした。

「また、いっしょに映画でも観に行きましょう」と祈りさんは言った。

「黒沢清とか青山真治とか、今年の新作だったらどれでも観に行きたいです」と私も言った。

「楽しみ」

「近いうちにまた連絡させてください」

 祈りさんと私はそのようにして手を振り合って別れた。改札の中に進んでから一瞬振り返ると、祈りさんはまだ同じ場所に立ってこちらに手を振っていた。私も最後に一度だけ手を振った。そして、人混みの流れに飲み込まれないよう、ホームへと続く階段を注意深く一段ずつ上っていった。

 一週間ほど経ったころ、LINEに一通のメッセージが届いていた。

「突然のお誘いで申し訳ないんだけど、今度の日曜日って空いてる? もしよかったら、**くんの家でチャップリン『キッド』を観る会を開きましょう。DVDは私が持っていきます」

「もちろん空いてます」と私は返信した。「祈りさんと『キッド』を観る会、いまから楽しみです。何時ごろからにしましょう?」

 日曜日、祈りさんと私は『キッド』を観た後で初めてセックスをした。そして、それからも機会を見つけては定期的に会うようになった。祈りさんからじつは自分は既婚者なのだということを聞かされたのは、その次に会ったときのことだったけれど、いくら恋愛経験に乏しかった当時の私でも、初めて会ったときから祈りさんが既婚者だということくらいは気づいていた。

 しかし、祈りさんの配偶者が映画監督だということを知るのは、まだもう少し先のことだ。

「本当に?」とベッドの中で祈りさんの配偶者の名前を聞いた私は信じられないという顔をしていたはずだ。

「本当に。でも、もしかしたら嘘かもしれない。**くんの信じたいように信じたらいいけど。ただ、あの人が私の夫だってこと、大学の友達とかには言っちゃだめだよ」と祈りさんは笑いながら言った。

 その夜、祈りさんと別れてから、私は配偶者であるという映画監督のInstagramを検索してみた。投稿をさかのぼっていくと、映画監督と配偶者らしき人物のツーショットがあることを発見した。私は映画監督の隣にいる人物の顔を拡大した。祈りさんだった。ドッペルゲンガーが存在しているのでなければ、その日に聞いた話は間違いなく本当だった。

 祈りさんと私は、それから二年に渡って関係を続けることになる。

 一九七六年五月 − 六月、東京、リチャード・ブローティガン(六)

 「見張り塔」は新宿ゴールデン街のあかるい花園三番街と呼ばれている通りに店を構えている。

 一階では別のバーが営業しているビルの内階段を上ってドアを開くと、カウンター席のみの薄暗く狭い店内がわたしを迎える。天井近くの棚にはレコードが所狭しと並べられていて(全て国内外のロック・ミュージシャンのレコードだった)、カウンターの向こうではデノン製のレコード・プレーヤーの上でレコードが回転している。スピーカーからは日本人のボーカルと思われる低い歌声が流れていた。ヒッピー風の日本人の顔のスケッチが四人分並んでいるジャケットがプレーヤーの横に立てかけられている。店主のジョニー(生粋の日本人だったけれどみんなからそう呼ばれていた)がいつものハンチング帽に色付きの眼鏡、花柄の赤いアロハシャツに履き古したジーンズといった格好で「いらっしゃい」と日本語で挨拶してくれる。わたしも軽く会釈をしながら、いちばん奥のカウンター席に座る(そこがこの店における私の定位置だった)。「見張り塔」はまだ先ほどオープンしたばかりだったから、客はわたしのほかに誰もいないようだった。

 ジョニーがお通しの漬物(カットされたきゅうりとなすが小鉢の中で芸術的なまでに美しく並んでいる)を出してくるのと同時に「びいるをひとつおねがいします」と赤ん坊のような日本語で注文してみる。ジョニーは英語が話せるのだから、別に英語で頼んでもよかったのだけれど、わたしは最近、できるかぎり日本語を使うようにしているのだった。それでも、日本語はとても難しい。ギリシャ語やラテン語なんかより全然難しいと思う。

 きみが「見張り塔」のドアを開いてやって来たのは、ジョニーがわたしにビールを提供してすぐのことだった。わたしはそのとき、ちょうど昨日の明治神宮で過ごしたタカコとの時間を思い出していた。タカコと芝生に横になって見上げた星々の美しかったこと。わたしはきっと死ぬまであの景色を忘れないだろう。そのようなもの思いにふけっていたわたしをきみの姿が現実に引き戻した。

「ジョニーさん」ときみはカウンターに座るなり、煙草を吸い始める。「今日はハイボールをおねがい。いま、流れている音楽って日本のグループ?」

「はっぴいえんど」とジョニーはレモンサワーを作り始めながら、もう一方の指先でプレーヤーの横に立てかけられているジャケットを指さした。Happy Endとはなかなかおもしろい名前をグループに付けるものだ、とわたしは思う。いま店内で流れているのはフォーク風の一曲だったが、わたしには日本語の歌詞を聞き取ることはまだ難しい。「風」という単語だけがかろうじてわかったくらいで、それだけでも上出来だった。しかし、わたしはそもそも日本語で「カゼ」という単語が意味するところを知らなかった。今度、機会があれば、ぜひ辞書を引いてみることにしよう。

「へえ、知らない」ときみは言った。「何ていうか、ちょっと暗くない?」

「わしは好きやけど」とつぶやくように言いながら、ジョニーはハイボールとお通しの漬物を提供する。きみは煙草を吸いながら、ハイボールをやけくそみたいないきおいで飲み始める。そのとき、きみは自分の姿を奥の席から眺めている外国人の姿に気づく。その外国人は金髪のロングヘアに眼鏡といういでたちで、ツイードのジャケットにデニムパンツにブーツという、いかにもヒッピー世代のアメリカ人みたいなファッションで身をつつんでいる。そして、きみのことを微笑みながら見つめている。それがわたしだ。

 「カンパイ」と祝杯の挨拶をしながら、わたしはビールグラスをかかげる。きみも笑って「乾杯」とハイボールが注がれたグラスをかかげてくれる。きみの笑顔はミスター・アームストロングのアポロ十一号が着陸した月のようだった。それから、きみは「隣の席で話さない?」と言ってくれて、わたしはビールと灰皿を持って移動する。そして、ときどき通訳のジョニーを中継しながら、英語と日本語でのたどたどしくも素敵なコミュニケーションが始まる。

「きみのなまえは?」とわたしは日本語できみに聞いてみる。

「花。アイ・アム・ハナ」ときみが日本語と英語の両方で答えてくれる。「英語だったらフラワー。プリーズ・テル・ミー・ユア・ネーム」

「Richard Brautigan」とわたしは英語で答えてから「見張り塔」のコースターの裏側にペンで名前を書くことにする。ブローティガンという姓は英語話者にも聞き返されるくらい、ややこしい名前だったから。

 「Richard Brautigan リチャード・ブローティガン」と筆記体の英語と子どもが書いたみたいな日本語の二つの言語で書かれたコースターをしげしげと眺めながら、きみは「ブローティガン、ブローティガン、ブローティガン……」と呪文みたいに繰り返す(どうやら作家としてのわたしのことは知らないようだった。その方が都合がよかった)。わたしもきみの真似をして「はな、はな、はな……」と呪文のように繰り返す。そして、わたしたちは笑い合った。たくさん、笑い合った。たくさんたくさん、笑い合った。たくさん、たくさん、たくさん笑い合った。

 花。英語でフラワーの意味の名前を持つきみ。アポロ十一号が着陸した月のように笑うきみ。とびきり魂が美しいきみ。アナベル・リイにも匹敵する。

 きみに出会った。

 かぜ①【風】②【風・風邪】

 ①空気が(広い範囲を)流れ動く現象。「──が吹く。「──の吹きまわし」(物事のはずみ・ぐあい)「──を食らう」(あわてて逃げるさま)「──のたより」(どこからともなく伝わって来た知らせ)。転じて、わざとらしいみせかけのそぶり。「学者──風を吹かす」

 ②【風・風邪】のどや鼻の粘膜が熱で痛み、咳(せき)やくしゃみを伴う病気。風邪(ふうじゃ)。感冒。「──を引く」(空気中に漂う悪いものを体内に引き込む意。「悪い──がはやる」。古くなったり湿ったりして、品質が落ちる。「茶が──を引く」「このフィルム、──を引いてるぞ」

 関連:逆風・強風・疾風・はやて・順風・旋風・軟風・熱風・暴風・烈風・爆風・微風・そよ風・無風・季節風・向かい風・潮風・浜風・山風・海風・陸風・金風・薫風・涼風・清風・緑風・松風・東風・南風・秋風・からっ風・こがらし・おろし・深山おろし・山おろし・嵐・春風・春一番・青嵐・台風・神風・野分・竜巻・つむじ風・突風

 「きみ」というタイトルで私が書いた一篇の詩

 きみを愛した

 きみについての全てを愛した

 きみと営む生活を愛した

 きみを(もっと)愛したかった


 外国語みたいな口癖を愛した

 寝相の悪さを愛した

 ときどき酒を飲みすぎるところを愛した

 いつも煙草を吸いすぎるところを愛した


 キッチンでする喧嘩を愛した

 ベッドでやる営みを愛した

 中古のパッソを運転する顔つきを愛した

 魯肉飯をつくってくれる指先を愛した


 銭湯帰りの寄り道を愛した

 シーシャで代わりばんこに吐く煙を愛した

 近所の豚骨醤油ラーメンを愛した

 駅前の花屋で買った観葉植物を愛した


 ディラン・トマスの詩を愛した

 ジガ・ヴェルトフの映画を愛した

 エリック・サティとビル・エヴァンスを愛した

 熱海山口美術館を愛した


 きみを愛した

 きみに関わる全てを愛した

 きみと営む暮らしを愛した

 きみを(もっと)愛したかった

 花、きみはいま、いったいどこにいるんだ?

 インターミッション

 一泊二日のオデュッセイア(四)

 一泊二日の東京旅行、というアイディアをもたらしてくれたのは、ほかでもないきみだった。

 そもそも、きみがコーネリアスと坂本慎太郎のツーマン・ライブのチケットを当ててくれたから、私は四年ぶりに東京に行くことになったのだ。

 二人とも東京に行くことを楽しみにしていた。とても楽しみにしていた。でも、直前になって、きみの遠縁の親戚が亡くなって、きみは地元に帰らなければならなくなってしまった。それでも、きみは「**くんだけでも行っておいでよ」とこころよく私を送り出してくれたのだった。

 じつに四年ぶりの東京だった。その四年の間に世界ではコロナウイルスが流行し、東京オリンピック二〇二〇が開催され、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった。私はきみと同棲を始めた。仕事をいくつか変えたりもした。そのせいで喧嘩を何回もした。ほとんど別れそうになったことさえあった。でも、そのたびに私たちは関係を修復し、困難なときを乗り越えてきた。

 東京には一泊二日分の着替えや荷物にくわえて、リチャード・ブローティガンの『東京モンタナ急行』を持っていくことにした。

 八月某日、私は二十五時十五分に地元のA**市を出る夜行バスに乗り込んだ。明かりの消えた車内で、私はミネラルウォーターで睡眠薬を飲み下した。病気が寛解してからずっと飲んでいなくて残っていたものを持ってきたのだ。それでも私はうまく眠ることができなくて、朝まで眠ったり起きたりを繰り返しながら、魂ごと東京へ運ばれていった。

 あおいについて(二)

 四谷の編集プロダクションでアルバイトをしていたころ、私とあおいは毎月給料日になると(社長は毎月手渡しで給料をくれた)、その月の給料で膨らんだ封筒を握りしめて、バイト終わりの足で新宿ゴールデン街まで歩いていった。そして、二人の行きつけとなっていた「見張り塔」のカウンターで終電まで飲む、というのが私たちの月に一度の楽しみだった。終電を過ぎて朝までカラオケに行くこともしばしばだった。

 あおいが編集プロダクションのアルバイトを紹介してくれたのは大学三年のときだった。そのとき、私はあおいと初めて会ったときに行った新所沢の喫茶店でアルバイトを始めていたのだけれど、週に二回ほどのシフトだったので、もう一つアルバイトを探していたところだった。編プロの方でもちょうどもう一人アルバイトを募集していて、「それなら」ということであおいが大学の友人である私に声をかけてくれたのだ。

 編集プロダクションの仕事はそこまで大変ではなかった。むしろ楽だったと言ってもいい。何しろ、学生アルバイトの私たちの仕事は取材のためのアポ取りや下調べやインタビューの文字起こしといった雑用がほとんどで、実際に記事を書くのは社員の先輩たちの仕事だったからだ。仕事柄、いつ休憩をとってもよかったので、私とあおいはいつも休憩時間を合わせて近くの定食屋で食事をとったり、四谷の街並みをあてもなく散歩したりした。ちなみにそのころ、あおいは詩を創作する「クレプスキュール」という学内サークルを立ち上げていて、私もそこに参加させてもらっていた(私は週に一度のそのサークルで初めて詩を書き、詩を読むということを覚えた)。つまり、そのころの私とあおいはサークルもアルバイトも同じだったので(何なら講義もかなり被っていた)、寝ても覚めてもほとんど毎日顔を合わせていたことになる。そんなにもいっしょに過ごしていたのに、当時二人で何を話していたのかということになると、いまとなっては全く思い出せないから不思議だ。きっとくだらないことばかり話していたのだと思う。

 「見張り塔」にまたしても行った給料日のこと、私はプレゼントを用意していた。あおいの誕生日が来月の頭にひかえていたからだ。先月、二十一歳の誕生日を迎えた私はすでにあおいからプレゼントをもらっていた(岩波文庫の『谷川徹三編・宮沢賢治詩集』)。ちなみに私が用意していたのはリチャード・ブローティガンの『東京日記』。一週間ほど前に新宿の紀伊国屋書店で買っておいたのだ。私もあおいも大学三年になるまでバイトをしていなかったので、誕生日プレゼントを贈りあうのはその年が初めてだったのだけれど、詩集を贈ってもらったから詩集を贈り返すというのは、なかなか悪くないアイディアであるように思えた。

「何これ! もしかして本?」とあおいは「見張り塔」のカウンター席でラッピングされた私からのプレゼントを手に取った。「ねえ、いまここで開けちゃってもいい?」

 もちろん、と私は頷いた。あおいはラッピングをていねいにはがして、中にあったリチャード・ブローティガン『東京日記』を取り出した。

「ブローティガンだ!」とあおいは『東京日記』のページをぱらぱらとめくりながら言った。「ありがとう。大事に読みます」

 あおいには当時、付き合って一年ほどになる恋人がいた。映画学科で演技コースを学んでいる俳優志望の四年生で、私やあおいより一つ上の学年だった。あおいはクレプスキュールとは別にもう一つ軽音サークルにも所属していて、そちらの方で知り合ったということだった。あおいから紹介された際、一度だけ大学で顔を合わせたことがあったが、もし柴犬が俳優志望の大学生になったらこういう雰囲気だろうというような、さわやかでかつ愛嬌も持ち合わせている青年だった。

 一方、私は祈りさんと関係を続けて二年ほどが経っていたが、そのころはちょうど連絡がとれなくなって一ヶ月以上経っていた時期で(いままでそんなに連絡がとれなくなったことは一度もなかった)、どことなくやるせない気分で日々の生活を送っていた。祈りさんの夫に私たちの関係がばれてしまったという可能性もなくはなかった。祈りさんは注意深すぎるくらい注意深く私たちの関係を夫に隠し続けていたけれど、どれだけ気を付けていたとしてもふと注意を怠ってしまうということはありえる。あるいは祈りさんは体調を崩しているのかもしれない。何かしらの重い病気になって、私に連絡するどころではなくなってしまったのかもしれない。

 でも、私はどちらの仮説も真実とはほど遠いだろうという気がしていた。恐らく祈りさんは私との関係をきれいさっぱりやめることにしたのだ。前回会ったときにはそんな予兆はどこにもなかった。いつも通り吉祥寺で顔を合わせて、いつも通りセックスをして、いつも通り井の頭公園の中のレストランでピザを食べて別れた。関係を終わらせようだとかそういう話は少しもなかった。しかし、祈りさんは何らかのきっかけがあって(あるいは何のきっかけもなく)私との関係を清算することに決めたのだ。そういう気がした。もしくは単純に飽きられて捨てられただけだったかもしれない。別に相手が私一人だけだったとは限らないのだから。

 祈りさんとの関係にそのようにコンマが打たれているという時期でもあり(まだピリオドかどうかはその時点では判断できなかった)、私はあおいのことが気になり始めていた。もちろんあおいに恋人がいることはわかっていた。しかし、ちょうどそのころあおいも恋人と何だかうまくいっていないようで、会うたびに恋人の愚痴をこぼしていた。その日の「見張り塔」でも話題の半分くらいは恋人の愚痴が占めていた。

「**も人妻さんのことで大変なのはわかるけど」と三杯目のウィスキーをロックで飲みながら、あおいは赤らんだ顔で言った。すでにわりと酔っているようだった。「私もAくんのことで大変なんだよ」

 うん、と私は頷いた。Aくんというのがあおいの柴犬に似ている恋人だった。Aくんは「打ち上げ」と称して、毎週のように飲み会に参加していた。それなのに、あおいとデートするたびにお金がないと言い訳をしたり、あおいから借金をしたりということを繰り返していた。あげくの果てにはあおいとの約束をすっぽかして打ち上げに行ってしまうこともあった。Aくんの言い分としては「僕だってただ遊んでるわけじゃないんだ。映画業界っていうのはとにかくコネが第一なんだよ。あおいにはわからないと思うけど」ということだった。

「あおいにはわからないと思うけど」とあおいはAくんの口ぶりをまねながら言った。「まだプロでもないのに映画業界とか偉そうに言っちゃってさ。文芸学科の文学オタクにはどうせ理解できない世界なんでしょうよ。そういえば、**の人妻さんも映画関係者だもんね。人妻さんも人妻さんでひどいよ。さんざん**をもてあそんでおいて、急に連絡を絶つなんてひどすぎるよ。もしかして、映画人ってそういう人ばっかりなのかな?」

「そんなことないと思うけど」と私はあおいの極論に思わず笑ってしまう。「でも、あおいの恋人のことを悪く言いたくはないけど、確かにその話を聞く限り、Aくんはひどい人だと思う。僕が会ったときはそんな印象なかったのに」

「腐っても俳優志望だから表面だけ取り繕うのだけは上手いんだよ、あの人。でも、蓋を開けてみたらこれだもんね。いっそのこと、もう別れちゃおうかな。ねえ、**は私とAくんってもう別れた方がいいんだと思う? それとも、もうちょっと付き合った方がいいんだと思う?」

 あおいからそんなことを聞かれて、私はつい困ってしまった。だから、ビールを一口飲み、煙草を吸い始めることで返事を誤魔化した。あおいも煙草を吸い始めた。二人の座っているカウンター席から「見張り塔」の天井へともくもくと煙が立ち上っていく。

「いますぐ別れた方がいいとも思うし、付き合い続けた方がいいとも思う」と私は答えになっていない答えを言った。

「答えになってない」とあおいは笑いながら言った。

「一回距離を置いてみたら?」

「当たり障りないなあ」

 私はグラスに残っていたハイボールを飲み干すと、スマートフォンで時間を確認した。まだ終電までには時間がある。いつもだったらそろそろ二軒目に移動している時間だった。

「そろそろ移動する?」と私は煙草を吸いながら尋ねた。あおいはもう吸い終えて灰皿に煙草を押し付けているところだった。

「いや」とあおいは両手で赤くなった顔を覆った。「ちょっと酔いすぎてるから外を歩きたい気分かも。花園神社でも行かない?」

「うん、じゃあ、あそこでちょっと散歩しよう」と私も煙草を灰皿に押し付けて消しながら言った。「ジョニーさん、そろそろ行きます」

 ジョニーさんが頷いて、私とあおいの代金を計算し始める。その間、私たちは何も言わずにしばらく店内にかかっている音楽を聴いていた。そのときはボブ・ディランの『ブロンド・オン・ブロンド』がかかっていたのだったと思う。「アイ・ウォント・ユー」とボブ・ディランががなるように歌っていた。アイ・ウォント・ユー、アイ・ウォント・ユー、アイ・ウォント・ユー……。

 花園神社の境内を歩いているとき、私はあおいに「それなら、僕と付き合ってほしい」と言った。

 でも、あおいは、私の突然の告白にびっくりしたように目を見開きながらも「私は**とは親友のままでいたい」とはっきりと答えたのだった。それから「**はいま祈りさんがいないから、一時的にさびしくて、誰かにそばにいてほしいだけなんだと思う。別に付き合わなくても私は**の友だちとして、ずっと近くにいるから」と言った。その後、あおいがどのような言葉を続けたのか、私がどのように返事をしたのか、いまとなってはもうよく覚えていない。私があおいに対して「付き合ってほしい」と言ったのは後にも先にもこのときだけだった。それでも、あおいがこのとき私の告白を断ってくれたのは、回り回っていいことだったと思う。

 私にとっても、あおいにとっても。

 Aoi Nakano〈もう高円寺に着いてるから、**も到着したら教えて!〉

 〈僕ももう高円寺に着いてる!〉

 〈あおいはいまどこにいる?〉

 Aoi Nakano〈いま、改札のあたり!〉

 Aoi Nakano〈どっち口にいる?〉

 〈南口の方のレコ屋に行ってたから、いま駅まで歩いて戻ってるとこ!〉

 Aoi Nakano〈おけ! じゃあ、南口集合で!〉

* 

 一九七六年五月 − 六月、東京、リチャード・ブローティガン(七)

 きみから電話がかかってくるのを待っていた。でも、きみから電話がかかってくることはなかった。一週間近く待ってみても、やはり電話は鳴らなかった。ホテルの部屋にそなえつけの黒電話は意識をうしなった鈍重なかたつむりであるかのように沈黙を守ったままだった。

 まあ、そんなものかもしれない、とわたしは自分を納得させる。きみとはたった一晩、楽しく会話をしただけに過ぎないのだから。そういった性愛抜きの一夜限りの美しい関係があったって構わないだろう。

 この一週間、予定がある日を除いてはほとんどホテルの中で過ごしていた。出かけたとしても新宿駅の周りを散歩するくらいだった。「ザ・クレードル」まで行ってみることも考えたが、何となく六本木まで足を伸ばす気分にならず、そんなわけで明治神宮のあの夜からタカコにも一週間以上顔を合わせていなかった。

 別れ際、わたしは「見張り塔」のコースターに「Richard Brautigan リチャード・ブローティガン」と名前を書いたその下に、京王プラザ・ホテルの電話番号も書きそえて、きみに渡したのだった。きみとわたしが「見張り塔」を出たころには終電の時刻をとっくに過ぎてしまっていて、ジョニーがきみのためにタクシーを呼んでくれた。靖国通りにやって来たタクシーの前でわたしたちは別れの挨拶を交わした。

 「花、きみのおかげで今夜は本当に楽しかった。もし、また暇をもてあましているようなときがあれば、そしてその暇をつぶす相手がわたしでもよければ、さっきの番号に電話をくれ。リン・リン・リンとベルが鳴って、ホテルの素敵な受付嬢が『お電話ありがとうございます。こちらは京王プラザ・ホテル、フロントでございます』と礼儀正しく電話に出てくれると思う」と言いたかったのだが、わたしは実際には「おやすみなさい」と一言、日本語で言っただけだった。きみも「おやすみなさい」と笑顔で挨拶してくれた。

 タクシーがネオンの光りかがやく夜の新宿を走り去っていくのを見とどけてから、わたしもスイートルームの巨人用ベッドが待つ新宿駅南口へと歩き始めた。終電を過ぎても新宿の街は人で賑わっていた。しかし、どれだけ人混みを歩いてみても外国人の姿はわたし以外に一人も見当たらなかった。すれ違う日本人たちは希少種の動物でも眺めるような表情でわたしの顔を一瞬見上げる(わたしより身長の高い日本人はそういないので、必然的に人々から見上げられることになる)。もう東京に滞在して一か月になるので、そういった「異邦人」としての孤独感には慣れたつもりでいたが、素敵な誰かと楽しい夜を過ごした後などには、やはり異邦人としての孤独は際立って感じられた。

 「見張り塔」での通訳のジョニーを介した会話の中で、きみは渋谷の近くに住んでいると話していた。正確に言えば、きみは詳しい地名まで口にしていたのだけれど、わたしにはひどく聞き取りづらい固有名詞だったので、「渋谷の近く(Near Shibuya)」とジョニーが英語で補足してくれたのだった。

 渋谷を歩いていれば偶然きみとすれ違うかもしれない、という考えが頭をよぎったのは昨夜、シャワーを浴びているときのことだった。別に本当にきみに会えると思っていたわけではない。どちらかといえば「また偶然会うことができたらラッキーだ」というくらいの気持ちだった。そして、わたしはいま、週末の渋谷のハチ公像の前、道行く人々の姿を眺めている。やはり、ここでもわたしは一人きりだ。日本人の家族連れやカップルがそこかしこで話し合ったり、待ち合わせをしたりしているというのに、わたしには話す相手もいないし、待ち合わせている相手もいない。ナチの科学者が実験に失敗して誕生した、できそこないの透明人間になった気分だ。

 そういえば、少し前にこんな詩を書いたのだった。

 こわれた時計をもった東京のアメリカ人──シイナ・タカコに

 
 人々がぼくを見る

 何百万人もの人々だ

 なぜこの見知らぬアメリカ人は

 手にこわれた時計をもって

    暮れてきた通りを

       歩いているのか?

 かれは本物か それとも幻にすぎないか?

 どんなふうにして時計がこわれたかは重要ではない

    時計はこわれるものだ

    あらゆるものがこわれるんだ

 人々はぼくを見る そしてぼくが手にもって

    夢のように運ぶ

 こわれた時計を見る

 東京

 一九七六年六月十日

* 

 それから、続けてもう一つ。

 ふたたび、こわれた時計をもって東京を歩くアメリカ人──シイナ・タカコに

 
 こわれた時計をもって東京を歩きまわると

 あきれるほどおおぜいの

 人間に出会うことになる


 今日、ぼくはまたこわれた時計をもって

 歩きまわった そっくりおなじ

    かわりの時計を買いたくて

    修理なんてとても無理なのだ

 

 あらゆる種類の人間が

 時計に興味を示した まったくの他人が近づいてきて

 時計について尋ねた もちろん

    日本語でだが

 ぼくはうなずいた 「そうです、こわれた時計です」


 レストランにもってゆくと人々がまわりに

 あつまった 新しい友だちに出会いたかったら

 いつでもこわれた時計をもって歩くことを

 おすすめする これは世界中のどんな場所でも

    通用するとぼくは思う


    アイスランドに行って

    土地の人に出会いたかったら

    こわれた時計をもってゆくことだ

    人がハエのようにあつまってくるぞ

 東京

 一九七六年六月十一日

* 

 ちなみにこの詩は本当にあったできごとをもとにしている。しかし、わたしに近づいてきた人々のほとんどは私の知人や友人にはならなかった。東京を観光している外国人のわたしと一瞬すれ違い、つかのまの親切を示し、「どういたしまして」という挨拶とともに再びどこかへ歩いていってしまった、名前も知らない親切な日本の人々。「ありがとう」という日本語のお礼の言葉は「存在することが難しい」という意味の語源を持つそうだ。

 ありがとう。わたしは東京に来てから、何度この言葉でお礼を言ったかわからない。

 道玄坂を上りながら、わたしはサンフランシスコの坂を思い出す。もちろん渋谷とサンフランシスコは全く違う文化と雰囲気を持つ町だが、やたらと坂道があるという一点においては共通している。さまざまなフォルムとカラーを持つ車がひっきりなしに車道を走り、歩道はまるでカーニバルでも開催されているかのように人々であふれかえっている。やはりここでも人々はすれ違うわたしの顔と背格好を一瞬だけ眺める。原則として日本は単一民族で構成されている国家だから、アメリカ人であるところのわたしはそれこそ希少種の動物のようなものなのだろう。正直に言えば、わたしだって東京を歩きながら、日本の人々の顔をよく観察しているのだから、お互い様といえばお互い様だ。

 坂の傾斜のきつさもあって、人混みから外れたい気分になってきたわたしは、道玄坂の脇から伸びている路地へ続く道を曲がった。一本、路地を曲がるだけで、人の数が劇的に少なくなる。昼間だというのにその路地には淫靡な雰囲気が漂っていて、日本語で何と書いてあるのかはわからないが、風俗店らしき店の前に中年くらいの日本人が一人。いかにもアメリカ人といった風体のわたしを目にして、「ヘイ、ブラザー」と声をかけてくるが、わたしは会釈だけしてその場を足早に通り過ぎる。それでも、キャッチに声をかけられたということは、少なくとも本当に透明人間になってしまったというわけではないようだ。ひたすらまっすぐ歩いているうちにさらに細い路地へと迷いこんでしまい、わたしは一旦足を止める。

 緑色の看板が真っ先に目についた。黄色の小さい文字と白い大きな文字で恐らく店の名前が書かれている。外観から察するにカフェだろう。JR渋谷駅からここに来るまでは大した距離ではなかったはずだが、坂道と人混みのせいで思ったよりも疲れていた。昨日、眠るのが遅かったことも関係しているかもしれない。詩も小説も書く気にならず、かといってどこかに出かける気もせず、夜遅くまでテレビの深夜放送を見ていたのだ。

 わたしはホテルの部屋で適当にテレビのチャンネルを回していた。『空飛ぶモンティ・パイソン』の日本語吹き替え版が放送されているのを発見して、途中から見ることにした。元々英語で制作されているテレビ番組を日本語吹き替え版で見るというのはなかなか奇妙な体験だった。明らかにアングロ・サクソン系の顔をしたパイソンズのメンバーがわたしの理解できない東アジアの言語で話し、どこが笑いどころだったのかわからないまま、SEで被せられた笑い声が起こり続ける。ウィスキーと煙草を両手に『空飛ぶモンティ・パイソン』日本語吹き替え版を見ているうちに、私はだんだんと自分が見ているのがコメディ番組ではなく、異国語で演じられている不条理演劇のワン・シーンであるような気がしてきた。『空飛ぶモンティ・パイソン』が終わった後はテレビドラマを見ていた。探偵のような仕事をしている二人組の若者がクライアントからの依頼で海辺の町まで行くというストーリーで、テレビドラマにしてはなかなか凝った演出の番組だった。そのドラマも終わってしまった後は何やら政治家みたいな雰囲気の年配の日本人数名がひたすら討論している番組をつけっぱなしにしていた(その間に眠ってしまった)。

 とにかく、そんなこんなで昨日は夜遅くまでホテルの部屋で無為に時間を過ごしてしまったのだった。疲れが残っていたとしても不思議ではない。

 ひとまずわたしは緑色の看板がかかっているカフェの扉を開くことにした。何か冷たいものでも飲んで落ち着きたかった。扉を開くと、いきなりクラシック音楽が大音量で流れてくる。店内は木目調の椅子やテーブルでまとめられたアンティークな雰囲気で、一階席と二階席があるようだった。店の奥には巨大なスピーカーがあり、椅子とテーブルは全てスピーカーの方を向いて設置されている。まるで巨大スピーカーを崇める礼拝堂のようだった。二階席があるカフェなんていままで行ったことがない。目が合った若い店員に「二階へ行っても?」とジェスチャーで示すと、「どうぞ」と階段の方を示したので、わたしは会釈をして、二階へ続く狭い階段を上っていった。

 二階席も椅子とテーブルの配置はだいたい同じだった。わたしは空いていた中央あたりの席に座って、スピーカーから流れている音楽に耳を傾けた。クラシックに詳しくないので、いま流れている音楽が何という作曲家の何という曲なのかはよくわからなかったが、その礼拝堂みたいなカフェで巨大スピーカーを前に音楽を聴いていると、何だか敬虔な気持ちにさえなってきた。

 いつの間にか、こちらへやって来ていた店員がメニュー表を差し出してくる。わたしが「アイスコーヒー(Iced Coffee)」という項目を指差すと、その若者は何も言わずに頷いた。そして、足音を少しも立てずに一階へと階段を下りていく。わたしはアイスコーヒーが来るまでの間、目をつぶってクラシックを聴いていることにした。いまかかっているのは何となくバッハの練習曲ではないかという気がした。でも、確信はなかった。ただ、何となくバッハの練習曲ではないかという気がしたのだ。レコードの盤とプレーヤーの針とが擦れるちりちりという音に乗って流れるピアノの響きを聴いていると、ひさしぶりにやすらかな気持ちになることができた。そのうちにわたしは眠気を感じ始め、まどろみの中へと引きずりこまれていった。

 彼女は逃れまい。わたしは逃さない。永遠に彼女が失われることになってはいやだ。なぜなら、はっきりいって、もしいるとしてのことだが、彼女の友人や家族を除けば、わたしはこの地上で彼女のことを少しでも考えるきわめて数少い人々の一人だからだ。わたしは二億一千八百万のアメリカ人が暮している土地において、彼女に関心を持つたった一人のアメリカ人だ。ソヴィエト連邦、中国、ノールウェイ、フランスで彼女に関心を持つ者は皆無である。

 ……アフリカ大陸全土においてすら。

 わたしは新宿へ帰るので、原宿駅で山手線を待っていた。プラットフォームの前は水々しく茂った青い土手になっている。灌木や樹木が豊富に植わっていて、深々とした緑の芝になっている。東京ではこういう光景に会うといつだってありがたい。

 彼女がわたしと同じようにプラットフォームで電車を待っているのには気づかなかったが、そこにいたことは確かだと思う。きっとわたしのすぐ傍にいたにちがいない。だからわたしはこの話を書いている。

 山手線の電車が入ってきた。

 それも緑色だが、駅のかたわらの土手のような、ほとんど熱帯的とさえいえる水々しい緑色ではない。電車は、そう、なんというか金属的にやつれている。おそらくは若くさえあった頃のいまは年老いた男の夢のように、いまでは、かつて未来にあったものがすべて過去のことになってしまった男の夢のように、電車は色褪せている。

 わたしたちは電車に乗った。

 座席は全部ふさがっていたから、立っていなければならなかったのだが、そのときわたしは彼女がわたしの隣に立っているのに気づいた。おそらく五フィート七インチぐらいで、日本人の女性にしては背が高かったから。彼女は飾り気のない白いドレスを着ていて、とても穏やかな、曇りもないといってもいいような悲しさをたたえていた。

 彼女の背丈と悲しみがわたしの注意を強く惹き、新宿へ着くまでの六、七分の間、彼女は完全にわたしの心をとらえて放さなかったし、いまもそこに、永遠に重要な場所を占めることになった。こうして書いているのがその証拠だ。

 次の駅でわたしの前に坐っていた男が降りて行き、席が空いた。彼女がわたしが腰かけるのを待っているのがわたしにはわかったが、わたしは坐らなかった。彼女が坐るのを待って、わたしはじっと立っていた。わたしたちの近くには誰もいなかったから、わたしが彼女にその席を譲ろうとしていることは明らかだった。

 わたしは彼女に心の中でいう──「どうか、坐ってください。坐ってほしいのです」。空席を見つめながら、彼女は相変わらずわたしのかたわらに立っている。

 わたしが席を指さし、日本語でプリーズという意味の「ドーゾ」という言葉をいおうとしたところへ、空席の隣に腰かけていた男が腰をすべらせ、その空席を占め、そして彼の席を彼女に譲ると、彼女はその彼の席に腰を下したのだが、腰を下した彼女はわたしに向って英語で「ありがとう」といった。わたしの前の席が空いてからその女性がその席の隣に腰をかけるまでに経過した時間は、おそらくたったの二十秒くらいだった。

 この込み入ってはいるが、ほんのちょっとした人生バレーの所作はわたしの心を打ち鳴らした。さながら、太平洋の底に沈んでいた鐘が大地震に鳴り出したかと思うと、その音は海底に亀裂を生み、亀裂はもっとも近い浜辺、そう遥か遥か彼方のインドに押し寄せる津波を起こしてしまったかのように。

 鐘はありがとうという彼女の言葉の決定的悲しさに、鳴り響いた。あれほどの悲しさを伴って発せられた一語を、それまでのわたしは耳にしたことがなかった。最初の、発語による地震はおさまったが、わたしはいまもなお何百回となく反復されるその余震に囚われたままでいる。

 ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、繰り返しわたしの心の中で震える、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとうと。

 彼女の夢を見ていたわたしはふと人の気配がしたような気がして、おもむろにまぶたを開いた。近くには誰もいなかった。しかし、目の前の木目調のテーブルには、魔法で突然現れたかのように、コースターの上に置かれたアイスコーヒーのグラス、それにミルクと角砂糖が出現していた。先ほどの寡黙な若い店員がアイスコーヒーを持ってきてくれて、つかのま眠りこけていた私を起こさないよう、そっと置いていってくれたに違いない。

 しかし、どうしていまごろになって、彼女の夢なんて見たのだろう? 山手線でその事故が起こったのは、もう何週間も前のことだ(先月の終わりごろのことだった)。確かに印象的な出来事ではあったけれど、わたしはいまのいままでそんな出来事があったこと自体、すっかり忘れていた。それなのに、うとうとと眠りこんで一瞬見ただけの夢に彼女は姿を現したのだ。

 それから、わたしはしばらくアイスコーヒーを飲みながら、おそらくバッハの練習曲であろう音楽に耳を傾けていた。店内では誰も一言も喋らなかった。「この店に来たら必ず沈黙しなければならない」という暗黙の了解がこの店にやってくる人々の間で共有されているようだった。わたしは先ほど「巨大スピーカーを崇める礼拝堂」という譬喩を使ったが、訂正しておこう。この店はまるで巨大スピーカーをたてまつった禅寺のようだ、と。

 花、渋谷を歩き回ったところで、きみには会えずじまいだった。

 カフェを出た後も、わたしはしばらく渋谷の街を歩き回っていた。センター街と呼ばれるメイン・ストリートにも行ってみた。そこにあった飲食店で天ぷらそばというものを初めて食べた(おいしかった)。飲食店を出たころには夕方近くになっていた。わたしは新宿に帰ることにした。

 渋谷から新宿まではおなじみの山手線で帰った。勤め人風のスーツを着た日本人の男性と事務員の制服のようなものを着た日本人の女性との間にちょうど一人分だけ座席が空いていたので、何とか座ることができた。

 わたしは山手線に乗ることを愛しているといっても過言ではない。東京というメガ・シティを朝から夜までぐるぐると回り続けている、この忙しなく寡黙な乗り物。できることなら一日中乗って、電車を乗り降りする人びとを見ていたいと思う。そのときもわたしは向かいの席に座っている人たちを観察していた(ニーチェ風に言うならば、わたしが向かいの席の人々を観察しているとき、わたしもまた向かいの席の人々から観察されていた)。黒縁の眼鏡をかけスーツを着たビジネスマンは腕を組んだまま眠りにふけっている。百貨店の袋を膝の上に載せた主婦らしき二人連れは先ほどから何事かを繰り返し囁き合っている。読売ジャイアンツの野球帽をかぶった老人は折りたたんだ新聞を眺めながら難しそうな顔をしている。真っ黒な制服を着た学生たちのグループはお互いに小づき合いながら何度も笑い声を上げている。

 そのとき、代々木駅で電車が停車する。ホームで待っていたたくさんの人々といっしょに彼女が乗り込んでくるのを見たとき、わたしは思わず息を飲んでしまう。彼女だ。

 彼女は素早く車両の中を見回して、空いている座席が一つとしてないことを確認した。そして、まだ後ろから乗ってくる人々の邪魔にならないように素早くわたしの座っている座席の前まで歩いてきた。つり革に片手でつかまったとき、一瞬だけ目の前のわたしの顔を見下ろす。わたしも彼女の顔を見上げる。いや、この人は例の彼女とは違う人物かもしれない。顔はよく似ているけれど、年齢が違いすぎる気がする。でも、本当のところはわからない。日本人の女性の年齢を当てるのはひどく難しいことだから。

 アメリカ人風にではなく日本人風に、できる限り礼儀正しい微笑みを浮かべて、わたしは彼女に言葉のない挨拶を送ってみる。たとえ、いま目の前にいるのがあのときの彼女ではなくても、親愛の情というのは減るものではないのだから。すると、彼女も唇の端を少し持ち上げて微笑みを形づくり、「こんにちは(こんばんは)」というように一回だけ頷いてくれる。

 別に何ていうことはない、見知らぬ人間どうしの他愛もない挨拶だ。それでも、偶然同じ山手線の車両に乗り合わせ、偶然座っていたわたしと、偶然わたしの前に立った彼女の魂が一瞬でもすれ違ったのは、いいことだった。

 ルル先輩について(二)

「パイク、パイク、ナムジュン・パイク! やっぱりナムジュン・パイクは最高だよ!」

 ルル先輩は外苑西通りを歩きながら興奮したようにそう言った。そのころ、ルル先輩は髪の色をアッシュピンクからネイビーブルーに変えていて、コートとマフラーの上で暗い青に染まった髪が揺れていた。ナムジュン・パイクの回顧展がワタリウム美術館で開催されていて、私たちはそのために青山までやって来たのだった。

「僕もすっかり好きになっちゃいました」と私も興奮さめやらぬ状態で返事をした。「ピテカンで細野晴臣や坂本龍一たちとパフォーマンスしたときの映像、めちゃくちゃかっこよかったです」

「あれはすごかった。話には聴いてたけど実際の映像が見られるなんて、超レアだよ!」

 冷たい空気に白い息を吐きながら、私たちは外苑西通りを青山霊園に向けて歩いていた。空は真っ青に澄みわたっていて、気持ちのいい昼下がりだった。その年の春に花見をしに行って以来、私たちは一度もあの素敵な坂道を歩いていなかったので、せっかくだから今日はまた青山霊園まで歩いていこうという話になっていたのだ。

 ルル先輩と私が出会ってから、そのころ一年が経とうとしていた。私たちは単なる師弟関係にとどまらず、定期的に会っては出かける仲になっていた。ルル先輩も私も友達がたくさんいて、週末はいつも誰かとどこかへ出かけるというタイプではなかったから、仕事のないときであれば基本的には予定は合わせやすかった。

 二人で会うときはライブに行ったり(たとえば相対性理論やNUUAMMのライブに行った)、美術展に行ったり(たとえばヴァニラ画廊のシリアルキラー展に行った)ということが多かったけれど、ひとたび所定の予定が済んでしまうと、あてもなく散歩をしながら話した。二人で話す話題はほとんどが音楽のことだった。最近これを聴いたとか、あれを聴いたとか。たとえば、私はルル先輩の影響でクリスチャン・フェネスやアルヴァ・ノトやマック・デマルコやデヴェンドラ・バンハートなんかを聴くようになったし、そのほかにも教えてもらった音楽は数えきれないほどある。ルル先輩には顔を合わせるたびに何かしら新しいものを教えてもらっていたような気がする。

 私はそのようにいつも新しい影響を与えてくれるルル先輩のことを尊敬してもいたし、一人の人間として好きでもあった。もっと言えば異性として好きだったし、ルル先輩のような人と付き合えたらどんなに楽しいだろうと想像した。しかし、ルル先輩は私と親しくしてくれる一方で、いまだにどことなく近寄りがたい雰囲気もあって、なかなかそのような気持ちをつたえるきっかけが見つからずにいたのだった。

「そういえば」とルル先輩は歩いている間に突然思いついたという風に口を開いた。「君は就職先って決まったの? そろそろ卒業なんでしょう?」

「何にも決まってないです」と私は答えた。「いま、バイトしている編プロでそのまま社員として雇ってくれるって話もあったんですけど、いつの間にか立ち消えになっていたので、どうしようかと思っているところなんです」

「君はどういう仕事がしたいと思ってるの? たとえば、こんな業界で働きたいとか、そういうことってある?」

「色々考えてみたんですけど、特にないみたいです。そもそも別に編集業界で働きたいわけでもなかったんです。ただ、いまのバイト先でそのまま雇い続けてくれるんだったら、就活しなくていいからラッキーくらいに思っていただけだったので。とにかく、働き口さえ見つかれば何でもいいんです」

「まあ、仕事なんて人生のたった一部に過ぎないからね」とルル先輩は隣を歩く私の顔を見ながら言った。

 はい、と私は頷く。

「私だって何となくデザイン事務所に就職して、いまの仕事を続けてきたわけだけど、一番やりたいことかって言われたらそうじゃなかったし、むしろ仕事でクリエイティブなことを毎日やらされてると、自分のクリエイティビティを搾取されてるような気持ちになってくるっていうか、創造性がどんどん流れ出していって、最終的には枯渇してしまうんじゃないかって怖くなることがあった。だから、君もクリエイティブ系の仕事には気をつけた方がいい。できれば、クリエイティブなんかに全然関係ない仕事に就職することをお薦めする。その方が本当に自分のやりたいことにフォーカスできるから」

「覚えておきます」と私もルル先輩の真剣な顔を見ながら言った。「人生の先輩からのアドバイスとして」

「紙に書いて部屋の壁にでも貼っておきなさい。忘れないように」

「じゃあ、紙に書けるように一言にまとめてください」

「汝、創造的な仕事にはよくよく注意を払うべし」とルル先輩は私を指差しながら言った。「がんばりたまえ、文学青年!」

 がんばります、と私は答えた。

 春先には桜が咲いていた青山霊園の坂道もすっかり枯葉ばかりになっていて、一年の終わりのさびしげな雰囲気に様変わりしていた。ルル先輩と私は少し傾斜のある上り道を歩きながら、珍しくお互いに沈黙していた。二人で外を歩いているときはたいていいつも何かを話していたので、そのときは何だか奇妙な感じがしたものだった。

「そろそろ福島に帰ろうと思ってるんだ」とルル先輩はいつもと変わらない声で言った。

「何となく、今日はそういう話があるんじゃないかと思ってました」

 うん、とルル先輩は頷いた。「正直、いまの仕事を続けていてもあんまり将来性がないっていうか、東京で一人暮らししていくには給料が低すぎるし、そもそも都会暮らしにもちょっと疲れちゃってさ、一回このあたりで地元に帰るのも悪くないかって思ったんだ。あっちもまだ色々大変だし、両親も帰ってくるならいつでも歓迎するって言ってくれてるところだったから、来年の三月末には引っ越すつもりでいる。しばらく東京と福島を行ったり来たりしたり、仕事の引き継ぎなんかで忙しくなるから、こうやってゆっくり散歩できるのも今日が最後かもしれない」

「さびしくなります。ルル先輩のことだから、きっと僕が何を言ってももう決意は揺らがないんでしょう?」

「私のこと、よくわかってるじゃん。そう、もう決めちゃったことだから、何があっても揺らがないのがこの私。でも、私も君ともう散歩できなくなると思うと、結構さびしいよ。また、東北の方に来る用事があったら、南会津にも寄ってってね。私の実家に泊まったらいいから。逆にもし、また私が東京に来ることがあったら、そのときこそ『東京日記』の聖地巡礼をしよう。正直に言うと、君が誕生日に贈ってくれたブローティガンのあの詩集、まだ読めてないんだけど、そのときまでにはちゃんと読んでおくから」

 はい、と私は返事をした。そして、それから私たちは坂道を歩きながら未来についての話をした。もし私が南会津に行ったらどこに案内するとか、『東京日記』の聖地巡礼はどこから行くとか、そんな話をしていた。

 それから、私はルル先輩に「ずっと先輩のことが好きでした」と言ったのだった。坂道の途中で私たちは足を止めた。「本当?」とルル先輩が確かめるように聞く。私はルル先輩の顔をまっすぐ見ながら頷いた。

「へえ、全然気が付かなかった」とルル先輩は笑った。「でも、前にも言ったと思うけど、私にとっては君は弟みたいな存在なんだよ。てっきり君もそういう風に思っているものだと考えていた。だから、気持ちに応えられなくて本当に申し訳ないんだけど、付き合うとかそういうことはできないと思う。でも、ちゃんと言葉にしてくれてありがとう。これからもいままで通りの関係でいてくれる?」

「もちろんです」と私は言った。「ルル先輩もちゃんと聞いてくれてありがとう。僕も直接言うことができて、よかったです」

 しかし、私はまだ一度も南会津を訪ねたことはない。社会人になってからしばらくして、ラインの連絡先を整理していたら、ルル先輩のアカウントが消えてしまっていることを発見したからだ。ツイッターやインスタグラムを確認してみると、そちらのアカウントも削除されてしまっているようだった。私はそれ以外にルル先輩の連絡先を知らなかった。だから、いま、ルル先輩がどこでどうしているのか、まだ福島にいるのか、それともいないのか、それすらも私はわからない。

 私信 ルル先輩、もしこの小説を読んでいて、まだ私のことを覚えているなら(再び連絡をとってもいいと思ってくれているなら)TwitterでもInstagramでも、メッセージをもらえたらうれしいです。僕のアカウントは昔と変わっていません。

 一九七六年五月 − 六月、東京、リチャード・ブローティガン(八)

 アメリカへ帰る前日だった。一九七六年六月二十九日。相変わらずきみから電話はないし、もうここまで時間が経ってしまったら連絡が来ることはまずないだろう。さすがにわたしもうぶなティーンエイジャーではないから、それくらいのことはわかる。わたしが名前と連絡先を書いた「見張り塔」のコースターはごみ箱へあっけなく捨てられ、何曜日だかの燃えるごみの日に収集され、ごみ焼却炉の炎に燃やされて塵となったのに違いない。

 そういえば、この間の日曜日、新宿の「Dug」というジャズを聴かせる店で、素敵な人々に出会ったのだった。そのことを少しだけ書いておこう。

 「Dug」は靖国通りに面したビルの地下一階にある、ジャズを聴かせてくれるカフェ・バーだった。東京に来たばかりのころから、店の前を通りかかるたびに気になってはいたのだけれど、なかなか行く機会を持つことができなかった。しかし、アメリカへの帰国が迫る中、次にいつ東京に来られるのかわからないのだから、この機会に行きたい場所には行っておくべきだという結論に達して、予定帳の端にメモなどをしていながらも実際にはまだ行ったことのなかったスポットを順々に巡り始めた(浅草の花やしきや目黒寄生虫館や築地市場などもそのリストに含まれていた)。「Dug」も最有力候補の一つではあったのだが、滞在先の京王プラザ・ホテルから近すぎるだけに、何となく後回しになってしまっていた。そんなわけで先週、わたしは靖国通りから地下一階へ続く階段を下り、ノルマンディー海岸に降下する落下傘部隊のごとく、ついに初めて「Dug」へ降り立ったのだった。

 やや傾斜のきつい階段を下りている最中からすでにジャズが聴こえてきていたが、最後の一段を下りきるとサックスの音はより鮮明に聴こえてきた。ついこの間行った渋谷の「ライオン」では(タカコに『渋谷でクラシックが聴けるカフェに行ったんだ』という話をしたら正確な店の名前を教えてくれた)、流れている音楽がバッハの練習曲かどうかいまいち確信が持てなかったのだが、ここで流れているジャズについてははっきりとそのプレイヤーを特定することができる。

 ジャガー・Eタイプを最高速度でぶっ飛ばすように生きた、ジョン・コルトレーンのサックス。『ジャイアント・ステップス』。カリフォルニアのカフェやバーなんかでもよくかかっていたレコードだ。わたしはクラシックと同じくらいの程度にしかジャズについての知識を持たない。恐らく平均的なアメリカ人と同じくらいにしかジャズについては知らない。それでも同時代のスターとしてのコルトレーンの名前くらいは知っていたし、レコードを買うことこそしなかったものの、いたるところでそのサックスの響きは耳にしていた。だからこそ、極東にある遠い異国のカフェ・バーで流れていても、すぐコルトレーンの音楽だと認識することができたのだ。

 親切そうな笑みを浮かべた店員がちょうど空いていた奥のカウンター席に座るように案内してくれる。わたしは素直に頷いてそれに従う。その席に座ってみると店内をよく見渡すことができる。壁にはジャズ・ミュージシャンの写真が所狭しと飾られている。コの字を描くように配置されたカウンター席とテーブル席がいくつか。地下組織のアジトのようなアンダーグラウンドな雰囲気のある内装だった。ちなみにわたしはどの国のどの都市のどんな通りのどんな店に行っても、空いていればいちばん奥の席に座るようにしている(ゴールデン街の『見張り塔』でもそうしていた)。いちばん奥の席に座るというのは一つの視座を持つということでもある。すなわち「誰にも見られずに誰もを見る」という視座。どんな店でも奥まった席に座っているとほかの客からはほとんど意識されることがない。いわば他人の意識の辺縁に居座っていることができる。一方、わたしの方はそうした不可視化された存在となりながら、ほかの人々を観察していることができる。わたしはそういう時間がたまらなく好きだ。

 コルトレーンがサックスを吹きまくる中、店内ではさまざまな人々が週末の昼過ぎのひとときを過ごしていた。マグカップでコーヒーを飲みながら週刊誌を読んでいる年配の男性、紅茶を飲みながら煙草を吸っている妙齢の女性、おしゃべりに興じている若い恋人たち、お互いに沈黙したままレコードの音に耳を澄ましている夫婦。わたしは沈黙したままレコードを聴いている夫婦のことが何となく気になって、注文した黒ビールがやってくるまでの間、二人が腰かけているテーブル席の方に視線を向けていた。

 二人はどうやら旅行者であるらしく、巨大な銀色のトランクが一つ、テーブルの横で飼いならされた大型犬のようにおとなしく待っていた。二人分の荷物を一つのトランクに詰めこんできたのだろう。夫も妻も中年と呼ばれる年齢、つまりわたしと同年代だろうと思われたのだけれど、やはり日本人の年齢を推定するのは難しい。夫はどちらかといえば強面で、色付きの眼鏡をかけており、白いポロシャツにグレーのスラックスに革靴という格好。妻の方は黒髪にパーマを当てており、落ち着いた黒いワンピースを身に付け、足元にはエナメル質の白いハイヒールを履いている。夫は腕を組んでジャズの響きに耳を傾けているのか、あるいはそのまま眠っているかのどちらかであるように見えた。妻はそんな夫の様子をただじっと見つめたまま、膝の上で両手を組んで微動だにしない。わたしが見ている間にも、二人は一言も言葉を交わさなかった。しかし、不思議とこの上なく幸せそうに見えた。小津安二郎『東京物語』に出てくるあの夫婦のように、この二人の間に流れる沈黙からも長年積み重ねてきた深い信頼関係の気配をうかがうことができた。

 もし生まれ変わるとしたら、わたしはこういう夫婦のもとに生まれてみたい、とふと思う。いや、わたしが死んで生まれ変わるころには、この夫婦もそれなりに年齢を重ねているはずから、子どもではなくて孫として生まれ変わることになるだろう。もし、こういう二人の孫として生まれ変わることができたら、わたしもこんなにも孤独ではない、もっと愛に満ちあふれた人生を歩むことができるのかもしれない。わたしはものごころついたときから、父親という存在抜きの人生を生きてきた。一応、母親はいたにはいたものの、ひどく精神的に不安定で、わたしや妹たちのことをほとんど顧みない人だった。母親は夫に出て行かれた後、ひっきなりなしに男を替えるようになった。本当の父親ではない男たちがかわるがわる家にやって来て、機嫌がよければ優しい言葉をかけてもらえたり、何かしらのプレゼントを贈ってもらえたりもしたが、機嫌が悪いときにはひどく邪険に扱われた。ほとんど殴られそうになったことさえあった。

 もし、あのころ、この夫婦のような祖父母がいたなら、わたしももっとまともな人間に育っていたはずだ。もしかしたら詩や小説なんて書いていなかったかもしれない。はたして作家になった人生と作家にならなかった人生、どちらの方がよかったのかはもういまとなってはわからないが。

 可能世界について想像を巡らせていたわたしのもとに、親切そうな笑みを浮かべた例の店員がやって来て、グラスに注がれた黒ビールをサーブしてくれる。わたしは「ありがとう」と言って、さっそくグラスを持ち上げて、口元まで持っていく。かすかに甘みの混ざった苦い黒ビールの味わいがわたしのアルコールに対する渇望を癒やしてくれる。わたしはポケットから煙草の箱とマッチを取り出し、ニコチンへの渇望も癒やさんとこころみる。マッチを吸って、くわえた煙草に近づける。思いきり煙を肺まで吸い込み、また吐き出す。ひとまずはこれでまともな気分になることができた。

 そのとき、わたしは離れたカウンター席から、一人の青年がこちらを見ているのに気がついた。わたしが気づいた素振りを見せると、青年はさっと視線をそらして、読んでいた書物に意識を戻した。青年は私とちょうど反対側のいちばん奥のカウンター席に腰かけていて、詩集か小説か哲学書かはわからなかったが、とにかくそれなりに厚みのある書物を読んでいるようだった。髪を短く切り、茶色いチェシャ猫のイラストが描かれたTシャツに黒いチノパンに白いテニス・シューズというラフな格好で、いかにも都会で暮らしている青年風だった。今度はわたしが青年を見続ける順番だった。青年は明らかにわたしの視線に気づいているようだったが、気づかない振りをして詩集だか小説だか哲学書だかを読みふけっているふりをしていた。しかし、やがて根負けしたように書物のページを閉じ、もう一度こちらを見やった。わたしと青年の視線が交錯する。そして、青年は分厚い書物をテーブルの上に置くと、椅子から立ち上がってわたしのもとまで歩いてきた。やや緊張しているような顔つきでいたが、口を開くなり「もしかして、あなたはミスター・ブローティガン?」と日本語訛りの英語で尋ねてきた。わたしは「いかにも」と答えた。

「『アメリカの鱒釣り』は素晴らしい小説でした。一年前、僕は日本語に翻訳されたあの小説を読ませていただきました」と青年は続けた。

「ありがとう」とわたしは礼を言った。「『アメリカの鱒釣り』に日本語話者の読者がつくというのは何だか不思議な気分だ。でも、確かに去年、カズコが翻訳してくれた日本語訳が出版されたとは聞いていた。もしよかったら、君の感想を聞かせてもらうことはできるかい?」

「失礼な言い方に感じられたら申し訳ないのですが」と青年は断ってから続けた。「こんな風に書いても小説というものは成り立つのだ、というように感じて、目の前がすっと開けるような、そんな素敵な気分になりました」

「ありがとう」とわたしは再び礼を言った。「わたしの小説について、そんなにも素晴らしい感想を聞けたというだけでも、はるばる日本に来たかいがあったというものだ。ところで、君はもしかして作家志望かい?」

「どうしてです?」と青年は目を見開いた。

「『アメリカの鱒釣り』の読み方が自分でも小説を書きたいと思っている人間のそれだったからだ。作家志望なんだろう?」

「いえ」と青年はひかえめに頭を横に振った。「小説を読むことは好きですが、まだ自分では一度も書いてみたことはありません。いまのところ、何かを書きたいと思ったこともありません。じつはいま、僕も自分でカフェ・バーを経営しているんですが、なかなか忙しくて、何かを書いてみようなんて気持ちにはとてもなれないんです。でも、本だけは読み続けています」

「やがて機会が巡ってきたら、あるいは最初の一行が思い浮かぶこともあるかもしれない」とわたしは言った。「そう、たとえば四月のある晴れた日の昼下がりなんかに。そして、ペンを握って、原稿用紙に最初の一行を書き始める日がやって来るかもしれない。わたしの見る限り、君の魂の中にはすでに種はまかれている。後は水をたっぷりやって、太陽の光を浴びさせて、花を咲かせてやるだけだという気がするんだが。まあ、いずれにせよ、話しかけてきてくれてありがとう。わたしは東京ではいつでも一人だから、誰かから話しかけられるというだけでとてもうれしい。ありがとう(とわたしはそこだけ日本語で三度目の礼を言った)。残念ながら、わたしは明日東京を発つんだが、次にまたこちらに来たときには、ぜひ君のやっている店に行かせてもらいたい。何ていう名前の店なんだい?」

「ピーター・キャット」と青年は答えた。

「覚えておこう」とわたしは相手の目を見て頷いた。

 青年はそのままサインをくれとも何とも言わず、自分の席まで戻っていった。恐らく慎み深く、他人との間に一定の距離を持つ性格なのだ。わたしのプライベートな時間をこれ以上邪魔しないようにしよう、という配慮の気持ちが感じられた。青年は再び書物を読み始めていた。ものすごい集中力だった。もうわたしの方は気にしていないみたいだ。よろしい、わたしも自分の世界に戻って、黒ビールと煙草の続きを楽しむことにしよう。ジョン・コルトレーンはまだサックスを吹き続けていた。一組の素敵な夫婦と一人の実直な青年とのつかの間の遭遇。

 ここ、東京では、このような奇跡的な出会いがいつでも当たり前のように起こるのだ。

 わたしは明日の出発のために荷物をまとめているところだった。カリフォルニアから東京にやって来たときに持ってきた服やら書物やらに加えて、日本で買ったさまざまなお土産が荷物の嵩を増やすことになった。トランクはあたかも具材を挟みすぎたベーコンレタス・サンドイッチのごとくぱんぱんに膨らんでいて、いまにもはちきれそうに見えた。それでも何とか留め金をかけることができた。

 そのとき、ベッドサイドに備え付けられている黒電話、あの意識をうしなった鈍重なかたつむりのような黒電話が鳴り出したのだった。リン、リン、リン、リン、リン、リン。リン、リン、リン、リン、リン、リン。わたしは立ち上がって、ベッドサイドまで大股で歩いていく。そして、ひさしぶりに鳴ったその電話の受話器を持ち上げて「ハロー」と答える。

「お休みのところ申し訳ございません」と京王プラザ・ホテルのフロントスタッフが礼儀正しく英語で喋る。「ハナ様、という方からブローティガン様へお電話が来ておりますが、いかがいたしましょう?」

 花、とわたしは思った。やっときみからの電話が来たのだ。わたしはフロントスタッフに電話をつなぐように申し付けた。一瞬の保留音がもどかしかった。そして、電話回線が切り替わった気配がして、まったく別の空間を満たしている沈黙が耳元へ流れ込んでくる。

「ひさしぶり、ミスター・ブローティガン」ときみは言った。

 祈りさんについて(二)

 祈りさんと一泊二日で京都に行った帰り、私たちは走行する新幹線のグリーン席に隣り合って座っていた。品川駅にはあと一時間ほどで着く予定だった。私たちは手をつないだまま、沈黙のうちに時間を過ごしていた。もちろん旅の疲れもあったのだけれど、この深い沈黙はつい先ほどまで交わしていた会話に由来するものだった。車窓の外では名前も知らない町の景色が一瞬ごとに通り過ぎていき、空には灰色の雲が立ちこめていた。いまにも雨が降り出しそうだった。

「もうこれで会うのは最後にしよう」と祈りさんは京都駅から新幹線に乗って、お互いに駅弁を食べ終わったころ、そうつぶやいた。私は何も言わずに祈りさんの顔を見た。

 こういう話は全く予想していなかったものではなかった。何しろ祈りさんと私が京都旅行に行ったのは、最後に吉祥寺で会ってから、じつに一年以上ぶりのことだったからだ。

 三月の後半、私は大学の卒業式をボイコットして、祈りさんと一泊二日の京都旅行に行くことにした。以前に会ってからそんなにも時期が空いていたのに、ひさしぶりに来た連絡が京都旅行の誘いだったので、私は何となくこういう話があるのではないかと予想していた。祈りさんが言うには「夫が仕事の関係で行けなくなっちゃったから、夫の代わりといっては何だけどいっしょに京都にでも行かない?」ということだったけれど、私はそのメッセージの奥に「今回限りで関係を清算させてもらいたい」という別のメッセージを読み取ってもいた。

 私たちは一泊二日で京都観光をした。夜の伏見稲荷に行った。大徳寺に行った。京都大学前の「進々堂」という喫茶店に行った。先斗町ですき焼きを食べて、壁にかけたプロジェクターでいつも白黒映画を上映しているというバーに行った(祈りさんと私が店の扉を開けたときにはちょうどジョン・フォードの『駅馬車』を上映していた)。宿泊先のホテルに帰ってからは二回セックスをした。セックスが終わった後、祈りさんは私より先に眠りについた。私は眠れないまま、ずっとホテルの天井を見つめていた。何もかもがこれで最後だ、という予感がしていた。だから「もうこれで会うのは最後にしよう」と言われても驚かなかったのだった。

「別にあの人にばれたとかそういうわけじゃないんだけど」と祈りさんは続けた。「**くんも大学を卒業するし、ちょうどいい機会だと思ったんだ。もう一年以上も会っていなかったから、いっそのこと何も連絡せずにこのまま関係を断ってしまおうとも考えたんだけど、それじゃあ、あまりにもひどいでしょう。だから、今回、夫が京都に行けなくなったからちょうどいいと思って、ひさしぶりに連絡してみたの。**くんとは結構長く関係を続けていたから、最後の思い出作りと大学卒業のお祝いを兼ねて」

 私は何も言わずに祈りさんとつないだ手を見つめていた。予想していたとはいえ(そして一年以上も連絡をとっていなかったとはいえ)、しばらく親しくしていた相手から別れを切り出されるのはやはりつらいものがある。ルル先輩もちょうどこの前、福島に帰っていったばかりだった(私は東京駅のプラットフォームまでルル先輩を見送りにいって、先輩が郡山行きの東北新幹線に乗り込んで、新幹線が発車するまでずっとベンチに腰かけていた)。また一人、このようにして、私の人生から親しい人がいなくなるのだ。

「都合のいいように聞こえるかもしれないけど」と祈りさんは言った。「でも、それがお互いにとっていいと思うの。私ももう夫との関係性にちゃんと向き合うべき時期が来ていると思うし、**くんのことをいつまでも宙づり状態にしているわけにもいかない。私はいま**くんに恋人がいるのかどうか知らないけど、もしいるんだとしたらその子のことを大切にしてあげてほしいし、もしいまはいないんだとしても、**くんは**くんでもっとまともな相手を見つけるべきだと思う。私が言うのはおかしいだろうけど、**くんも薄々同じようなことを考えてはいたでしょう?」

 やはり私は何も言わずに、祈りさんとつないだ手を見つめていた。本人が言うように都合のいい話だと思った。でも、私もある意味では都合よく祈りさんを利用していたのだから、きっとお互い様だったのだ。確かに祈りさんのことは好きだったし、無理だとはわかっていても、できれば夫と別れて自分と付き合ってほしいと思ったことも一度や二度ではなかった(実際に祈りさんに冗談めかしてそう言ったこともあったけれど、そのたびに返事ははぐらかされてしまったのだった)。

「京都で買ってもらったブローティガンの詩集、大切に読みます。**くんにもう二度と感想を言えないのが残念だけど、それでもちゃんと読むから」と祈りさんはあまりにも長すぎる沈黙の後で思い出したように言った。窓の外ではいつの間にか雨が降り始めていたようだった。

 祈りさんのその言葉を聞いても、私は何とも思わなかった。確かに京都の古書店に行ったとき、私はブローティガンの『東京日記』を見つけて、祈りさんのためにそれを買ったのだった。でも、どうせ私のもとからいなくなるなら、わざわざ『東京日記』を買う必要なんてなかったと思った。

 でも、いつかあおいが言ったように、私はただ孤独に耐えかねていて、たださびしいだけだったのかもしれない。相手が好きで付き合ってほしいというよりは、ただ隣に誰かにいてほしかっただけなのかもしれない。少しでも自分のことを理解してくれそうな相手だったら、誰でもよかったのかもしれない。私は外見が美しかったこともなければ、頭が素晴らしくよかったこともない。特別に優れたところは何もない、本当に平凡な人間だ。だからこそ、あおいや、ルル先輩や、祈りさんといった、特別に見える人たちが平凡な私を認めてくれたとき、簡単に相手のことを好きになってしまったのだ。

 いま考えてみれば、それはあおいやルル先輩や祈りさんといった他人への愛ではなく、自分への愛にもとづく気持ちだったのだと思う。私は誰かに愛してほしかった。平凡な人間だと言いながら、本当のところは特別な存在だと思っている自分のことを愛してほしかった。でも、それはいつもかなわなかった。私はますます孤独になっていった。

 花、僕はいま、この場所に一人きりだ。

 私信 祈りさん、あれからしばらく経って、一度だけあなたの方からLINEを送ってくれたとき、僕は返信しようかどうかしばらく悩みました。でも、そのままあなたの連絡先をブロックして、二度と連絡を取ることはしませんでした。結果的にはそれでよかったのだと思います。

 一九七六年五月 − 六月、東京、リチャード・ブローティガン(九)

「ひさしぶり、ミスター・ブローティガン」ときみは英語で言った。

「どうも、ひさしぶり、花。英語を勉強したのかい?」

「私の英語、どう?」

「ものすごく上手だ」とわたしは言った。「君はとてもいい先生に教えてもらったみたいだ」

 ありがとう、ときみは言った。「ところで、ミスター・ブローティガンは今日空いてる?」

「いや、じつは夜に六本木の友人がやっているバーで送別会を開いてもらう予定があるんだ。それまでだったら、わたしのスケジュールは空いてる」

「送別会? いつアメリカに帰る予定なの?」

「明日」

「明日!」ときみはびっくりしたように大声を上げた。「じゃあ、なおさらいまから会わなくっちゃ。じつはあなたを連れていきたいと思っていた、とっておきの場所があるんだ。新宿駅の山手線内回りのプラットフォームで待ち合わせましょう。ミスター・ブローティガン、内回りってわかる?」

「一ヶ月も山手線を使っていたのだから、それくらいは理解できていると思う。オーケー、ではいまから新宿駅に向かうとしよう。ところで、きみがわたしを連れていきたい場所というのは、いったいどこなんだろう?」

「それは行ってみてからのお楽しみ。トップ・シークレット」と言ってから、きみは突然電話を切った。

 わたしは再び鈍重なかたつむりのように沈黙した黒電話の受話器を置くと、洗面所に行って鏡の中の自分を点検してみた。少なくともいつもよりひどい顔はしていない。再び寝室に戻って、いつも被っている帽子を頭に被ると、ルームキーをポケットにすべりこませ、部屋のドアを開けた。赤い絨毯が敷かれた廊下には誰一人いない。宿泊客もスタッフも誰もいない。わたしはふと自分だけがどことも知れない虚構の世界に迷いこんでしまったような感覚をおぼえた。前にもこんなことがあったような気がした。

 *

 きみとわたしは約束した通り、新宿駅のプラットフォームで再会した。およそ二週間ぶりの再会だった。きみはわたしの姿を見かけると大きく両手を振った。わたしも両手をできるだけ大きく伸ばして手を振り返した。「ひさしぶり」「ひさしぶり」とわたしたちは言い合った。わたしたちはちょうどすぐやって来た山手線内回りの車両に乗り込み、きみが言うところの「とっておきの場所」へと向かった。品川駅で京浜東北線に乗り換え、さらに半時間ほど経ったころに鶴見駅で鶴見線に乗り換えるべく降車する。きみは鶴見駅のプラットフォームで営業していたキオスクで、三五〇ミリリットルの缶ビールを二本と袋いりのナッツを買ってくれる。わたしは財布を取り出して支払いをしようとしたのだけれど、きみは「東京旅行の思い出の締めくくりとして、わたしからのちょっとしたプレゼントだと思って。大したものじゃないけど」と言って、自分で支払いを済ませてしまったのだった。それからわたしたちは時刻表通りにやって来た鶴見線に乗った。車内はまったくもって空いていた。ほとんどの乗客が一人客であるように見えた。少なくとも、その車両の中で連れと二人で乗っているのはわたしたちだけだった。何となくではあったのだが、ほかの乗客たちはどことなく影が薄いようだった。もしかしたら車窓から差し込む光の加減でそう見えたのだったかもしれない。わたしたち二人だけが本当に生きている人間で、ほかの乗客たちは全員、死んだ後に幽霊になって、あの世に行けずにこの世をさまよっている人たちなのだとしたらおもしろい。

 国道、鶴見小野、弁天橋、浅野、新芝浦と各駅に停車するたびに乗客たちは降りていった。不思議なことに乗り込んでくる客は一人もいなかった。電車が駅に止まるたびに車内から人の姿が消えていき、新芝浦を発車したころにはきみとわたしの二人と、向かいの席に座っていた青年だけになっていた。

 丸眼鏡をかけたその青年は長い髪を肩まで伸ばしていて、よごれた作業着のようなものを着ていた。ひと仕事して家へ帰っていくところだったのかもしれない。膝の上にはボールペンを挟んだ一冊のノートが乗せられていたが、その青年はいま腕を組んで眠っているところだった。わたしの記憶が正しければ、青年はわたしたちが鶴見駅で乗り込んだときから同じ座席で眠っていた。その青年は眠っていたせいで降りるべき駅を乗り過ごしてしまったのかもしれない。しかし、まだ時刻は昼下がりだ。終点まで行ってしまったところで、まだ折り返すことはできる。きみとわたしと青年の三人は一言も喋ることなく、その次の終着駅まで電車に揺られていった。途中、電車の揺れで一回だけ青年の膝からノートが落ちてしまった。わたしは立ち上がって、列車の床に落ちたノートを拾い上げた。「Poem and Novel Takahashi」と手書きのアルファベットのタイトルと名前らしき文字列がわたしの目を一瞬かすめていく。なるほど、この青年も詩と小説を書く人間なのだ、と思いながら、わたしはノートを青年の膝の上に戻してやった。それでも青年はまったく目を覚まさなかった。よほど疲れていたのだろう。わたしはきみの顔を見た。きみは静かに微笑んでいた。わたしも微笑みを返した。すべてが夢の中のように穏やかだった。

「次は終点、ウミシバウラ、ウミシバウラ」と車掌のアナウンスが聞こえてくる。ウミシバウラ、とわたしは口には出さずにその駅名を繰り返してみる。聞いたことのない地名だ。きみがわたしを連れていきたかったところというのは、そのウミシバウラという場所のことなのだろう。そこにはいったい何があるのだろう、とわたしは思った。眠っている青年の後ろ側の窓には海が見え始めていた。

 わたしたちを乗せた電車はゆるやかに速度を落として、やがて完全に停車した。再び「海芝浦、海芝浦」というアナウンスとともにドアが開き、きみはわたしの手をとって立ち上がらせる。そして、わたしたちはドアから海芝浦駅のプラットフォームへと降り立つ。

 わたしたちの目の前には先ほど窓から見えていた海が広がっていた。プラットフォームから海が見える駅なんて、わたしは初めてだった。東京にこんな場所があるなんてことも知らなかった。「東京湾」ときみは海を指差しながら、わたしに教えてくれた。海の向こうには高速道路が伸びていて、ミニチュアよりももっとちいさい車が行ったり来たりしていた。その横には工場地帯がひろがっていて、青空に向けてもくもくと煙を上げている。

「行きましょう」ときみは言って、わたしの手を引いてプラットフォームを歩き始める。わたしはきみに手を引かれるまま、その海が見える駅の中を歩いていく。後ろを振り返ると、電車はまだそこに止まったままだった。この電車はいつまでこの終着駅に止まっていてくれるのだろう、とわたしは一瞬考えた。でも、すぐに前に向き直って、きみが歩いていく後に着いていった。「海芝浦」と書かれたプレートがかかっているのが見えた。海芝浦、とわたしはもう一度声には出さずに繰り返してみる。

 改札には駅員の姿はなかった。それは改札ともいうよりはただ切符用の箱が置いてあるだけのゲートに過ぎなかった。きみとわたしはその箱に切符をいれると、改札を通って外に出た。しかし、それは厳密に言うなら改札の外ではなく、プラットフォームから続いている一本の通路だった。海芝浦駅で降車する乗客は決して外に出ることはできない。ここはプラットフォームにとどまってそこから海を眺めるためだけの駅なのだ、とわたしはそのとき初めて気がついた。少しだけ歩いていくと、ベンチが二つだけ並べてある、小さな公園のような場所が用意されていた。辺りには花や植物も植えられていた。

 きみとわたしはベンチに並んで腰かけ、プラットフォームの向こう側に広がる東京湾のたゆたいを眺めた。きみはずっと手に提げていたビニール袋から缶ビールを二本取り出して、そのうちの一本をわたしにくれた。わたしたちはその場所で缶ビールのプルタブをいっしょに開け、乾杯した。「乾杯」「乾杯」。そして、塩味のピーナッツをつまみ、ぐびぐびとビールを飲みながら、ひたすら目の前の海が静かにうねっているところを見ていた。

「ミスター・ブローティガン」ときみは口を開いた。

「できればミスター・ブローティガンではなく、リチャードと呼んでほしい」とわたしは言った。「今日で会うのは二度目だし、わたしたちはもう知り合いなのだから」

「それなら、リチャード」ときみは言い直した。「あなたをここに連れて来ることができてよかった。何となくだけど、きっとあなたはここが好きだろうと思ったんだ。どう、海芝浦はあなたのお気に召した?」

「お気に召すも何も」とわたしは正直に答えた。「きみのような美しい人にこんな素敵な場所に連れて来てもらって、まるで夢の中にでもいるみたいだ。もしかして、ここは天国なのかい?」

「もしかしなくても、ここは天国なのかもしれない」ときみは言った。「じつはあなたも私もとっくに死んでいて、魂だけがここに運ばれてきたのかもしれない。帰りの電車なんてものはなくて、私たちの魂は半永久的に海芝浦にとどまることになる。もし、そうだとしたら、あなたはどうする?」

「それはそれで素晴らしい」とわたしは言った。「きみとなら、それも悪くないかもしれない」

「リチャード、あなた、会う人会う人にそんなことを言っているんじゃない?」

「いや、誰にでもってわけじゃない。わたしは博愛主義者だから、異性にも同性にもこういうことは言うと思うが、残念ながらニジマスに人間の言葉は通じないから、わたしはニジマスに出会っても甘い言葉は囁かない」

 きみは声を上げて笑った。わたしは自分の冗談できみが笑ってくれたことをうれしく思った。きみはそれからしばらくビールを飲みながら、海と首都高速と工場地帯と青く晴れわたった空を眺めていた。わたしは海と首都高速と工場地帯と青く晴れわたった空を眺めているきみの横顔を見ていた。そのうちにきみは泣き始めた。日本語で何かを囁きながら泣いていたのだが、わたしにはその意味はわからなかった。でも、誰かの名前を口にしていることだけはわかった。わたしはきみの頭をやさしく腕でかかえこむようにして、きみの身体をしっかりと支えてやった。きみはわたしのシャツの胸に顔をうずめて泣いたので、わたしの胸のあたりはすっかり温かい涙で濡れてしまった。

 きみは何かを(あるいは誰かを)うしなって、こんな場所までやって来たのだ。きみはわたしに何も話しはしなかったけれど、何となくそういう気がした。もうきっと帰りの電車は行ってしまった。次の電車がいつやって来るのかはきみにはわからないし、もちろんわたしにもわからない。それまでわたしたちはこうしているほかないのだろう。それもいい。それも悪くない。

 花、とわたしは声に出さずにきみの名前をつぶやいた。

 一九七六年五月 − 六月、東京、リチャード・ブローティガン(一〇)

 アメリカへ帰る途中の旅客機の座席で、わたしは一篇の詩を書くことができた。「朝日ののぼる国」という詩だ。今日は一九七六年六月三〇日。日本の六月三〇日からアメリカの六月三〇日へ、日付変更線をまたいでわたしは同じ日付に移行していく。次の詩集のタイトルは「June 30th, June30th」がふさわしい、とわたしは旅客機の窓から見える新しい朝の光を眺めながら、一つの啓示を得る。六月三〇日から六月三〇日。そして、詩集のいちばんおしまいに、たったいま書いた詩をおさめることにしよう。あとは東京で書き溜めた詩の一つ一つを並べていこう。まるで一冊の日記のようにして。

 次の詩集はとっておきだ、とわたしは銀河系第三惑星の上空一万何キロメートルかを魂ごと移動しながら微笑んだ。

 一九四〇年一月二十七日、モスクワ、イサーク・バーベリ

 一九三九年五月十五日、イサーク・バーベリの妻、アントニーナは、NKVD所属の四人の諜報員がモスクワのアパートのドアを叩く音で目を覚ました。諜報員たちはバーベリを逮捕しに来たのだった。アントニーナは夫の逮捕に同意する以外、どうするすべも持たなかった。まだ、ベッドで眠っていた夫を起こして状況をつたえると、バーベリは何も言わずにただ頷いただけだった。そして、いつものようにベッドからゆっくり出ると、諜報員たちが見張る前で服を着替えた。

 アントニーナ「車の中でNKVDの諜報員の一人が私たちといっしょに後ろに座り、もう一人が運転手といっしょに前に座りました。モスクワに近づいたとき、私はイサークにこう言いました。『私はいつまでもあなたを待つつもりです』。イサークは答えました。『どうか子どもたちが不幸にならないように見守っていてほしい。でも、私の運命がどうなるかは私にもわからない』。このとき、バーベリの横に座っていた諜報員が私の顔を見て言いました。『奥さん、あなたは今回の逮捕に関するいかなる請求権も持ちませんので、あしからず』。私たちを乗せた車はルビャンカ刑務所の門を通過し、刑務所の巨大な閉ざされたドアの前で停車しました。二人の衛兵が見張りに立っているのが見えました。バーベリは私に強くキスをすると『いつかまた必ず会おう』とだけ言いました。そして、振り返ることなく車を降り、そのドアをくぐって姿を消しました。それが私がバーベリの顔を見た最後でした」

 「事件番号四一九、バーベリ、I.E.」というファイルによれば、この作家はテロルやスパイ行為などに関わった疑いで拘束され、ルビャンカ刑務所とブティルカ刑務所に翌年一月まで収容された。バーベリは当初、断固として容疑を否認していたが、その後突然、尋問官が示唆した事実を自白し、共犯者として多くの人物の名前を挙げ始めるにいたった。おそらく、バーベリは拷問を受けており、ほぼ間違いなく肉体的な暴力を振るわれたものと思われる。バーベリの尋問官には、当時の基準からしても特に残酷な拷問者として知られていたボリス・ロドスやレフ・シュバルツマンらが含まれていた。バーベリが密告した人々の中には、親しい友人であったセルゲイ・エイゼンシュテイン、ソロモン・ミホエルス、イリヤ・エーレンブルクの名前も含まれた。

 スターリン政権中枢にほど近かった政治家、ラヴレンチー・ベリヤへ宛てた数えきれないほどの請願書もむなしく、バーベリは自身の未発表原稿の回収を拒否され続けた。バーベリはその後再び尋問のために呼び出された際、以前の証言をすべて否定して、尋問官たちを大いに苛立たせた。

 一九四〇年一月中ごろ、ベリヤはスターリンに、拘留中の「党とソビエト政権の敵」と題したリストを提出し、イサーク・バーベリを含む三四六人を射殺するよう勧告した。バーベリの娘、ナタリー・バーベリ・ブラウンによれば、バーベリの裁判は一九四〇年一月二十六日、ベリヤの私室で行われた。裁判は短時間で終わった。判決は事前に準備されていたものだった。バーベリは一九四〇年一月二十七日午前一時三〇分に射殺された。

 バーベリの最後の言葉は「私は無実です。私はスパイではありません。私はソビエト連邦に対するいかなる反動的行為にも関わったことはありません。私は自分自身を偽りました。私は自分自身や他の人たちに対して虚偽の告発をさせられたのです。私がもとめているのはただ一つ、自分の仕事を最後までやらせてほしいということだけです」。衛兵のライフルによって頭を撃ち抜かれた後、バーベリの遺体は共同墓地に投げ捨てられた。

(イサーク・バーベリ - Wikipedia 英語版・日本語版より引用の上で一部加筆)

 一九八四年九月十六日、カリフォルニア、リチャード・ブローティガン

 それがもうひとつのはじまりのように感じられるのは

      なぜだろうか

 すべてはまたべつのことにつながっているのだから、

      もう一度

      わたしはやりなおそう

 ひょっとしたら、なにか新しいことがわかるかもしれない

 ひょっとしたら、わからないかもしれない

 ひょっとしたら、前とぜんぜん違わない

      はじまりかもしれない

 ときは早くたつ

      わけもなく

 またはじめから

      やりなおしなんだから

 わたしはどこへも行きはしない

 これまでいたところへ

       行くだけなのだから

 イッツ・ミー・アゲイン(何度も申し訳ないが、またわたしだ)。

 カリフォルニア州ボリナス、秘密の山小屋のごとき自宅のテーブルで、たったいま、わたしは詩を一つ書き上げたところだ。これを最後の詩にするつもりだ。もう何も書くつもりはない。二年前に書き上げていた『不運な女』というタイトルの小説も発表しないままに終わってしまった。そのとき、わたしは酒屋で買ってきておいたウィスキーを大量に飲んでいて、テーブルの上では米国陸軍の規律正しい兵隊のごとく空き瓶が直列に並んでいた。また、はてしないチェーン・スモーキングを続けていたせいで、原稿のすぐ横に置いてあった灰皿には煙草の死骸がうず高く積もってもいた。

 詩も小説ももうたくさんだ、と思っていた。これ以上どれだけ詩や小説を書いたところで、世界は私のことを外側に追いやり続ける。それにもう誰もリチャード・ブローティガンの新作なんて読みやしない。ヒッピーを気取っていた若者たちはとっくの昔にまともな会社で働き始めて、まともな家族を作って、いまでは仕事に子育てに大忙しだ。とてもとても、ブローティガンの詩や小説なんて読んでいるひまはない。もはやわたしの名前さえ忘れてしまったことだろう。「ブローティガン? ああ、若いころに『アメリカの鱒釣り』とかいう小説を読んだことがあった気がする。懐かしい」なんて、ノスタルジーの種にされるくらいが関の山だ。それにもう、わたしのそばには誰一人としていない。最初の妻も、二番目の妻も去っていった。ニッキーというわたしのもっとも親しかった友人の一人もある日突然この世からいなくなった。それで一種の鎮魂歌として『不運な女』という小説を書いてみたのだけれど、完成したころにはもうすっかり出版する気はなくなっていた。あくまでも個人的な動機で書き始めた小説だったから、自分のトランクの中なんかにしまいこんでおくのがもっともお似合いなのだ。誰かに読ませるようなものじゃない。誰かに読ませて「ブローティガンはもうおしまいだ」なんてまた言わせたくはない。そんなことのために書いたものではない。

 わたしは一発だけ銃弾をこめた回転式拳銃をもてあそびながら、何をするともなくソファに腰かけていた。一発だけ弾が装填されたシリンダーをくるくると回しながら、あてもなく色々なことについて考えていた。わたしは泥酔するといつもこのように拳銃で遊び始める。そのことは自覚している。でも、どうしようもないのだ。昔からわたしは泥酔すると自暴自棄になってしまう。破滅的な気分が加速して、もう生きようが死のうがどうでもいいという気持ちになってきてしまう。最近では特にその傾向が顕著になってきていて、ロシアン・ルーレットなんかをやって一人で遊びだすこともしばしばだった。さあ、今日も運だめしといこう。

 わたしはくるくると回したシリンダーをそのまま拳銃に戻した。そして、こめかみに銃口をつきつけて、引き金を引いた。かちっ。空砲だった。もう一度引き金を引いた。かちっ。空砲だった。もう一度。かちっ。もう一度。かちっ。もう一度。かちっ。わたしは深呼吸をした。間違いなく次に引き金を引いたら銃声が響きわたって、わたしはあの世へとおさらばすることになるだろう。それもいい、それも悪くない、とわたしは思った。引き金を引いた。

 かちっ。

 あれ、とわたしは思った。そして、こめかみから離した拳銃をまじまじと見つめた。シリンダーを再び覗いてみることにした。驚くべきことにシリンダーの中は全くの空だった。六発の銃弾が装填できる穴の中に弾は一つとして装填されていなかった。わたしはテーブルや床に銃弾が転がっていないかどうか確かめた。床に腹ばいになってソファの下を確かめてみることまでした。しかし、銃弾はどこにもなかった。確かにさっきシリンダーの中に一発装填したはずだったのに、あたかも魔法にかけられたかのように、銃弾はどこかへと消えてしまっていた。わたしはあっけにとられてしまった。そして、何だか全てがばかばかしくなってきて、わたしは一人で笑い始めた。近所に住んでいる人はいきなりわたしが大声で笑いだしたのでびっくりしたことだろう。

 人生なんてちょっとしたジョークみたいなものなのだ、とわたしは思った。何も深刻ぶって懊悩し続けることはない。どっちみちいつかは死ぬのだ。それまでは適当にのらりくらりと生きていけばいい。

 花、という名前がふとよみがえったのは偶然だったのか、必然だったのか、とにかくそのときのわたしは、もう数年来会ってもいなければ、消息さえつかめなくなってしまった、一人の日本人について思いをはせたのだった。英語でフラワーの意味の名前を持つきみ。アポロ十一号が着陸した月のように笑っていたきみ。とびきり魂が美しかったきみ。Ha、Na、唇を大きく開いてHa、舌を口蓋にくっつけてから軽く弾いてNa。はな、ハナ、花。

 いまごろどうしているのだろう、とあのときの海芝浦からこんなにも遠く離れて、カリフォルニアより東京のきみを想う。

 一泊二日のオデュッセイア(五)

 A**市を二十五時十五分に地元を出発した夜行バスが東京駅に着いたのは朝の六時三十六分のことだった。四年ぶりの一泊二日の東京旅行にあたって、私は事前に綿密なプランを組んでいた。

 東京駅八重洲口鍛冶橋駐車場に到着した夜行バスから降りた私は、その足でまっすぐ日比谷公園へ向かうことにした。来月から書き始める予定の『東京の鱒釣り』のためにホセ・リサール博士像の写真を撮りたかったからだ。しばらくビルの影になっている通りを歩いて日比谷公園に着いたまではよかったものの、なかなかホセ・リサール博士像を見つけることができずに歩きまわるはめになった。おかげですっかり汗をかいてしまった。それでも何とかホセ・リサール博士像が建っている小道にたどりつくと、私はさっそく何枚かの写真を撮ってみた。

 ホセ・リサール博士像はじつに立派だった。フィリピンの国民的英雄、ホセ・プロタシオ・メルカード・リサール・アロンソ・イ・レアロンダ。できれば、リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』さながらに、私も自分とホセ・リサール博士像がいっしょに写っている写真を撮りたかったのだけれど、一人ではなかなかうまく撮ることができないでいた。そのとき、ちょうど観光客風の夫婦が通りかかったので、ブロークンな英語で「もしよかったら、私とこの像のツーショットを撮っていただけます?」と聞いてみると、二人はこころよく頷いてくれた。夫婦がホセ・リサール博士像とともに私を撮影してくれたツーショットの中で、私の顔はひどく緊張しているみたいに見える。「ありがとう、よい一日を!」「どういたしまして、あなたもよい一日を!」と言い合って、私たちは別々の方向に歩いていく。

 その後、私は乃木坂まで移動して、新国立美術館で「テート美術館展」を鑑賞した。それから渋谷に移動して、ひさしぶりに「ライオン」に行くことにした。アイスコーヒーを飲みながらクラシック音楽を聴いて、だいたい一時間から二時間くらい目をつぶっていた。「ライオン」でひと休みして回復した私は、その足で渋谷の駅ビルで開催されていた「ソール・ライター展」に行った。写真集で見たことのある作品も多かったけれど、ニューヨークの街並みを独特な視点から撮影したソール・ライターの写真は実物で見るとさらに素晴らしかった。

 「ソール・ライター展」を見終わった私はそのまま山手線で恵比寿に移動した。コーネリアスと坂本慎太郎のツーマンライブの開場は十九時からだったが、私が恵比寿に着いたのは十八時ごろのことだったので、適当にそのあたりのカフェ・チェーンで時間をつぶしていた。

 コーネリアスと坂本慎太郎のライブは想像以上に素晴らしかった。『無常の世界』と『空洞です』のソロ・バージョンを聴いたとき、私はそれぞれの曲が終わった瞬間に思わず涙ぐんでしまったほどだった。全てが終わった後の会場にはアンコールをもとめる拍手が鳴り響いていた。拍手はしばらくの間続いていた(私もずっと拍手を続けていた)。でも、小山田圭吾も坂本慎太郎ももうステージには姿を現さなかった。そして、ほとんど観客のいなくなった会場を後にして、夜の恵比寿の街並みを一人で歩いた。三日月が夜空にぽっかりと浮かんで、東京の街並みを上空から見下ろしていた。

 時刻はまだ二十三時前だった。当初の予定ではそのままサウナセンターに戻って眠ってしまう予定だったが、新宿で降りてひさびさにゴールデン街に行ってみてもいいかもしれない、と思った。「見張り塔」にもしばらく行っていなかったし、どこか落ち着けるところでさめやらない興奮をクールダウンさせたくもあった。

 ゴールデン街は海外からの観光客たちでごった返していた。私がかつて通っていたころも観光客の姿は多かったけれど、以前にもまして数が多くなっているみたいだった。私はあかるい花園三番街とネオンが光る狭い通りを観光客たちとすれ違いながら歩き、「見張り塔」という看板を見つけてビルの階段を上った。

 「見張り塔」の店内は四年前と何も変わっていなかった。カウンター席のみの薄暗く狭い店内、天井近くの棚に所狭しと並べられたレコード、カウンターの向こうではデノン製のレコード・プレーヤーの上でレコードが回転している。たったいま、天井近くのスピーカーから流れているのは、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のようだった(あのサイケデリックなアルバム・ジャケットがプレーヤーのすぐ横に立てかけられていた)。店主のジョニーさんがハンチング帽に色付きの眼鏡、花柄の赤いアロハシャツにジーンズといった格好で「いらっしゃい」と挨拶してくれる。何もかもが昔といっしょだった。

 私はいつも利用していた一番奥のカウンター席に座ろうと思っていたのだけれど、その席にはすでに先客が腰かけていた。一見してその客も海外からの観光客であるように見えた。頭頂部はほとんど禿げ上がっていたが、たっぷりとした長い白髪を左右に伸ばしていて、唇の上と顎にはそれぞれ豊かなひげをたくわえていた。細いフレームの眼鏡をかけていて、うつむいている横顔はどことなく憂鬱そうだった。かなりの高齢であるように見受けられたが、ロサンゼルス・エンジェルスの真っ赤なTシャツ(大谷翔平の背番号である17という番号があしらわれている)に濃紺のデニムパンツにニューバランスの白いスニーカーというファッションのせいか、全体の印象としては不思議に若々しく見える。とりあえず私はその老人が座っている席と少し離れた中央の席に座ることにした。そして、カウンターの向こう側のジョニーさんに「ハイネケンを一つ」と注文した。

 私はハイネケンが来るまでの間、アメリカン・スピリットを一本だけ吸っていることにした。ターコイズブルーの箱から煙草を一本だけ取り出し、ライターを近づける。私は煙を深く吸い込んで吐き出しながら、つい先ほどまでいたリキッドルームのことを思い出す。

 ジョニーさんが「お待ちどうさま」とハイネケンを提供してくれる。「見張り塔」にも再び来ることができてよかった。四年も経っているのにこの店は全然変わらない。私が病気になって地元に帰って、一年間引きこもって生活して、その後また働き始めて恋人と出会って同棲して、喧嘩をしたり仲直りしたり、色々なところに旅行をしたり毎日の生活を送ったりしている間にも、(当たり前のことだけれど)「見張り塔」もずっとここで営業を続けていたのだ。夜の八時になったら店内の明かりと外の看板に光をともして、客がやってくるたびにジョニーさんが「いらっしゃい」と挨拶をして、きっと色々な国籍の人たちが色々な夜をこの店で過ごしていったのだ。そして、四年後に再び私も「見張り塔」のカウンターで夜を過ごしている。いちばん最後に来たのは確かあおいとだったと思う。あおいとも明日、高円寺のガード下で四年ぶりに顔を合わせることになっている。

 これまでに私は色々な人をここに連れてきた。あおいはもちろん、ルル先輩とも何回かいっしょに来たし、祈りさんとも一度だけ二人で来たことがある。東京で付き合っていた恋人たちとも一回ずつくらいはいっしょに来たことがあると思う。「見張り塔」については色々な人との色々な記憶があるけれど、それでも一人で来ることがもっとも多かったように思う。少なくとも私が「見張り塔」のことを思い出すとき、記憶の中の私はつねに一人でいる。周りに常連客や観光客の人々がいることもあれば、誰も来なくてジョニーさんと話していたこともある。恐らく私のことを覚えていないだろうジョニーさんに「じつは僕、ここに来るのは四年ぶりなんです。東京に住んでいたころにいつも通っていたんです」と言おうとも思ったけれど、考え直してやっぱりやめておくことにした。

 そのとき、いちばん奥の席に腰かけていた例の観光客風の老人が「すみません、ジョニーさん」と日本語で言った。恐らく目を閉じていたらネイティブの日本語話者が喋る日本語に限りなく近いものに聞こえただろうと思う。ジョニーさんはカウンターの向こうで煙草を吸いながら、慣れた様子で「どうした?」と老人に話しかけた。恐らく常連客なのだろう。アメリカに住んでいて日本に来るたびにゴールデン街の「見張り塔」に寄るのか(ロサンゼルス・エンジェルスの大谷翔平の背番号をあしらったTシャツまで着ているのだからまずアメリカ人で間違いないだろう)、それとも東京のどこかに住んでいて週に一度くらいは「見張り塔」に来るのか、そのどちらかだろうという気がした。

「午後の死を一杯」と老人は言った。「少なくとも私はまだ、散弾銃で頭を撃ち抜いたりはしないつもりだが」

 ジョニーさんは頷いて、午後の死という変わった名前のカクテルを作り始める。私はその老人の頼んだ飲み物がアーネスト・ヘミングウェイに由来するということに気がつく。そして、思わず口を開く。

「ヘミングウェイ」

 アメリカ人の老人は不思議そうな顔でこちらを見る。一〇秒かそれくらいの間、老人はそのまま私の顔を見たままでいる。私も老人の顔をゆっくりと見つめた。私は何だかその老人の顔に見覚えがあるような気がした。

「君は小説を読むのかい?」と老人は口を開いた。

 はい、と私は頷いた。「自分で書いてもいます」

「プロフェッショナルの作家、ということ?」

「いえ、まだアマチュアです。いまは新人賞に応募しては落選してを繰り返しているところで、色々チャレンジしているところなんです」

 なるほど、というように老人は頷く。「まあ、あらゆる分野において言えることだが、芸術にプロとアマの差なんてあってないようなものだ。宮沢賢治についてはもちろん知っているだろう?」

 はい、と私は再び頷いた。

「宮沢賢治はあれほど偉大な作家でありながら、生前はほとんど評価されていなかった。死後、この国では賢治の名誉が回復して、いまでは誰もがその名前を知る存在になったが、アメリカではゲーリー・スナイダーが作品の一部を翻訳したくらいで、まだまだ知られているとは言いがたいし、ほかの国でもきっと同じような状況だろう。つまり、わたしが言いたいのは、どれほど芸術的に優れている作家がいたとしても、同時代の人間に正しく評価されるとは限らないし、仮にもし評価される瞬間がやって来たとしても、それがずっと続くというのはひどくまれな出来事なのだ、ということだ。

 だから、君もどれだけチャレンジを繰り返さなければならなかったとしても、本当に書きたいものがあるのなら、諦めずに書き続けていくといい。また、このように言うこともできるだろう。本当に書きたいことがあるのなら、どれだけの人々に評価されずに貶され続けたとしても、君は書き続けていくことができるだろう。それができたら大したものだ。ところで君はいま、どれくらいの数の小説を書いたところなんだい?」

「長い小説はすでに二つ書きました。一つはもう新人賞に落選したことがわかっていて、もう一つは来月の頭に結果がわかります。いまは別の新人賞に応募するための新しい小説を書いているところです」

 なるほど、と老人は再び頷いた。そのとき、ジョニーさんがカウンターの向こうから「お待ちどうさま」と言いながら、午後の死を提供した。老人は礼儀正しく会釈をして「どうも」と礼を言った。そして、デニムパンツのポケットからくしゃくしゃになったメビウスの箱を取り出して、一服しようとしたようだったが、どうやら肝心の煙草を切らしてしまっていたみたいだった。「もしよかったら、一本差し上げます」と私はテーブルに置いていたアメリカン・スピリットのターコイズをかかげて見せた。そして、老人の席までパッケージを滑らせた。老人は「どうも」と再び礼を言い、箱から一本だけ取り出してマッチを擦った。それから、私のもとまでアメリカン・スピリットを滑らせて返却した。「どういたしまして」と私は言った。

「昔むかし、まだ新人だという日本人の作家に対して、同じようなことを言った記憶があるんだが」と老人は午後の死をひと口すするようにして飲み、続けて煙草を吸いながら言った。「そのときの私が知らなかっただけで、その新人作家はすでにこの国では時代を切り開くはずの若者として、かなり名前を知られた存在だった。でも、新人であることには違いなかったのだから、私はいまでもいいアドバイスをしたと思っている。すなわち、作家が本当の価値を問われるのは三作目においてだ。一作目は実際に体験してきたことをそのまま書いたらいい。二作目も、一作目で身に付けた技術と想像力を使えば、たやすく書くことができるだろう。しかし、三作目になったら、もはや自分の体験と技術と想像力、その全てを使い果たしたところから書いていかなければいけない。作家にとっての本当の戦いはそこから始まるんだから、というようなことだ。悪くないアドバイスだろう?」

 そのとき、私は見覚えがあると思っていた老人の顔を完全に思い出した。そして、一つの名前を思い浮かべた。

 リチャード・ブローティガン、と私は思った。よく見てみれば、目の前の老人は『アメリカの鱒釣り』の表紙と全く同じ顔をしている。ただ、年をとって、髪がだいぶ薄くなって(白髪にもなって)、顔に皺ができて、前には生えていなかった場所に(やはり白髪混じりの)ひげを生やしているだけだ。その老人はまぎれもなくリチャード・ブローティガンその人だった。

 『不運な女』を一九九四年に発表してから、半分引退したような状態になっていたリチャード・ローティガン。故郷のワシントン州タコマで暮らしているのだとも、パリに引っ越したのだとも、東京に住んでいるのだとも言われていた。そのうちのどの情報も真偽はさだかではなかったし、あるいはとっくに亡くなっているのだと言い出す人間までいた。それくらい、ブローティガンは神話化された存在となっていたのだ。

 そのような真偽不明の霧の向こうに姿をくらましていたリチャード・ブローティガンに、ここ、東京のゴールデン街で偶然出会うだなんて、何ていう奇跡だろう。しかし、そのように隠遁者として暮らしている人間に「もしかすると、あなたはあのリチャード・ブローティガンでしょう?」と聞いてしまっていいものかどうか、私は少しだけ悩んだ。でも、この機会を逃すわけにはいかない。私は思い切って口を開いてしまうことにした。

「ミスター・ブローティガン」と私はその作家の名前を口にした。「もしかすると、あなたはあのリチャード・ブローティガンでしょう?」

「驚いた」とブローティガンは目を見開いて言った。「まだ、私の顔と名前を覚えているようなおかしな若者がいるとは。いかにも、私がそのリチャード・ブローティガンだ。もっとも、いまは詩も小説も、何一つとして書いていないから、自己同一性という意味合いにおいては、君の知っているリチャード・ブローティガンと同じ人物なのかどうか、きわめて疑わしいと思うが、そう、私の姓と名は昔と変わらずブローティガン、リチャードだ」

「お会いすることができて光栄です」と私は本物のリチャード・ブローティガンに出会えたことに興奮しながら言った。「もしよかったらなんですが、このあなたの小説にサインをいただくことはできないでしょうか?」

 そう言いながら、私はリュックサックから『東京モンタナ急行』を取り出す。ブローティガンは永井博による「Tokyo-Montana」と書かれた黄色い列車が走っている真っ青なカバー・イラストを目にして、皺だらけの顔をほころばせる。そして、「もちろん」と頷いてくれる。会話を聞いていたジョニーさんがマジックペンをこちらに差し出してくれたので、私は頭を下げて礼を言う。『東京モンタナ急行』とマジックペンを持って、ブローティガンのもとまで歩いていくと、年老いてもなお面影を残しているアメリカの詩人・作家は、私が渡した『東京モンタナ急行』のページを懐かしそうにぱらぱらとめくった。そして、何も書かれていない白い扉のページのところまで戻って、マジックペンでサインを書いてくれた。その後で思い出したように顔を上げて、「君の名前も聞いておこう」と言った。「鈴木眼鏡です」と私は答えた。ブローティガンは頷いて、サインの下に「To Megane Suzuki」と書きそえ、私に『東京モンタナ急行』とマジックペンを返してくれた。私はジョニーさんにマジックペンを返そうとしたが、「ブローティガンの使ったマジックなんてレアもんやろ。持って帰ってええよ」とこころよく言ってくれた。

 そういうわけで、いま『東京の鱒釣り』を書きつつある私のMacBookのすぐ隣には、ブローティガンのサインが書かれた『東京モンタナ急行』と本人が使ったマジックペンがお守りのように大切に置かれている。

 ちなみにブローティガンが書いてくれたサインは次のようなものだった。

 “Just describe it.”

 Richard Brautigan

 To Megane Suzuki

「ソ連の作家、イサーク・バーベリの言葉だ」とブローティガンはサインの意味を尋ねた私に答えた。「元のロシア語では正確にどういうニュアンスの言葉だったのか、正直なところ私にもわかりかねるのだが、さらに英語から日本語へと意味を翻訳するのであれば、『ただ、描写しろ』ということになるだろう。物語には偉そうな思想も意味ありげなメッセージも必要ない、ただ描写するだけでいいんだ、という。素晴らしい格言だと思わないかい?」

 はい、と私は三たび頷いた。「じつはイサーク・バーベリという作家をまだ読んだことがないのですが、いったい何から読んだらいいんでしょう?」

「バーベリは生前二作の小説で有名になった。『オデッサ物語』と『騎兵隊』というのがそのタイトルだ。どちらも素晴らしい小説だから、できればどちらも読んでもらいたい。確か日本語にも翻訳されているはずだ。一九四〇年に亡くなったバーベリにかわって、私からぜひお願いさせてもらうよ」

 それから、私たちは終電の時間が迫るまでの間、少しだけ二人で話をした。ブローティガンは私が『東京の鱒釣り』という『アメリカの鱒釣り』の題をもじった小説を書いていることを知って、楽しそうに笑っていた。その小説にはブローティガン本人も一人のキャラクターとして登場するのだ、という構想を話すと、「できるだけ、クールなリチャード・ブローティガンとして描いてくれ」と冗談めかして言っていた。「がんばります」と私は答えた。店を出る際、私はブローティガンと固い握手をした。そして、扉を開いて、階段を降りていくときに一人の老婦人とすれ違った。私たちはお互いに会釈をして、狭い空間を譲り合った。私は階段を下りていき、老婦人は階段を上がっていく。銀髪をポニーテールにしたその老婦人はブローティガンより一回りくらい若くは見えたが、年のわりにしっかりとした足取りで階段を上っていった。上品な花柄をあしらったワンピースがよく似合っていた。

 *

 ミスター・ブローティガン、こんな感じでどうでしょう?(また、東京に行った折には、あなたといつかどこかの街ですれ違えたら!)

 二日目、私は宿泊先のサウナセンターを出発して、下北沢の「古書ビビビ」に寄ったり(大江健三郎の『暴力に逆らって書く』という往復書簡集とカイエ・デュ・シネマ編集部による『作家主義』という本を買った)、新宿の「Dug」でジャズを聴きながら黒ビールを飲んだり、伊勢丹でちょうど開催されていた永井博の個展に寄ったり、高円寺の「ロスアプソン」に行ったりした。その後、ひさびさに会うあおいと高円寺駅の南口で落ち合って、ガード下の居酒屋で二人で飲み始めた。

 「見張り塔」に行ったらブローティガンがいたんだ、という話をすると、あおいは不思議そうな顔をした。

「ブローティガンって、ずいぶん前に自殺して亡くなったんじゃなかった?」

「いや、まだ生きてるんだ。本人が言うところでは、新宿の近くに住んでいるらしい」

 そう言って、私はあおいにブローティガンのサインが書かれた『東京モンタナ急行』の扉を見せた。

 太陽への加入者

 朝だ。間もなくテレタイプが始動し、東京のこのホテルも世界の事件の発生に橋のように直接接続する。

 いままだテレタイプは眠っていて、今後歴史家たちが一九七八年七月十七日として記憶することになるものをわれわれの所に届ける寸前の、最後の短い眠りを眠っているのだ。

 機械がここ京王プラザ・ホテルのロビーですやすや眠るうちにも、歴史はごく近くまで迫り、機械によって記録されるのを待っている。機械は目覚し時計に起こされることになるが、目覚し時計はリンリンと鳴るかわりに、試験中という言葉と、それに続く六個のアポストロフィ ’ ’ ’ ’ ’ ’ を、そして次のような文字を印刷することによって機械を起こすのだ──

  M

  MN

  MNN

 このあとに文字がさらに続き、その次に電信サービス機の念仏とでもいったらいいような言葉が続く──

  敏速な茶色の狐が怠惰な犬を跳び越える

  敏速な茶色の狐が怠惰な犬を跳び越える

 最初のテストパターンは次のように終了する。

  おわり調子はいかが? ’ ’ ’ ’ ’ ’ 

 目覚し時計は、最初のメッセージを五回、すなわち、敏速な茶色の狐が怠惰な犬を跳び越える、というのを十回と、おわり調子はいかが? ’ ’ ’ ’ ’ ’ を五回タイプで打ち出すことによって、機械を起こし続ける。

 するともう機械ははっきりと目を覚まし、一日を迎える態勢も整う。最初のメッセージが出てきて、ここに、機械と、太陽から三番目にある惑星地球とが、連結されるのである。

  加入者に告ぐ

  おはよう

 リチャード・ブローティガン『東京モンタナ急行』より「太陽への加入者」

 きみ(二)/パートA

 きみ:好き? 好き? 大好き?

 私:うん 好き 好き 大好き

 きみ:なによりもかによりも?

 私:うん なによりもかによりも

 きみ:世界全体よりもっと?

 私:うん 世界全体よりもっと

 きみ:わたしが好き?

 私:うん きみが好きだ

 きみとはこんなやりとりを何度も繰り返した。何度も何度も繰り返した。何度も何度も何度も繰り返した。

 私はそのたびに「きみのことが好きだ」ということを伝えようとして、一〇〇〇万通りくらいの答え方で答えたものだった。きみは私が自分のことを好きだということについてひと通り納得して初めて、ようやく眠りにつくことができるのだった。きみには数えきれないほど「好きだ」と言ったものだったけれど、もっと、もっともっと、もっともっともっと言ってあげられたらよかったんだ、と全てが遅くなってしまったいまになって思う。

 でも、もうきみは私に「好き? 好き? 大好き?」と聞くことはないのだ。何故なら、もうきみは私のもとからいなくなってしまったから。

 一泊二日の東京旅行から帰ってきたとき、きみはまだ家に帰ってきていないみたいだった。あれ、と私はもぬけのからみたいなアパートのリビングを見渡して不思議に思った。きみに何回連絡をしても返事はなかった。私はきみの妹に連絡をしてみた。きみの妹によれば「花はいま、ものすごく体調が悪くて、そちらに帰ることは難しい」ということだった。そのまま一週間という時間が過ぎた。私はいつものように仕事に行って、いつものようにアパートに帰ってくる毎日を過ごした。生活からきみの姿が消えてしまって、きみのいたはずの空間には黒い影だけが漂っているように感じられた。

 やがて二週間が過ぎようとしていた日曜の深夜のこと、再びきみの妹から連絡があった。初めはきみの妹が言っていることを信じられなかった。信じたくなかった。でも、信じないわけにはいかなかった。そう、確かにきみはいなくなったのだ。この世界から、あの世界へ。

 花、僕はいま、きみなしでどう生きていけばいいのか、わからずにいる。

 きみ:ほんとうに 好き? 好き? 大好き?

 「イントロダクション」から「きみ(二)」までを読んでのきみのモデルになった人物の感想

 きみっていうのは私のこと? うん、あおいさんとかルルさんとか祈りさんとか、ほかの人たちも**くんの実際の話を聞いたことがあったから、それぞれの登場人物にモデルがいるってことはすぐにわかった。あおいさんが**さんで、ルルさんが**さんで、祈りさんが**さんでしょう?

 それと断章形式っていうこの書き方、いままででいちばん**くんに合っているんじゃない? 『日本語は絶滅しました』や『新世紀探偵』を最初に読んだときは「描写が足りない」、「もっとディテールにこだわった方がいい」とかって言ってたと思うんだけど、この書き方だったら描写はこれぐらいがちょうどいいんだと思う。いままででいちばん読みやすい。本当に**くんの書き方とこの断章形式ってスタイルが合っているんだと思う。

 新人賞に向いてるかどうかってことになるとよくわからない。『東京の鱒釣り』みたいなタイプの私小説って、すでに小説を何作か書いてるプロの作家が書いてこそおもしろいものなんじゃない? 厳しいことを言うようだけど、最終選考に残るかどうかは正直微妙かもしれない。

 ただ、賞とか関係なしに私はすごくいい小説だと思った。特に主人公とブローティガンがだんだん共鳴しだすところがおもしろい。きっと私以外の読者もそこがおもしろいと思うんじゃないかって気がするし、「私にとってのブローティガンって誰だろう?」なんて想像してもらったりしたら、きっと他の読者の人たちもおもしろく読んでくれるはず。

 肯定的なことばっかり言っていてもあれだから、否定的なコメントも残しておくけど、まず一回読んでみて思ったのが、やっぱり引用が多すぎると思う。物語に直接関わってくるリチャード・ブローティガンやイサーク・バーベリの引用についてはいいとしても、大江とかゴダールとか、そのほかの小説や音楽や映画や美術の引用って本当に必要なの? ってちょっと思っちゃった。このままだとあまりにもスノビッシュっていうか、ただ単に知っている固有名詞を羅列しているだけみたいに感じられちゃうかもしれない。

 それから、きみってキャラクターについてのストーリーがあまりにもぼやけているというか、たとえば「きみ(二)」って章でいきなりきみが死んじゃったことが明かされるわけだけど──死んじゃったって解釈で合ってるかどうかはわからないけど──あまりにも突然すぎるっていう印象は否めなかった。ここは第二稿でちゃんと書き直した方がいいんじゃない?

 でも、それ以外の部分は本当におもしろかったと思う。こころの底から。第二稿も楽しみにしてます、先生!

 ……ねえ、そういえば一つだけ聞いておきたいんだけど、さすがにこの私の感想は『東京の鱒釣り』には書かないでしょう?

 きみ(二)/パートB

 きみ:好き? 好き? 大好き?

 私:うん 好き 好き 大好き

 きみ:なによりもかによりも?

 私:うん なによりもかによりも

 きみ:世界全体よりもっと?

 私:うん 世界全体よりもっと

 きみ:わたしが好き?

 私:うん きみが好きだ

 きみとはこんなやりとりを何度も繰り返した。何度も何度も繰り返した。何度も何度も何度も繰り返した。

 私はそのたびに「きみのことが好きだ」ということを伝えようとして、一〇〇〇万通りくらいの答え方で答えたものだった。きみは私が自分のことを好きだということについてひと通り納得して初めて、ようやく眠りにつくことができるのだった。

 一泊二日の東京旅行から帰ってきたとき、きみはベッドで眠りについていた。寝室のカーテンの隙間からは新しい朝の光が差し込んできていて、きみの顔を照らしていた。私はリュックサックとバッグを床に下ろして、ブランケットを被ったきみの隣にもぐりこんだ。きみは言語以前の寝言をつぶやいて、私とは反対側の壁の側へ寝返りを打つ。私はきみを背中の側からだきしめて、ゆっくりと目をつぶる。もうすぐにでも眠りはやって来そうだった。好きだよ、と私はつぶやく。きみは再び、言語以前の寝言でそれに答える。

 まどろみの中で、私はきみと出会ってから今日までのことを思い返していた。〈来週、熱海に行かない?〉という一通のメッセージから全ては始まった。それから、私たちは一泊二日の熱海旅行に行き、一週間後には付き合い始め、すぐに同棲することになり、数えきれないほどの仲違いと仲直りを繰り返しながら、今日という一日まで関係を続けてきた。きみと出会うことができたのは、私の人生にとってもっともいいことの一つだった、と思う。

 花、僕はいま、きみのいない人生をうまく想像することができずにいる。

 ケチャップの章へのプレリュード

 グレゴリー・ベイトソン『精神と自然 生きた世界の認識論』より「一九七七年六月の時点で、私は二つの原稿の執筆にとりかかっていた。その一つは『進化する観念(イヴォルーショナリー・アイディア)』、もう一つは『誰もが学校で習うこと』と呼んでおり、別々の本になる予定だった。最初の構想はサイバネティクスと情報理論に照らして、生物進化を再検討しようというもので、そこから『進化する観念』を書きだしたのだが、いざ書いてみると、いったいどれだけの読者が、私の論の形式的な(つまりもっとも単純な)前提についてきてくれるのか、心許なくなってきてしまったのである。アメリカでもイギリスでも、おそらく西欧文化圏のどこでも同じだろうが、学校教育は真に重要な問題を扱おうとはしない。根本的な問題は注意深く避けて通る。そのことを痛感した私は、もう一冊別の本を書かねばなるまいと決心した。進化に限らず、朝食の摂取に始まる日常の生活、つまり生物的・社会的事象に関して、対象に密着した論を展開するのには、どんな考えを基本に据えなくてはならないか、そのことをまず明らかにしておくことの必要を改めて認識したわけである。現行の教育は、海岸で、レッドウッドの森で、砂漠で、草原で、どんな営みがどのようなしくみによって動いているのか、まったく教えていないに等しい。エントロピーのこともサクラメント(聖跡)のことも、それら基本の概念について、子はおろか親たちも、満足な説明を与えられないのが実状なのだ。文法構造とは何なのか? 数とは? 量とは? パターンとは? リニア(線形)な関係とは? 名前とは? 集合とは? 関連とは? エネルギーとは? 情報重複とは? 力とは? 確率とは? 部分とは? 全体とは? 情報とは? 同義反復とは? 相同とは? 物理学でいうマス(質量)とは? カトリックでいうマス(ミサ)とは? 説明とは? 記述とは? 次元の規則とは? 論理階型とは? 隠喩とは? 位相とは……? 蝶とは何であるのか? ヒトデとは? 美しいとは? 醜いとは?

 ここで私の人間的欲求を表現すれば、──私はずっと、ケチャップという言葉で終わる本を書きたいと思っていた。

 ケチャップの章

 ばあば〈今日はじいじの三回忌に来てくれて、どうもありがとう〉

 ばあば〈ひさしぶりにみんなで集まって、**の顔も見られて〉

 ばあば〈カニも食べられてよかったです(Emoji)〉

 ばあば〈今日は疲れました。早く起きたから、大変でした〉

 ばあば〈明日からもお仕事、がんばってください。それでは、〉

 ばあば〈では、おやすみなさい〉

 ばあば〈そういえば、前に言っておいたあれのこと〉

 ばあば〈今日、**に渡そうと思っていて、忘れてしまいました〉

 ばあば〈ばあばも、本当に、ぼけちゃったのかもしれません(Emoji)〉

 ばあば〈へいんずの、ケチャップ〉

 『東京の鱒釣り』参考文献

 イサーク・バーベリ - Wikipedia(英語版・日本語版)

 イサーク・バーベリ『騎兵隊』

 中村唯史『『騎兵隊』論:その成立過程と構造について』

 リチャード・ブローティガン『東京日記』『東京モンタナ急行』

 藤本和子『リチャード・ブローティガン』

 グレゴリー・ベイトソン『精神と自然 生きた世界の認識論』

 R・D・レイン『好き? 好き? 大好き?』

 デレク・ハートフィールド『冒険児ウォルド』シリーズ(全四十二篇)

 「詩の学校」

 岩波国語辞典 第七版 新版(西尾実・岩渕悦太郎・水谷静夫 編)

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 私がいままでに読んだ小説、聴いた音楽、観た映画、行った美術展、読んだマンガ、観たアニメ、インターネット、テレビ、ラジオ、雑誌の全て

 きみ

 それから、あなた

 二〇二三年十月某日 午前三時一分三十三秒(おそらく) 脱稿

 鈴木眼鏡(@qcuekew)

(『東京の鱒釣り』 完)

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