新世紀探偵(8:何号線かもわからない国道をひたすら走り続けた車が熱海に着いたのは)
何号線かもわからない国道をひたすら走り続けた車が熱海に着いたのは、もう夜も更けてからのことだった。南熱海市は深い霧の中につつまれ、しんとした静寂があたりにはりつめていた。周りにはコンビニエンスストアもなければスーパーマーケットもなかったし、チェーンのレストランも一つとして見当たらなかった。ときおり思い出したように現れる個人商店のような建物には全てシャッターが降りていた。あたりは全くの無音だった。
そのまましばらく車を走らせていると、私はまだ明かりがついている建物を発見した。それはどうやらホテルのようだった。暗すぎてホテルの名前はよく見えなかったが、どうやらかなりさびれたホテルのようだった。「レストラン」と書いてあるのがわかったので、私はそこに寄ることにした。そのうらぶれたホテルには初めて来るはずだったのだが、自動ドアを通ってエントランスに足を踏み入れた瞬間に不思議と懐かしさを覚えた。フロントにはスタッフの姿はなく、ロビーにも一人の宿泊客もいなかった。天井のスピーカーからはシャンソンのような音楽が流れていた。
ホテルの従業員でも宿泊客でも誰でも構わないから、とにかく私はレストランの場所を聞きたかった。しかし、誰かに聞こうにも周りにはいっこうに人の気配はない。そのとき、私はフロントの向かい側にエレベーターがあることを発見した。脇にあるボタンを押すと、すぐにエレベーターの扉は開いた。そして、私はエレベーターに乗り込んで、階数が書かれたパネルを見た。しかし、数字はほとんど消えてしまっていて、どのボタンが何階のボタンなのか、全くよくわからなかった。私はとりあえずいちばん下にあったボタンを押した。エレベーターの扉は閉じ、音を立てながら動き始めた。しかし、それが上昇しているのか、下降しているのか、私にはしばらく判断がつかなかった。なぜならあまりにも緩慢な速度で動いていたからだ。非常にゆっくりと上昇しているような気もしたし、非常にゆっくりと下降しているような気もした。そのまま目を開いていると、何だか頭がおかしくなってきそうだったので、私はエレベーターが止まるまで目を閉じていることにした。目を閉じていると自分がいまどこへ行こうとしているのか、さらに方向感覚があいまいになった。やがて、どこかに到着したらしい音が鳴って、エレベーターの扉が開いた。閉じていた目を開いて、私はエレベーターの外へと踏み出した。
エレベーターの扉が後ろで閉まったとき、私はどこかのマンションの通路に立っていた。私はその場所にも来たことがある気がして、強烈な既視感に襲われた。ブルーローズの花束。神の祝福。MとWのあえぐ声。そして、私はそこがどこだったかをすぐに思い出した。そこは私とMが以前に住んでいたマンションだった。私はそのまま誰もいない通路を歩いていって、いくつかある部屋の中から一つの部屋を迷わず選んだ。208号室。それは私とMが住んでいた部屋の番号だった。私はドアを押し開いて、真っ暗な部屋の中へと歩いていった。
(ドアが開いて、真っ暗な部屋の入り口に二人の人物が立っている。ブロンドヘアの女性とさえない雰囲気の黒髪の男性。部屋に入ろうとする女性を男性が押しとどめて、肩から腕にかけてのあたりを撫で回し始める。顔をそむける女性。顔を近づける男性。女性はわずかに相手を振りほどこうとする素振りを見せるが、男性はそれを気にもかけない。しかし、もう一度女性が抵抗をこころみると、男性はそのまま相手を部屋の中に踏み入らせる。女性の背後から近づいていく男性。そして男性は女性を振り向かせて、突然相手の背中に腕を回してハグをする。そのいきおいで二人の腕がドアの近くにあったスイッチに当たり、部屋の照明がつく。一気に画面が明るくなって、二人の人物の顔かたちと背格好がより鮮明になる)
暗闇の中の巨大なスクリーンでは、古い白黒映画が上映されているところだった。しかし、音だけが消されていて、登場人物たちが何を喋っているのかはよくわからなかった。私はこの場所にも前に来たことがあるような気がした。赤い布張りの座席が並ぶ空間。そしてまたすぐに思い出した。私とMが出会ったばかりのころ、二人でよく行った映画館だ。たったいまスクリーンに投影されている映画も二人で観たことがある。おぼろげな私の記憶に間違いがなければ、確か『恐怖の足跡』というホラー映画だ。そして、さらに私の記憶が正しければ、それは私とMが二人で観た最後の映画でもあった。
映画館の中にもやはり観客は一人もいなかった。私は真ん中あたりの列まで歩いて行って、スクリーンがよく見える中央の座席に腰を下ろした。
(明るくなった部屋の中で、男性は女性にしつこくキスを迫る。おびえたように逃げていく女性。男性はため息をついて、部屋の奥へと逃げた女性の方に視線をやる。次に何かを企んでいるような表情を浮かべて、大きな鏡が付いた化粧台に寄りかかるようにうつむいている女性の背後からゆっくりと近づいていく。そこでカットが切り替わり、今度は女性の顔がやや下側からクローズ・アップで撮られる。肩越しに近づいてくる男性の顔。それから男性は女性の肩に顔をうずめるようにしてキスをする。女性は顔を上げて鏡を覗き込む。すると鏡の中には先ほどまでとは別の人物の姿がある。死人のような真っ白い化粧をほどこした悪魔のような人物。女性は一気に目を見開いて、悲鳴を上げた。しかし、次にカットが切り替わった瞬間にはもう悪魔の姿は消えている)
そのとき、私はすぐ隣の座席に誰かが座っていることに気がついた。私はスクリーンからの光を頼りに、隣にいる人物の顔を確認しようとした。相手もこちらの顔を見ていた。それはミネコ・サカイだった。
「明かりはある?」とミネコ・サカイは言った。
ミネコ・サカイの声はミネコ・サカイの声のようでいて誰か別人の声だった。私は黙ってミネコ・サカイの顔を見つめ続けた。
「明かりはある?」
「君が何を言っているのか、私にはよくわからない」と私は答えた。そして「いったいここはどこなんだ?」と尋ねた。
「オズの国」とミネコ・サカイは言った。「Somewhere over the rainbow, way up high. There’s a land that I heard of once in a lullaby(虹の向こう 高い空のどこかに かつて子守歌で 聞いた国がある)」
「オズの国?」と私は繰り返した。「君はさっきから何を言っているんだ?」
「闇の奥にあいつがいる」と言ってミネコ・サカイは座席から立ち上がりながら、私に手を差し出した。ミネコ・サカイが何を言おうとしているのか、私にはよくわからなかった。しかし、私はミネコ・サカイの手をとって立ち上がった。
ミネコ・サカイは私を導くようにしてスクリーンの方へと向かった。映画はいつの間にか『恐怖の足跡』から『オズの魔法使』へと変わっていた。またしても音声はミュートされている。ドロシーとかかしときこりとライオンが東の悪い魔女と戦っているシーンだった。ミネコ・サカイと私はそのままスクリーンの前まで歩いて行き、巨大な東の魔女が高笑いしている姿を見上げた。ミネコ・サカイは一瞬、私の方を振り向いた。「闇の奥にあいつがいる」。それから、ミネコ・サカイは私を勇気づけるように私の手をさらに強く握った。ミネコ・サカイは私の手を引いて、スクリーンの中へ歩いていった。東の魔女の身体にそのままめりこむようにしてミネコ・サカイの姿が消えた。私もそれに続いた。スクリーンを通り抜けるとき、私は何も感じなかった。そのままこちら側からあちら側へ何の抵抗もなく移動してしまったという感覚があっただけだった。そのとき、ミネコ・サカイは私の手を離した(あるいは私がミネコ・サカイの手を離してしまった)。
「待ってくれ!」と暗闇に降り立った私はあたりを見回しながら叫んだ。次の瞬間、まるで私の叫び声に反応したかのように照明がともされた。
ミロのヴィーナスの彫像、緑の葉をつけた観葉植物、L字型に配置された二組の二人がけソファ、ガラス製のテーブル、その上に置かれたブルーローズの花束、ラッパ型蓄音機、暗幕のように周囲に垂らされている真っ赤なビロード。向こう側にあったのは、例のあの部屋だった。しかし、赤いビロードは前よりもだいぶくたびれているようだった。蓄音機からいつも流れていたシャンソンも響いてはいなかった。どうやら部屋の中の全てが前よりも少しずつ古くなっているみたいだ。彫像や観葉植物やソファやテーブルの上には埃が積もっていた。ブルーローズの花束もとっくに枯れて色あせてしまっている。
「お帰りなさい」とMは言った。「私はずっとここであなたを待っていた」
Mの顔は邪悪な緑色に染まっていた。東の悪い魔女、と私は思った。私とMはガラステーブルを囲むようにして、それぞれソファに座っていた。そしてMの隣には例の写真と同じ格好をしたつぐが腰かけていた。
「あなたはもう逃げられない」とMは唇から赤い舌ととがった白い歯をむき出しながら言った。「いまから私はあなたの魂を奪う。魂を奪われたあなたは二度とここから出ることはできない。あなたは魂を失ったまま、永遠に続く時間をこの部屋で過ごすことになる。あなたはもう逃げられない」
魂を奪う? 私はMに何かを言おうとしたが、口が動かなかった。前のときと同じだ、と私は思う。隣でけいれんし続けるドン。はげしく明滅する照明。流れ続けるシャンソン。
「そう、あなたもあなたの友人と同じようになる。そしてこの子どもも」とMは笑みを浮かべて、隣に座っているつぐの膝に手を置いた。「いまからあなたは自分のもっとも恐怖するものを見せられ、想像を絶する痛みと苦しみにあえぎながら、いっそのこと魂を奪ってくれと私に頼む。そのとき私はあなたの魂を手に入れることになる」
必死に身体を動かそうとしたが、どうしても動かすことができなかった。顔の筋肉一つとして、自由に動かすことができない。さっきまで近くにいたはずのミネコ・サカイはもうどこかに行ってしまった。もう誰も助けには来ない。そのことがわかったとき、私はみずおちのあたりから一気に恐怖がせり上がってくるのを感じた。心臓の鼓動が速くなり、息遣いが荒くなる。
「さあ、魂を差し出しなさい」とMは言った。「それが罪を犯したあなたに対する罰。あなたは私にそれだけのことをしただろう。死をもって贖え」
MとWのあえぐ声。私は寝室のドアを開ける。私とMが毎日いっしょに眠った寝室。そのベッドでMとWがセックスをしている。二人はセックスを続けながら、ブルーローズをかかえた私の方を見る。それから邪悪な笑みを浮かべる。ブルーローズの花束が床の方へと落下していく。スローモーションでゆっくりと落ちていく青い花。私はそのままやって来た方へと振り返って、寝室のドアを開けて逃げようとする。しかし、ノブを握ってドアを押し開こうとしても、釘付けされてしまったかのように動かない。私は必死でドアノブを握りしめ、無理やりにでもドアを押し開こうとした。
「魂を差し出せ」という声が後ろから聞こえてくる。「魂を差し出せ」。そう繰り返す声が後ろからどんどん近づいてくる。私はもうだめだと思った。そして全てを諦めて目を閉じることにした。そう、Mの言う通り、私は魂を差し出して、自分で犯した罪を贖うべきなのだ。それが相応の罰なのだ。まもなく私はMに魂を奪われ、この部屋から永遠に出られなくなるだろう。そして、もう二度とウィスキーを飲んだり、煙草を吸ったり、詩を読んだりすることもできなくなるだろう。私はドアノブを強く握りしめたまま、目を閉じて全てが済んでしまうのを待った。
しかし、そのとき、何故だかはわからないが、私は突然ヤノと食べたハーゲンダッツの味を思い出した。Mのいなくなった部屋のソファで、別れの挨拶に来てくれたヤノといっしょに食べたハーゲンダッツの味。クッキー&クリームとマカデミアナッツ。「私、クッキー&クリーム食べてもいいですか?」「もちろんいいに決まっている。君が買ってきてくれたんだから、君が好きな方を選ぶのは当然の権利だよ。それにこの二択だったら、私はマカデミアナッツの方が好きなんだ」。そう、あのとき、ヤノは本当に暗闇の奥のぎりぎりのところにいた私を明るい方へと引っぱり出してくれたのだ。「長い人生、まだまだこれからですよ。泣こうが笑おうが死ぬまで続いていくんです。どうせなら最後まで楽しんでやりましょう」「ガッチャ」。そして我々は二人で笑い合ったのだった。その瞬間、私の魂の内側に明かりが一つともった。それはささやかな光だったが、それでも確かな明るさを持っている光だった。私は再び目を開けた。
赤い部屋のソファに私は再び座っていた。もう一つのソファには悪魔のように変わり果てた緑色のMの姿もあった。しかし、そのすぐかたわらにはミネコ・サカイが立って、明かりのともったランタンをMにつきつけていた。その後ろにはつぐの姿もあった。Mはおびえたようにちぢこまって、ランタンから顔をそむけるようにしていた。
「やめろ!」とMは叫んだ。「明かりを近づけるのはやめろ!」
「明かりはある?」とミネコ・サカイはMにランタンを近づけたまま、私の方を見て言った。「明かりはある?」
「ある!」と私は叫んだ。「ここにある!」
ミネコ・サカイの持っているランタンの明かりはますます強くなっていった。「やめろ!」と顔を覆っているMの緑色の両手が焼けただれて、煙を上げ始めた。「やめろ!」。そして両手がどろどろと溶け出し始め、ミネコ・サカイの持つランタンの光がMの顔を直接照らし出した。Mはこの世のものとは思えない絶叫を上げ始めた。私も立ち上がって、ミネコ・サカイのそばまで歩いていった。そして、ミネコ・サカイの手に自分の手を重ねるようにして、いっしょにランタンを持った。
「ああああああああああ!」とMは叫びながらどろどろと溶けていった。Mの緑色の身体が上げる煙からは異様な臭いがした。Mは私たちの方にぼろぼろになった手を伸ばした。しかし、Mの身体はどんどんと輪郭をうしなっていき、伸ばしたその手も次第に形をなくしていった。やがてMはただの緑色の液体になった。身に付けていた服だけが後に残り、Mの姿は影も形もなくなった。
M、とミネコ・サカイとともに握っているランタンの光を見ながら私は思う。私は確かに君に対して罪を犯したのかもしれない。そして、それ相応の罰をもって贖っていかなければいけないのかもしれない。でも、それは魂を差し出すことによってではない。死ぬことによってではなく、生きていくことによって罪を償っていくという方法もある。
M、それに君はもう死んでしまった人間だ。しかし、私たちはまだ生きている。ミネコ・サカイも、つぐも、生きている。一方で死者は死者だ。あちら側に行ってしまった死者はもう二度とこちら側に戻ってくることはない。そして死んだ人間に生きている人間の魂を奪う権利はどこにもない。
ランタンの光はますます強くなって、部屋中を光で満たし始めていた。そして私やミネコ・サカイやつぐの身体も優しく温かくつつみこんでいった。
やすらかに眠れ、と私はMのことを思って祈る。そして、さようなら。もう二度と君に会うこともないだろう。
また、いつかどこかで。
(9へ続く)
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