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1228「ブロックチェーン的な心意気」

自分が仕事柄そこそこブロックチェーンに触れているからなのか、世の中の課題意識から必然的にブロックチェーンというものが生まれたからなのかわからないのだが、表題の通り、ブロックチェーン的な概念は最近の人々、とりわけ若い人の感覚と結構リンクしているような気がする。

いわゆる「Z世代」みたいなことなのかもしれない。そのへんは良くわからない。

みたいなこと書いてると、最近のWIREDみたいな、横文字で猫だましをかましてわかった気にさせる系の言説っぽくなってしまうので、そうならないようになるべく逃げずにまとめてみようと思う。頭から当たって押し出していきたい。

ブロックチェーンというと、暗号資産とかNFTとかが想起しやすい。で、このへんのキーワードを目にするとモヤっとする人も多いはずだ。ビットコインにしてもNFTにしても、これだけ注目されたきっかけは、「なんかビットコインめっちゃ儲かって億り人になったぜ」とか「NFTで作品がウン百万で売れたぜ」みたいな、わりとあぶく銭文脈が強いのはまあ間違いないだろう。

でもって、そこにわーっと食いついて参入して盛り上がっている人たちも、もちろん全ての人ではないが、あんまり仕組みや考え方を理解しないで投機的にワンチャン狙って火に薪をくべているような人たちが多い印象ではある。

かく言う私も、仕組みをわからずに、手書きで描いたイーロン・マスクのサインをNFT化して売りに出してみたが(本人はめっちゃアートだと思ってやってはいるのだが)、こんなどうでも良いものを買ってくれる人がいるわけもなく、多額の発行費用をドブに捨てることになった。良い経験になった。

これを下のリンクで売ってました。いま12ドルくらい。

何しろ、私も同じ穴のむじななのかもしれないが、こういう新しい儲かりそうなものを囲んで盛り上がり始めてしまう人たちには、「ああ、またこの人か」みたいに思わせてしまうような方々も多く、そのへんがまた、こういった技術や概念に対する世の中の警戒感というか、「あやしさ」を増幅させているところもあろうかと思う。

ところが、ブロックチェーンという技術・概念の本当に面白いところ、というか革命的なところは、そのへんの投機的な話とあんまり関係のないところにあって、それは何なのかというと、わりと多くの人には釈迦に説法かもしれないが、「非中央集権」であるというところだ。

わかりやすい話でいうと、銀行の口座というか、入出金履歴とか残高みたいのは、当たり前だけれど銀行という一企業が管理している。ので、銀行が破綻したりするとお金がおろせなくなっちゃったりする。

一方、ビットコインみたいな暗号資産の多くは、銀行みたいな一企業や一団体じゃなくて、世界中にあるたくさんのコンピュータで何重にも分散して管理されるので、そのうちのどれかが壊れてもびくともしない。

前者は、銀行に権限や責任が集中してるので「中央集権」、後者はいろんなところに分散してるので「非中央集権」だ。

NFTなんかもおんなじで、例えば私がピアノの師匠である西山先生の新譜をApple Musicで購入するとする。そうすると当然その購入履歴とかはAppleが管理するし、新譜はApple Musicでしか聴くことができない。この場合、Appleが「銀行」だ。Appleが潰れたら、聴けなくなってしまう。

ところが、NFTで保証されるデジタルデータの所有権というのはブロックチェーンで分散的に、世界中のたくさんのコンピュータで管理される。今のところ仕組みが整っていないので想像しづらい状況かもしれないが、例えば音楽ならApple Musicだけとかじゃなくて、所有権を持ってさえいればどんなサービス上でも聴けるようになる、ということになる。

暗号屋 / BASSDRUM の紫竹さんがつくっているVWBLというプロトコルの開発は、そのへんの仕組みの整備に向けて取り組んでいる活動でもある(違ってたらごめんなさい・・・!)。

どこかの団体や人が資産や記録を一元管理するのではない、分散した感じ。それが「非中央集権」というやつだ。

で、この「非中央集権」な感じが、最近の人々の考え方や活動にすごく影響を及ぼしているような気がしてならない。「非中央集権」は、例えば、大きな話だと人々を国の都合から解放してくれることになる。

もう少しスケールの小さいところだと、前述のAppleの例みたいな「プラットフォームからの解放」ということになるだろう。現在のような、Google帝国やFacebook帝国がビッグデータ独占して世界を牛耳っている状況を変える可能性がある。今のこういった巨大テック企業はとっても中央集権ではある。

アメリカのニュースやアメリカの友人の投稿なんかを見てると、このへんの中央集権的な状況に対するウンザリ感はすごい。中央集権的な大統領選の仕組みの上でドナルド・トランプを大統領に選んでしまったことで、多くのアメリカ人は傷ついて自信を無くしてしまった一方で、CNNとかのマスメディアはマスメディアで中央集権でやりたい放題なので、それに絶望した人々がトランプを選んでしまった、という側面もある。

Facebookは、いまものすごくバッシングされている。それはもちろん、個人情報を中央集権的に好きに使われていることへの嫌悪感から来るものだし、私の周囲のアメリカ人たちには、もうFacebookは使わない、という人も多いし、若い人たちがFacebook を敬遠するのもそういうことなんだろう(じゃあInstagramは? と言われたら、言葉に窮してしまうが)。

この「大きな力に好きにやられたくない」という感じは、国やプラットフォームみたいな大きい話だけではなくて、「会社」なんかもそうなってきていると思う。大手広告代理店とかへの風当たりの強さとかもこの感じと無関係じゃないように思う。

「ティール組織」なんて考え方が脚光を浴びたが、あれなんかはまさにそうだ。社長とか株主を頂点にごついヒエラルキーで構成されている会社は、今までは当たり前ではあったけれど、それに対する問題意識は広がっているように思える。ティール組織をはじめとして、もっと非中央集権型で組織を運営する方法が模索されているように感じる。私たちがやっているBASSDRUM も、あんまり明文化してなかったけど、そのへんはかなり意識してきた。

旧来の組織だと、上司に意見を言うのも難しい状況が起こりやすかった。しかし、構造が非中央集権になっていると、上司というか、年上の同僚というか、立場が上っぽい人にも何でも言えるような感じになる。流行りの「心理的安全性」というやつだ。

極端な話、「家族」みたいな小さい単位でも同じで、男が家長で亭主、みたいな家庭内中央集権的な考え方はどう考えたって古い、という感覚はあるだろう。

自分の周縁で言うと、例えば広告賞なんかは数年前に比べて求心力も影響力も全然無くなってしまったように見える。偉いクリエイターが人が作ったものをどうこう評価する、みたいな構造は、非中央集権的な物差しからすると、古い。私の世代なんかは、かっこつけて「広告賞なんかどうでもいいぜ」みたく言う人もいたけど、今の若い世代は、本当に広告賞なんかどうでもいいと思っているように見える。

さらに言うと「スタークリエイター」みたいな存在も生まれにくくなっているような気がする。偶像化が本懐のアイドルや芸能人とは違って、私たちの周縁にいるようなつくり手が偶像化される、という傾向は過去のものになっていくような気がする。憧れや称賛を偶像化する形で個人に委託する、というのが時代にそぐわなくなってきている感じすらある。私の世代なんかは、よくメディアに出る同業者を、やっかみ半分に腐したりするものだが、今の若い世代は本当に心からそういう人たちを痛いと思っている可能性がある。

「SDGs」みたいな言葉への違和感を表明する人たち(まあ若い人たちに多い)も周囲に多い。確かに、SDGsみたいな概念は、既得権益を持っている人たちが必死に時代に適応して権益を守るための方便のように見えなくもない(もちろん、純粋にそれを信じて活動している人もたくさん存じ上げているけれど)。

ニワトリが先か卵が先かわからないが、そういう「ブロックチェーン的な心意気」が大なり小なり、近場から海の向こうに至るまで広がりつつあって、ダサいとか、イケてるとかの基準になりつつあるような気がする。なんか、江戸っ子にとっての「粋」かそうでないかに近い感じがある。だから「心意気」だ。

そしてそこにブロックチェーンというその空気を仕組み化・具現化した技術がある。なんか、良いことなのか悪いことなのかわからないけれど、誰かが社会実験しているんじゃないかとすら思えてしまう。私などは時代に流されて変化を楽しむくらいのことしかできないような気がするが、大きく変動しているのは気候だけではないのだと思う。

で、何が良いって、お休みに入ると、こういう、ずっとふんわり思っていたことをきちんと整理できるから良い。電車に乗りながら携帯電話でこの文章を書いているんだが、目的地の駅を乗り過ごしてしまった。そんなことをしてもがっかりしない心の余裕がある。ということでこの文章の結論としては、「休み最高」ということだ。


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