日本語は絶滅しました(第一部:東京の鱒釣り)
「日本語が絶滅の危機!? ユネスコ発表」というネットニュースを読んで、私とネネムは顔を見合わせた。
「いろはにほへと」と私は言った。
「あかさたなはまやらわ」とネネムも続けた。
よかった、と私たちは思う。なぜなら、私もネネムも日本語以外のいかなる言語もまともに話すことができなかったから。
*
私とネネムが三軒茶屋で暮らし始めてから、もうすぐ一年になる(’20年の東京オリンピックの後で私たちは結婚したのだから、ちょうど今月で一年のはずだ)。
元はと言えば、ネネムは私の担当編集だった(正確なところを言っておくと正規の担当編集ではなかったのだけれど、その話はまた)。しかし、数年前に近未来ハードボイルド小説と銘打った『新世紀探偵』で**社新人賞を受賞してからというもの、私はいくつかの短篇を発表しただけで、しばらく長篇小説を発表できていなかったし、ネネムはとっくに**社を退社していた。それでもプライベートにおける個人的な担当編集として、ネネムはいまだに私の次回作を待ってくれている。
ネネムと結婚したのと時を同じくして、私は日本大学芸術学部の非常勤講師として「文芸創作論」を受け持つようになった。仕事を紹介してくれたのは、私の前に講義を担当していた鈴木だった。鈴木は私と二人で**社新人賞を同時受賞した作家で、しばらく日芸の非常勤講師として働いていたのだけれど、近著がベストセラーになって作家業が忙しくなってきたので、後任の講師として私を推薦してくれたのだった。結婚してからというもの、私たちはつねに生活に困窮していたから、鈴木の申し出はまさに渡りに船というところだった。正直、給料はそこまで高いわけではなかったが、ネネムも近所の書店で働いてくれていたし、おかげで月々の家賃や光熱費やその他雑費を何とか支払えるようにはなった。
しかし、非常勤講師になったころの私は、出席してくる学生たちに対して、いったい何を講義したらいいのか全くわからなかった(鈴木にそのことを相談すると『親友、お前の好きなようにやればいいんだ』と言われた)。学生たちの側も文芸創作について何かを学ぶ気なんてほとんどないみたいだった。だから、私はやがて好きなことを好きなように話すようになり、講義の終盤には毎回「書きたいことを書きたいように、書きたいだけ書いてください」と言ってミニレポートの課題を出した。
学生たちはもれなく「あ」と書かれたレポートを提出するようになった。
*
ネネムと出会ったときの話をしよう。
*
初めてネネムと出会ったとき、私は自殺しようとしていた。
『新世紀探偵』でデビューしてからというもの、完璧なまでのライターズ・ブロックに陥っていた私は、もはや一行の文章も書くことができなくなっていた。もっと言えば、一行の文章を読むこともできなかった。一冊の小説はおろか、一篇の詩も読めなかったし、ニュース記事やソーシャルメディアの投稿さえまともに読めなかった。
振り返ってみれば、当時の私は完全に病気だった。文字という文字が受け付けられなくなって、もし何かを読んでしまおうものなら、たちまち鋭い頭痛に襲われ、吐き気をもよおすことになった。だから全く外には出なかったし、必要最低限の買い物は全てネットで済ませていた。ほとんど何も食べず、何も飲まず、眠ることもできなければ、性欲も湧いてこなかった。風呂にも浸からず、歯も磨かなかった。本来であれば精神科に通わなければならないレベルだったのだろうが、もう私にはそこまでの気力も体力もなかった。そういう生活をかれこれ一ヶ月ほど続けていた。
まともに読み書きができたころには、匿名のフリーライターとして何の役にも立たない記事を書いたりして、何とか暮らしていけるレベルの生活費は稼いでいたのだけれど、完全に読み書きができなくなってからはそれも難しくなり、クレジットカードのキャッシングやリボ払いを利用して生活するようになった。家賃や光熱費を滞納することはざらだったし、税金やら年金やら保険料やらといった何もかもをまともに支払えずにいた。だから郵便受けの中はつねに何らかの督促状でいっぱいだった。私は毎日ジャンクなインスタント食品を貪り、大量のハイネケンを飲んで酔っぱらい、大量のアメリカン・スピリットを吸って部屋を煙だらけにした(本当は酒や煙草など買っている余裕はなかったのだが、当時の私はそんなことにはお構いなしだった)。そのような毎日を送って、郵便受けの中身さえ確認しなければ、いつまでも現実逃避をしていられるような気がしたのだ。しかし、そんな思い込みがまやかしであるのは、自分がいちばんよくわかっているはずだった。
その日、私は神保町の**社に行く用事があった。新人賞受賞後、なかなか書けずにいる第二作について、担当編集と打ち合わせの予定があったからだ。しかし、私はどうしても荻窪の1Kのアパートから出られずにいた。もっと言うなら、ベッドから起き上がることすらできずにいたし、自分から連絡をすることさえままならなかった。しばらくして何度かスマートフォンに着信があったのだけれど、私はベッドにもぐりこんで何も聞こえない振りをした。そうこうしているうちに約束の時間を一時間過ぎ、二時間過ぎ、三時間過ぎた。気がついたときには半日が過ぎて、時刻は夜になろうとしていた。
もう死ぬしかない、と私はベッドから天井を見上げながら思った。どう考えても死ぬしかなかった。そもそも私はこれまでの人生でずっと書くこと以外に何もできなかったのだ。その書くことができなくなってしまった以上、もう命を絶ってしまうほかないだろう。どうせ死ぬしかないのだとしたら、私は1984年10月のリチャード・ブローティガンみたいに死にたかった。
*
1984年10月、リチャード・ブローティガンは拳銃自殺した。『リチャード・ブローティガン』の著者、藤本和子はこのように書いている。
「リチャード・ブローティガンはカリフォルニアの暗い林のなかにあった家で、たったひとりで死んでしまった。一九八四年十月。発見されたときにはすでに死後何日もたっていて、それがたしかにかれの遺骸であることを確認するには、歯型を調べるしかなかった。ウィスキーの瓶とピストルがそばにあって、新聞の報道や、友人や知人の多くは、自殺だ、といった。」
もちろんアメリカ人のブローティガンとは違って、一般的な日本人であるところの私は拳銃なんて持っているわけがなく、自殺するとしたら頭を撃ち抜く以外の方法で死ぬしかなかった。痛かったり苦しかったりする死に方は嫌だったので、一週間前に海外の通販で買ってそのままになっていた睡眠薬を全部飲むことにした。そして私はベッドの中にもぐりこんだ。間もなく100%完璧な死がやってくるだろう。
そういえば、ブローティガンは死ぬ前に数篇の詩を書きのこしていて、遺体のかたわらには原稿が散乱していたという。その中の一篇がこれだ。
それがもうひとつのはじまりのように感じられるのは
なぜだろうか
すべてはまたべつのことにつながっているのだから、
もう一度
わたしはやりなおそう
ひょっとしたら、なにか新しいことがわかるかもしれない
ひょっとしたら、わからないかもしれない
ひょっとしたら、前とぜんぜん違わない
はじまりかもしれない
ときは早くたつ
わけもなく
またはじめから
やりなおしなんだから
わたしはどこへも行きはしない
これまでいたところへ
行くだけなのだから
『リチャード・ブローティガン』の中で、藤本和子は遺作とも言えるこの詩について「それでも、やはりひっかかる。どこへも行きはしない、これまでいたところへ行くだけだから、とかれが書きのこしたことは。それは、すでに長いこと、あるいは始原からかれは死のなかにいた、という意味なのだろうか。もしそうなら、かれはずっと死の世界から、笑いを、無名の人びとの知恵と勇気を語る言葉を、酩酊と寂寥の物語を、夢のような暗号をこの世におくりだしていたことになる」とコメントしている。
あるいは私もブローティガンと同じで──ブローティガンと自分を重ね合わせるのは非常に畏れ多いのだが──そもそもの始まりからずっと死の中にいて、またそこへ帰っていくだけのことなのかもしれない。「わたしはどこへも行きはしない これまでいたところへ 行くだけなのだから」。疲れ果てて眠りに落ちるときのように、私はまぶたが重くなってきたのを感じた。
ネネムがインターフォンを鳴らしたのは、そのときのことだった。
*
「先生」とネネムはインターフォンのモニター越しに言った。初めは画面にぎりぎりまで近づいていたせいで、顔がほとんど見えなかったのだけれど、黒縁眼鏡に三つ編みという格好の人物がいることだけは何となくわかった。
「どちら様?」と私はもうろうとした意識の中で言った。
「**社の田中です」
変な喋り方をする人だ、というのが私の第一印象だった。まるで聖書を音読させられている無神論者みたいだった。
「佐藤さんから先生の様子を見て来いと頼まれたので、会社の帰りに寄りました」
佐藤というのは私の担当編集だった。東大の仏文科を卒業して、出版業界最大手の**社に入社したという経歴の持ち主で、当然のことながら二流私立大学卒の私とはそりが合わなかった。私は佐藤のことが嫌いだったし、佐藤も(間違いなく)私のことが嫌いだった。だから、自分ではやって来ずにわざわざ後輩のネネムを派遣したのだ。
「なるほど」と私は言った。
「ドアを開けてください」
「申し訳ないけど、いまは人と話す気分じゃないんだ」
「気分でも気分じゃなくても、とにかく中に通してください」
「本当に申し訳ないけど──」
「もしこのまま帰ったら、私が佐藤さんに叱られるんです。もしこのまま帰ったら、私が佐藤さんに叱られるんです。もしこのまま帰ったら──」
私がドアの鍵を開けると、ネネムは「お邪魔します」とパンプスを脱ぎながら挨拶して、有無を言わさず部屋に上がってきた。ワイシャツにスラックスという姿のネネムは、本当にそのまま会社から直行してきたという雰囲気だった。わざわざ断るまでもないだろうけど、当時の私の部屋はゴミで溢れ返っていて、とても誰かを招くことができる状態ではなかった。しかし、ネネムは部屋の状態については一言もコメントしなかった。そして、ベッドの上に捨てられていた大量の睡眠薬のシートを目ざとく見つけた。
「これは何ですか?」
「睡眠薬」
「それはわかってますけど、全部飲んだんですか?」
「全部は飲んでないけど──」
ネネムは一瞬も迷わずにスマートフォンを取り出し、119番に電話をかけた。しばらくすると救急隊員がやって来て、部屋の中は人でいっぱいになった。私はストレッチャーにのせられて、そのまま病院まで運ばれることになった。正直、そこからの記憶はほとんどない。ネネムが後で語ってくれたところでは、私はストレッチャーで運ばれていく間、ずっと泣きながら「ごめんなさい」と「ありがとう」を繰り返していたということだった。
*
これが私とネネムの出会いだ。
*
「武蔵野みなみ病院」という武蔵野にある精神科の病院に入院することになってからというもの、必要な手続きは全てネネムが手伝ってくれた。「今回は『強制入院』という措置になりますので、正確にいつ退院できるかということはいまのところ申し上げられません」と医師は言った。私は頷いて同意するほかなかった。必要最低限の荷物も全てネネムが運んできてくれた。「携帯やパソコンなど電子デバイスの持ち込みはできません」ということだったので、退屈しないようにマルセル・プルースト『失われた時を求めて』全13巻を持ってきてもらった。「『失われた時を求めて』ほど、牢獄で読むのにうってつけの書物はない」と昔誰かが書いていたことを思い出したからだ。ネネムは虎屋の紙袋に『失われた時を求めて』を詰めて持ってきてくれた。
「本当に全部読むんですか?」とネネムは私に紙袋を渡しながら言った。
「わからない」
「結構重かったんですから、ちゃんと全部読んでくださいね」
「ありがとう」
そのとき、私とネネムは病院の食堂で話をしていた。午前中のまだ早い時間だったが、朝から断続的に降り続いている雨がただでさえ陰気な院内をより憂鬱そうに見せていた。他の患者たちは雑誌を読んだり、チェスや将棋なんかをしたりして各々の時間を過ごしていた。もしかしたら偏見かもしれないが、精神病院の患者にしては何だか全員まともそうに見えた。私は視線を落として虎屋の紙袋の中を確かめてみた。『失われた時を求めて』はちゃんと全巻揃っていたが、その横に万年筆とノートが挟まっているのが見えた。
「万年筆とノートがあるみたいだけど」と私は言った。
「鈴木先生の出版記念パーティーのときの余りですから、気にしないでください」
万年筆にもノートにも、よく見てみると確かに「鈴木先生『死を想え』出版記念パーティー」という刻印があった。私が何一つ作品を書けずにいるうちに、同期の鈴木はどんどん次のステップに進んでいるということだ。
「先生」とネネムは言った。「ここでちゃんと病気を治して、また新しい小説を書いてください」
「仮に退院できたとしても、もう小説は書けないかもしれない」と私は言った。「恐らく私には作家としての天性というものがないんだ」
「いいえ、絶対に書けます」とネネムは言った。黒縁眼鏡の奥の両目は真剣そのものだった。
「絶対に書けます」とネネムは繰り返した。「私、わかるんです。先生には作家としての天性があります。もちろんカフカやドストエフスキーってわけにはいかないかもしれないけど」
「スティーヴン・キングは?」
「まずベストセラーを書いてから言ってください」
ネネムはそのとき初めて私の前で笑った。私がネネムのことを意識し始めたのはこの瞬間だったと思う。
「ところで相談があるんだけど」と私はネネムが笑い終わるのを待って言った。
「何ですか?」
「あそこに公衆電話があると思うんだけど」と言って私は看護師詰所の向かいにある緑の電話ボックスを指差した。「あの時代遅れの電話ボックスからたまに田中さんに電話をかけても構わないかな?」
「別にいいですけど」とネネムは言った。その後で思い出したように続けた。「ただ、金曜の夜だけはやめてください」
「わかった」と私は言った。「金曜の夜には電話をかけない」
私はネネムに「なぜ金曜の夜だけは電話をかけちゃだめなんだ?」と聞きたくなったけれど、すんでのところでやめておいた。いくら作家と編集者の関係とはいえ、人には人のプライベートというものがある。
ネネムはメモに自分の電話番号を書いて、私に渡してくれた。そして私たちはそのまましばらく黙っていた。外では陰鬱な雨が降り続け、雲はよりいっそう厚みを増して東京上空を覆っていた。「天皇陛下、万歳!」と誰かがどこかで叫ぶ声が聞こえてきた。
「そろそろ社に戻ります」とネネムは言って立ち上がった。私は頷いた。
ネネムは「帰ります」と看護師に声をかけて、エレベーターホールまで歩いていった。私は食堂の椅子に腰かけながら、遠ざかっていく華奢な背中と三つ編みの髪が揺れているところをずっと見ていた。すると、ネネムが思い出したように突然振り返ったので目が合ってしまった。ネネムは両手をメガホンの形にして叫んだ。
「新作、楽しみにしてますから!」
*
武蔵野みなみ病院では毎日のタイムラインが事細かく決められていた。
まず一日の始まりとして──この時点で私には耐え難かったのだが──何が何でも6時に病棟全体の電気がつけられ、起床の時間となる。そして健康観察が行われ、前日の排泄の回数を聞かれたり、体温測定をされたりする。それから朝食の時間を迎える(たとえばコーンフレークと牛乳、ぱさぱさにかわいたサンドイッチ、着色料が使われすぎているグレープフルーツ・ジュース)。午前中には作業療法の時間があり、曜日ごとにその内容は変わった。折り紙や塗り絵といった、まるで子どもがやるようなものから、料理やカラオケといったものにいたるまで、いったい病気を治療する上で何の役に立つのか、私には全く理解できなかったのだけれど、とにかく患者は全員参加することが推奨されていた。
そして昼食の時間があり(たとえば玄米に味噌汁に味つけの濃すぎる豚肉のソテーと醤油もソースも付いてこない白身魚のフライ)、午後には運動の時間と称して半時間ほど病棟の中をひたすら散歩させられた。誰の趣味なのかはわからなかったが、運動の時間の最中にはずっと最新のポップスが放送されていた。後は夕食まで自由時間だった。食堂には長年の酷使によってぼろぼろになったボードゲームやカードゲームの類があり、もはや前世紀のものとおぼしき雑誌も何冊か用意されていた(ノストラダムスの大予言や阪神淡路大震災やオウム真理教といったキーワードや若いころのSMAPの顔がでかでかと表紙を飾っているあたり、まず間違いなさそうだった)。
夕食(たとえばラーメンのイデアに過ぎないような生温いラーメンと、やはりチャーハンのイデアに過ぎないような冷めきったチャーハン)が済んでしまった後には、食堂にあるテレビとラジオが解放され、患者たちは群れをなしていっせいにテレビかラジオの前に陣取った(どちらも一台ずつしかなかったのでよくチャンネルの好みで喧嘩になっていた)。そして22時には就寝時間となり、患者たちはそれぞれに配られる薬を飲んで、病室の固いベッドの上で眠ろうとしなければならないのだった。もし、眠れなくて夜間徘徊などしようものなら、夜勤の看護師に厳しく咎められて、病室へと追い返されるはめになった。
週に一回は担当医とのセッションがあり、現在の病状を細かくチェックするという話になっていた。しかし、私の担当医は「いかがです?」と聞いてくるだけで、私が色々と症状を訴えても「なるほど」としかコメントしなかった。フロイトもユングも全然読んだことがなさそうだった。まあ、精神科医なんて誰でもこんなものかもしれない、と私は思った。
コンピュータで完全制御されたロボット工場みたいに、そのような毎日がひたすら繰り返された。
*
毎週、週末の夜になると、私は電話ボックスからネネムに電話をかけた。本当は毎晩でも電話をかけたかったのだけれど、平日のネネムは毎日忙しそうに働いていたし、その後に電話をかけるのはさすがに酷だと思ってやめた。だから、私は土曜の夜か日曜の夜になると、病院から支給されたテレフォンカードを電話機に差し込み、ダイヤルを回して、メモに書かれた番号に電話をかけた。ネネムは例外なくワンコールで出てくれた。
「もしもし」
「私です」
毎週の電話はいつもそのようにして始まった。私たちは毎回15分くらいの間、他愛もない話をした。ネネムが話すのはほとんどいつも会社の愚痴だった。**社の労働環境がいかにひどいものか、出版業界というものがいかに問題のあるひどい世界か、直属の上司の佐藤がいかにひどい人間かということを延々と話し続けた。そして私はいつも隊長についての話をした。隊長は私たちの間にいつもささやかな笑いを提供してくれた。
「今日の隊長さんはどうでした?」とネネムは言った。
「相変わらずガダルカナル島で戦っていた」と私は報告した。
*
隊長というのは事あるごとに「天皇陛下、万歳!」と叫ぶ癖のある患者だった。坊主頭に眼鏡という出で立ちで、恐らく年齢は中年というところだった。自分のことを旧日本陸軍の軍人だと固く信じていて、看護師にも患者たちにも自分のことを隊長と呼ぶように指示していた(もちろん私も隊長と呼んでいた)。本当かどうかはわからなかったが、周囲の言うところでは実際に元自衛隊員でイラクに派遣されていたということだった。そして、幸か不幸か、私と隊長は同じ病室を割り当てられたルームメイトで、おまけに隣合わせのベッドだった。
*
武蔵野みなみ病院での暮らしが始まって一週間が経ったころ、私は隊長に話しかけられた。そのとき、私は午後の自由時間に食堂の椅子に腰かけて、プルーストでも読もうかと思っていたところだった。隊長は開口一番「天皇陛下、万歳!」と言って両手を挙げた。私は初めて他の患者から話しかけられたので、一瞬びっくりしてしまったのだけれど、隊長の真剣な顔つきを見て、とりあえず「天皇陛下、万歳」と復唱して両手を挙げることにした。
「何を読んでいる?」と隊長は両手を降ろして尋ねた。
「プルーストです」と私も両手を降ろして答えた。「マルセル・プルースト」
「鬼畜米英の書いた物を読むとは、非国民め!」
「プルーストはフランス人ですけど」
「毛唐は全員鬼畜と決まっているのだ! 非国民め!」
そのようにして、私は隊長から非国民という名前を頂戴することになったのだった。
*
現在、隊長はガダルカナル島の戦いに従事しているところだった(と少なくとも本人はそう信じていた)。私は歴史に明るくないので、ガダルカナル島の戦いが実際にどのような戦闘だったのか、詳しくはわからないのだけれど、隊長の中では強固な一本のストーリーが設定されているらしく、毎日(想像上の)一個小隊を引き連れては、(想像上の)ガダルカナル島で激しい戦闘を繰り広げていた。
「戦況を本部に報告せよ、非国民!」と隊長は食堂のテーブルの影に隠れながら叫んだ。
「了解」と私も食堂の椅子の影に座り込んで言った。「こちらヒノマル小隊、こちらヒノマル小隊、本部へ報告する。敵兵による攻撃激しく、ポイントCの攻略不可。ポイントCの攻略不可。オーヴァー?」
「こちら本部、こちら本部、ポイントDへの移動を命ずる。ポイントDへの移動を命ずる。到着次第、速やかに報告すること。オーヴァー?」と私は一人二役で本部のお偉方の台詞まで言った。「隊長! ポイントDへの移動命令が出ました!」
「ふんぞり返っているしか能のないお偉方どもめ!」と隊長は言った。「ポイントDまで移動したところであちらにも米兵が張り込んでいるのは分かりきっておるというのに! 我々はこのままポイントCを攻略する!」
「しかし──」
「しかしもカカシもない! 我々ヒノマル小隊の隊訓を思い出せ!」
「突撃あるのみ」
「もう一度!」
「突撃あるのみ!」
「全員、突撃!」と隊長は叫びながら、テーブルの影から飛び出した。私も仕方なく後に続いた。
旧日本陸軍少尉たる隊長率いる無敵のヒノマル小隊は、そのようにしていつもアメリカ軍に勝利を収めるのだった。もちろん史実の上では、ガダルカナル島の戦いで旧日本陸軍は太平洋戦争開戦以来初とも言える敗北を喫していたはずだったのだけれど、隊長の空想の中ではどうやら全戦全勝している模様だった。私と隊長はそのようにして、ほとんど毎晩の自由時間をガダルカナル島の戦いに費やしていた。
*
ガダルカナル島の戦況をそこまで報告すると、ネネムはまたしても声を上げて笑った。
「隊長さんって本当にイマジネーションが豊か」
「少なくともこの病棟の中でもっとも元気そうではある」と私は言った。「私も毎日付き合っているから嫌でも芝居が板についてきた」
「それは何よりです」とネネムは言った。「でも、話を聞く限りでは先生も結構楽しんでそうですけど」
「毎晩亡霊みたいにテレビやラジオの前に座っているよりはましだと思う」
「確かに」と言ってネネムは黙った。そしてしばらくしてから口を開いた。「先生、例の件ですが──」
「新作のこと?」
「そうです」
「冒頭の一行がなかなか書けないんだ」
「先週もそうおっしゃってました」
「本当に冒頭の一行さえ書ければ、後は何とか書き上げられそうな気がしているんだけど」
「突撃あるのみ!」とネネムは電話の向こうで勇ましい声を出した。「そういえば言い忘れてましたが、鈴木先生が病院宛に葉書を送ったそうです」
「葉書?」と私は聞き返した。
*
鈴木からの葉書はちょうどその翌日に届いた。葉書の表側には鈴木の頼もしい筆致で、武蔵野みなみ病院と鈴木の住所が書かれており、引っくり返して裏側を見るとたった二行、筆記体でこのように書かれていた。
“The world breaks everyone and afterward many are strong at the broken places.” ― Ernest Hemingway
そして私もその日のうちに、次のようなことを書いて送り返した。
“So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.” ― F. Scott Fitzgerald
*
『新世紀探偵』を書いたときもそうだったのだが、私はとにかく冒頭の一行さえ書けてしまえば、どれだけ月日がかかっても必ず小説を書き上げられるというタイプだった。しかし、その一行が出てくるまでには、果てしない時間が必要になる。病院でも毎日、万年筆とノートを前にして、最低でも一時間は何かを書こうとこころみてみたのだけれど、いつまで経っても何も書くことができなかった。しかし、私は不思議と絶望的な気持ちにはならなかった。それは「絶対書けます」というネネムの言葉が頭にあったからだと思う。「絶対書けます」。私は記憶の中でリフレインするその言葉の響きだけを頼りに、毎日万年筆とノートの前で腕組みし続けた。
*
私の夢にリチャード・ブローティガンが出てきたのは、病院に来て一ヶ月が経とうというころのことだった。私とブローティガンは、ゴールデン街のバーのカウンターで隣り合って座っていた(私にはなぜだかそこがゴールデン街だとわかった)。ブローティガンは『アメリカの鱒釣り』の表紙の通りの格好をしていた。山高帽を被り、眼鏡をかけ、口ひげを垂らし、ヒッピー風のシャツとズボンを身にまとっていた。バーには私とブローティガンの二人だけだった。バーテンダーも客も誰もいなかったし、音楽も何もかかっていなかった。
「やあ」とブローティガンは空のグラスを持ち上げて言った。
「初めまして」と私も空のグラスを持ち上げた。
「私の日本語は自然だろうか?」
「とてもお上手です」
私がそう言うと、ブローティガンは「お世辞でも嬉しいね」と微笑んだ。
「東京の鱒釣りくん、と呼んでも構わないかい?」
「あなたにそう呼んでいただけるのは非常に光栄なことです」
「東京の鱒釣りくん、君はどうやら悩んでいるように見えるが」
「図星です」と言って私は続けた。「正直に言うと、小説が書けなくて悩んでいるんです」
「晩年の私と同じだ」とブローティガンは笑った。
「冒頭の一行さえ書ければ何とかなりそうなんですが」
「なるほど」
ブローティガンはしばらくカウンター上のグラスを見つめたまま、腕組みをしていた。まるでグラスに向けて念力を送って粉々に破壊しようとしているみたいに見えた。それから口を開いた。
「いっそのこと、『東京の鱒釣り』というタイトルで書いてみたらどうだい?」
「東京の鱒釣り」と私は繰り返した。
「東京の鱒釣りくんが『東京の鱒釣り』という小説を書く。これはおもしろい」とブローティガンは笑った。「つまり、それはとりもなおさず、君が君自身について書くということでもあるんだ。そして、君が君自身について書くということは、(ある意味では)同時に世界の全てについて書くことでもある。私の言っていることはわかるかい?」
「何となく」と私は言った。
「旅に病んで夢は枯野を駆け廻る」とブローティガンは私にウインクした。「芭蕉の辞世の句だ。私のもっとも愛する一句でもあった」
そしてブローティガンは一瞬のうちに姿を消した。後には埃だらけの空のグラスだけが残っていた。
*
翌日、私はまだ暗いうちに目を覚まして、『東京の鱒釣り』というタイトルの長編小説を書き始めた。冒頭の一章を書き終えたころにはすっかり新しい朝がやって来ていた。
*
私はそれから毎日のように『東京の鱒釣り』を書き続けた(もちろんネネムからもらった万年筆とノートを使って)。小説を書くのはいつも決まって食堂のいちばん隅にある席だった。患者たちの話し声が適度な背景音楽になってくれたし、この圧倒的に不自由な病棟生活の中でも、小説を書いているときだけは自分は自由なのだという気持ちになることができた。ときどき隊長が「何をしている?」と話しかけてくることもあったが、「ヒノマル小隊の武勇伝を後世に語り継ぐための日記であります」と答えると、満足したような顔でどこかへ行ってしまうのがつねだった。
『東京の鱒釣り』はもちろんリチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』へのオマージュであり、全体の構造としても同じく47篇の断片からなる小説だったのだけれど、その内容は全くと言っていいほど違っていた。ブローティガンがアメリカの鱒釣りという概念そのものを主人公として、万華鏡のように個人的体験と虚構をミックスした世界を展開したのに対して、『東京の鱒釣り』では東京の鱒釣りたる私の人生とリチャード・ブローティガンの生涯を合わせ鏡のようにして、47篇の断片を書いていく予定だった。もし『東京の鱒釣り』のジャンルを定義するとしたら、「まぎれもない純文学である」と言ってもよかった。だからミステリーやSFやホラーやファンタジーなど、娯楽小説のフォーマットを惜しみなく使った『新世紀探偵』と比べると、(もちろんジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』とまではいかないが)あるいは読者によってはかなり抽象的で難解な小説であると言えなくもなかった。
しかし、私は『東京の鱒釣り』という小説については一種の絶対的な自信を持っていた。もしかしたら批評的にも商業的にも全く評価されず、世間からも黙殺されるような作品になるかもしれない。それでも、『東京の鱒釣り』は自分のキャリアにとって重要な位置を占める作品になるだろうという予感があった。
ちなみに、リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』はこのようにして始まる。
「『アメリカの鱒釣り』の表紙は、ある日の午後おそくに写された、サン・フランシスコのワシントン広場に立つベンジャミン・フランクリン像の写真である」
だから、私の『東京の鱒釣り』もこのようにして始まる。
「『東京の鱒釣り』の表紙は、ある日の午前早くに写された、日比谷公園の中ほどに立つホセ・リサール博士像の写真である」
それは私にはとても素晴らしい思いつきだと感じられた。
*
突然、隊長が恋に落ちて、もうどうしようもないくらい暴走し始めてしまった。
恋の相手は伊藤イトという新顔の患者で、恐らくまだティーンエイジャーだろうという年ごろだった。黒髪のボブヘアにクールな印象の顔つきをしていて、いつも首元に黒いチョーカーをつけていた。そしてピカソやらベーコンやらウォーホルやらバスキアやら何かしらの美術作品がプリントされたTシャツに、ルームウェアのショートパンツという格好で、ほとんどいつでも不機嫌そうに病棟を歩いていた。看護師からは「みだりに脚を露出するような格好は避けてください」と何度か注意されていたものの、「わかりました」と返事をするだけでいっこうに服装をあらためる気はなさそうだった。
隊長はイトのことを伊藤殿と呼んでいたけれど、直接話したことはまだ一回もないらしかった。
「麗しい」と隊長はイトが通りかかるたびにため息をつくように言った。
「でも、伊藤さんはまだ未成年でしょう」と私も遠ざかっていくイトの後ろ姿を見ながら言った。
「だからどうした」
「都の青少年育成条例に明確に違反しています」
「青少年育成条例?」と隊長は眼鏡の奥から私を睨みつけた。「小生の伊藤殿への思いは極めて純粋なものだ。お上にとやかく言われる筋合いはない」
*
しかし、イトの方はそうは思っていないようだった(もちろんそうだろう)。ある日の午後、私と隊長が食堂のテーブルでポーカーをしていると、イトが無言で近づいてきた。その日のイトはやはり竹久夢二の絵がプリントされたTシャツにショートパンツという格好だった。
「ちょっと話せる?」とイトは隊長ではなく私の方だけを見て言った。
「うん」と言って私は立ち上がった。
イトは緑の電話ボックスのあたりまで来て止まると、私を見上げるようにして言った。まるで過激な菜食主義者が一般の肉食者を糾弾するような目つきだった。
「あなた、あの隊長とかいうヒトとお友だち?」
「お友だちというか──」
「もしお友だちなんだったら、わたしをストーカーするのをやめてって言ってほしいんだけど」
「ストーカー?」と私はびっくりして聞き返した。
「どう考えてもストーカーでしょう。いつもわたしのことをAV女優でも見るみたいな目で見て。もしかしてあなたもお仲間? ヘンタイランチキクラブでも結成しているわけ?」
「お仲間じゃないしお友だちでもない」と私は言った。「隊長はただのルームメイトだ」
「でも、いつもいっしょになって戦争ごっこをしているでしょう」
「あれは──」
「まあ、何でもいいけど」とイトは腕を組んだ。「とにかくわたしへのストーカーだけはやめるように言っておいて、ムラカミさん」
それだけ言ってしまうと、イトは自分の病室の方へさっさと歩いて行ってしまった。まったく、と私は思った。なぜいつもこういう面倒なことになるんだろう。
ムラカミさん?
*
イトからの依頼について色々と考えあぐねた結果、私はとっておきのアイディアを思いついた。翌日、私は作業療法のカラオケの時間にイトの隣に座って、周りに聞こえないようにとっておきのアイディアを耳打ちした。
「やっぱりムラカミさんもヘンタイランチキクラブなんだ」とイトは怪しむように私を見た。
「でも、月並みだけど効果はあると思う」と私は説得した。
私とイト以外の患者たちは順番に曲をリクエストして、代わる代わるマイクを握っていた。特に高齢者ばかりというわけでもなかったのに、なぜだか昭和歌謡や演歌を歌う患者がほとんどだった。そのときはちょうど隊長の順番が回ってきたところで、十八番の軍歌をエモーショナルに歌い上げていた。
「まあ、それであのヒトのストーカー気質が治るならいいけど」とイトは熱唱する隊長を見ながら言った。
「今日からさっそく始めよう」
「私とイトが付き合っている」という設定を隊長に信じ込ませるというのが、私のとっておきのアイディアだった。それからというもの、私たちは毎日いっしょに過ごすようになった。朝昼晩の三度の食事のときを始めとして、作業療法の時間や運動の時間にもつねにいっしょにいた。もちろん、隊長は毎日その光景を目にすることになった(ときどき遠くから怨念らしきものを感じることもあった)。そのようにして、ほとんどの時間をイトと過ごし、空いた時間で小説を書くというのが私の習慣になった。私とイトは自然と色々な話をするようになった。
*
「どうして私のことをムラカミさんって呼ぶんだ?」と私はある日の運動の時間のときに足腰を動かしながら聞いてみた。病棟内には恋の切なさを歌う最新のポップスが大音量で響き渡っていた。
「だって、あなたって曲がりなりにも作家なんでしょう」とイトはいかにも面倒くさそうにウォーキングしながら答えた。
「作家だけど」
「作家って言ったらムラカミハルキとかムラカミリュウとか、ムラカミってヒトばっかりじゃない」
「でも、私はムラカミって名前じゃないし、ムラカミなんて苗字の作家は春樹と龍以外にいないと思う」
イトは私のつまらない抗議を無視した。そして、看護師たちに見つからない場所まで来ると歩みを止めて、窓枠にもたれかかって休憩した。
「わたしって小説とかほとんど読まないから作家の名前も全然知らないんだ。申し訳ないけど、ムラカミさんのことだって全く知らなかった」
「知らなくて当然だと思う」と私は特におもしろくもない中庭の景色を見ながら言った。「まだ新人賞を一個受賞しただけだし、その小説だって全然売れなかったから」
「でも、よくわからないけど、売れるとか売れないとかってあんまり関係ないんじゃない?」とイトも中庭を見ながら言った。「何でも同じだと思うけど、本当に大切なのはその作品がどれだけ人々の魂を揺さぶることができて、どれだけの人々に影響を与えられるかっていうことで、それって売れるとか売れないとかとは全然違うと思う」
「もちろん」と私は言った。「私もそう思っていればこそ、小説を書き続けているんだ」
*
「ピクニックだ!」と患者たちはいっせいにはしゃいで、中庭に飛び出していった。
武蔵野みなみ病院では週に一回、日曜日の昼食後の一時間だけ、中庭に出られる時間が設定されていた。病院側はそれをピクニックと称していたが、ただ中庭を歩くだけのことで、スナックもジュースも出なかったし、わざわざピクニックというほどのものでもなかった。しかし、何はともあれ、外の空気を吸えるというのは素晴らしいことだった。病棟の中で暮らし続けていると気分もふさぎこんでくるし、いくら毎日の運動の時間があるとは言え、屋内だけでの運動では体力もなくなってくる。だから、ほとんどの患者は週に一回のピクニックを楽しみにしていたし、私とイトももちろん例外ではなかった。
「聞いてなかったけど」とイトは中庭を歩き始めながら言った。「そういえばムラカミさんってどうしてこんなところにいるの?」
「自殺未遂したんだ」と私はイトの隣を歩きながら言った。「それまでの自分の人生における何もかもが嫌になって、睡眠薬を大量に飲んでしまった。さいわいなことに出版社の人がちょうどそのとき家を訪ねてきてくれたので、私はいまここでこうして伊藤さんと話ができている」
「どうして何もかもが嫌になっちゃったわけ?」
「**社新人賞っていう賞を何年か前に受賞したことは言っただろう。それから私はもう何年も小説を書くことができなくて、フリーライターなんかをやってその日暮らしみたいな生活を続けていた。俗に言うスランプってやつだ。そのうちに何も書けないどころか、何も読むことすらできなくなって、それで完全にイカれてしまった。外にも出られなくなっていわゆる引きこもり状態になったし、もちろん誰とも連絡を取らなくなった。そこから自殺未遂まではほとんど秒読みだった」
「へえ」とイトは言った。
私たちはそれからしばらく黙って中庭を歩いた。イトは私が話した一語一語を検討しているみたいだった。我々は中庭の奥にたどり着いたので、振り向いて折り返しの散歩を始めた(病院の中庭は非常に狭かったので患者たちはだいたいいつもこのように散歩を反復していた)。
「伊藤さんはどうして?」と私は聞いてみた。
「わたしは──」とイトは一瞬口ごもったが、話を始めた。「わたしの両親はどっちも典型的な教育パパ・教育ママってタイプで、幼稚園のころからミッション・スクールに通わされていたの。いわゆるエスカレーター式ってやつ。わたしは勉強だけは得意だったから、予習や復習なんてちっともしなかったけど、成績はいつも学年トップだった。でも、わたしは学校に行くのが嫌で嫌で仕方なかった。小学生のときも嫌だったし、中学生のときも嫌だったし、高校生になってからも嫌だった。どうして嫌だったかっていうと、(シンプルな理由だけど)いつもいじめられていたから。別に自慢するわけじゃないけど、わたしって異性には好かれるけど同性には嫌われるってタイプで、だからいつも同性のヒトたちからいじめられてきたんだ。だからと言って異性の方がましだったかって言うと、全然そんなことなくて、むしろ異性のヒトたちの方がひどかった。ほら、わたしと同じ年ごろの異性のヒトたちって、もう何でもかんでもセックスに結びつけちゃうじゃない。だからわたしは同性だろうと異性だろうと、とにかく周りにいる全員のことが嫌いだった。もちろん両親のことも含めて」
イトはそこで一旦話を区切ったが、やがてまた口を開いた。
「わたしはいわゆる保健室登校ってやつをしていた。保健室組はしばらくの間、わたし一人だけだったんだけど、夏休みの前にもう一人メンバーが増えた。小沢くんっていうものすごくきれいな顔をした子。でも、小沢くんって信じられないくらい無口なタイプで、初めのうちは全然喋ってくれなかった。それでも毎日保健室で顔を合わせるから、自然と仲良くなっていって、小沢くんもだんだん自分のことを話すようになってくれたし、わたしも自分のことを話すようになった。まあ、保健室組のアウトサイダー同士、ウマが合ったっていう感じだったのかもしれない。小沢くんもわたしと同じようなタイプで、異性には好かれるけど同性には嫌われるって感じの子で、やっぱりクラスになじめていないんだってことを打ち明けてくれた。そのうち夏休みになって、わたしも小沢くんも帰宅部だったし、特にアルバイトなんかもしていなかったから、何となく毎日いっしょにつるむようになった。
小沢くんって──わたしには意外だったんだけど──BTSとかハリー・スタイルズとかの熱烈なファンで、部屋にはそういうアイドルたちのポスターがところ狭しと貼ってあった。でも、それ以外の音楽にもものすごく詳しくて、クラシックもジャズもロックもポップスも、とにかく何でも聴くってタイプだった。小沢くんの部屋に行ったときはいつも死ぬほどたくさんの音楽を聴いた(小沢くんのご両親はお父さんがNHK交響楽団の指揮者で、お母さんはブルーノートなんかでよくライブをしているような名前の売れたジャズ・ピアニストだったの。だから小沢くんも音楽に詳しかったわけ)。そして、わたしたちはいつもご機嫌な音楽を聞きながら二人でハッパを吸った。小沢くんは『ネットでまとめ買いしてるんだ』って言ってたけど、意外とそういう一面がある子だったんだ。
小沢くんとはもう姉弟みたいに毎日いっしょにいたから、二人で話したことって数えきれないほどあるんだけど、いちばんよく話したのはやっぱり恋愛のことかな。わたしには特に好きなヒトなんていなかったけど、小沢くんにはちゃんと好きなヒトがいて、それは野球部のピッチャーで4番バッターをやっている坂本くんっていう子だった。わたしたちみたいなアウトサイダーとは全然関係ない、カースト最上位って感じのヒト。もちろんわたしだって坂本くんのことくらい知ってたけど、財閥のお坊ちゃんで、一軍中の一軍なのに本当にさわやかで、全然嫌味なところがないって感じのヒトだったんだ。成績もトップクラスだったし、二軍だろうと三軍だろうと別け隔てなく接するし、同性からも異性からも絶大な人気があった。
小沢くんはいつも坂本くんの話ばっかりしていた。もう本当に好きで好きでたまらないっていう感じ。坂本くんって一年のときから野球部のスーパースターみたいな扱いだったから、甲子園の予選とかにもバンバン出ていて、小沢くんは一年の夏に野球部の試合を見に行ったときに恋をしたんだって言ってた。
『坂本くんはハンカチで汗を拭くんだよ』と小沢くんはあるときハッパを吸いながら言った。そのときも部屋の中には私の知らない海外のバンドのアルバムが流れていて、わたしたちは二人きりだった。
『ハンカチ?』とわたしはハッパを受け取りながら言った。
『うん』と小沢くんは言った。『ほら、野球の試合中に汗をかくだろ。坂本くんはそうするとユニフォームのポケットから上品な麻のハンカチを出して、ていねいに汗を拭き始めるんだ。額から順番に目頭、鼻筋、頬周りと来て、またポケットにハンカチをしまう。坂本くんがやるとそれだけのことがものすごくエレガントな仕草に見えてさ』
『エレガントでブリリアントな坂本くん』とわたしは煙を吐き出しながら言った。
わたしと小沢くんには行きつけのカフェがあって、よくそこに行って一杯だけドリンクを頼んで何時間も喋ってたんだ。その日も暑すぎるから何か冷たいものでも飲みに行こうって話になって、そのカフェに行ったんだけど、店内を見た瞬間『あっ』って小沢くんが言って、ものすごい速度で奥の席まで歩いて行くものだから、わたしも注意して店の中を見てみたらびっくり、坂本くんが一人で席に座って本を読んでたわけ。
『サプライズ!』とわたしは慌てている小沢くんの向かいに腰かけながら言った。
『イトちゃん、どうしよう』
小沢くんはもう完全に取り乱していた。わたしは『とりあえず深呼吸しよう』って言って、二人でいっしょに深呼吸をした。ひとまずいつものメロンソーダとレモンスカッシュ(私がメロンソーダで小沢くんがレモンスカッシュ)を頼んで、わたしたちは作戦会議を開くことにした。
『もう話しかけるしかないでしょう』
『絶対に無理』
『小沢くん』とわたしは真剣な顔で言った。『小沢くんはいまバッターボックスに立っているわけ。ツーアウト満塁、逆転サヨナラホームランのチャンス。三振になろうが何だろうが、とにかくバットを構えてみるしかないでしょう』
『でも、何て話しかけたらいいと思う?』
『とりあえず何の本を読んでるのか聞いてみたら?』
小沢くんはそれからしばらく悩んでいたようだったけど、やがて顔を上げた。そして、立ち上がって坂本くんの席まで歩いていって、『やあ』とか何とか、とにかく話しかけた。
坂本くんは読んでいた本から顔を上げた。一瞬誰だかわからなかったみたいだったけど、やがて『一組の小沢くん?』と言った(三軍どころか部外者もいいところの私たちみたいなヒトの名前まで覚えているのが坂本くんの素晴らしいところ)。
『うん』と小沢くんは言った。『でも最近は保健室登校なんだけど』
それから沈黙があって、小沢くんは慌てて話を続けた。
『いきなり話しかけてごめん』
『別に大丈夫だよ。一人で暇していただけだから』
『何を読んでたの?』と小沢くんは私が伝授した切り札を出した(ナイスプレー!)。
『ベーブ・ルースの伝記』
それからはすぐ仲良くなったみたいで、小沢くんと坂本くんは二人でしばらく話をしていた。盗み聞きする限りでは坂本くんも実は無類の音楽好きらしくて、どうやらお互い好きな音楽の話で盛り上がっていたみたいだった。それからひとしきり話が落ち着いたころ、坂本くんは塾があるとか何とかで先に帰っていったんだけど、席に戻ってきた小沢くんはいままで見たことがないほど興奮していた。それこそハッパを吸っていたときなんかよりもずっと。
『今週の日曜、デートの約束をした』と小沢くんは顔を赤くしながら言った。
『逆転サヨナラホームラン』とわたしは言った。
小沢くんと坂本くんはその週の日曜にデートをして、順当に付き合うことになった。めでたしめでたし」
イトはそこまで一気に話してしまうと、「ふう」とため息をついた。私たちはその話をしている間、中庭を数えきれないほど往復していたので、さすがに疲れてきたところだった。
「でも、恐らくハッピーエンドってわけじゃないんだろう?」と私は聞いてみた。
「もちろん」とイトは答えた。「二人は──」
そのとき、中庭にチャイムの音が響き渡った。ピクニックの時間の終わりを知らせるチャイムだった。「中に帰ってください!」と看護師が声をかけ始めた。イトは「ムラカミさん、残念」と言って、私の顔を見上げた。
「続きはまた次回」
*
イトとのデートを一週間ほど続けたあたりで、ようやく隊長がコンタクトを取ってきた。夜の自由時間のときのことで、テレビからは黒澤明の映画が流れ(サムライの格好をした三船敏郎が叫びまくっていたから恐らく黒澤明の映画だと思う)、反対側のラジオからは野球中継の音声が流れていた。患者たちはテレビとラジオに夢中のようで、ときどきひそひそ声で会話が交わされる以外は、誰も一言も喋っていなかった。私は片隅のテーブルに座って、いつものように『東京の鱒釣り』について考えていたところだった。
「非国民」と隊長は私の向かいの席に座るなり突然話しかけてきた。「いったい貴様は伊藤殿とどういう関係なんだ?」
「どういう関係って言われても──」
「貴様と伊藤殿はアベックなのか?」
「アベックというか──」
「正直に言え! 非国民め!」と隊長が唾まで飛ばしながら詰め寄ってきたので、私は正直に話すことにした。
「私と伊藤さんはアベックであります!」
私がそう言った瞬間、隊長はまず顔を真っ赤にした。それからだんだんと青ざめていった。そして、呼吸を荒くしながら声の限りに叫んだ。
「非国民め、貴様はただいまをもってヒノマル小隊を除隊だ! 軍法会議にかけてやる! 誇り高き大日本帝国の恥さらしが! 非国民め!」
隊長はそれだけ言ってしまうと、さっさと立ち上がって病室に戻っていってしまった。これでイトの問題もひとまず片付いただろう、と私は思った。ヒノマル小隊を除隊になってしまったことはさみしかったが、隊長はきっと一人でもガダルカナル島の戦いを生き残れるはずだ。突撃あるのみ。
今夜はネネムに電話しよう、と私は思った。
*
「ヒノマル小隊を除隊になった」と私は緑の電話ボックスにもたれかかりながらネネムに報告した。
「どうして?」とネネムが聞くので、私は隊長とイトの一件をかいつまんで説明した。
ネネムはひとしきり笑った後に「ご苦労さまでした」と言った。
「でも、そのイトさんってなかなか興味深そうな方」
「確かにユニークではあるけど」と私は言った。「そういえば、一つお知らせがある。新しい長篇小説を書き始めた」
「それは私が今年聞いた中でもっとも素晴らしいニュースです」
「『東京の鱒釣り』っていうタイトルなんだけど」
「ブローティガン」とネネムは即座に言った。「『アメリカの鱒釣り』へのオマージュ?」
「もちろんオマージュではあるんだけど、それだけじゃない。まあ、ありがちな主題ではあるけど、小説を書くことについての小説というか、いわゆるポストモダン的な小説なんだけど、完全にポストモダンってわけでもなくて、二葉亭四迷の『平凡』なんかにも近いテイストになると思う」
「なるほど」とネネムは言った。「それは楽しみです。非常に楽しみです」
「それで第一稿ができたら、私としては田中さんにまず見てもらいたいと思っているんだ」
「私?」とネネムは言った。「でも、先生の担当編集は佐藤さんで──」
「是が非でも田中さんに見てもらいたいんだ」と私は言った。「是が非でも」
「わかりました」とネネムはしばらく悩んでから答えた。
「アメリカの──間違えました──『東京の鱒釣り』、何とかいっしょに出版までこぎつけましょう」
*
イトと隊長の件が落ち着いたので、私はいよいよ『東京の鱒釣り』を書くことに集中できるようになった。一応の習慣としては午前中に小説を書くことに決めていたが、途中からは午後になっても小説を書く時間が増えてきた。病院での生活はもうすぐ二ヶ月目になろうとしていて、毎週のセッションでもそろそろ退院の話が出てきていた(担当医は相変わらず『いかがです?』と『なるほど』しか言わなかったのだけれど、いつの間にかそういう話になっていた)。私は退院するまでに『東京の鱒釣り』の第一稿を仕上げようと決めた。
*
イラクの話が始まったのは突然のことだった。イトとの一件があってから、隊長はずっと私のことを無視していたのだが、その夜、就寝時間を過ぎた暗闇の中でいきなり口を開いたのだった。
「イラクは美しいところだった」と隊長はベッドカーテンの向こう側からいきなり話し始めた。私は『東京の鱒釣り』について考えていたところだったので、突然隊長が喋り始めたことにびっくりしてしまった。最初のうちはひとりごとを言っているのかと思ったのだけれど、声のトーンからして間違いなく隣のベッドの私に話しかけているようだった。他のルームメイトたちが口々に「うるさい!」と言い始めたが、隊長はそんなことにはお構いなしだった。
「イラク東南部のサマーワという都市に我々は派遣された」と隊長は続けた。いつもとは打って変わって、普通の人が普通に話すような口調だった。「自衛隊が担っていたのは復興支援を中心としたボランティアに近い活動だった。前線では米軍がしつこく都市を爆撃していたが、サマーワは非戦闘地域に指定されていたので、平和呆けといってもいいところだった。サマーワで生活していると、米軍が大量破壊兵器だ何だかんだと難癖をつけて、ファルージャなんかで激しい空爆を行っているとは信じられないくらいだった。一般の人々はごく普通に生活を送っていたし、自衛隊に対する反応もおおむね好意的なものだった。我々に与えられた仕事は簡単なものだった。電気やガスや水道など現地のインフラを整備したり、地元住民に食べ物や飲み物を配ったり、イベントを行って交流を促進したりといったことだ。サマーワに来てからというもの、私は自分の人生に対してこれまでにない満足感を覚えていた。それがたとえどこであれ、どんなことであれ、誰かの役に立つというのは素晴らしいことだ」
隊長はそこまで話すと、大きく深呼吸をした。私は話を聞いていることを示すために何度か咳払いをした。
「しかし、派遣されて一ヶ月が過ぎたころ、部隊の間をあるニュースが駆け巡った」と隊長は話を再開した。「アルカーイダ系の武装勢力がひそかにこの町に結集していて、自衛隊を殲滅しようとしているというのだ。ニュースの出どころは不明だったが、部隊の間には一気に不安が広がったし、地元住民たちにもこの話は漏れていた。上も動かざるをえないと判断したんだろう。極秘裏に数人の偵察部隊が組織された。私もその一員だった。自分で言うのも何だが、偵察部隊は精鋭揃いと言ってもよかった。防衛大上がりのインテリの部隊長、狙撃のエキスパート、元柔道選手、ドクというニックネームでよばれていた医療班のベテラン、そして通信班で機械マニアだった私。三日月の夜に我々はアルカーイダが拠点としている民家へ偵察に行くことになった。その民家はサマーワの西はずれにあった。
目標地点の民家まで到着すると、我々はまず距離をとって遠方から状況を確認した。目視では異常は見られなかった。私は通信機に口を近づけ、本部に『目標地点に到着。異常なし』と報告をした。本部は『引き続き目標地点へ接近せよ』と指示を出した。我々はそのまま民家へ近づこうとした。そのとき、我々は突然狙撃された。まず防衛大上がりの部隊長がやられた。頭を撃ち抜かれて即死だった。どすんと倒れた部隊長の死体を横目に、我々は急いでその場に伏せた。こちらの狙撃手がライフルを構えようとした瞬間、もう一発銃弾が飛んできて狙撃手の頭も撃ち抜かれた。柔道選手がたまらずに立ち上がって逃げようとしたが、立ち上がった瞬間にやはり頭を撃ち抜かれておしまいだった。偵察部隊の半分以上が一瞬でやられてしまい、残ったのは医療班のドクと通信班の私だけだった。私とドクは地面に這いつくばって、本部に状況を報告した。『速やかに撤退せよ』と命令が出たが、撤退したくても立ち上がることができなかった。もし立ち上がりでもしたら、民家に潜んでいるスナイパーに狙撃されておしまいだ。私とドクは相談の上、命令に逆らうことにはなるが、このまま民家に突撃することにした。二人でいっせいに立ち上がり、近くの建物まで走った。もちろん銃弾は飛んできたが、何とか二人の頭は逸れていった。
『ドク、相手はどれくらいだと思う』と私は建物にもたれかかりながら尋ねた。
『見当もつかないが、凄腕のスナイパーが一人いるのは間違いない』とドクは息を切らしながら答えた。
私とドクはそれからときどき顔を出しては、ライフルで撃ち返そうとしたのだが、そのたびに素早く狙撃されて、とても近づくことができなかった。
『手榴弾を使おう』とドクは手榴弾を取り出しながら言った。
『了解』と私も応答しながら手榴弾のピンを抜いた。
私とドクは民家へ向かって同時に手榴弾を投げた。月が明るかったおかげで空中を飛んでいく手榴弾の軌跡が遠くからでもよく見えた。そして、民家のガラス窓が爆発して、煙が上がった。私とドクは立ちこめる煙の中を走って、民家へと突撃した。二階建ての民家で、一階のリビングには誰もいなかった。我々は速やかに二階へと階段を上がった。そのとき、赤ん坊の泣き声のような音が聞こえた。私とドクはライフルを構えながら泣き声が聞こえた方の部屋へと移動した。アラビア語で何かを言う声も聞こえてきた。もうもうと立ちこめる煙の中、我々が足を踏みいれた子ども部屋のような場所には、スナイパーライフルを持った年端も行かない少年と、ベッドに寝かしつけられた赤ん坊がいた。私とドクは度肝を抜かれた。この少年一人を相手に、一応は軍事のプロフェッショナルである我々が窮地に追い込まれることになったのだ。しかし、つぎの瞬間、少年がライフルの銃口をこちらに向けたので、私は反射的に子どもの頭を撃ち抜いた。引き金を引いた瞬間、私は全く何も考えていなかった。少年は後ろに倒れた。そして、私は──殺す必要なんて全くなかったにも関わらず──赤ん坊にも素早くライフルを向けて引き金を引いた。ドクが『赤ん坊はよせ!』と叫んだがもう遅かった。そのときにも何とも思わなかった。私は非現実的なまでの無感覚状態にあった。私は無線を取り出して、本部に『作戦終了』と報告した。やがて援軍がジープでやって来て、我々は駐屯地へと無事に帰還することができた。私はジープに揺られている間、ずっと撃ち殺した子どもたちのことを考えていた。こちらを見つめていた子どもたちの瞳のことを」
隊長はそこまで一気に話してしまうと、しばらくの間沈黙した。
「アルカーイダ云々というのは結論から言うと単なる誤報だった」と隊長は重たげに口を開いた。「我々が出会った子どもと赤ん坊は両親を亡くした貧しい兄妹で、空き家になっていた建物を不法占拠していただけだった。しかし、それ以上の情報は末端の我々には知らされなかった。報道管制を敷いたので、この一件はニュースにもならなかったし、殺された自衛官たちの死因は『インフラ整備作業中の事故死』として処理された。偵察部隊の中で生き残った私とドクにも厳しい箝口令が命じられた。それから間もなくして、私とドクは本国に送還されることになった。日本に帰国する航空機の中でイラクの町並みを見下ろしながら、私はずっと自分のやったことについて考えていた。私にはいまだによくわからないんだ。なぜアルカーイダの武装勢力などというデマが流れたのか、どうして無益な殺し合いをしなければならなかったのか、そして私とドクだけが生き延びたのはいかなる運命のいたずらだったのか。私が確かにわかっていると言えるのは、たった一つ、『我々のやったことは全て徒労に過ぎなかった』ということだけだ」
私は隊長の話を聞いて、何も言うことができなかった。その話が真実なのかあるいは虚構なのかはわからなかったが、隊長の語り口には圧倒的なまでの生々しさがあった。真実であれ、虚構であれ、それは隊長の魂の奥底から湧き出てきた一つの確かな物語に違いなかった。私はイラクの月の明るさを見た。イラクのひどい砂埃を見た。イラクの石造りの建物が並ぶ町並みを見た。イラクの子どもたちの一揃いの瞳を見た。
「隊長?」と私は声をかけてみた。
隊長はもう何も喋らなかった。話はそこで終わりだということらしかった。隊長はやがて野生動物のようないびきをかき始めた。つい先ほどまで饒舌に自分の物語を語っていたということが何だか嘘みたいだった。私はしばらくイラク戦争について考えを巡らせていたが、やがていつの間にか眠りこんでしまった。
*
翌朝、隊長が問題を起こした。
それは食堂で朝食を待っていたときのことだった。私とイトはいつものように隣り合った席に座って、他愛もない会話をしていた。他の患者たちも全員テーブルについて、食事が運ばれてくるのをおとなしく待っていた。隊長は我々とはかなり離れたテーブルに座っていたのだが、しばらくして隣に座っている老齢の患者に対して、いきなり意味のわからないことを叫び始めた。初めは何を言っているのかわからなかったが、どうやらその老人が隊長の貴重品を盗んだということらしかった。老人も老人で隊長に言いがかりをつけられたことで混乱してしまったようで、言葉にならない言葉で言い返し始めた。看護師たちが周りに集まって、二人をなだめていたが、なかなか言い合いはおさまらず、二人はかえってヒートアップしていくばかりだった。
そのとき、隊長が老人をつき飛ばした。そして、倒れた老人に馬乗りになり、ものすごい形相で顔を殴り始めた。さいわいなことに一発殴ったところで看護師たちがすぐ引き離したので、大事にはいたらなかったものの、老人は鼻血を出しながら軽い脳しんとうを起こしていた。隊長はそのまま保護室に隔離され、私が退院するまで顔を見ることはなかった。保護室に連れていかれる間も「天皇陛下、万歳!」という叫びが病棟に響き続けていた。
イトは私の顔を見て「あのヒト、完全にイカれちゃってる」とため息をついた。
*
『東京の鱒釣り』の第一稿が仕上がったのは、退院当日の朝のことだった(それは隊長の隔離から一週間が経ったころのことだった)。イトは出来上がったばかりの『東京の鱒釣り』を読みたがったが、「ちゃんと出版できたら読んでほしい」と言うと、「著者謹呈って書いて郵送して」と実家の住所を書いたメモを渡してきた。
「ムラカミさん、本当に退院しちゃうんだ」とイトは頬杖をつきながら言った。
「ゆりかごから墓場まで、いうなれば人の一生は絶え間ない馬車の疾走である」と私は言った。
「誰の言葉?」
「私がいま作った」
私たちは食堂の片隅の席に向かい合って座っていた。そこは毎日のように私が『東京の鱒釣り』を書いていたテーブルだった。その日は珍しいことに他の患者たちの姿はなく、食堂には私とイトの二人だけしかいなかった。
「ところで」と私は話題を変えた。「退院する前に聞いておきたいんだけど」
「何?」
「ピクニックのときに伊藤さんが語ってくれた話の続き」と私は言った。「小沢くんと坂本くんは付き合って、それからいったいどうなった?」
「ああ、あの話」とイトは言った。「じゃあムラカミさんへの冥土の土産? ってことで」
*
「めでたしめでたしという感じで恋は成就して、二人は付き合ってからというもの、暇を見つけては会うようになった」とイトは物語の続きを語り始めた。「だから必然的にわたしと小沢くんは毎日遊ぶってわけにはいかなくなっちゃったんだけど、まあそれはそれで全然オッケーだった。わたしはわたしで毎日適当に過ごしていたから。でも、小沢くんは坂本くんとデートした夜には、必ずわたしにメッセージを送ってきた。『今日は坂本くんとここに行って、こういうことをして、二人でこんなことを話して、とても幸せな一日だった』みたいな。もうそれがすごく微笑ましくて、わたしは毎日そのメッセージを楽しみにしていたくらいだった。二人はいっしょに夏フェスに行ったり、レコード屋を巡ったりなんかして、本当に幸せそうだった。
でも、もう夏休みもそろそろおしまいってころ、夜中に小沢くんからいつもとは雰囲気の違うメッセージが来た。『イトちゃんといますぐ会って話したい』。わたしたちは近所のデニーズで待ち合わせることにした。
デニーズにやって来た小沢くんはどこからどう見ても元気がなかった。何というか魂が抜けちゃったみたいな感じっていうか。わたしはそれで何となく小沢くんの話ってやつを理解した。友だちだったから、わざわざ話さなくても何があったのかはだいたいわかった。
『今日、初めて坂本くんが部屋に来て』と小沢くんは話し始めた。『僕たちは二人で音楽を聴いてた。カンとかヴェルヴェット・アンダーグラウンドとかザ・スミスとかプリファブ・スプラウトとか。そしてベッドにいっしょに座って、いつものように音楽について色々なことを話していた。でも、そのうちにいい感じの雰囲気になってきて、僕たちはキスをした。ものすごく恐る恐るって感じではあったけど、それでもぎごちなくお互いの体をさわり合って、もう一度キスをした。今度はもっと長く。本当に時が止まったみたいに感じられた。ずっとこの瞬間が続いたらいいのにって思った。僕は坂本くんを押し倒そうとした。そのとき、坂本くんが僕の手首をつかんで『やっぱり無理だ』って言ったんだ』
『坂本くんも同性の子と付き合うのは初めてだったんでしょう』とわたしは言った。『単に戸惑っただけじゃない?』
『違うんだ』と小沢くんは泣き出しそうになりながら言った。『それから坂本くんは『今日はもう帰る』って言って立ち上がった。僕は坂本くんに嫌われたんだと思って反射的に『ごめん』って謝った。『そういうつもりじゃなかったんだ』。でも、坂本くんはしばらく僕のことを見てから『気持ち悪い』って言って、ドアを開けて帰っていった』
『気持ち悪いっていうのは言い過ぎだけど、坂本くんも混乱していただけだと思うよ』とわたしは言った。
『嫌われたんだ』と小沢くんはいよいよ泣き出した。『もう別れるしかない』
それから一時間くらい、わたしは色々なことを言って慰めていたんだけど、小沢くんはもう完全に絶望しちゃっていたし、何を言ってもきりがなかった。だから、わたしは思い切ってこう言った。
『わかった』とわたしは言った。『いまから海に行こう』
『海?』と小沢くんはびっくりして言った。『どうして海?』
『海まで行って二人で『坂本のバカヤロー』って叫ぶの。こんなしけた郊外のファミレスでいつまでもああでもないこうでもないって言っているより、ずっと素晴らしいアイディアだと思わない?』
小沢くんは一瞬迷っていたみたいだったけれど、すぐに笑顔になってこう言ってくれた。
『でも、どうやって海まで行く?』
『原付』とわたしは答えた。
話してなかったけど、わたしには年の離れたバイク気違いのお兄ちゃんがいて、昔からよく二人乗りさせてもらってたんだ。もちろん本当はだめなんだけど、運転の仕方も一から教えてもらったりした。だから、わたしは運転免許なんか持ってなかったんだけど、原付くらいなら余裕で運転できたわけ。ちょうどお兄ちゃんが初めて買った古い原付が車庫に眠っていたはずだったから、わたしは一回家まで帰って、こっそりそれを拝借してきた。お兄ちゃんはもう全然乗ってなかったんだけど、この原付には愛着があるみたいで、定期的にメンテナンスもしてくれていたから、エンジンも問題なかったし、走りごこちも最高だった。わたしはヘルメットのひもをしっかり締めて走り出し、デニーズまで戻った。小沢くんは店の外で待っていて、私の原付が見えると手を振った。わたしは小沢くんの前に原付を止めて『おまたせ』と言い、ヘルメットを渡した。
『そういえば海って、どこまで行くの?』と小沢くんはヘルメットを被りながらわたしに聞いた。
『熱海』とわたしは適当に思いついた地名を言った。
もちろん江ノ島とか九十九里浜の方が全然近かったんだけど、なぜだかそのときひらめいたのが熱海だったんだ。だからわたしたちは一晩かけて、熱海くんだりまで原付を走らせるはめになったってわけ。本当は東名に乗って行きたかったんだけど、原付は高速道路を走れないからやむをえず国道246号線から行くことにした。
『ちゃんとつかまっててね』とわたしは後ろに座った小沢くんに言った。
『オッケー』と小沢くんはしっかりわたしの腰に腕を回した。
それから原付で夜の国道を走りながら、わたしたちは色々な話をした。でも、今日は坂本くんのことなんかもあったし、恋愛の話は抜きにして、もっとまじめな将来についての話をたくさんした。
『イトちゃんは将来何になりたい?』
『昔は歌のお姉さんになりたかった』
『歌のお姉さん?』と小沢くんは聞き返した。
『うん』とわたしは言った。『NHKでよくやってたでしょう。子ども向けの番組で童謡なんかを歌ってたお姉さん』
『確かに僕も小さいころは憧れてたかも』
『だよね』とわたしも笑った。『でも、小学生になったころにはもう別に何にもなりたくなくなってた』
『いまは?』
『まだ見つかってない』
『イトちゃんってすごくクリエイティブな人だと思うから、美大とか目指したらいいのに』
『私の美術の成績知らないでしょ』
『僕だって美術の成績はひどいけど藝大志望だよ』
『絵の勉強がしたいの?』
『いや、何をやりたいのかはまだわからないんだけど、藝大ならそれが見つかるかなって思って』
『それなら私も藝大目指しちゃおうかな』
『いいね』と小沢くんは言った。『二人で藝大合格してさ、いっしょに暮らそうよ』
『それって最高かも』
わたしは小沢くんが(単なる思いつきだとしても)そこまで言ってくれたことに泣きそうになった。いままでわたしのことを一人の人間としてそんなに親しく思ってくれたのは、小沢くんが初めてだったから。
『変な話なんだけど、イトちゃんといるといつも思うんだ』と小沢くんは言った。『イトちゃんって僕の本当のお姉ちゃんみたいだって』
『わたしもずっと同じことを思ってた』とわたしも言った。『小沢くんってわたしの実の弟みたいだって』
『本当に姉弟だったりして』
『だったらよかったのにね』
そのうちに小沢くんはわたしの背中にもたれて眠ってしまったみたいだった。坂本くんとのこともあって、相当疲れてたんだと思う。わたしは小沢くんの温かみを背中に感じながら、原付をひたすら走らせた。
熱海に近づいてきたのは明け方のことだった。小沢くんは自然と目を覚まして『ごめん、眠っちゃった』と言った。
『もうすぐ熱海に着くよ』
『まだ海見えないかな』
『そのうち見えてくるはずだけど』
そして国道1号線をしばらく走って住宅街を抜けたあたりで、左手に海が見えてきた。
『あっ!』と小沢くんは叫んだ。
わたしも左手の海を一瞬だけ見た。夜から朝へと世界が切り替わる瞬間、海は本当に静かだった。毎日毎日このろくでもない惑星が飽きもせず自転を繰り返して、その度にこんなにも美しい瞬間がやって来ているんだと思うと、わたしはちょっと神様の存在を信じてみてもいいような気持ちになった。神様、とわたしは思った。
原付がスリップしたのはつぎの瞬間だった。わたしは車体が傾いた瞬間、『やばい』と思ってハンドルを切ろうとしたんだけど、すでに遅かった。そのまま横転して、わたしは運転席から思いきり投げ出された。嘘みたいな話なんだけど、わたしが空中に浮いているコンマ何秒かの間、全てがスローモーションで動いているみたいに見えた。一瞬何が起こったのか、全然理解できなかった。気づいたらわたしは道路にあおむけに倒れて、空を見上げていた。空をゆっくりと横切っていく雲がものすごくきれいに見えた。どこかから雀の群れの鳴き声も聞こえた。わたしはそのまましばらく同じところに倒れていた。
しかし、わたしはやがて正気を取り戻して、気力を振り絞って、何とか立ち上がった。そしてぼんやりとした世界の中で、遠くの方で横倒しになってめちゃくちゃになっている原付と、路上にうつぶせになって倒れている小沢くんの姿を見た。小沢くんのヘルメットはどこかに吹っ飛んでしまっていて、頭からはどんどん血が流れ出していた。わたしの記憶はそこまでしかない。搬送先の病院のヒトの話では、わたしは事故現場で気絶して倒れていたということだった」
イトはそこまで話してしまうと、口を閉ざした。しばらくの間、私もイトも何も言わなかった。窓の外から廃品回収車の流すアナウンスが聞こえた。
「わたしは病院に一週間くらい入院していたけど、奇跡的に大したけがは何もなかった」とイトは話を続けた。「無免許運転で死亡事故を起こしたってことで警察からも厳しく捜査されたけど、まだ未成年だったし、小沢くんのご両親が裁判ざたになることを希望しなかったおかげで、何とか保護観察だけで済んだ。パパとママはわたしに何も言わなかった。ただ、純粋に呆れたって感じだった。お兄ちゃんは『イトは何も悪くない』って言ってくれたけど、自分で自分がいちばん悪いことくらいわかっていた。小沢くんの葬儀は身内のみで行われたということを後から聞かされた。わたしには何もかもが現実のことじゃないみたいに感じられた。平凡な言い方だけど、ずっと夢を見ているような感じっていうか、本当のことを言えば、いまだってそうなんだよ。わたしは退院してから、高校を辞めた。そして一人で引きこもって、何も食べず、何も飲まず、眠りもせず過ごした。ろくにトイレにだって行かなかった。パパとママはわたしの頭が完全にイカれたんだと思って、この精神病院にわたしをぶちこむことに決めた。そんなこんなの運命のいたずらで、わたしはのうのうと生き延びて、いまここに座って、ムラカミさんとお喋りをしているってわけ。神様なんて、やっぱりいないんだよ」
廃品回収車のアナウンスは次第に遠ざかり、やがて何も聞こえなくなった。窓の外には雲ひとつない完璧なまでの青空が広がっていた。看護師たちは詰所で忙しそうに仕事をしていた。他の患者たちは相変わらず誰ひとりとして、病室から出てこなかった。いつも思っていたのだけれど、テレビもラジオも何もついていないと、病棟の中というのは本当に神様から見捨てられてしまった辺鄙な場所みたいに感じられるのだ。
「それでも」と私は言った。「君がいま生きていてくれているというのは祝福すべきことだと思うよ。本当に」
「祝福すべきこと?」とイトは笑った。「ムラカミさんってやっぱり変わってるね」
「別に普通だと思うけど」
「元気でね」とイトは時間を確認しながら言った。私も時間を確認した。そろそろネネムが迎えに来てくれる時刻だった。
イトは私に向けて右手を差し伸べた。私も右手を差し出した。そして私たちはしっかり握手をした。
「また、いつかどこかで」とイトは言った。
「いつかどこかで」と私も言った。
*
退院のための最終手続きで書類を書いているとき、私はいまさらながら気になったことがあって受付の担当に尋ねた。
「そういえば治療費のことなんですが、いつまでにどうやって支払えばよろしいんでしょう?」
「すでにお支払いいただいておりますので結構です」
「支払われている?」と私はびっくりして聞き返した。
「はい」と受付の担当は頷いて、手元の書類を人差し指でたどった。「鈴木様という方がこの間受付にいらっしゃって、全額お支払いされていかれたそうです」
*
ネネムは予定通り、きっかり昼前にタクシーで迎えに来てくれた。いつも通りの黒縁眼鏡に三つ編みのおさげという姿を見て、私は初めて「これから元いた世界に帰るのだ」という実感を得ることになった。私は荷物が詰まったトランクとプルーストの『失われた時を求めて』が詰められた虎屋の紙袋を持って、病院の前まで降りて行った。もちろん『東京の鱒釣り』の第一稿が書かれたノートと万年筆も忘れずに。
「おかえりなさい」とタクシーのそばに立っているネネムが笑顔で手を振った。
「ただいま」と私も片手を挙げながら返事をした。
私とネネムはタクシーに乗り込んだ。私は運転手に「荻窪までおねがいします」と言った。タクシーはゆるやかに発進した。私は一瞬だけ振り返った。数奇な運命によって、人生のうちの一ヶ月以上を過ごした武蔵野みなみ病院は、タクシーのリアウィンドウの中でどんどん遠ざかっていき、やがて見えなくなった。私は隣にいるネネムの顔を見た。ネネムも私の顔を見つめた。そして視線を虎屋の紙袋に落とした。
「プルースト、ちゃんと読みました?」
「正直に言うけど、ほとんど読まなかった」と私が正直に答えると、ネネムは呆れたようにため息をついた。
タクシーが赤信号で停まった。横断歩道を引率の教諭と幼稚園児の集団が手を上げて渡っていった。園児たちは何やら童謡のようなものを歌っているみたいだった。私は深呼吸をしてから、ネネムに「そういえば」と言った。
「『東京の鱒釣り』の第一稿が書けた」
ネネムは私の言葉の意味を確かめるように、ゆっくりとまばたきをした。まるで神のお告げを聞いた敬虔なキリスト教徒みたいに。そして、しばらくしてから口を開いた。
「先生になら書けるって、私わかってたんです!」
(第二部へ続く)
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