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0825「川向うのフジテレビ」

私は職業柄、といっても、私の職業は複数の職業を掛け持ちしてハイブリッドしているようなところもあるのでいろいろだが、広告っぽい仕事もするし、音楽系の仕事なんかもするので、普通の仕事をやっているよりか、芸能人とか有名人と接することは多いのだと思う。接しがちだ。そんなに友人とかというほどの関係の人はいないが、仕事ではまあまあいろんな人と絡む。

で、妻の実家に帰って、義姉とかに最近どんな仕事やってるの的な話を聞かれてそういうのを絡めて話すと、「すげーーーー」みたいなことになったりする。それはまあそうで、普通に生活していると、芸能人なんて当然「向こう側」の人だ。だから、こういう話をすると「向こう側と接点がある人」としてすげーってなったりするが、そういうのはまだまだありつつも、実際のところそういう、此岸と彼岸の境目というのはかなりゆるくなってきているのは間違いない。芸能人はソーシャルメディアでなんか言って、時にはうかつなことを言ったり怒ったりもする。大昔よりは随分近い存在になったのだろうと思う。誰とめしを食ったとか、どこにいるとか、そういったものもそこそこそういうところから滲み出るし、自分でやっていなくても世の中の人に見られてしまっている。

実際問題そこにはなんの価値も無いし実際のところ此岸と彼岸もないが、そこには謎の「付加価値」というものがあって、みんなそういうのを自慢したりもする。先日、facebookで、キアヌ・リーヴスのなんかのメッセージの和訳、というのが流れていて、たぶんこのメッセージの中には「自分もただの人間ですよ」というニュアンスも入っているはずなのだが、驚くべきことにこの投稿のコメント欄には、「僕の妹が日本でのキアヌの通訳をやっていたので身近な存在です。」とか「数年前、仕事場のランチテラスで真ん前に座ってる青年がキアヌリーブスだと人に言われるまで気が付かないほどに謙虚で聖者風なオーラをはなっていました。まさに偽りなくこのままでした。」とか、そういうことをわざわざ書いている人がいて、「すげえなwww」と思った。私も、ニューヨークのデリでマイク・タイソンに遭遇した、とかそういうのいろいろあるけど、この投稿のコメント欄はそういうの書くところじゃないような気がする。

しかし、その謎の「付加価値」は前述のように目減りしているのだと思う。この付加価値を因数分解すると、「川の向こう側の楽しい世界の住人 or 行き来できる人」ということになるかもしれない。

長めに日本にいて、すごく実感として感じたのは「フジテレビの空回り」だ。フジテレビの凋落が語られるようになって久しい。そして日本に滞在していても普段の生活でほとんどフジテレビというか民放を見ることはないが、サウナ室なんかでたまに見たりすると、びっくりしてしまうほど、中身がなくなってしまっているように見える。ちょっとした画面から、「どうすればよいのかわからなくなっちゃった感じ」というのが伝わってくる。

思えば、私が子供の頃のフジテレビというのは徹頭徹尾「川の向こう側の楽しい世界」だった。現実社会では触れ合えない天竜人たちが楽しそうに遊んでいる楽園、それがフジテレビだった。その「内輪感」は、かなり貫かれていたように思うし、当時においてはとても眩しく見えた。

ところが、誰でも川の向こう側に足を伸ばすことができるようになったり、川向うの人がこっちに来るようになったとき、フジテレビはピエロになってしまう。フジテレビというファンタジーが、現実世界と接点を持たざるを得なくなって、よくわからなくなってしまったのが今のフジテレビなのではないかと思う。

似たような構図が、音楽雑誌なんかにも言えると思う。昔の音楽雑誌は、編集者による、「誰それとめしに行った」とか、ミュージシャンを川の向こう側の友だちとして描く傾向が強かったように思うが、時代が変わって、そういう関係性のつくり方、読者の此岸化が前時代的になってしまった。

ここまで来て、たぶんこんなの、さんざんいろんな人が言っていることで、別に今私が言い出すようなことではないんだろうなと思ったが、ここまで書いちゃったので、公開して置いておく。