0515「クオリティの呪縛」
今月はもはや毎週水曜日に出張に出かけているが、今日も早朝からロサンゼルスに向かっている。水曜日の早朝に出て、金曜日の深夜便で金曜の朝にニューヨークに帰ってくるという、先々週と同じ旅程だ。石狩と東京の二拠点を行ったり来たりして仕事されている岩崎修さんが書かれていた記事を思い出す。この生活はちょっと憧れてしまうやつだが、労働環境の変化っぷりでいうと私の生活も、もはやそういうノリだ。
昨日会議で思いつきで自分の口から言語化された話がわりと面白かった。それはどういうことかというと、良いのか悪いのかわからないけど、昨今のコミュニケーションにおいて、「とにかくいつもいる」というのがかなり大事なのだろうな、ということだ。
例えばYouTuberだ。YouTuberというのは前提として、とにかく動画をつくる。一日一本とかでつくる。毎日コンテンツを供給する。ヒカキンのある動画が仮に単品のおもしろ動画で、一発ものだったとしたら、うまいことゼロからバズをつくらないと大して多くの人には見られない。あれは、チャンネル登録という通知システムがあって、かつ毎日コンテンツが供給されるからものすごい数字を出している。もちろんそこにはYouTubeのスコアリングシステムとレコメンデーションの仕組みとか、そういうものが機能しているのもある。
たぶんTwitterでもinstagramとかでもそう。いろんな、フォローシステムがあるソーシャルメディアの仕組みにおいては、「いつもそこにいる」のは大事だ。
これは、似たようなことの繰り返しであっても良い、というか、たぶん似たようなことの繰り返しの方がむしろいい。つまり、チャンネルやアカウントごとにキャラクターを立たせて、何を発信して何を期待させるかが大事で、そこでは期待に応える中で徐々に新しいネタを提供することが求められる。
Twitterなんかだと、いろんなこと言うのはあまり良くなくて、そのアカウントにひもづいたキャラクターの行動原理を逸脱しない限りのツイートをしていれば、フォロワーとかは上がっていく。instagramも然りだ。このへんの、ソーシャルキャラクターみたいなものに自動筆記させるような話は先日、イケハヤ考察的な記事で触れたが、テレビタレントとかじゃなくて、ソーシャル上の有名人としてうまくいっているアカウントは、みんなそういうことをやっているのだと思う。
アプリみたいなサービスとかでもそうで、日々きちんとアップデートすることで、ユーザーというものはついてくる。
ちなみに、こんなこと書いといて私は自分でそういうことをやってきたかと言うと、全くそんなことはなくて、TwitterもInstagramも真面目にやっていない。ので、そもそも個人的にそこの機微に触れないでやってきたが、一方でデジタル絡みで何かつくって発信するような仕事をやっているので、本来そこの機微を理解することは大事だ。ところが、PARTYをつくった2011年くらいから、ずっとそのへんのソーシャルメディアの機微と自分がつくっているものがうまく噛み合わない状況が続いていた。
もちろん、つくったものがバズったりトレンドに入ったり、ソーシャル上でうまくいったことは何度もある。が、それだと点を打っているだけで線にならないので、ヒカキンにならない。
なんでそこがうまく噛み合わなかったのか、という謎が、突然昨日自分の口から言語化された。たぶんずっとそれは頭ではわかっていたが、初めて言語化した気がする。
「続けて発信してればコンテンツのクオリティは関係ない」というようなことを私は言ったのだ。これは改めて考えると語弊があって、もちろん一定のクオリティは担保しないといけないのだが、それでも、365日全てベストクオリティで出力するのは難しくて、必ずムラというものは出る。ヒカキンにも外れ動画も当たり動画もある。
この考え方は、職人的に丁寧に良いものをつくってリリースすることを生業としてきた私たちのやり方とまるで逆だ。「適当なものは世に出さない」ということを最も大事にしてきた人たちにとっては、「続けて発信する」のは許しがたいことだったりするのだ。ラーメン屋の店主が、「今日のスープは出来が悪いから」という理由で店を開けないようなやつだ。
「続ける」のはとても大変で、特にそういう発信をプロとしてやっているわけでない場合、「続けやすさ」というのは極めて重要な要素だ。書くにしても動画をつくるにせよ、一定のレベル以上につくるのが面倒だと続かなくなってしまうのだ。例えば、動画の場合、いちいち照明とかにこだわって美しい絵を撮りに行こうとしたりすると、とても毎日やってられないレベルで面倒くさいはずだ。努力が必要であるにせよ、毎日やっても良い程度の努力じゃないと毎日は続きえない。しかし、プロとして映像作品なんかつくっていると、そういうのが許せなくてどうしてもちゃんとやりたくなっちゃったりするのだ。実際、プロの映像屋さんがYouTuber業界に転身する、とかあんまり聞いたことがない。
この機微を今になってはっきり認識することができたのは、他でもないこの日記のおかげだ。まず、毎日無理やり続けるという前提があった上で、私はこういう文章については、プロではないので全く失敗を恐れずに、「今日のはつまんねーなー」とか思ってもとりあえず公開していく。大して反応がない(つまんねーなと思って公開したら結構反響があったりしたのもある)。しかし気にせず公開する。私の場合、特にキャラクターも専門も決めているわけではないので中途半端だが、アカウントのフォロワーは毎日やってるとコンスタントに増えていく(noteのアルゴリズムに乗っかっているだけ、というのもあるはず)。記事が増えると、他の人の記事からのレコメンデーションなんかで引っかかってきたりもして回遊性が上がる。
クオリティの呪縛というのは、この時代、結構多くのつくり手を時代遅れにしている可能性すらある。しかし、クオリティが高いものをつくる、というのは、ある種のつくり手にとっては生きること・働くことと同義だったりもするので、そこを割り切るのは、つくり手としての死を意味したりすることすらある。
ただ、これは「笑っていいとも!」みたいな毎日やっている番組のテレビの現場なんかではもしかしたら軽やかにずっとやってきた「作りやすさ・続けやすさ前提で、その中でがんばる」メソッドがある可能性があって、そう考えると、テレビの現場をやってきた人たちというのは、ソーシャルメディア発信に向いてるんじゃないか、という気もする。
両方理解して、翻訳できるようになれたら良いんだろうけど、そういうことができるのかよくわからない。越えられない壁があるような感じもする。