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新世紀探偵(10:Somewhere over the rainbow)

Somewhere over the rainbow, way up high. There’s a land that I heard of once in a lullaby(虹の向こう 高い空のどこかに かつて子守歌で 聞いた国がある)



 1939年のジュディ・ガーランドが『オーバー・ザ・レインボウ』を歌う声で私は目を覚ました。どうやら私はBMWの助手席に座ったまま、かなり深い眠りについていたようだった。変な姿勢で眠っていたせいで、身体中が痛かったし、ひどく凝り固まっていた。ジュディ・ガーランドの清らかな歌声はBMWのカーステレオから流れているようだった。そして、私は夢を見ながら泣いていたらしい(さっき流したばかりの涙が頬をつたっていくのがわかった)。私は助手席のシートに座り直すと、首都高速を走り続けるBMWを運転するミネコ・サカイの横顔を見た。

「もうすぐ熱海に着くころか?」

「もうすぐ熱海に着くころか?」とミネコ・サカイは呆れたように私の言葉を繰り返した。「探偵さん、夢はもう終わってここは現実の世界よ。トキオ・シティまではもう少しだけかかるから、それまで眠っていてもいいわよ」

「トキオ・シティ!?」と私は一瞬ミネコ・サカイの言葉を聞き間違えたのかと思って大きい声を出してしまった。「悪い冗談はやめてくれ。いまから熱海に行くところだろう?」

「探偵さん、本当に何を言っているのよ?」とミネコ・サカイはサングラスを頭の上にずらして、一瞬こちらを見た。とても冗談を言っているような顔ではなかった。「寝ぼけすぎて一時的な記憶喪失にでもなったわけ? もうとっくに冒険活劇は幕を閉じているわよ。後部座席を見てみなさい」

 ミネコ・サカイに言われた通り、私は後部座席を見てみた。制帽のような黒い帽子、さらさらとした亜麻色の髪の毛、ぐっすりと眠りについてわずかに微笑みを浮かべている顔。コットン地の白いブラウスにサスペンダーの付いた黒いスカート、レースで縁取られた白いソックスに革製の黒いバレエ・シューズ。つぐだ、と私は思った。つぐは後部座席にもたれかかって、すやすやと眠りについているようだった。

「ミス・サカイ、申し訳ないんだが」と私は前方に向き直って言った。ジュディ・ガーランドはまだ『オーバー・ザ・レインボウ』を歌い続けていた。「何が何やら全くわからない。説明してくれ」

「本当に何にも覚えていないの?」とミネコ・サカイは驚きを隠せないようだった。

「本当に何も覚えていない」と私は正直に答えた。

「やれやれ」とミネコ・サカイは頭を横に振った。そして、少ししてから「わかったわ。南熱海での血湧き肉躍る冒険活劇をもう一度ダイジェストで説明してあげる。それで構わない?」と言った。

「よろしく頼む」と私は言った。「どうやら物語のクライマックスで眠ってしまって、いちばん大事なところを見逃したみたいだから」



「南熱海に到着した私たちはまっすぐに原発を目指した」とミネコ・サカイは話し始めた。「原発の中に潜入するのは簡単だった。車で正面ゲートの前まで行って、身分証の確認をしに来た二人組の警備員のiSeeをちょっとクラッキングしただけ。私たちを政府のお偉いさんだと勘違いした警備員たちは私たちに銃床で頭を殴られて気絶させられた。私たちはそのまま警備員の制服を拝借して、正面から原発へ足を踏み入れた。私はクラッキングした警備員のiSeeから原発の内部マップを抜き取って、地下の研究所なんかにつながる不自然な経路がないか探してみた。すると、どう見ても不自然な場所に職員用の男女共用トイレがあるのを発見した。私たちはそのトイレまで行って、全ての個室の便器をくまなく調べた。全ての個室の便器が何やら不自然であることがわかった。私はiSeeを使って、便器を隅々までスキャンしてみた。結果、便器そのものが可動式のエレベーターみたいな装置になっていることを発見した。私たちはそれぞれ隣り合った個室の便器に座った。それから合図を送ると、私は便器の内部回路をクラッキングして、エレベーターのスイッチを作動させた。すると便器は緩慢なスピードで、床に沈んでいくようにして下降を始めた。そのままずっと奥深くまで下がって、気が遠くなってきたころにようやく地下のどこかに到着したみたいだった。扉が開くと、私は腰かけていた便器から立ち上がって、外に出た。すぐ隣からあなたも出てきた。そして私たちは目の前の光景に目を見張った。

 そこは私たちが想像していた通り、巨大な研究施設だった。たくさんの研究員らしき人たちが通路を行ったり来たりしていた。イッセイ・スズキが盗み聞きした『熱海のラボ』というのはその施設のことだった。警備員の振りをした私たちは、そのままつぐちゃんを捜索することにした。研究員たちは誰も私たちのことを気に留めなかったから、私たちはラボの怪しそうな場所を次々と捜索した。研究室のドアの一つ一つには番号が振られていたけど、そこが何を研究している部屋なのかはどこにも書いていなかったから、まさに手当たり次第の捜索だった。でも、私たちはなかなかつぐちゃんを見つけることができなかった。そして、そのときあなたがミスを犯した。さっきも一回開けた研究室のドアをまた開けてしまった。研究員たちはそこでようやく私たちが本物の警備員ではないことに気がついた。そしてラボ中で警報が鳴り響き始めて、私たちには一刻の猶予もなくなった。私たちは気の弱そうな研究員を人質にとって、急いでつぐちゃんの捜索を再開した。

 そのとき、あなたはいきなり叫んだ。以前夢の中でつぐちゃんが口にしていた『Not Found』という言葉の意味がわかったと言った。『HTTP404!』とあなたは大声で言った。『404号室はどこにある?』とあなたは人質にした研究員に尋ねた。研究員はなかなか答えなかったけど、あなたが『銃床で顔の形が変わるまで殴ってもいいんだ』と脅迫して、実際に一回だけ鼻を殴りつけると、研究員は鼻血を流しながら404号室の場所を吐いた。そこは研究員の生体認証がないと入室できないようになっている場所だということだった。私たちは『鼻が折れた!』と騒いでいる研究員を無理やり引っ張っていって、404号室を開けさせた。

 404号室は手術室のような場所だった。中央のベッドにはつぐちゃんが拉致されたときのままの格好で寝かされていた。つぐちゃんの頭には色々なコードが繋がっていて、どうやら睡眠薬で眠らされているようだった。あなたが推理したように、つぐちゃん拉致の目的は本当にオッペンハイマーの箱のようだった。はたして、そこでつぐちゃんの深層意識からオッペンハイマーの箱が取り出されたのかどうかは私たちにはわからなかった。でも、とにかく私たちはつぐちゃんを連れて帰ることにした。眠り続けているつぐちゃんはあなたが背負っていくことになった。鼻血を出し続けている研究員は私がもう一度殴って気絶させた。

 再びエレベーター装置を使って、私たちは地上フロアまで上昇していき、地上階に着くと私たちはもうがむしゃらに外へ向かって走っていった。でも、そこにはあのコメディアンたちのがあって、私たちのことを待ち構えていた。

 コバヤシとカタギリは私の愛車に寄りかかりながら、拳銃を私たちにつきつけ、『そのガキを引き渡せ!』と言った(どうせカタギリが同じことを復唱したんだろうと私は想像した)。

『お前らのクライアントは誰なんだ?』とあなたは突然叫んだ。

『フィクサーとだけ言っておこう!』とコバヤシは言った。『名前は言えないが大物中の大物だ! 裏社会の人間はもちろん政治家や警察の連中も名前を聞いただけで縮み上がるようなお方だ! チャイニーズ・マフィアやロシアン・マフィアのキンタマだってしっかり握っている!』

『フィクサーとだけ言っておこう!』とカタギリは言った。『キンタマをしっかり握っている!』

『それでそのフィクサーとやらがお前らに支払う報酬はいくらなんだ?』とあなたは続けて聞いた。私はいまのこの状況でどうしてあなたがそんなことを殺し屋たちに聞いているのかよくわからなかった。

『それがお前に何の関係がある!?』とコバヤシは言った。『それがお前に何の関係があるんだ!?』とカタギリも言った。

『実は私たちを雇っているのも大物なんだ! しかも超大金持ちだ!』と私はコバヤシとカタギリに言った。『報酬は──』

 続けてあなたは報酬の具体的な金額をコバヤシとカタギリに叫んだ。コバヤシとカタギリは顔を見合わせた(私もキタロー・ユカワ教授があなたにそんなに報酬を支払うつもりだなんて聞いていなかったからびっくりした)。コバヤシとカタギリの反応を見たあなたはすかさずこう言った。

『お前たちがもしいまここで私たちを見逃してくれるなら、この報酬を全部譲ってもいい! フィクサーとやらはどうせお前たちに小遣い程度の報酬しか約束していないんだろう? お前たちほど見込みのある殺し屋を雇っておきながら、何てけち臭い野郎だ。私もC級探偵だから新人の殺し屋のお前たちの気持ちはよくわかる。上の人間には下の人間のことなんて全然わからないんだ。それがこの腐った社会のシステムなんだ。資本家もフィクサーも全員くそくらえだ! お前らもそう思うだろう?』とあなたは言った。私は隣でその話を聞きながら、よくそんな口からでまかせをすらすらと言えるものだと感心していた。でも、いくらコバヤシとカタギリとはいっても、そんないかにも嘘みたいな話を信じるわけがないだろうとも思った。

『いいだろう!』とコバヤシが言ったとき、私は思わず笑いだしてしまうところだった。でも、プロフェッショナルとして何とかこらえた。『その話に乗ってやる! だが、本当にお前が報酬を全額譲るという保証はどこにある?』

『キリストとブッダにまとめて誓ってもいい。それから天国にいる猫のマオ・マオにも誓う』とあなたは言った。『必ずお前たちに報酬を譲ると約束する。いま銀行の口座番号を教えておいてくれ』

 コバヤシとカタギリは銀行の支店名と口座番号をその場でそれぞれ叫んだ。あなたは頷いた。二人はすっかりあなたの話を信用したようだった。コバヤシとカタギリはそのまま私たちとつぐちゃんがBMWに乗り込むところを眺めて、最後に発進するときに手を振って見送りまでしてくれた。あなたもコバヤシとカタギリに手を振った。そして二人の姿がはるかかなたに遠ざかってしまうと、あなたは私に向かって『君の言う通りだ。あの二人は殺し屋なんかよりコメディアンに転職した方がいい』と言った。私はハンドルを握りながら声を上げて笑った。ミラーで後部座席を確認すると、何だか眠り続けているつぐちゃんまで微笑んでいるようにすら見えた。ジ・エンド。

 これが私とあなたの血湧き肉躍る冒険活劇のダイジェスト版。どう? 思い出した?」

「何となく」と私は言ったが、本当は何も思い出してなどいなかった。私には何が現実で何が非現実なのか、もう何一つとしてわからなかった。

 しかし、よく考えてみれば(あるいはよく考えてみるまでもなく)、私は元々虚構の物語に登場する虚構の登場人物なのだ。何が現実で何が非現実なのか、わからないのが当たり前だという気もする。へたに第四の壁なんかを超えてメタフィクショナルになるから頭がおかしくなるのであって、虚構の中にとどまっていればいい話なのだ。そういうわけで、私はこれからメタフィクショナルになるのはひかえることにして、いかにも虚構の登場人物らしくふるまうことにする。もうすぐこの物語も幕を閉じるが、ここまで私のほら話に付き合ってくれた親切かつ寛大な読者のみなさんにはあらためて御礼申し上げる。この物語を読み終えて、頁を閉じて、ひと息ついたら、どうかこの本を捨ててくれ。電子書籍で読んでいるなら、即刻ライブラリーから削除してくれ。主人公の私が言うのも何だが、この物語には芸術的価値があるわけでもない。あるいは教訓があるわけでもない。昔なら三流雑誌の片隅に掲載されていたような、くだらないパルプ・フィクションに過ぎない。読み返すような価値は全くない。『新世紀探偵』を読み返す時間があるなら、もっと古典を読んだ方がいい。古典と言われても何を読んだらいいのかわからないという読者は、ぜひ私のおすすめの作家たちを読んでもらいたい。リチャード・ブローティガン、レイモンド・チャンドラー、カート・ヴォネガット、H・P・ラヴクラフト、ライマン・フランク・ボーム。どれも素晴らしい作家たちだ。このアドバイスをもって、私から読者諸兄への別れの挨拶とさせていただく。いいね?



 「新世紀探偵」本社は歌舞伎町セントラルビルの14と1/2階にあった。つまり14階と15階の間にあるということだ。行き方としてはまず普通にエレベーターに乗り込む。それからパネルの中の14と15というボタンを同時に押す。1階、2階、3階、4階、5階、6階、7階、8階、9階、10階、11階、12階、13階、14階、15階とボタンのバックライトが光っていく中で、14階と15階が同時に光る場所でエレベーターが音を立てて止まる。そしてエレベーターの扉が開くと、そこには大人一人がようやく通れるような排気口くらいの大きさの通路──通路というよりは四角い穴と言った方がいい──がコンクリートの壁の中に開いている。私とミネコ・サカイは続けてその排気口みたいな通路に身体をつっこんだ。気送管で送られる郵便物のように、圧縮された空気の圧力によって、一瞬にして私たちは「新世紀探偵」の本社オフィスへと転送される。そして、次の瞬間には、柔らかい赤いカーペットの上に身体ごと投げ出されることになる。私とミネコ・サカイはスーツに着いた埃を払いながら、立ち上がった。ミネコ・サカイはどうか知らないが、私の方は本社に来るのはひさしぶりだった。

 今日、私とミネコ・サカイがわざわざ「新世紀探偵」本社にやって来たのは、社長じきじきに呼び出しがあったからだった。キタロー・ユカワ教授による、今回のつぐとオッペンハイマーの箱をめぐる依頼について、直接報告してもらいたいとのことらしい。私たちは受付のマリリンのところに行って、社長とのアポをとっている者だと言った。

「かしこまりました。少々お待ちください」とマリリンは言った。本当にマリリンはマリリン・モンローそっくりに作られていた。ひと昔前のアメリカのキャビンアテンダントみたいな、スカイブルーの制帽と制服を身に付けている。AIロボットだと知らなければ、本当の人間そのものみたいに見える。マリリンは少しの間、どこかと通信していたようだったが、やがて再び口を開いた。「お待たせいたしました。ご案内いたします」

 マリリンが迷いなく歩いていく後ろから、私とミネコ・サカイは赤いカーペットの上を歩いて行った。「新世紀探偵」本社にはさまざまな人々の姿があった。トレンチコートにハットという格好で紙コップのコーヒーを片手に談笑しているS級探偵たち(恐らく直近の依頼で挙げた自分の功績を自慢し合っているのだろう)、ほかのマリリンに向かって何かを抗議しているクライアントらしきビジネスパーソンらしい中年の人物(恐らくうちの探偵がへまをしでかしてクレームを言いにきたのだろう)、A級探偵に向かって大声で話し続けている裕福そうな身なりの老夫婦(恐らく遺産相続を巡っての何かしらのごたごただろう)、B級探偵といっしょに歩いているタトゥーを彫った若い青年(恐らくドラッグの売人だろう)。マリリンと私とミネコ・サカイはそのような人々の間を縫うように歩いて、社長室へと向かっていった。やがて社長室の前に着くと、マリリンはドアを二回ノックした。唸り声とも何ともつかないような返事が返ってくると、「失礼します」と言いながらマリリンは社長室のドアを開いた。私たちが社長室の中へ進むと、マリリンは深く礼をして、音を立てずにゆっくりとドアを閉めた。

 社長はずいぶん激高しているようだった。それもそうだろう。何しろ私とミネコ・サカイは政府を敵に回してしまったのだ。口ひげを生やした豚のような顔を真っ赤にし、でっぷりと肥え太って肩から吊るしているサスペンダーがちぎれそうになっている身体を震わせ、私たちをさんざん叱責し続けた。バカだのアホだのタコだのイカだの色々なワードが聞こえてきたが、私もミネコ・サカイも何も言い返さず、ただ黙って社長の動く唇を見ていただけだった。私は私で社長の言っていることを何も聞いていなかったし、隣にいるミネコ・サカイもミネコ・サカイで、まじめな顔で聞いている振りをしてはいるが、恐らく何も聞いていないだろうということがわかった。何しろ全てはキタロー・ユカワ教授と日本政府の間で起こったことなのだ。本来であれば私にもミネコ・サカイにも何の責任もない話なのだ。やれやれ、と私は天井を見上げながら、社長にばれないように目を開けながら居眠りした。

 つぐとオッペンハイマーの箱をめぐるこの冒険活劇の発端は、キタロー・ユカワ教授と日本政府の間の取引によるものだった。キタロー・ユカワ教授はつぐの深層意識の中にオッペンハイマーの箱があることに気が付き、「トキオ計画」時代に仕事をしたことがあった政府の官僚に相談を持ちかけた。旧友の隠し子の保護者であるキタロー・ユカワ教授としては、オッペンハイマーの箱などという大量破壊兵器にもひとしいものがつぐの中にあるという状況は確かに気が気ではない状況だっただろう。キタロー・ユカワ教授から相談を持ちかけられた官僚は「防衛省に知り合いがいるから相談してみる」と言い、その話は防衛省へ回されることになった。そこから防衛省のトップである大臣の知るところになるまでには大して時間はかからなかった。大臣はオッペンハイマーの箱の話を聞くと、いかにも政治家が考えそうなよこしまなアイディアを思いついた。それはつぐから取り出したオッペンハイマーの箱を軍事転用して、自衛隊に保有させることにより、いまだに世界の裏側で暗躍している中国やロシアに対する抑止力としようというものだった。おまけにつぐから取り出したオッペンハイマーの箱を複製することができれば、アメリカを始めとした世界の先進国の軍隊や民間の軍事産業に法外な値段で売りつけることができる。オッペンハイマーの箱の話はまたたく間に永田町のあらゆるところで囁かれるようになり、首相のところに話が行くまでにはそのような利権と欲望にまみれたプランが出来上がっていたというわけだった。首相は「君に全て任せる」と防衛大臣にオッペンハイマーの箱に関するプランを一任した。防衛大臣は南熱海原子力発電所の地下にある軍事研究所(熱海のラボ)で、つぐからオッペンハイマーの箱を取り出し、複製しようとした。しかし、既存の技術ではどのようにしてもオッペンハイマーの箱を取り出すことはできなかった。そこで東京拘置所に収監されていたミスター=イッセイ・スズキのクラッキング技術に目星がつけられたというわけだ。政府はつぐの保護者であるキタロー・ユカワ教授にイッセイ・スズキのクラッキング技術を応用することを相談したが、もちろんオッペンハイマーの箱の軍事転用などということは一言も言わなかった。

 東京拘置所を訪ねた防衛省の官僚とキタロー・ユカワ教授は、イッセイ・スズキの減刑を約束することと引き換えに、クラッキング技術の詳細を知ることになった。熱海のラボでイッセイ・スズキの技術が応用され、つぐの深層意識からオッペンハイマーの箱が取り出されたとき、そこに立ち会っていたキタロー・ユカワ教授はすぐにつぐを連れ帰ろうとした。しかし、研究員たちが「オッペンハイマーの箱を複製するためには、まだお子さんが必要になるかもしれませんから」などと言って、キタロー・ユカワ教授を押しとどめた。そのとき、日本政府の真の思惑を知ったキタロー・ユカワ教授は「絶対に複製などしてはいけない」と研究員たちに言った。しかし、すぐに警備員がやって来て、キタロー・ユカワ教授は研究所から追い出されてしまった。つぐがいつ帰ってくるのかも知らされないまま、日本政府はキタロー・ユカワ教授とのコンタクトをシャットアウトした。そこでキタロー・ユカワ教授は私とミネコ・サカイにつぐ捜索を依頼することを思いついたのだ。

 しかし、キタロー・ユカワ教授は私にもミネコ・サカイにも本当のことを話さなかった。それは私とミネコ・サカイを保護するためだったのか、政府に裏切られて疑心暗鬼になっていたためだったのか、あるいはその両方だったためかもしれない(と私とミネコ・サカイは推測した)。もし、私とミネコ・サカイに真実を話してしまったら、政府は特定秘密保護法やら何やらを持ち出して、すぐに私たちを抹殺しようとしただろう。あるいは秘密を知った私やミネコ・サカイがいつ政府側に寝返るかもわからない。そういう意味で相互監視が機能するように私とミネコ・サカイにバディを組ませた面もあったのかもしれない(とやはり私とミネコ・サカイは推測した)。

 しかし、私とミネコ・サカイの動きを見て、オッペンハイマーの箱の軍事転用については私たちが何も知らないということを理解した日本政府は、ひとまず私たちのことを取るに足らない存在と見なすことにした。どのみち私とミネコ・サカイが真相にたどり着くころには、政府はオッペンハイマーの箱の複製に成功し、軍事研究所も引き払って、全ては闇の中に葬り去られていることだろう。だが、政府はいささか私とミネコ・サカイを見くびりすぎていたようだ。政府の予想に反してわずか一日で真相にたどり着いてしまった私たちは、あっという間に南熱海原発=熱海のラボへと向かって、つぐの奪還に成功してしまった。ただ、私もミネコ・サカイもつぐから取り出されたオッペンハイマーの箱がいまどこにあるのかまではわかっていない。恐らくまた別の場所に移管されて、複製の研究が続いているのだろう。

 南熱海から戻ってきた私たちがつぐをキタロー・ユカワ教授のもとに送り届けた翌日、二人は早々に国外へ脱出した。いったい海外のどこへ亡命したのかは私にもミネコ・サカイにも知らされなかった。でも、二人のためにはその方がいいのだろう。一週間後、私は銀行口座を確認して「ホーリー・シット!」と叫ぶことになった。本当にギャツビーが小金持ちに見えてしまうくらいの金額が振り込まれていた。振り込み元は匿名になっていたが、それは間違いなくキタロー・ユカワ教授からの報酬だった。私はキタロー・ユカワ教授とつぐが(どことも知れない場所で)幸せに暮らしていることを祈った。

 コバヤシとカタギリからはあれ以来一度も連絡がない。恐らく仕事にしくじって「フィクサー」とやらに消されてしまったのだろう。あるいは消される前にどこかに逃げたのだろう。しかし、私は恐らく後者だという気がした。これはあくまでも私の探偵としての直感に過ぎないが、あのコメディアンたちにはまたどこかで出くわすような予感がしたからだ。

「社長」とミネコ・サカイはまだ何かを言い続けていた社長の話を突然さえぎって口を開いた。社長はびっくりしたように目を見開いて黙った。権力者にありがちなことだが、自分の話をさえぎられることに慣れていないのだろう。ミネコ・サカイは微笑みを浮かべながら「私、本日付けでこの会社を退職させていただきます。いままでお世話になりました」と言った。

「社長」と私もミネコ・サカイに続いて口を開いた。社長は目を見開いたまま、私の顔に視線を移動させた。「私も本日付けで『新世紀探偵』を退職いたします。いままで色々とお世話になりました。特に私が汗水垂らして働いて得た報酬から、いつも『手数料』などという名目でごっそり給料を中抜きしていただいたことは感謝してもしきれません。まあ、C級探偵ごときが一人いなくなったところで、社長には何の関係もないことでしょうけど、一応ご報告まで。どうかこれからも政府に忖度する、持続可能な企業であり続けてください。御社の今後のますますのご健闘とご発展をお祈りします。それでは」

 社長が口をぱくぱくさせて何も言えないでいる間に、私とミネコ・サカイはさっさと社長室から出ていった。ドアが閉まった後の社長室からは机をどんどんと拳で叩く音と、社長が声にならない悪態をついている音が聞こえた。私とミネコ・サカイは「社長室」と書かれたドアに向かって中指を立て「くそくらえ」と言った。



 社長室から受付に戻る間の通路で、ミネコ・サカイと歩いていた私は後ろから誰かに名前を呼ばれた。私はその声に振り向いた。そこには高級そうなスーツにがっしりとした身体をつつんで、細いフレームの眼鏡をかけた人物がいた。

 「W」と私は言った。Wもいかにも人当たりのよさそうな微笑みを浮かべながら「やっぱり君だ」と言ってこちらに近づいてきた。私はミネコ・サカイの方を見て「古い知り合いだ」と紹介した。Wとミネコ・サカイはいかにも初対面の人間がするような挨拶を交わした。

「偶然だ」とWは私の顔を懐かしそうに見ながら言った。「仕事の関係でここに用事があってね。君はいま『新世紀探偵』で働いているのか?」

「ついさっき辞めてきたところだ。こちらのミス・サカイも」と私は答えた。

 Wは一瞬話がよく見えないという顔をしたが、私とミネコ・サカイの辞職については深く触れないことにしたみたいだった。それから「突然で悪いんだが、偶然ついでに少しだけ時間をもらえないか? ずっと君に話しておきたいと思っていたことがあったんだ」と言った。

「どうせMのことだろう」と私はすかさず言った。「そのことなら、もう知っているからいい」

 Wは驚きを隠せないようだった。しばらく私の顔を見つめた後で「誰から聞いた?」と尋ねた。

「Mから聞いた」と私は何でもなさそうに答えた。「もう、いいんだ。Mとのことも君とのことも、私にとってはもう全部過ぎ去ったことだ。いまの私には、もう何の関係もない。君の方も君の方でどうやら元気にやっているみたいでよかった。今後もどうか幸せに生きていってくれ。

 ところで悪いんだが、この後ミス・サカイと食事をする予定があるんだ。ほら、麻布十番の『サンチョ・パンサ』。地中海料理が有名なレストランだ。なかなか人気の店で、予約をとるのもやっとだった。もし遅れてしまったら、せっかくの苦労がムダになってしまう。というわけで、もう時間がないので、このあたりで失礼する」

 私はミネコ・サカイの顔を見て「行こう」と言った。ミネコ・サカイは頷いた。Wはいったい何が何だかわからないという顔でそこに立ちつくしていた。私たちは赤いカーペットの上を歩いて、そのまま「新世紀探偵」本社を後にした。ミネコ・サカイがいつものように愛車をぶっ飛ばしてくれれば、どうにかこうにか地中海料理にはありつけそうだった。

 もう、いいんだ。私はBMWの助手席に座ってシートベルトを締めながら、声には出さずにそう言った。ミネコ・サカイが車のエンジンをかけた。



 それから一年の月日が流れた。



 「新世紀探偵」を辞めた私は私立探偵として働いていた。ライセンスはもうない。どこの組織にも所属しない、完全個人経営の私立探偵だ。事務所はおなじみ、宇田川町のタワーマンション25階の一室。「巧い! 安い! 早い! どんな依頼も一日あたり一万円で承ります! ご相談はもちろん無料!」というキャッチコピーを付けて、インターネットのあちこちに広告を出していた。しかし、私のところにやって来るような依頼というのは、相変わらず配偶者の浮気調査だとか、家出した青少年の捜索だとか、万引きGメンだとか、害虫の駆除だとか、そういった種類のチープなものだけだ。正直、これでは元の木阿弥もいいところだった。あるいはもしかしたらそういう星のもとに生まれたのかもしれない。もしそうなのだとしたらそれはもう仕方ない。いわゆる神の采配というやつだ。

 その日も私は金曜日の昼間から自宅のソファでくつろいでいるところだった。リチャード・ブローティガンの詩集を読みながら、ビールの缶を開け、煙草にライターを近づける。なぜ平日からこんなにもくつろいでいるのかと言えば、依頼がやって来ないからだ。そろそろ依頼が来なくなって一週間になろうとしているところだが、もう以前とは違って気持ちにはいくらか余裕があった。

 何故ならオッペンハイマーの箱をめぐる依頼でキタロー・ユカワ教授からもらった報酬がまだたっぷりと銀行口座の中に残っていたからだ。正直なところを言えば、別に私立探偵なんかやらなくても一生暮らしていけそうではあった。しかし、何故またしても探偵業なんかに携わっているのかといえば、それは(格好よく言えば)宿命というものなのだろう。それに何も仕事をせずに一生暮らしていくというのは、どうにも性に合わないみたいだ。「新世紀探偵」を辞めた直後こそ、好きなときに酒を飲み、好きなときに煙草を吸い、好きなときに本を読むという生活を送っていたが、次第に頭がおかしくなりそうになってきたので、個人経営の私立探偵事務所を開くことにしたのだった。無職で暮らしていくのにも天性というやつが必要らしい。

 ミステリー物語もしくは当世風ダシール・ハメット

 ここ東京では
 ホテルの部屋を出るときにいつも
 きまった四つのことをする
 ぼくのパスポート
 ぼくの手帳
 ペン
 そしてぼくの英和辞典
 をもっているかどうか確かめるのだ
 人生のほかの部分は完全な謎である
 東京 一九七六年 五月二十六日


 そのとき、インターフォンが鳴って、私はブローティガンの詩集を閉じた。モニターを確認すると、そこには見覚えのある人物の姿があった。

 ミネコ・サカイだった。

「御機嫌よう」とミネコ・サカイはインターフォン越しに言った。「ひさしぶりね、探偵さん」

「ひさしぶりだな、ミス・サカイ。また国家ぐるみの陰謀を巡る、血湧き肉躍る冒険活劇のお誘いか?」と私は冗談めかして言った。

「悪いけど、本当にそうなのよ」とミネコ・サカイは笑いながら言った。

「オッペンハイマーの箱の複製が中東のテロリストたちの手に渡ったという情報を得た。テロリストたちのバックには中国とロシアがいるという話もある。アメリカ政府はオッペンハイマーの箱を破壊するために、すでに極秘裏に動き始めているそうよ。このままだと日本政府もただ指をくわえて見ているだけっていうわけにはいかないでしょうね。へたをするとアメリカ同時多発テロの悲劇再び、あるいは第三次世界大戦ってことにもなりかねない。探偵さん、もう一回、私といっしょに世界を救ってくれない?」

 やれやれ、と私は思った。この次はいったい何が始まるっていうんだ?

(『新世紀探偵』 完)

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