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0503「誕生日と例の本のバトン」

誕生日なのですが、毎年ながらFacebookだったりとかそういうような場所で、お祝いのメッセージを頂戴して恐縮です。私はそのへん不精なので、普段まずもってほとんどお祝いのメッセージをお送りしていないので心苦しいのですが(時節のご挨拶みたいのがどうもできなくて)、ありがとうございました。

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誕生日なのにニューヨークで始まった抗体検査に行って、大嫌いな採血をやってきたが、医者が一回静脈をミスって二回針を刺された。結果についてはまたきっと書くべきなので書く。

行きすがら、妻が「『採血』っていうから怖いわけで、『針血管』と呼んだらあんまり怖くないのではないか」と言っていて、やってみたが全然怖かった。

44歳になったのだが、これはもう本当に微妙で、44年間それなりの野心と意欲を持って生きてきたわけだが、まあこの、「何かやったった感」に欠けているところもある。伊能忠敬が地図を作り始めたの55歳だし、まあ、まだいいか、みたいな感じもなくはない。

この歳になると、時代的にも岐路を迎えているのはあるだろうし、資本主義っぽい構造の中でうまくやることは目的ではなくて全然手段だし、「金持ちになるぞー」みたいのもない。付随して、たとえばメディアに出るような有名人になるぞ、とか、フォロワー増やしてインフルエンサーになるぞ、みたいなのもこれはまたとても資本主義っぽいゲームだが、資本主義社会の中で会社やったり家族と暮らしたりしているとそれはまあもちろんそういう軸を避けて通ることはできないのではあるが、総じていうと目的ではなくて手段だなあと思う。

なんかそんなん書いたなと思ったが、昨年末に結構ネガティブな語り口でそういうようなことを書いていた。

基本的にこの記事を書いたときからあんまり気分は変わっていないが、世界を取り巻く状況は派手に変わってしまいつつあるので、書いてあることのリアリティは強くなっているように思える。今や、私たちに課せられているのは、今日明日をどう泳ぐかということでもありつつ、実際のところは、家に閉じこもっている時間をどう良い時間にするか、ということで、空間が限定されたり、オンラインになってどうでも良くなっていく中で時間の価値が高まっている。内向的な「時間の過ごし方」が問われるとき、「じゃああなた今日1億円使ってなんかやってください」と言われても、仕事でやりたいことに投資する以外に、その1億円が自分の過ごし方のクオリティを上げてくれるとも思わないし、あるいは何がしかのシステムの中でフォロワーが何千人何万人増えたりしたとして、それによって良い時間を過ごせるわけでは全く無い。

あんまり「丁寧な暮らし」みたいな感じになっちゃうと「丁寧な暮らしおじさん」になるので嫌なのだが、もうこうなると、良い音楽を知っていて、良い本を知っていて、今は行けないけど、良い温浴施設を知っていて、とか、家族との人間関係が良くて、あとはまあ仕事楽しい、とか、毎日の価値というのはそういうようなものが決めてしまうような気がする。それが普通なのだが、その普通が濃くなったというか。

私はアイスバケツも寄付で済ませたし、会社を辞める人に向けたビデオメッセージみたいなものも断りがちな恐らくノリの悪い人だが、大好きな大柴ひさみさんからいわゆるあれ、「7Daysブックカバーチャレンジ」のバトンを回して頂いた。たまたま、わりと自分語りをしても許される誕生日なので、ソーシャルメディアのタイムラインに連載するよりも、「人生レベルで大事な7冊」みたいなものについて全部ここに書かせて頂き、誕生日のご挨拶・お祝いメッセージへのご返礼とさせて頂ければ幸甚だ。日本の皆さんはゴールデンウィークだろうし、面白そうだな、と思ったら読んで頂ければ良い時間の過ごし方になること請け合いだが、正直なところメジャーな作品ばかりになる。大柴さんの本のやつはこちら。

だいたい、出会った順に書いていこうと思う。全部、まだ読んでない人は今すぐKIndleストア行け、今から読め、と言える(Kindleにないのもあるけど)。


・まんが道(藤子不二雄A)

そもそも1冊ではないが、もうのっけから説明不要だ。藤子不二雄先生が富山から上京して漫画家になっていく課程を描いた自伝的作品。

私が最初にまんが道に遭遇したのが恐らく小4のときで、普段そんなことはあまりしないうちの父が突然愛蔵版の分厚い「まんが道」を買ってきたと記憶している。父にとって「まんが道」が重要だったというわけではないはずで、ヘタしたら父は今でもまだ「まんが道」を読んでいないのではないか。実は私はこのくらいの年齢で、漫画家になりたいという希望があり、いろんな絵を書きなぐっていた。ので、父としては珍しく息子の夢を応援するような文脈で買ってきたのではないか。

内容は、説明不要と書いたが本当に説明不要で、もうこれは読んでないのなら読んでくださいとしか言いようがない。

ここには、藤子不二雄A先生が漫画家として上京する前に、新聞社に勤めていた時代のエピソードも含めて、「仕事をする喜び」「仕事をする意味」「仕事に伴う責任」がすべて詰まっている。これに小学校の段階で出会えたことで、仕事とか社会とか、そういうようなものへの理解の基盤ががっつり仕込まれた感じがする。

主人公の富山の新聞社の最初の上司に「変木さん」という人がいるのだが、この人はずっと、自分にとって憧れの職人として存在し続けている。

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・水滸伝(駒田信二・訳)

また1冊ではないし、偉大な中国の古典なので別に私から説明する必要はない気もするが、意外に知らない人も多いので、一応説明すると、宋の時代の政治が腐敗してグダグダになった中国で、立ち上がった人たちとか、ならず者とかいろんなスキルを持った人が108人、梁山泊という山に集まって、政府と戦ったりする話だ。序盤は、ならず者たちが仲間になって集まっていく課程が描かれる。

水滸伝は全く固い話ではないし、三国志なんかと較べられることが多い気もするが、三国志みたいに価値観が固定されていなくて、登場人物のキャラクターや思想が多様だ。というか、泥酔して暴力をふるう糞坊主とか、浮気した兄嫁をぶち殺すとか、追い剥ぎして人肉を店に出すとか、わりとそういう話ばっかりで、結構めちゃくちゃだ。

最初に水滸伝に出会ったのは、中学生のとき、学校の図書館の司書の先生と雑談をしていて、確か、「ここの図書館って漫画ないんですか?」と聞いたら「漫画はないけど水滸伝の画本ならあるよ」と言われて見せてくれたのが美しいイラストと一緒にまとめられた「画本水滸伝」だった。これにハマって読みまくり、高校に上がるくらいには同じ駒田先生が訳された講談社文庫の水滸伝がボロボロになる程度には読んでいた。

水滸伝は、基本的にはただひたすら面白いだけの話だが、私にとっての「かっこいいとは何か」は、わりと水滸伝をベースに形成されてしまったところがあって、すなわちそれは結構偏った価値観でもあるので、困ったことになることも結構ある。


・虚航船団(筒井康隆)

出会ったのが高1のとき。場所は忘れもしない、サンフランシスコの紀伊國屋だ。高1の秋、ブラスバンドの先輩が本当に嫌いで、逃げたい一心で学校の交換留学制度に応募したら行けることになってしまって、カリフォルニアの学校に2ヶ月行った。それが自分にとって初めての海外だった。

で、当時はスマホもないしネットもないわけなので、日本語に触れることがない。全然ない。カリフォルニア生活も後半になって、日本語が相当に恋しくなったところで、ホームステイ先のマックスくんがサンフランシスコの紀伊國屋に連れて行ってくれた。

そのとき、日本語に飢えていた私が手にとったのがこの「虚航船団」だ。筒井先生の本なのでジャンルとしてはSFということになるのだろうが、SFの顔をしつつ、そうとも言い切れない感じがある。

わりと分厚い3部構成の本で、第1部は、他の星を征服しに行こうとしている文房具たちの話だが、これらの文房具たちはみんなそれぞれに頭がおかしくなっていて、今のソーシャルメディアとかにもたくさんいそうな、病んでしまっている人たちの群像劇が展開される。

ところが第2部は全然違って、その文房具たちが征服しようとしている星の歴史が語られる架空歴史小説になる。で、第3部は、実際に征服が始まる(この星にとって、文房具の襲来がハルマゲドンになる)。

折に触れて読み返しているが、今思えば、この小説はかなり客観的な小説で、自覚はなかったが、まあ発達障害な人ではある自分にとっては、人とか社会の理解の仕方を仕込んでくれた1冊な気もする。ただ何より、あまりに面白い本なので、難しいこと考えずに数日楽しめるはずだ。


・カオス―新しい科学をつくる(ジェイムズ・グリック)

高2のとき父が買ってきた。これは父が読んでいた本を借りて読んでみたパターンだ。当時、母が図書館の本の表紙をビニールの保護テープでカバーするバイトをしていた関係で、この時期の父の本は保護テープに包まれていることが多く、この本も保護テープに包まれていた。

いわゆるカオス理論とか、フラクタルみたいなものは、1990年代前半の当時は非常に新しい科学だった。

というか今もまあそういう感じはあるが、1990年代って、もう世の中の概ねの謎は解き明かされていて科学的にもかなり成熟した状態、世の中の構造が明らかになっている状態、みたいな感覚が高校生の自分にもあったのだが、そんな科学的に進歩した時代に、今までとは全然違うタイプの科学が登場して、どうやら調べてみると世の中は実はそういうもので構成されているらしい。なんだったら、人間の行動とかそういうものもかなりそういうパターンを描き出すものらしい。という、「全く新しいやばい科学」の発見課程を描いたドキュメンタリーだ。

アルキメデスがなんか発見したときに「エウレーカ!」なんて言って興奮したエピソードは有名だが、もうそんなに「エウレーカ」なんてないだろうという程度に成熟した世の中で、現在進行系のカオス科学の世界で「エウレーカ」が勃発しまくっている、ということを高校生の私は知った。

何しろ、株価の推移と雲の形とか葉脈の模様とかが似たような式で表現できるよ、みたいな話なのだ。「隠された世界のルール」みたいなものがそこでは明らかにされようとしている感じだった。これ以降、すぐに人間関係や仕事の中でパターンとか収穫逓増みたいな概念とかが脳内で持ち出されて、それに則って対処するようになってしまった感がある。

そして、影響を受けすぎて、その年の冬に我が家にやってきたシェットランド・シープドッグは「カオス」と命名された。


・深夜特急(沢木耕太郎)

私は大学に入ったらすぐに堕落してしまって、ほとんど授業を受けずにジャズをやっていて、ダラダラと自分探しをし続けた結果、途中でデザインの仕事をやり始めて7年在籍した大学を中退した。

7年間の後半は、比較的自由の利く仕事をやりながら、時間を見つけては旅に出ていた。いわゆるバックパッカーというやつで、タイに行き、中国に行き、ヨーロッパを放浪し、南米で沈没した。今ですら、バックパッキング癖は抜けない。出張中とかもすぐに陸路で移動したくなる。今までの人生で、スーツケースというものを持ったことが無いのも、このへんを引きずっているのだと思う。荷物など旅の邪魔だし、なんだったら人生の邪魔だくらいに思っているところがある。

「深夜特急」は今も昔もバックパッカーのバイブルなのであって、ここには旅を通して、世界と自由に接する方法が全て書いてある感はある。前半のアジア的な狂騒と酔狂の描写はそれはもう楽しいし、引き込まれるが、それは、もしかしたら巷のいろんな旅行記にも描かれていることなのかもしれない。

「深夜特急」を唯一無二たらしめているのは、旅の終わりが見えてきて、飽きや疲れすら描かれる終盤だ。「もうすぐ話が終わってしまう」という読者にとっての寂しさというか喪失感と、主人公が感じ始めてしまう世界や人間の空虚な何かがシンクロして、ただの旅行記とは全然違う「旅も人生も終わりを迎えるためにあるのだ」という感覚が入ってくる。この感じは、うまく言えないが「恋」とかに近い。

こんな話を前にも書いた気がするなと思ったら書いていた。

人生にも、人間関係にも、1日にも、何かの感情にもすべて終わりがあるのだ。みたいな感じが先の見えない中退野郎だった私には非常によく沁みた。


・図南の翼(小野不由美)

もともとはライトノベルとしてスタートした伝奇小説シリーズ「十二国記」シリーズの第5作。「十二国記」の世界には、文字通り十二の国があって、人と獣を自由に転変できる「麒麟」が、その国の王を選ぶ、というルールがある。麒麟自身も自分の意思で選ぶというよりは、王に会って「こいつが王だ」と思ったら抗えずに選んでしまう。というのがこの世界の設定で、まあまあそのシステムが軸になって話が展開する。

で、この「図南の翼」は、その中の1つの国の金持ちの少女が麒麟に会うために旅をして、王に選ばれるまでの話だ。一応、それまでの4作からは独立した話だが、「十二国記」は最新作以外はどれも読まないと損なので、他のを読んで世界観を把握してから読んだほうが良いかもしれない(昨年18年ぶりに発表された最新作については、十二国記とは別の何かだったと思うことにしている)。

主人公の金持ちの少女は最初から完全に生意気なガキとして描かれるが、世界や、人の営みに対する理解を深めて、成長していく中で、読み終える頃には、生意気なガキであることは変わらないのに、この少女以外の王など考えられないと思えるほどに読者の視点も変わっていく。

少女をサポートする登場人物はドライであるように見えて、非常に全うに仕事に向き合っている人たちで、そういった人たちを通して少女と一緒に、相手をリスペクトするとはどういうことなのか、プロとはどのように振る舞うべきなのか、みたいな非常に大事なことを注入される。

仕事をする中で、当然ながら人を巻き込んでいろいろやっていかなくてはいけないが、「この人は黄海(この旅の舞台)ではどのように振る舞うだろう」「あの登場人物だったらこんなときどうしただろう」なんていうことを行ったり来たりして考えることがある。そう考えると「図南の翼」は非常にビジネス書だよなあと思って検索したらこんな記事があった。いや本当に「大切なことはぜんぶ、ここに書いてある。」と私も思う。


・夕凪の街 桜の国(こうの史代)

この漫画は薄い。20分か30分くらいで読めてしまうかもしれない。数年前に同じ著者の「この世界の片隅に」の映画が話題になったのでそっちに持っていかれ気味だが、「この世界の片隅に」が映画になる前は、どちらかというとこっちの「夕凪の街 桜の国」のほうがこうの史代先生の代表作扱いだった気がする。

原爆にまつわる話だが、戦時中の話ではなく、生き残った人々の暮らしを描きながら原爆に触れていく話。震災の年に新しい会社をつくるちょっと前の年末だったか、鬱屈していた私に妻が「一人でどっか旅行に行っておいで」と言ってくれた日に、たまたまこれを読み返していて、その足で新幹線で広島に行ったのを思い出す。

私にとっては、自分の家族について考える上で大事なことを教えてくれた本で、妻となんで一緒に暮らしているのか、とか、3人の子供たちがなんでうちに生まれてきたのだろう、とか、自分はなぜあの父母のところに生まれてきたのだろう、みたいなことを考えるときに納得の行く答えがふんわり描かれていたりする。

映画化やドラマ化もされているが、原作のほうが4824億倍くらい良い

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ということで柄にもなくバトン的なものに参加してしまった感もあるが、自分の誕生日なので、たまには自分が何でできているのか、ということを振り返る上でこの作業は良かったような気がする。

上記の中で読んでいないものが1つでもあった方のことがとてもうらやましい。「スターウォーズをまだ観たことがない人がうらやましい」みたいなああいう意味でうらやましい。

みんなにも読んでほしいですか?

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