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事実など存在せず、解釈のみが存る

フリードリヒ・ニーチェ


猫を飼っている。名前は知らない。そのときどきで好きなように呼ぶ。
「ちょっと」とか「ねえ」と呼びかければ基本的には猫も気付く。「おい」と呼びかけた方が反応は良かったりする。
家には僕と猫しかいないから、正味それで問題ない。

多分懐いている。きっと。そこそこ。
猫の気持ちなんてわからないから、勘。他人の気持ちは推し量ることしかできないけれど、猫の気持ちは想像すら難しい。
でも人間と違って素直なので思考がそのまま行動に出ているように見える。だから擦り寄ってきて頭を僕の手に擦り付けたりするってことは懐いているんだと思う。僕も頭や顔を撫でて応えてやったりする。

はじまりを振り返れば僕と猫の関係性も随分変わった。出会ったのは近所の公園。ベンチに佇む猫を見て僕は一目ぼれをしてしまった。猫の方はそうでもないと思う。捕まえるときにかなり抵抗したから。
猫からしたら知らない人間に突然捕獲されそうになったわけで、生命の危機だって感じただろうから、その暴れっぷりにはかなりてこずった。とはいえ僕は人間なので力任せに捕まえるだけが手段ではない。色々と工夫を凝らして大人しくさせ、無事家に連れ帰った。

連れ帰ったはいいものの、一目ぼれからのとっさの行動だったので僕の家は猫との居住空間としてふさわしい造りとは言えなかった。
ぐったりと眠っている猫を使っていなかったクローゼットに押し込み、急いでホームセンターで諸々買い揃え、窓を封鎖したりドアに内鍵をつけたりした。大声で鳴かれても困るので、防音対策もした。一瞬にして我が家はデザイン的な意味でのレイアウトを失ってしまったけど、猫を飼うと猫中心の生活になるってのはきっとこういうことなんだろう。

目覚めた猫はかなり怯えていた。
そりゃあ突然拉致されて知らない人間の縄張りに引き込まれてしまったわけだから当然だ。僕は「手に入れた」という高揚の反面少し可哀想に思えて、一生懸命敵意はないことをアピールした。
猫に敵意がないことを伝える方法なんて知らないので、ご飯を用意してやるとか目線を合わせて話しかけてみるとかしか出来ない。気持ちが伝わったかは、わからない。いくつかの方法は逆効果だったと思う。
そう簡単に懐いてくれるなんて思っていたわけでもない。長期戦になるのは覚悟していた。

1週間くらいすると、少なくともちゃんとご飯を食べてくれるようになった。それまではほとんど飲まず食わずだったので僕の方もかなり安心した。「ちゃんと食べてくれて嬉しい」というニュアンスの言葉を、猫相手にまくしたてた。猫は相変わらず無反応だったけど、咀嚼している様子がとてもかわいかった。
僕は猫に首輪をつけた。身体面への影響とか色々調べて、その上でなるべくかわいいものがいいな、なんて考えながら選んだ首輪だった。かわいいものについてもあまり考えたことがなかったので新鮮だった。
鎖も繋いだ。一応手の届く範囲に危険物や都合の悪いものは置いていないけれど、なにより逃げてしまわないかが一番不安だった。僕の手元からいなくなるなんて考えたくなかった。
外から帰るとまず猫の様子を見に行くのが習慣になった。大抵は部屋の隅で大人しくしている。僕は「留守番できたね」とか「大人しくできたね」とか褒めながら撫でてやろうとしてみるのだけど、大抵は近づくと嫌そうにするのでやめるのだった。

2月経つと多少は慣れてくれたみたいで、ご飯もよく食べるし、多少は触れることも許してくれた。この頃の僕はずっと有頂天だった。
自炊なんてしたことなかったのに、猫にあげるためのご飯を色々作った。読んだこともないレシピの本を買ってきて、全然なかった調理器具を揃えて、久々にお湯を沸かす以外の目的でコンロに火をつけた。最初のうちは出来上がった料理は不細工もいいとこだったけど、猫は見てくれは気にしないようだった。僕は猫が僕の作ったご飯を食べる様子を完食するまでずっと眺めていることが多かった。食べるペースが早い時の料理はちゃんとメモしておいた。ときどき笑顔のような表情を見ることもあって、そんなときはメモも忘れて見入ってしまった。
毛並みを整えてやることも多かった。最初は嫌がった……というか怯えていたけど、しつこくアプローチするとしぶしぶといった感じで許容してくれた。猫の毛はなめらかで、とても綺麗だった。毛足は長いけど、その方が可愛いと思った。体を拭いてあげようとしたこともあったけどかなり嫌がったのでやめた。お風呂に入るのは嫌いじゃなさそうだったけど。

季節の変わった頃。
猫はかなり懐いたように見えた。話しかければ反応するし、撫でてみようとしても嫌がる素振りは見せなくなった。逆に猫の方から絡んでくるような日もあった。
なぜか、気に入らなかった。
最初は嬉しかった。心を開いてくれたんだと思った。
でも猫の動きのひとつひとつに嘘を感じてしまった。すべての鳴き声に打算を感じて、すべての行動に媚びを感じた。
一度感じてしまうとずっと意識してしまって、次第に僕は猫に優しくなくなった。ご飯を上げない日もあった。
猫はそんな僕を不安げに見ることが多かった。僕の顔色を伺うような視線が、またたまらなく鬱陶しかった。

3日ほどご飯をあげない日があった。特に意地悪をしようとかそういったつもりはなく、なんとなく忘れていたのだった。なんとなく忘れる程度のものになってしまったとも言える。
その日は疲れていた。疲れて帰ってきて、食事をとるのも面倒で、買いだめていたお酒を飲みながらテレビで映画を見ていた。退屈な映画だったと思う。
猫が、僕に触れてきた。僕は驚いて猫を見た。猫はか細い声で空腹を訴えてきた。僕の袖に前脚を引っ掛けて上目遣いでこちらの反応を伺っている。その表情が、少し笑っているように見えた。
僕は突然怒りがこみあげてきて、猫が振れた腕を思いきり振り払った。
そのとき、振り払った手先が猫の顔を叩いた。猫は悲鳴を上げて、その場に倒れた。
そんなつもりはなかった。
でも僕は慌てるよりも先に、悲鳴に聞き入ってしまった。
本当の声。
もう一度聞きたいと思った。
身体が勝手に動く。
混乱している猫を押さえつけて顔を叩いた。
悲鳴は聞けなかった。
なんで聞かせてくれないんだ。
僕はもう一度手を振り上げた。
猫は顔を伏せて悲鳴を上げた。
もっと聞かせて。
猫は暴れ始めた。
逃げようとした。
僕はまた怒って、手に力を込めた。
最初に捕まえようとしたときみたく猫は暴れた。
爪でひっかかれて、僕の頬から血が垂れた。
血がお互いの視界に入ったとき、時が止まったような気がした。
止まった時の中で、猫はしまったという表情をした。

僕は猫を殴りつけ、そのまま犯した。


猫はまた食が細くなった。まったく食べないわけではないけど、平均して2日に1食程度。触れることは嫌がらなかった。なんとなく頭を撫でてみたりしても反応を示さないことが多かった。
そんな猫の態度が、僕は不思議と心地よかった。以前のように嘘を感じることがなくなったし、これはこれで何か完成しているような気がした。
僕らの関係性は4月分逆戻りしたようで、不可逆に変化している。
犯した直後は空虚な胸の締めつけがあり、その後には大きな後悔と僅かな達成感が襲ってきた。後悔はそのまま猫に対する優しさになり、達成感は歪な成功体験に変質した。
血の滲んだカーペットは、捨ててしまった。

気の緩みが生んだミスだったと思う。僕の間違いだったと、そう思うと今でも後悔がある。
何でもない日。いつも通りの外出と、いつも通りの帰宅。僕は毎日繰り返している動作で漫然と玄関の扉を開けた。
ドアノブを下げる手を途中で止めたのは予感としか言いようがない。
突如勢いよくドアノブが下がり、内側からもの凄い力がかかった。
僕は反射的にドアを抑えようとしたけれど、突然のことだったので体勢が崩れ、うまく力が入らなかった。
猫だ。猫が、逃げようとしていた。
首輪や鎖はどうしたのかという疑問が一瞬浮かんだが、あまりの力の強さに考え事をする余裕はなかった。
既にドアは人1人が通れるか通れないかのギリギリのところまで開いていた。
猫の手が空いた空間から出てくる。僕はそれを押し込む余裕すらなかった。
扉の向こうから大きな声が聞こえた。
猫の声だった。
人生で初めて聞くような大声で、どんな映画より感情がこもっていた。
僕は逆上した。
ドアに押すようにかけていた体重を、反対に引く側にかけた。
猫が飛び出してくる。
僕は猫の腹部を思いきり蹴飛ばした。
ドアにかかっていた力が消え、猫はうめき声をあげて廊下に倒れこんだ。僕は息切れをしながら屋内に飛び込み、すぐに内鍵を閉めた。
廊下にうずくまる猫のそばには包丁が転がっていた。きっと、僕のことを刺そうとしたんだと思う。僕はそれを拾い上げ、キッチンへ行き、元の場所へ戻した。キッチンには調理器具が置いてある。僕のために買ったものではないし、僕の身体に突き立てるためのものでもない。
深く、ため息をついた。ある種の限界を感じていた。
僕は廊下に戻り、まだうずくまって苦悶の表情を浮かべている猫のそばへ近寄って、へたり込んだ。
「逃げたい?」
そう言った気がする。
「逃げてもいいよ」
僕は僕の顔を見上げる猫の顔のそばに玄関の内鍵を置いた。きっと猫は僕の顔色を伺いながら疑念の表情を浮かべていたのだろう。僕は自分の手で顔を覆っていたので、本当にそうだったかは知らない。
猫はおずおずと内鍵を拾って立ち上がり、僕に背を向けてやや慌ただしく鍵穴に差し込む音を立て始めた。
なにかのスイッチが切れた気がした。
僕は背後から猫の口元に薬品を染み込ませたハンカチを押し当てた。
2秒と経たず、手の内側から力が抜けていった。

ともあれ行くべきは薬局だった。要るのは痛み止め、抗生物質、ガーゼと包帯。それに水分。あまり長居できないのですぐに帰宅する。猫をそのままにしておくわけにはいかなかったから。
数日間、猫はずっと朦朧としていた。意識がありそうな時もあったがすぐにダウンしてしまう。僕が原因とはいえ死んでほしくない。僕も僕で追い詰められていた。
10日ほどその状態が続いただろうか。猫がはっきりと目を覚ましたことがあった。
「起きてる?」
僕の言葉に猫は反応する。良かった。
「無理しないで寝てて……。動くとよくないから」
動く気力なんてなかったと思う。猫はぼんやりと中空を見つめていた。僕は猫の顔をきつく絞ったタオルで拭いてやった。
猫はもぞもぞと動いている。掛けたシーツがずり下がりそうになった。
「どうしたの?」
僕は白々しくそう聞いた。反応はない。
僕は迷っていた。もう少し後の方がいいかもしれない。いつだって関係ないかもしれない。後の方がいいなんて多分僕の都合だ。
猫の表情が変化した。明らかに異常を理解している。掠れた鳴き声を上げ始める猫に、他人事みたいな憐憫を抱いた。
やっぱり告げなきゃいけない。
「ねえ、驚かないでほしいんだけど……いや、それは無理か……」
何の意味も持たないひとりごとを吐き出しながら、僕はシーツをつかんだ。
「ごめんね」
シーツを引きはがす。
僕は猫の表情に魅入った。勝手なことに。
困惑。
混乱。
拒絶。
否定。
絶望。
そんな表情。
猫は鳴き声を上げた。まさに鳴き声と表すべき、感情が喉を通して心から零れ落ちたような声だった。悲痛な声。生理的な厭悪すら感じるような、生の声。やがて声は激しさを帯び、ほとんど絶叫のような量感を持った。猫はじたばたとその小さな全身を暴れさせた。
僕は贖罪でもするかのような気分で、うなだれながら吐き出される感情のすべてを受け止めた。
「君が逃げようとするから……」
きっと聞こえなかったと思う。情けない言い訳は感情の奔流に溶けて消えた。僕は猫を抱きしめた。猫は僕の存在なんて忘れてしまったかのように暴れ続けた。
半分になってしまった腕と脚では、どれだけ暴れても非力だった。
僕は肘から先を喪った前脚に口づけをした。
なぜかはわからない。
綺麗な感情ではないのは、確かだ。


僕が猫の手足を切り取ってから3年が経った。
3年という月日は長いだろうか。
猫との距離を縮めた2か月、逆に離れた4か月、犯していた数分、薬を口に押し当てた数秒、手足にメスと鋸を引いた数時間。
そのすべてを内包してもまだ足りない時間。
僕は今こうして膝の中の猫の頭を撫でている。猫も心地よさそうにまどろんでいる。関係性というのは時と共に変化するものであって、始まりがどうあろうが間に何があろうがある程度の時間が経過すればこういうことにもなる。ある意味では残酷なようにも思えた。
猫と僕とのふたり暮らしは日常になった。
僕は猫のあらゆる世話をする。トイレの世話や毛並みを整えるのも僕がする。お風呂に入れてあげるのもだ。
どれも最初は嫌がったけど、生き物は大抵のことには慣れる。でも、全身くまなくトリミングしようとすると恥ずかしがる。トイレに行きたそうにしている猫を捕まえて喚いても離してあげないなんて意地悪をしたりもする。そういうじゃれあいが、僕は大好きだった。
もちろんご飯のお世話もする。一口一口僕がスプーンで口に運んでやる。これも好きなんだけど、大きめのパンとかを口元に近づけて自分からかじりとってもらうのが一番好きだったりする。
調理器具の入った棚には鍵をつけた。
首輪はもうつけていない。
外出から帰ると、ときどき腕や脚に青あざを作っていることがある。
「どうしたの?」
僕は毎回そう聞く。猫はとぼけた顔をしている。だいたい察しがついている。ベッドの位置がちょっとだけズレていたり、カーテンレールが外れていたりするから。窓には鍵がかかっていることなんて、わかっているだろうに。
「ちょっとごめんね」
言いながら服をまくると、脇のあたりもあざになっていたりする。僕はそこに指を添わせてみる。猫は気まずそうにどこかを見ている。
ほんの少し指先に力を入れる。猫は苦しそうな顔になる。その顔がどうしようもなく愛おしくて、撫でたりキスしたり抱いてみたりする。
そのまま最後まですることもある。こともある、というか、毎回、かもしれないけど。
猫は嫌がらなくなった。顔が見える体勢ですることはあまりない。
その後は大抵一緒にお風呂に入る。僕は1人でバスタブに浸かることはほとんどないけれど、猫と一緒に浸かるのは好きだ。
「あったか……」
猫を抱えるようにしながら、そんなことを呟いてみる。風呂に入るたびに言っている気がする。それだけ入らなかったってことだ。猫も猫で、気持ちよさそうにしている。
猫のお腹のあたりに回していた手を、首元にあてがってみる。猫は無垢っぽい顔で僕を見上げた。細い首。手のひらに感じるのは呼吸だろうか、脈拍だろうか。僕がその気になれば簡単に絞め殺せるだろう。バスタブに沈めることだってできる。気を失わせたりしなくても、ベッドに押し付けてキッチンの包丁で腹を裂いたりすることも、たぶんできる。
「まあ、やんないけどね」
首元の手を頬にずらして撫でてみる。猫はされるがままだ。まったく、かわいくてしょうがない。
僕が作ったこの日常はいつか終わるだろうか。考えない夜はない。でも隣で寝ている猫の顔を眺めていると、いつのまにか寝れている。それでいいと思う。猫がいなければ風呂の温かさだって忘れてしまっていただろう。料理だって絶対しなかった。ヘアスタイルの本とかも買わなかったはずだ。
猫が僕に与えてくれた今を享受する以上のことは、しなくていい。
「そろそろ出ようか」
猫を抱えて脱衣所に出て、バスタオルで体を拭いてやる。
この時間の湯冷めしていく感覚だけが、僕は嫌いだった。

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