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桜新町が栄えてないのが実は微妙にうちの先祖のせいだった件

ご依頼を頂いて、SUUMOタウンさんに、生まれ故郷の桜新町についての記事を書かせて頂いた。

本業(技術屋さん)とは関係のない内容ではあるが、お仕事なのでいつもここに書いている適当な文章より2.5倍くらい真面目に書いた。

企画の初期段階で、25年前のバイト先であるCHERRYJAMに25年ぶりに行ってみて、それをネタにするぞ! というのは決めていたのだけど、いざ本当に行くとなるとえらい緊張した。が、行ってみたら全然変わっていなくて、酒のラインナップもだいたい同じだった。

書き終わってから現マスター(私を雇っていたマスターの息子さん)に原稿もチェックして頂いたのだが、その際に、マスターが、「桜新町が『街』っぽくならない理由」を考察して教えてくれて、それがとても面白い話だったので、スピンオフ的に記事にしておく。

今の田園都市線の中でも、渋谷から二子玉川までの区間は、以前は「新玉川線」と呼ばれていた区間で、それができるさらに昔は、「玉電」と呼ばれた玉川線という路面電車が運行していた。

この「新玉川線」区間では、渋谷は別格として、池尻大橋・三軒茶屋・駒沢大学・桜新町・用賀・二子玉川という駅があって、その中でもわが町・桜新町だけ栄えてなくって「町」だよね、という話を記事中に書いたわけだが、それにはそれなりの理由があるのだ、ということをマスターは語った。

たとえば三軒茶屋は、大山詣りで有名な大山道(いまの246)と登戸道(いまの世田谷通り)が交わる場所で、そもそも交通の要衝だった。だもんで、その名の通り茶屋があった。で、その246と世田谷通りに挟まれた通称「三角地帯」には、エコー仲見世とか、今も狭い飲み屋とかがぎっしり並んでいて非常に風情がある場所なわけだが、このへんは戦後まもなくのヤミ市跡だ。地政学(?)的に人が集まる場所だったのだ。

用賀は宿場町だったし、その先の二子玉川は、多摩川の手前だ。橋がなかった頃は二子玉川に「二子の渡し」というのがあって、渡し船で、向こう岸の今でいう神奈川県に渡った。この渡し船は、橋ができる大正時代まで存在していた。渡し船の両岸には、ちょっと休憩でもしようかということで花街が栄えることになるものらしい。

しかし二子玉川が最も歓楽街として栄えたのは関東大震災がきっかけでここに橋をかけることになったかときらしい。対岸の二子新地も「二子三業地」という歓楽街で、そこと合わせてだが、要するに、橋をつくるための建設関係者がめっちゃたくさんこのへんにやってきて遊ぶようになったらしい。用賀もその影響でさらに「街」化した。

で、桜新町はどうだったのかというと、これはあんまり知らなかったし、調べてもあんまり出てこないことなのだが、大正時代くらいに、桜新町の南にちょっと行った、今でいう深沢のあたりの土地が、軍将校用の邸宅地として分譲された、というのがあったらしい(たぶん陸軍か)。今でいうと、息子が覚せい剤で何度も捕まっている三田佳子さんの家とか、明石家さんまが結婚してたときの豪邸とかがある地域で、芸能人とかが多く住んでいるイメージが強い。

軍のお偉いさんが住んでいる場所の近所、となるとこれは大変コンサバな雰囲気にならざるを得なかったらしく、町人向けの賑やかなお店などは入ってこれる感じではなかったらしい。

で、たぶん、このあたりにあった軍の将校の邸宅の跡地(それなりに敷地が広い)の不動産が取引され、芸能人や富裕層に譲渡されていく、というのが高度成長期に起こってきたことらしい。

「らしい」とか言っているが、実はこのへんの話は私にとって全く他人事ではなくて、「あ、それってそういうことだったんだ!」という答え合わせになる話だったのだ。

戦前からこのへんの地域に住んでいる母の実家は、もともと深沢のあたりにあったらしい。今は土地を譲渡して駅の反対側に移って、今は私の実家になっている。戦後しばらくしてから引っ越したという話だった。

最初に深沢に居を構えたのは私の曽祖父(ひいおじいちゃん)で、この人は堀田正一という人だ。もともと長州藩の生まれだったはずで、そのへんの血縁がややこしいのだが、ひいおじいちゃん関連の先祖には宍戸璣(ししどたまき)という人がいる。この人は長州時代の名前、つまり明治維新以前は「山県半蔵」という名前で、たまに幕末の大河ドラマなんかでチョイ役の長州志士として出てくる人物だ。私の先祖は幕末志士なのだ。

で、ひいおじいちゃんの堀田正一さんもバリバリの長州人で、山県有朋さんの副官をやっていたというのを聞いたことがある。山県有朋と言ったら、幕末明治のドラマとかで大抵悪役として描かれる、陸軍の重鎮だ。というわけで、うちのひいおじいちゃんは陸軍のお偉いさんだったのだ。陸軍データベースみたいのにも検索すると出てくる。

つまり、上述のマスターの話、大正くらいに深沢の土地が陸軍将校に分譲された、という話と私の母方の堀田家の歴史がばっちり符合するのだ。うちの母方の家は、この分譲のタイミングで桜新町にやってきたのだ。

ひいおじいちゃんの息子の、私の祖父も同じように陸軍大学校に行って陸軍将校になった。終戦も将校として迎えたはずだ(第二次世界大戦のときに、彼がどういう立場で何をしていたのかはよく知らないが、戦犯になったとかは聞いたことがない)。

戦争が終わると、自衛隊ができるまで元軍属は仕事などなく、家はとても貧しくなったのだと聞く(祖父は最終的に自衛隊に入った)。そして最終的には深沢の大きい土地を手放して駅の反対側に引っ越した、ということだ。という話も上述の話と符合する。

私は、もともと母がそのへんに住んでいて馴染みがあったからなのか、ちょっと遠かったけど深沢の幼稚園に通っていて、そういえばその幼稚園には「東條さん」という女の子がいて、その子が「東条英機の孫かひ孫」だと言うのはずいぶん周囲から聞かされたものだ。が、当時は幼稚園児だったので東条英機が誰なのかは知らなかった。何しろ、東條さんの家も、恐らく大正の分譲で桜新町にやってきたのだろう。桜新町地域の南部は、陸軍タウンだったのだ。

ちなみに、その幼稚園の同級生には乙武洋匡さんがいて、当時一度乙武さんの家に遊びに行ったことがある。たぶん覚えていないだろうけど。この記事をTwitterで告知するときにメンションしてみよう。

SUUMOタウンの記事では、やや、「街に挟まれてちょっと煮え切らない桜新町」を自虐的に描いたようで、その遠因は実は自分の先祖たちがそこに住んでいたからだ、ということが判明してしまった。

自分の先祖がお固い陸軍のお偉いさんだったから、そういう人たちが集まっている近所の桜新町はコンサバ気味になってしまった、という、微妙にブーメランめいた話だったらしい。生まれ育った土地にも知らないことがたくさんある。

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