2017年の10月1日は、まあ大変な日だった。翌日にラスベガスで打ち合わせがあるので、前の日からラスベガスに入っとこうと思って夜の9時くらいに空港に着いて、すぐにタクシーに乗って宿泊先のプラネット・ハリウッドに向かった。その途上、マンダレイ・ベイの横を通ったはずで、大きな野外コンサートをやっているのを見たはずなのだが、あんまり覚えていない。スマホでも見ていたのだろう。数十分後、その野外コンサート会場で、アメリカ史上最も多くの死者を出した銃撃事件が発生する。
結構長いんだけれども、あの日にfacebookに投稿したレポートを転載しておく。
当時の写真もいくつか載せておく。
いや、今思い出しても背筋が凍る。恐ろしかった。
それ以来、ちょっと怖くてできなくなってしまったことがあって、それは何かというと、アイススケートだ。
ニューヨークという場所は、緯度でいうと八戸とかに近いので、東京とかより全然寒い。ゆえに結構アイススケートが盛んな場所で、スケートリンクがたくさんある。
私たち家族は、ニューヨークに移り住んでからスケートをやるようになった。私も、全くアイススケートなんてできなくって、最初のうちは全然意味がわからなかったが、そのうち滑ることができるようになると、ああこれは愉快なものじゃないかということで、マイシューズまで購入して、毎週のように滑りに行っていた。
いつも行っていたのが、タイムズスクエアの近所のブライアントパークに毎冬設置されるスケートリンクだった。開けた公園の真ん中のスケートリンクで、みんなキャッキャ言いながら滑る。
のだが、この乱射事件ニアミス以降、行くのが怖くなってしまった。「こんな場所格好の乱射対象じゃないか」と思ってしまったのだ。
ラスベガスの屋外コンサート然り、テロリストはなるべく、楽しそうな人たちが集まっていると乱射をしたくなるのではないか。そっちのほうが世の中に与える衝撃はでかいだろうし、楽しそうな人たちが憎くて殺戮したい人というのもいるのだろう。
アメリカに住んでいると、こういうような感覚というのは当然リアルだ。
一方で、地方に行くと、そもそも車で長時間移動しないと人と会うことすらできない、広い国でもある。
人間にはコミュニケーションが必要だ。みんなで集まって楽しむことも必要だろう。ところが、特にアメリカでは、集まるのが物理的に非常に面倒だし、集まったら集まったで、銃撃やら何やら、リスクがでかい。
アメリカでは、人が集まるのが大変なのだ。
そう考えると、いま、この時代にいろんな人が「メタバース(現実世界とは異なる3次元の仮想空間)」なんていうことを言い出しているのは、日本人にとっては唐突な感じがしてしまうかもしれないが、自然の流れであるようにも感じられてしまう。
人が集まるのが大変でリスクもでかいアメリカの人々にとって、メタバースは、必要に迫られてつくらざるを得ない「物理的制約なく集まれて、銃撃されるリスクがない」理想郷なのではないか。そもそも日本にいて感じてしまう「本当にこんなん流行るのかな?」みたいな感覚と結構違うのではないか。
そんなことを強く感じさせるのが、私が7月に日本にやってきてから毎日通っているイベントだ。
イベントというと大袈裟だが、毎朝6:30AM、近所の広場に行くと、近所のおじいさんおばあさんが大量に集まって音楽に同期して身体を動かしている。そう。ラジオ体操だ。私は日本にやってきてから毎朝、老人たちに混じってラジオ体操に参加するようになった。
facebookの社名が「Meta」に変わった日の翌朝、いつものようにラジオ体操に参加していたときにハッと思った。「これって、リアルメタバースじゃなかろうか?」
ちなみにこれが、今朝のラジオ体操の様子。自分でも体操しなきゃいけないので最初だけです。
リアルメタバースってなんだよ、とも思うが、この国では、足腰の弱い老人でも、ちょっと歩けばこんなたくさんの人で集まることができるし、当然銃撃の心配なんて全くない。平和で牧歌的で日常的なラジオ体操だ。日本という国では、こんなにもカジュアルに、こんなにも意識せずにこんなことができてしまうのだ。
だからきっと、日本にいると「メタバースって本当に流行るのかな?」みたいな感覚になってしまうのだ。
コロナ禍は、たまたま日本人にも「集まるリスク」を感じさせる出来事だった。しかしそれはたぶん一時的なもので、しかし、日本の外に出ると結構事情が違う。
今後、一つの文化としてのメタバースとかバーチャルとか仮想現実とかを考えていくときに、こんなようなある種の「国際感覚」は、結構重要になってくるのではないだろうか。