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ボディ・ランゲージ

朦朧としながら蝋燭をつける
なぜって、俺は神様を見つけたんだから
カート・コバーン/リチウム


何はともあれ、まず前提を整えるとしよう。

今からぼくが語るのは思い出だ。

そしてそれはテクストよって成るものだ。

ぼくは文字を紡ぎ、文を綴り、文章を形成し、それを伝う。

そうしてあなたに、とある思い出についての一連の記述を与えようと思う。

ここにまたひとつの前提がある。

思い出のテクストとは、ぼくそのものであるということだ。

ぼくはテクストでしかなく、ここにはそれ以上もそれ以下もない。

そしてぼくがテクストであることは、すなわちあなたがテクストであることを示し、同時に『わたし』がテクストであることを意味する。

ぼく=あなた =『わたし』

これは比喩でも嘘でもない単なる事実だけれど、今は理解しなくても構わない。

ただ、これからぼくが物語るものの消化を助ける酵素のような情報だと思ってもらえれば十分だ。

さて、始めの終わりにとある人物の話をしよう。

その人物は愛好家と呼ばれる。

といってもそう呼んでいたのはぼくだけだろうけれど、ともかく文中では愛好家とのみ表記する。

彼とか彼女とか奴とかあいつとかの三人称の代名詞は、ここでは愛好家のことは示さない。

ぼくがテクストでしかないように、愛好家は愛好家でしかなかったから。

そして愛好家は、ぼくと、あなたと、『わたし』とを等式で結ぶ数式の4つ目の項として並ぶことになる。

すなわち、こうだ。

ぼく=あなた=『わたし』=愛好家

あなたが最後にこの数式を理解するのか、しないのか。

しているフリをするのか、していないフリをするのか。

それはテクストであるぼくには、終ぞ理解することはない。




「必要なのは、何をおいてもまず、死体だ」
愛好家は口癖のようにそう言った。
愛好家と呼ぶからには何かを愛好しているのが道理だ。というわけで解説もとい白状すると、ぼくが愛好家と呼ぶ人物は死体を愛好していた。
死体。
死んだ体。
愛好家は人間の死体に対して偏愛を持っていた。珍しい話でもない。多分そんな奴はこの世にごまんといる。表に出していないだけで。
ただ、愛好家が特殊だったのは根っからのクリエイターだったということ。つまり、好きなものは自分で創り出すタイプだったということだ。
愛好家は、死体愛好家であると同時に殺人鬼でもあった。これはかなり珍しいだろう。死体を愛好する人はたくさんいるし、殺人鬼だってそこそこいるだろうが、死体愛好家で殺人鬼なんてのはなかなかいない。
たぶん。
自慢しているように聞こえるかい?まあ、間違っちゃいない。実のところぼくは愛好家のことを結構好いていた。だってこんな面白い人間、他にいないもの。


出会ったときから、愛好家は愛好家だった。なにせぼくが初めて見た愛好家の顔は、人間に刃物を打ち込むことに興奮して上気していたのだから。
「なにしてるの?」
川沿いの橋の下。土砂降りの酒涙雨がちょっとした悲鳴ぐらいならかき消すほどにうるさい。ぼくが声をかけると、愛好家はびくりと体を震わせて、ぼくを認めた。
「なんだ、お前」
初対面のぼくに対して、愛好家は随分ぶっきらぼうな態度でそう言った。ぼくが誰かよりも、君がしていることの方が大事だと思う。
「ぼくのことはいいよ。それ、なにしてるの?」
「これか?」
愛好家は返り血に染まった口元をぐいっと拭って答えた。
「死体を創ってる」
「つくる?おかしな表現をするね」
「かもな。普通はなんて言う?」
「人を殺してる」
愛好家は鼻で笑った。小ばかにするというよりも自嘲的なニュアンスだった。
「見解の相違。目的意識の違いだな。殺すことが目的ならそう言うんだろう。俺はそうじゃない」
「死体をつくるのが目的ってこと……」
「そうなる……。いや、どうだかな。今俺はこいつの体にナイフを何度も突き立てていたわけだが、これはこれで良かった」
良かった、なんて表現をされるとなんだか変態じみて聞こえる。愛好家はぱっと見は割と普通というか、死体愛好家らしい見た目をしているというわけでもなく、当たり前に社会に溶け込んでいそうな風体だった。
死体愛好家らしい見た目なんて知らないけど。
「それで?死体をつくってどうするのさ」
愛好家は死体——といってもぼくにはそれ・・がもう死んでいるのかどうか判断が付きかねた——にナイフを突き立てる作業に戻っていった。
「さあ?なんせ初体験だ。どうしたらいいのかよくわからんが、ともかく衝動に酔っぱらったらこの始末……。まさか観客がいるとは思わなかったがね」
ぼくは肩をすくめた。
「気にしないでくれて構わない。ただ、ちょっと君に興味が出てきたところだ。もう少し一緒にいてもいいかい?」
愛好家は少しだけナイフを持つ手を止め、
「好きにしろ。邪魔はするなよ」
とだけ言うと作業を再開した。
ナイフが、無機物が、躰に、有機物に、その内側に無遠慮に入り込む音。ときどき骨と擦れて軋みを上げる。雨の降り注ぐ轟音の中でそれらのハーモニーが妙に鮮烈に聞こえる。
ぼくと愛好家の出会いは、鉄の匂いがした。


愛好家の初体験を目撃してから、ぼくは現場についてまわることになった。別に狙ってそうしているわけじゃない。愛好家だって死体愛好家としての活動をしているとき以外は普通人と同じように生活をしていたわけで、そのときだってぼくはそばにいたりいなかったりした。ただどういうわけか死体愛好家としての顔が出るときには必ずぼくもそこにいた。
「楽しいか?」
愛好家はぼくにそう聞いたことがある。その時はたしか、死体から剥いだ皮をなめし・・・ているところだった。
「人間のはく製を作るのを見るのが?」
「ああ」
「まあ興味深くはあるよ。君が悪戦苦闘する様子もそれはそれで面白い」
愛好家は舌打ちをした。人間のはく製に挑戦するのはこれで3回目だ。1回目は皮を剥ぐ工程で見るも無残な、子供が作った芸術的な残飯みたいな肉塊が完成しただけだった。2回目は剥いだ皮の管理に失敗してすぐに腐ってしまった。今回は3度目の正直となるのか、2度あることは……となるのか。ぼくは後者と予想している。
「聞いていい?」
「内容による」
返答が何であれどのみち聞くつもりだった。
「君ってさ、人間の死体が好きなんだろう?」
「見ててわからないか?」
「つまり……犬猫とか虫とか魚とかの死体は別に好きではないわけだ」
愛好家は笑った。
「はっ。そうだな。人間ほどじゃない」
「じゃあさ、君が今いじくってるそれは人間なのかい?」
愛好家は慎重に伸ばしていた皮を持ち上げてまじまじと見つめた。
「なるほど。もはや原型をとどめてないこいつを、人間だと認識できるのかって話か」
ぼくは首肯した。愛好家は少し考えて答えた。
「できる、が答えだな。確かにこれだけ見たら薄っぺらい何かの皮にしか見えんだろう。だがね……」
愛好家は用意していた柔い素材のマネキンに、ウエットスーツを着せるみたく慎重に皮をかぶせていった。作業が終わったとき、そこには青ざめた裸の女が立っていた。
「どうだ?人間に見えるだろ」
「……人間の死体が立っているように見えるね」
なんというか、当然のことだが血色が悪いし、肌の質感も妙に平面的に見える。ただ、マネキンに義眼を入れているおかげか、毛髪で隠れているのも相まって顔周りは多少マシに見えた。
「死体に見えるなら十分だ。うん……うん。満足だよ。顔周りがうまくいってるのは意外だな。素体の顔立ちとうまくはまってる。デスマスクをとっておいて正解だった。義眼も違和感なし。髪が傷んじゃいるが……まあトリートメントでもしてやるか。胸はおかしい。尻も変だ。脂肪は液体だからな……ここには詰め物がいるか」
口数が多い。目に見えて上機嫌だった。ということは成功ということだろう。3度目の正直。ぼくの予想は外れてしまった。
「それでこれ、どうするのさ」
「ん?自室に飾る」
言わずともわかってるだろうけど、今更正気を疑うのはナンセンスだ。


生産した死体の数が両手足の指を使っても数えられないほどになったあたりで、愛好家は大きな遊び場を手に入れた。郊外から少しばかり田舎側にある、ちょっと立派な一軒家。愛好家はその下に何もない地下室を作ったのだ。いったいどこからこんなものを作る資金を捻出したのだと聞くと「金をある場所から別の場所に移してその時にこぼれた分を拾ってる」とか言っていた。
天は愛好家に二物を与えた。
すなわち、偏愛と商才。
そうして手に入れた遊び場で、愛好家は3つの死体を並べて遊んでいた。男が1人に女が2人。川の字、いやむしろ嫐の字の配置だ。
「今度は何を?」
ぼくは聞く。
「ケルベロスって知ってるか?」
「ああ」
「ケンタウロスもわかるな?」
「そりゃあね」
「アラーニェは?」
「……知ってるよ」
「質問の答えになったか?」
「察しがよいもので」
死体が3つ。頭も3つ。腕は6つに脚も6つ。どうやら愛好家はこれを繋ごうとしているらしい。
「それって何が楽しいのさ」
思わず聞いてしまった。死体に対しての情熱がいまひとつ足りないぼくにとって愛好家のやることの楽しさがわかったことなんてないのだから、今更に過ぎる質問である。
「死体をいじってるだけで楽しくはある。死体を繋げることが楽しいかどうかは、やってみなけりゃわからない」
愛好家は死体の1つの首に丁寧にメスを入れた。血は出なかったが代わりに透明な液体が垂れてきた。腐りにくいようにいろいろと加工してるそうで、血の代わりに防腐剤を入れるという工程がその一環としてあるらしい(一般的にはエンバーミングとかいうそうだ)。その処理のおかげか、並んでいる死体は前のはく製よりかは血色がよかった。血を抜かれているのに血色がいいとはこれいかに。
「それ、例えば生きてる人間にやってみようと思ったりはしなかったの?」
はは、と、乾いた笑い声。
「お前、人間を3人繋げる映画を思い浮かべてたろ」
ばれてしまった。ぼくは無言で肯定を示した。愛好家は一人目の首の肉をうまく切断したようで、腕の肉の切断に取り掛かっていた。
「んー……。あまりそそられないな。仮にやったところで、そいつの肩から頭が生えてたり、わき腹から腕が垂れさがってるだけになるだろ?それを見たところで何とも思わなそうだ。死体同士なら全体で一体感が生まれるというか、総じて一個として計数できる代物になる。『切断した頭と腕がついてる生身の人間』じゃなく、『頭が3つと腕が4つある死体』になるってことだ。その方が綺麗じゃないか。もちろん、生きてる人間に生きてる腕を接げるなら、俺自身の性癖と関係なく興味はあるがね」
一体何が"綺麗"だというのか。言ってることはわかるが感覚は共有できない。そこそこ長い間愛好家と一緒にいるはずだが、だからと言ってぼくの中に死体に対する偏愛が芽生えたりはしなかった。
一度、なぜそんなに死体が好きなのか聞いたことがある。好物が好物である理由を答えられるか、と返された。溝は深そうだ。
頭と四肢の肉を切断し終えた愛好家が小型のチェーンソーを持ち出した。金属と骨の擦れる聞くに堪えない大音響が発生したので、ぼくは部屋から退散することにした。


死体が好きだ、というのは裏返してみれば生きている人間が嫌いなのではないか?愛好家が知り合った人間の生首を持って帰ってきたとき、ぼくはそう考えた。
「人間が好きか嫌いか、なんてのは最もくだらない質問の一つだな」
生首の首元にハサミを入れながら愛好家は言った。美容師のような手つきで、手際よくちょきちょきと綻んだ首肉を切り落としていく。愛好家は手先が器用だった。
「どうして?」
「まず何を指して"人間"なんて言ってるんだ?一口にそう言ったっていろんな奴がいるだろうよ。その中には好ましいのもいれば気に食わないのもいる。それを一緒くたにして好きかどうかなんて話ができるか?映画が好きか、って聞くのとはわけが違う」
ぽろぽろと切り取られた肉片が床に落ちている様は、行儀の悪い子供が食事をした跡のようだ。
「わかったよ。もっと直接的に聞く。君はひょっとして人間が嫌いで、その裏返しとして死体が好きなんじゃないか、って思ったんだ」
整え終えた首を見回して、愛好家はその顔と向き合った。熱烈な視線が交わされた。もっとも、視線が熱を帯びているのは愛好家の方だけで、生首の方はそうでもなさそうだ。
「他人に対してのコンプレックスを合理化した結果の死体愛好か……」
愛好家は独り言つように言った。
「ないとは断言できん。仮にそれが事実だとしたら、俺はその事実を歪曲して解釈するためにこうして死体に拘泥しているわけだからな。俺は俺自身の死体を好む感性を真実認識しちゃいるが、その俺自身がひん曲がってちゃどうしようもない……」
綺麗におめかしした生首は円柱状の透明な容器に満たされた謎の液体に沈められた。容器と液体で屈折した光越しに見る生首は、まだ体とくっついて表情筋を元気に動かしていたころとほとんど変わらないように見えた。
「俺はそうは思わない。が、お前がそう思うのならそうかもしれない。主観の問題だからな。それ以上はここにはないよ」
「じゃあ、どこにある?」
「どこにもないさ。……だろ?」
愛好家は生首に話しかけた。馬鹿馬鹿しいことをする、と思った。液体に沈められているってのに、返事ができるはずないじゃないか。


ある時、愛好家のところを訪れると、何やら妙な音が鳴り響いていた。
「おーい、なにして……」
ぼくが見たのは、愛好家が一心不乱に死体に腰を打ち付けている光景だった。
「きゃあ!」
と、これはぼくの悲鳴。なんともまあ情けないったらない声を上げて目を逸らしたのだった。
「な、なにしてるの!?」
愛好家の方は邪魔されたことに対して少々不機嫌だった(単純に息を荒くしていただけかもしれない)が、そんなにこっちを気にする風でもなく行為を続けた。
「何って、見りゃわかるだろ。初心か、お前」
「そうじゃなくってさ!」
「そうでしかないよ。ちょっと待ってろ。天井のシミでも数えときゃすぐに終わる」
なんでぼくがそんなこと言われなきゃならないんだろう。それは「される」側に言う言葉なんじゃないのか。いや、たぶん死体は天井を眺めたりしないからそれでいいのか。いやいやそういう問題じゃ……。
結局、ことが終わるまで天井のシミを数えて過ごすことになった。愛好家の方は何食わぬ顔でバスルームに向かった。ぼくはぐったりとしている事後の死体をなるべく見ないようにしながらついていった。
「……あのさ」
「なんだよ」
バスルームの中で反響しながら返ってきた声はいつもの調子に戻っていた。
「なにしてたの……じゃなくて、あー、うー、なんであんなこと……」
「なんでってお前、健康な人間だったら溜まるものもあるだろ。それを発散してただけだよ」
「そうじゃなくっ……。え、あれ、待って。ひょっとしてぼくが知らないだけで今までもこんなことしてたの?」
「してる最中にお前が来たのは今日が初めてだな」
開いた口が塞がらない、と表現するべきだろう。あるいは、天を仰いだ、とか。とにかくいろんな感情がないまぜになって何とも言えない気分になった。
「君、そういう感じではないとおもってたんだけど……」
「なんだ、失望したか?」
「いや……違うな。違うよ。失望は違う。そんなことする権利はぼくにはない。でも落胆はしてるな。なんだろうこれ」
「俺がお前の思ってたのと違ったってだけのことだろ。どうやらお前の中の俺はもう少し綺麗で超越的だったらしいな。つまり、俗っぽくないという意味で」
ぼくの視点から見た自分を、愛好家は他人事みたいに語った。
「ああ、うん。そうだろうね。どうやら違ったらしいってショックを受けてるんだ」
「そんなもんさ、勝手に期待して勝手に失望する。自分にとって都合のいい他人を頭の中で勝手に育てて、現実の他人がほんの少しでもその妄想からずれたら『裏切られた』なんて甘えた言葉で自分を守るんだ」
会話はそこで途切れた。そんなつもりはなかったのだけれど、ぼくは愛好家に対してある種の偶像性を求めていたのかもしれない。脱衣所から少し首を伸ばすと、さっきの死体が見える。死体相手でも「できる」んだ、なんて、どうでもいいことを思った。


自殺の名所とか最初に言い出したのは誰なんだろう。人通りの少ない崖とかが特にそんな風に言われがちで、それは最初から名所として設計されたわけでなくいつからかそう呼ばれるようになったもののはずだ。誰が?ひとつ言えることがあるとすれば、それを言い出したのは死んだ当人たちではないということだ。
「例えば飛び降りたときに死に至る蓋然性として『確死性』のような値が地形から定量的に抽出できるとしよう。そして自殺者が死に場所を選ぶとき、任意の地形の選択されやすさを『惹死性』として測れるとしよう」
撮りためた映像をPCで再生しながら、愛好家は言う。ぼくはそれを黙って眺めていた。
「俺は死のうと考えたことがない。だからこれは憶測だが、惹死性と確死性の相関は思ってるよりも弱いのかもしれんな。本当に死んでしまいたい人間にとっては確実に死ねるかどうかよりも、もっと曖昧で抽象的な『気分』のようなものが選択の基準になっているのかもしれん」
ディスプレイに映っているのは今まさに死にゆく人間だった。糸を切られたマリオネットのような体勢で寝そべっていて、膝から骨が突き出ていた。服に隠れてよく見えないけれど同じように腕も折れていそうだ。画面には映っていないが、そこはとある崖下で、崖の途中には痩せた木が数本横に伸びている。そして崖下には、死体だったり死体になりかけのものだったりが頻繁に落ちていて、愛好家は時々そこへ行って戦利品を得たり撮影をしたりするのだった。今画面に映っている半死体の映像もそのクチで、底意地の悪い木に絡めとられて不幸にも九死に一生を得てしまったところを偶然見つけた時のものだ。
「要は深く考えていないってことじゃないの?あるいは考えれないのかもしれないけど」
「どうだかな」
愛好家はぼくの方を見た・・・・・・・
「お前、死にたいと思ったことはあるか?」
「君だってないんだろ」
「それはお前がどうかには関係のない話だ」
やれやれ、とばかりに目をぐるりと回してみせた。
「まあ、ないかな。死にしろ自殺にしろあんまり魅力を感じないよ。生きてればいつでも死ねるけど、死んでしまったら生き返れないだろ?じゃあ自然に死んでしまうまで普通に生きてればいいと思う。単純に死ぬのは嫌だしね」
「概ね同意見だ。では質問を変えよう。死ぬのは嫌と言ったが、死への抵抗感について考えたとき、その根拠はなんだ?」
愛好家はまっすぐにぼくを見据えている。ぼくは顎に手を当てて、考えを整理しながら喋り始めた。
「……ひとことで言うなら自我の喪失じゃないかな。自分。『わたし』。それが消えるという感覚。消える・・・なんて簡単に表現してしまえるけれど、それは生者にとってあまりにも未知だ。自分が永遠に終わる。意味が分からな過ぎて、怖い」
ぼくの雑駁とした言葉を、愛好家は黙って聞き入っていた。こういった話をするのは珍しいと思った。ぼくらの会話は基本的に今日は死体でどんな遊びをしようかって内容に尽きるので、こんな禅問答じみた会話は初めてかもしれない。
「なるほど。だいたい分かった」
「わかったって……。君は死ぬのが怖くないの?」
愛好家は再びモニターに向き合って、動画を早送りし始めた。半死体の死体への変化が加速される。蝉の羽化のタイムラプスを思い出した。
「正直なところよく分かってない。が、分かってない理由は今少し分かった。俺はそもそも自我というやつに懐疑的なんだな。だからその喪失とやらにも大して思うところがないんだろう」
視線こそ動画の中の死にかけの人間に向けられていたけれど、愛好家は遠くの何かを見ているかのようだった。
「……お前はきっとお前なんだろう。お前がそう思うのなら。だが俺は俺じゃないのかもしれん。俺がそう信じてないからな」
ぼくは少し驚いた。愛好家が死体に関わらないところでこんなに語るなんて、本当に珍しいことだったから。
「懐疑的って、疑う余地なくない?自分が自分だなんて当たり前以前の前提じゃないか」
「多分その感覚が欠如してるんだ。俺が『疑う』って表現しているのは自分が自分であることが一般的に当然のことらしいと知っているからさ。それを完全に無視して言ってしまえば、俺にとって『自分』なんてもの嘘っぱちでしかないんだよ。幽霊みたいなもんで、感じられないものを在ると言われても戯言としか思えん」
「……自我がないってこと?」
「有り体に言えば」
「それが本当だとしたら相当根が深いな。精神的な問題どころじゃなさそうだ」
ぼくがそう言うと、愛好家は鼻で笑った。例によって自嘲的なニュアンスだ。
「精神なんて肉体の寄生虫に過ぎないね。そんな曖昧な領域の問題じゃない。これは明確に肉体的な欠落だよ。俺に言わせればな」
精神が肉体の寄生虫。たぶん肉体を死体と読み替えても同じ意味だ。その表現に、ぼくは愛好家の本質を見た気がした。そう言うときっとこう返されるのだろう。本質なんてどこにある?
ぼくは愛好家の言葉を論理的に理解しようとする反面、理屈が飛躍したとある感覚を共感していた。その感覚はとてもシンプルに、レトリックで表現することができた。
「聞いてもいい?」
「なんだ」
「君、死体と生身の区別がついているかい?」
愛好家は微笑んだ。
語りえないことについては、沈黙するしかない。
モニターの中には、死体が映っていた。


「一番最初に君に会ったとき、君は人を殺している真っ最中だったっけ」
「そうだったか?」
愛好家はモニターから目を離さない。愛好家のことだから本当に覚えてないのかもしれない。モニターには設置したカメラの映像がリアルタイムで再生されていて、カメラは1組の男女を映している。彼らはそれぞれ武器を持っていた。1人はナイフ、1人は拳銃。
「あの時君は人を殺すのもなかなか良かったと言っていたけど、人が勝手に死んでいくのを見るのも楽しいかい?」
「自分で殺すときの様には高揚しない。自殺に失敗した奴らを眺めているときもそうだったが、目の前で死にかけている人間に対して芽生えるのは、緩慢に死体が生まれる過程への単なる興味だった。興奮はなかったよ。殺人の興奮は、おそらく自分が対象の命を手にかけているという実感に基づくところが大きい」
音声は最小にしているのでスピーカーから聞こえてくる怒号は電気的に抑制されたごく小さなものになっている。彼らのそれはコミュニケーションのようで単なる悲鳴だった。その悲鳴も地下室の壁に吸収されて反響を生まない。壁にかけたストップウォッチのカウントダウンは残り1分を示していた。
「ちょっと意外だな。それって君を主体とした快感ってことだろ?つまり、死体への興味が引き起こすものとは別の要素、自分がその状況に参加しているということが良かったって解釈になるんだけど」
男はナイフを振り回し始めた。女はそんな男に拳銃を向けている。
愛好家はそれを眺めているように見える。ぼくには、あまり興味をそそられているようには見えなかった。
「君は前言ったよね。自我がないってさ。その事実は君という人間の主体性は否定しないのかな?だとしたらその主体ってやつはどこにあるの?自分の行為に対して特別な感覚があるのなら、それはどこかに確実にあるはずだ」
画面の中で女が発砲した。一瞬の停滞の後、両者は弾丸が何も貫通することなく壁に埋まっていることに気が付いた。顔から表情の消えた男が、女の腹部に刃を突き立てた。
「『わたし』はどこにいるのだろう、か」
女は倒れた。カメラの位置からは滲む血があまり見えない。刺し込まれた刃が分断したものはなんだったのだろう。
「それは俺が答えられる問題ではない」
愛好家はそれだけ言って黙ってしまった。ぼくはしばらく答えを待ったけれど、返ってきそうになかったので結局聞き返すことにした。
「じゃあ、誰なら答えられるのさ」
女はきっとまだ生きている。男はそれを眺めている。カウントダウンはとっくに0を示していた。
「お前だよ」
愛好家は答える。
「俺には自我がないが、どうやらお前にはあるらしい。ならお前にしか答えられんさ」
「お前?君、何を指してお前なんて言っているの?ぼくと君は本当に違うの?」
「違うだろうな。俺には躰はあるが心はない。お前には心はあるが躰はない。対偶にいるんだよ、俺たちは。お前は俺が作り出した幻覚だった。最初はな。社会の倫理と自分の感性のギャップ、そのバランスを保つために生まれてきた『わたし』がお前だ。今やもう1人の俺……いや唯一のお前なわけだが」
愛好家は手元のボタンを押した。モニターの中の男がふらついた。
「……俺なりの、実感や経験の伴わない、感覚質の存在しない空虚な解答でよければ質問に答えよう。主体性がどこにあるかと言ったな。答えは躰だ。俺のこの躰にこそ主体がある。躰のどこかと特定できるものでなく、総体に主体があるんだ。躰を半分に割ったら、それぞれに同等に主体があるのさ。それに違和感を感じるのだとしたら、それは自我がもっている唯一性という実在しない性質のせいだ。アイデンティティという根拠の曖昧な幻覚のせいだ」
ぼくは自分の躰を改めた。
手はボタンを握っている。
目はモニターを眺めている。
口は思ってもいない言葉を紡いでいる。
躰を動かしているのは、ぼくではない。
「と、思っちゃいるが、どうだかね。俺がそうだからそう思ってるだけと言われればそれまでだ」
男は女のそばに倒れ込んでいた。一見仲睦まじく見える。終わりよければすべてよし、とか、有終の美、って言葉があるけれど、今この状況にふさわしいだろうか。
倒れた2人を眺めながら、愛好家は歌を口ずさんでいた。
"今日はとても幸せだ。なぜって、頭の中に友達を見つけたから"
鎮魂歌にふさわしい歌だとは、到底思えなかった。
「俺には『わたし』がない。お前には躰がない。俺たちは互いに欠けた存在だな」
愛好家はモニターの電源を切った。暗くなったディスプレイには愛好家の顔が反射している。それがぼくの顔ではないと、証明する手段はないのだった。
「近いうちに、俺は死体になってみようかと思っている」
「……なんだって?」
「死体になるのさ。存在しない俺ってやつを殺すんだ」
「永久にいなくなるのかい?」
「死がそういうものなら」
「ぼくも一緒に死ぬ?」
「いや。死ぬのは俺だけだ。死体はお前に預けるさ」
「じゃあ、正しくなるんだね」
「相対的にはな」


近いうちとは言ったものの、その会話から愛好家の自殺までにはかなりの月日が空いた。死んでしまうのであればやり残すことがあってはいけない。しかしすべてをやり残さないようにすれば、結局寿命で死ぬまで生きることになる。愛好家が生きているうちにやっておくことと、別にやらずに死んでしまってもいいことの折り合いをつけるのにかかった時間が、そのまま空いた月日を示していた。
鏡の前に立っている愛好家を、ぼくは眺めている。手に握った拳銃は、見た目よりもずっと重い。
「ねえ」
「なんだ」
「緊張とか、してる?」
愛好家は喉を鳴らすように笑った。
「いいや、残念ながら」
「やっぱりかあ」
思い通りにならなくて、それが予想通りだった。愛好家の感情面で本当に意外だったのは、後にも先にもあの死体としていたときだけだった。
「ただ、少し興奮している」
愛好家は銃を持った方の手を顔の前まで持ち上げた。その手は震えていた。銃把を握った手は力の込め過ぎで白くなっていた。
「震えてる」
「武者震いさ」
「ちょっと違くない?」
愛好家は手を下ろし、息を整えた。
「お前はどうだ?」
「ぼく?」
「この躰、俺の死体はお前のものになるんだ。好きにできる肉体を手に入れるにあたって思うところはないのか?」
ぼくは少し考えて答えた。
「正直ピンとこないよ。君と違って自我がある、だなんて啖呵を切っておいてなんだけど、正直ぼくも主体性ってやつは薄い方じゃないかな。なんせ生まれてこの方考えたことはあっても行動ってやつをしたことがないんだから」
「これからはできるぞ」
「嫌というほどね。本当に嫌だったら自殺でもするつもり」
「勝手にしたらいい。俺の躰じゃない」
シリンダーを横に振り出し、中身を確認する。カチリと音が鳴るまで丁寧に戻して、ハンマーを起こす。シリンダーがその動作に連動して回転し、発射の準備は整えられた。
「これでお別れかな」
「多分な」
「言い残すこととかある?」
「ないよ」
「ぼくらの会話もこれで最後だね」
「寂しいか?」
「君は?」
「ちっとも」
「だと思った」
再び、銃が持ち上げられる。その動作は必要以上に緩慢だった。
「挨拶ぐらいはしようか?」
「別れの挨拶?」
「お前が望むなら、だが」
こめかみに、銃口が当たる。銃は冷徹な金属の色をしていたけれど、冷たいわけでもなく、ただ当たっている圧力だけを感じた。
「改まって言うこともないよ」
「そうか」
引き金に人差し指がかけられる。
ぼくがかけたのかと、錯覚してしまった。
「それじゃあ……」
「うん」
「……何か言うべきじゃないか?」
「なんだよ、らしくないな」
「そうかもな」
「ねえ」
「なんだ」
「死体になるの、うれしい?」
「きっと」
「そっか」
「もういいか?」
「うん。挨拶は?」
「普通のでいい」
「わかった」
人差し指に、力が入った。

「さようなら」
「さようなら」

轟音。
衝撃。
崩れ落ちる世界。
架空の弾丸が頭を貫く。
銃がどこかへ飛んで行った。
反対方向へ、体が吹っ飛ぶ。
床に倒れこむ。腕が痛い。
何も聞こえない。視界が揺らぐ。
自分の周りを捉えるのが難しい。
うめき声が漏れた。
地べたを這いずり、手で目元を擦った。
声?
這う?擦る?
霞んだ眼に、手を近づけた。自分の意思で。
開こうとしたり、閉じようとしたりしてみた。
開いて、閉じた。
霞む眼をもう一度擦って半身を起こす。少しずつ、周りが見えるようになっていった。
いつもと変わらない視界。けれど、いつもと違って自分の意思で見るものが変わるようになった。
耳の回復は遅い。特に銃口を当てていた方はかなり時間がかかりそうだ。
愛好家が放ったのは空砲だった。これはある種の儀式だったのだ。自分が死んだと了解するためのプロセス。弾丸のない銃の引き金を引いて、自らの意思で自らを終わらせたのだと認識するためのシーケンス、その終端。
「あ、あ」
声を出してみる。愛好家の声だ。でも、同時にぼくの声だったかもしれないもの。今やぼくの意思で発しているので、ぼくの声と言い切ってもいいのだろう。
立ち上がって躰を点検する。とりあえず外傷はなさそうだった。倒れこんだ時に下敷きにした腕が痛むけれど、たいした問題ではなかった。
鏡の前まで歩いていき、正対する。鏡に映っているのは、いつも見ていた愛好家。でも今やそれはぼくなのだ。
「もう、いないのかい?」
多少慣れないが、まあ問題なく操縦できる躰で、そう発声してみる。当然この部屋にはぼくしかいないので、その言葉はぼくの機能不全の耳にしか入らない。
愛好家はどこにもいない。まるで元からいなかったかのよう。それは比喩ではなく、実際愛好家がこの世に存在したのだという証拠はどこにもない。
「これが、からだ。これが、『わたし』?」
実感というものが、ぼくに蓄積されていく。思考でも感覚でもない、曖昧な連なりそのものを、ぼくは受け止めていた。
そうして同時に、ぼくはとあることに気が付いた。
思わず吹き出してしまう。これが躰を獲得して初めての、自覚的な無意識の行動だった。
「……ほんっと、どうしようもないね」
ぼくはぼくの目を見つめる。そこにいるのはぼくだけど、この衝動も確かにぼくのものだった。
ぼくは、死体を愛していた。




さて。

以上がぼくと愛好家の思い出だ。

ぼくと愛好家は1つの躰に同居していた。

自我のない主体と、自我しかない主体として。

愛好家は死んだ。躰を残して。

その死体は、ぼくものとなった。

では、再び確認しようか。

ぼくはテクストだ。

とある思い出について記述する文字列だ。

けれど。

ぼくにはこころと、からだがある。

あなたは?

あなたにはこころはある?

からだはある?

きっとあなたはあると言う。

その言葉は、テクストであるぼくがそう言うのと同じ重みを持つ。

あなたに、次の文字列を吟味してほしい。

「わたしはこれを読んでいる」

あなたがこれを読んだとき、この記号の羅列は意味を持って読み解かれた。

記号があなたの感覚器を介し、表象する。

ではあなたに、次の問題を吟味してほしい。

「わたしは何を考えている?」

あなたがこれを読んだとき、あなたは自分の内側の文字を読む。

感覚器を介さない文字が、あなたのうちに閃いて、表象する。

過程は違うが結果は同じ。

「わたしは、わたしだ」

このわたしって誰のこと?

あなたはどう思ったろう。

あなたのことだと思った?

残念、このわたしはぼくのこと。

ぼくのことだと思った?

残念、このわたしはあなたのこと。

ぼくもあなたも変わらない。

あなたが読み解くことと、テクストであるぼくが語ることは、同じ。

おんなじ、『わたし』。

ぼく=あなた=『わたし』

あなたがぼくを読む限り、ぼくはあなたの内にある。

終わりの終わりに、ちょっとした確認。

愛好家が死んだとき、消えた主体はどこに行ったのかな。

躰がぼくのものになったあと、ぼくは愛好家みたく自殺してしまわなかったのかな。

ちょっと覚えてないんだ。

都合がいいって?仕方がないじゃないか。

ぼくはテクストでしかない。

あなたのなかに閃く表象でしかない。

そのテクストが語った愛好家だって同じ。

あなたのなかに閃く表象でしかない。

あなたの内には4つの主体がある。

ぼく=あなた=『わたし』 =愛好家

分かった?
分からない?
分かっているフリ?
分かっていないフリ?

どれでも構わない。

けれど、けれどね?

もし、あなたが少しでも死体を愛しているような気がしたなら。

その衝動は否定せず持ち続けてほしい。

それはあなたが操縦する死体に刻まれた衝動。

それはあなたが、かつてぼくであり、愛好家だったことの。

証拠のない証明だから。

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