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堕ちありオチなしおちおち

右の存在を信じるならば、左の存在も信じるべきだ。ついでにそこに加えておきたい。ミギとヒダリの存在を信じるとして、ミダリの存在とかを信じる理由はどこにもない。そいつはいったい、どっちの方だい。
パラダイス行


自殺したら天国に堕ちた。

天国というのは単にわたしがそう決めつけているだけで、実際にここが天国だと誰かが紹介してくれたわけではないけれど、目の前に広がる風景と空気の匂い、肌を撫でていく風の感触が、わたしに天国のクオリアを想起させたのは間違いない。わたしは確信をもってこの未踏の地を天国だと認識した。

しかし、そんなわたしの認識とは裏腹に、見ている風景はいわゆる天国のそれとはまったく違っていた。
まず目の前に3mほどのアーチ状の門のようなものがある。その上部に取り付けられている看板にはこう書いてあった。
"この門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ"
地面には背の低い白や黄色の花が生い茂っていて、これは実に天国的と言えそうだけれど、よく見てみるとその花はすべて造花で、歩を進めるたびにわたしの裸足の足の裏を乾いた感触がくすぐった。
門をくぐってみるとはるか彼方には巨大な観音像が腕を枕に寝そべっていた。山みたいな大きさに見えた。これじゃまるで涅槃だ。でも、記憶が正しければ涅槃図で寝そべっていたのはお釈迦様だった気がする。同じものだっけ?どうでもいいや。

しばらく、ぶらぶらと歩いてみた。

空を見上げれば、スペースシャトルが太陽をバックに飛行機みたく飛んでいる。まっすぐ飛んでいたかと思うと急にジグザグに進んだりして、まるで突然自分のことをアダムスキー型UFOだと思い込んだみたいだ。
丘を登ってみると廃墟みたいな街が広がっていて、錆びた東京タワーと崩れかけのエッフェル塔が並んでいる。ほとんど同じ高さだってことに今気が付いた。兄弟みたいで微笑ましい。
野原にぽつんと建っていた木造の寺に入ってみると、中はダンスフロアになっていた。線香の匂いがきつかった。
きれいな湖の中心から大きなタコの触手が伸びていた。海藻みたいに揺らめくばかりで本体は見えなかった。

時間の感覚が曖昧だけど、多分半日ぐらいは歩き回っていたと思う。体力はない方なのに不思議と疲れなかった。汗だってかいていないので、着ている制服はクリーニングしたてみたいに乾いていた。いつもだったら30分も歩けば息が上がっていたし汗はだらだらだったのだけれど。
人間はいなかった。というか、生き物らしい生き物もあまりいないみたいだった。植物はあるし、建物もあるし、タコもいるのに。
遠く、後ろの方からやまびこみたいな声が聞こえてきた。
声?人間だろうか。
私は振り返って声のする方に目を向けた。視線は地面をX軸として私の足元を原点に30°くらい。つまり、空から声がした。
「お~~い」
気の抜けるような声。その声を発しているシルエットはほとんど人間だった。背中から生えている羽を除けば。その<ほとんど人間さん>はパタパタとせわしくなく羽ばたきながらわたしの目の前に着地した。わたしと違って息を切らしていた。子供みたいな顔。男の子なのか女の子なのかわからない。白のスーツに白のネクタイをつけていたけれど、お遊戯会の衣装みたいだった。わたしはかける言葉が見つからず、膝に手をついて肩を上下させている<ほとんど人間さん>のつむじを眺めていた。淡い金色の髪の中心のうずまきをじっと見ていていると、深呼吸とともに頭が持ち上がり、目が合った。
「もー!動き回らないでくださいよぉ!こんなとこにまで来るとは思いませんでしたよ!」
<ほとんど人間さん>は怒っているみたいだった。わたしは彼女(彼?)が怒っていることを確信した。なぜなら彼女(彼?)の頭の周りには「ぷんすか」と文字が出ていたし、左目の上あたりに怒りマークが出ていたからだ。怒っていることはわかっても、わたしが怒られることが妥当なのかは判断しかねる。状況が掴めていないのに怒られたってピンと来ない。なのでわたしは、
「はあ」
とだけ答えた。
「はあ、じゃないですよぉ!どれだけ飛び回ったと思ってるんですかぁ!疲れるんですからね、飛ぶのって!わかんないと思うけど!」
「わかりません」
「んもー!」
怒りマークが2つに増えた。もっと怒らせれば3つになるのだろうか。<ほとんど人間さん>は、はあ~~~~~~と長い溜息をつくと、髪をわしゃわしゃと整えて、懐から取り出した不思議な形の櫛で羽を撫でた。わたしは、そっちがそうなんだ、と思った。一通り整え終えるともう怒りマークは消えていた。
「はい、まぁそれはもういいです。会えたことは会えたんだし。えーと、まずはお名前の確認から、赤坂坂子さんですよね」
「はぁ、そうですけど」
「なんか変な名前ですね」
「わたしは変じゃないですよ。親が変なんです」
まあ、おおむね同じニュアンスのセリフは聞き飽きていたので、特にどうも思わないのだった。
「たしかに。子供の人生を何だと思ってるんですかねぇ。どうでもいいけど」
いいんだ。
「とりあえずは自己紹介をすべきなんでしょうけどね。私は——」
「<ほとんど人間さん>」
「ほ……はい?なんです?」
「<ほとんど人間さん>、でしょ」
「なん、何言ってるんですか」
「あなたの名前」
「いやいや、そんなわけないじゃないですか。初対面で名前あてずっぽうで呼ぶ人います?ていうかどんな名前ですかそれ」
「違ったかぁ……」
わたしは残念そうな顔をした。わたしの頭の上には「しょんぼり」と出てきたりはしなかった。<ほとんど人間さん>は口をへの字に曲げていた。
「あなたも変な人じゃないですか」
「それはお互い様じゃないでしょうか」
「えぇ……結構失礼な人だな。じゃなくて、私の名前はですねぇ!」
<ほとんど人間さん>は人差し指を立てた姿勢で固まってしまった。だんだん表情がなくなっていくのをわたしは無言で眺めていた。
「……なんだったっけ」
<ほとんど人間さん>の頭上に「きょとん?」と文字が出てきた。わたしもきょとんとした。文字は出なかったけど。
「ああ、いや、そうだ。ないんでした。失敬失敬」
「ないって、名前がですか」
「ええ、私、名前ないんでした。これを失礼を」
「やっぱりあなたも変な人だ」
「ぐう」
ぐうの音が出た、ということだろうか。
「まあ、いいですよ私の名前なんて。好きに呼んでください」
「じゃあ、ぼろ雑巾さん」
「やっぱりいい感じの名前で呼んでください」
わたしはちょっと考えることになった。なにせ何かに名前を付けた経験がほとんどない。ペットらしいペットは飼ったことがないし、小学校の生き物係には絶対になれないタイプだった。せいぜいが観察日記をつけた朝顔に「あおちゃん」と名付けたことがあるくらいだ。’あ’さが’お’のあおちゃん。親のネーミングセンスを悪く言う権利はないかもしれない。
シンプルに考えよう。
<ほとんど人間さん>だから……。
「ほとちゃん」
「ほとちゃん?」
「ほとちゃんで」
「ほとんど人間だからですか」
「そうですね」
「うーむ」
ほとちゃんは腕を組んで考え込んだ。お気に召しているようには見えない。鳩から連想したことは黙っておこう。
「こだわることでもないし、いいか……」
「そういえばほとちゃんは人間なんですか?」
わたしは今の今まで忘れていた疑問をぶつけた。というか、状況的にプライオリティが低いから脇に置いておいた疑問だった。
「人間ではないですね。少なくともあなたが知っている人間ではないです。こんな羽生えてるし。羽毛もほら、一本一本生えてますよ」
ほとちゃんは右の羽をマントのようにばさっと広げてみせた。確かにその羽には羽毛が生えている。鳥類のそれと違い、両羽を伸ばせば身長を越しそうなサイズ感なので羽毛の一本一本もそれぞれかなり大きい。遠くから飛んでくるのを見たときは軽やかに見えたが、この近さで見るとなんというか、重圧感のようなものがあった。『羽の生えた人間』という言葉から想像されるファンシーさとは遠いところにいる。
わたしは興味のままにその羽の表面を撫でてみた。
「あ、ちょっと勝手に触らないでくださいよ!」
「嫌ですか?」
羽を撫でる手を止めずに聞いてみた。
「そりゃあ、あなただって勝手に体触られたら嫌でしょう!」
「たしかに。じゃあ、触っていいですか?」
「……いや、いいけど……手止めないし……」
わたしはぶつぶつと文句を言っているほとちゃんを無視して羽の感触に浸り続けた。すべすべと滑らかな手触り。それでいて脂っぽいわけでもなくさらりとしている。羽毛の骨(?)部分はしっかりとしていて有機的な強靭さがあった。
「……ねえ、あんまり触られると恥ずかしいんですけど……」
「……」
「……もういいですか?」
「……」
「もうおしまいっ!」
「ああっ」
しまわれてしまった。残念。
「進まないよ展開が!話の続きしますよ!」
「性別はあるんですか?」
「ないです!続き!!」
ほとちゃんは懐から六法全書くらいの厚みの本をすぽんと取り出し、バラバラとめくってぴたりと止め、聖書に宣誓するみたいにその上に手を置いた。聖書は閉じたまま宣誓するけれど。
「えー、赤坂坂子さん!あなたは死にました!」
そんな大声でそんなこと言われても、なんというか、困る。
「死因は飛び降り自殺!そうですね!」
「はい」
「はい!確認終了!こんなことにこんな時間かかるなんて……」
ほとちゃんは開いた本のページに羽から羽ペンを取り出してなにやら書き付けたかと思うと、そのページを破いて手際よく紙飛行機にして思い切り飛ばしてしまった。紙飛行機は落下することなく、空に溶けていった。
「これで手続き終了です。お疲れさまでした」
「お疲れさまと言われましても。わたしは何もしてませんよ」
「とりあえずは質問に答えてくれたでしょう。今はそれでいいんです」
わたしは、はぁ、と返事とため息の中間ぐらいの音を出した。
「じゃあ、ほとちゃんのお仕事はこれでお終い?」
「へ?お仕事?」
頭上にクエスチョンマークが3つ並んだ。もちろん、目に見えている。
「お仕事じゃないの?そんな感じに見えたのだけれど」
「あー……?まあ……お仕事、ですかね。多分そうです」
「多分」
「私、普段これしかしてないので。お仕事ともいえるしただの日常ともいえるでしょうね」
「ふうん」
「あと、これでお終いではないです。ていうかこれからです」
「何するの?」
「それは追い追い話しますよ。とりあえず歩きましょう」
ほとちゃんはわたしを先導するような仕草をした。わたしは何となく気が進まなかったけれど、
「どうせ暇でしょう?」
そう言われてしまってはそのとおりでしかないので、彼(もうめんどくさいから彼でいいや)についていくことにした。




だだっ広い、天国、かっこかり、をてくてくと歩き続けた。わたしが最初にいたところはどうやら比較的モノが少ないところのようだった。歩いていると変なものがたくさん見つかって、毎回ほとちゃんがそれが何なのか解説してくれた。
「ほとちゃん、あれは何?」
わたしは進行方向右側に規則正しく並んでいるモノたちを指して言った。
「あれはひまわり仕掛けのお墓ですね。よく見てください。全部太陽の方を向いていますよ」
「ほんとだ」
「近づいてみればわかりますけど、太陽の反射でどれが誰のお墓かわからないんですよね」
「間に立って影を作れば?」
「その瞬間枯れてしまいます」
難儀なお墓もあったものだ。だいたい、流したけどひまわり仕掛けっていうのもよくわからない。わたしには普通のお墓に見える。
……よくみるとお墓の底の部分から植物の根っこが生えていた。だからといって納得はしないけれど。
てくてく、てくてく、歩き続ける。
「ねえ、あれは?」
わたしは少し離れたところに林立しているレゴブロックで作ったようなヤシの木を指さした。
「ああ、ドットヤシですか」
「なにそれ」
「ゲームやったことないです?ああいうドット絵でグラフィックを表現してるタイプの」
「知らない」
ほとちゃんは口をへの字に曲げてみせた。
「知らないって……あなたの世界のことじゃないですか」
そんなこと言われても。
「とにかく、ああいう色がついた小さな四角をドットって言うんですよ。んで、それで作られた絵をドット絵って言うんです。だからあれはドットヤシ」
「ドットヤシ」
「赤坂さん、ちょっとそこでジャンプしてみてください」
「え?うん」
わたしは素直にその場でジャンプした。着地した瞬間、ドットヤシの見た目が変化した。いや、変化というか壊れてしまったみたいな……。何の意味もなさないグチャグチャの何かに変質してしまった。
「……どうなったの、あれ」
「あれ、バグですね。衝撃を与えるとああなります」
「バグかあ」
こんな離れたところの衝撃もだめだなんて、繊細なヤシだ。
てくてく、てくてく、てくてく。
「ほとちゃんこれは?」
わたしはその辺に転がっていた1mほどの円柱のような機械を指した。
「これは逆ミキサーです。バラバラになったりドロドロになったりしたものをここに入れてスイッチを押すと元に戻してくれますよ」
「使ってみていい?」
「はあ、どうぞ」
わたしは制服のスカーフを外し、紐のほつれた部分を思いきり引っ張った。もともとだいぶくたびれていたスカーフだったけれど、想定外の理不尽な暴力を受けて無残にも引き裂かれてしまった。わたしはそのスカーフを逆ミキサーにいれてスイッチを押した。
「あっ」
すごい音がしてミキサーがバラバラになってしまった。ものの見事に破壊されてしまい、なんだか惨殺したような気分になってうっすら罪悪感を感じた。残骸の中に残されたスカーフはちょっとだけ修復されていた。
「ねぇ、ミキサー壊れちゃったんだけど」
「いや、あなた今蓋閉めずにスイッチ押したでしょう」
「そうかも」
「そりゃあそうなりますよぉ。普通のミキサーだって蓋閉めずに回したら中身飛び出ちゃうじゃないですか」
だから逆ミキサーは外身・・が壊れたのだ、というならもの凄い論理性だ。わたしは半端な状態のスカーフをつまみ上げてみた。流石にもう使えないだろう。
「よかったんです?スカーフこんなにしちゃって」
「うん」
「そういえば、あなたなんで制服着てるんですかね」
わたしは返答に困った。
「それ、むしろわたしが聞きたいんだけど」
「私だって知らないですよぉ。『あ、また来た』って飛んできただけですし」
「またって?」
「自殺した人です」
こっちは自殺してるというのに淡白なことだ。いや、自殺者だって頻繁に来るなら大して珍しいものでもないのだろう。よく考えてみれば、わたしたちにとっても死者はそんなに珍しくないはずだった。
人って4秒に1回くらい死んでるんだっけ。
「……そういえば、わたし、飛び降りたとき制服だったよ」
「ああ、じゃあそれでしょう」
「靴も脱いでたのかも。裸足だし」
「あれ、ほんとだ。靴脱ぐのも珍しいだろうに、靴下まで脱いだんですか」
ほとちゃんは呆れたような声を出した。確かに。なんで靴下まで脱いだんだろう。もう自殺してしまった身としては自殺する前に何を考えていたのか忘れてしまった。
「ここでケガするってことないでしょうから、まあ問題ないか」
「どういうこと?」
「言ったとおりの意味ですよ。ここはケガとか病気とかそういうのと無縁な空間なんです」
まあ天国でもそんなのがあるなんて救いがなさすぎるし、そんなもんなんだろう。
て、いうか。
「ねえ、そもそもここってどこなの?」
わたしはバラバラになったミキサーの破片の中でも特に鋭そうなのを選んで、尖った部分を掌に押し付けながら聞いた。ぐにぐにと弾力を感じるばかりで、皮膚を突き破る気配はなかった。
「遅いですよ、その質問。ほとんどの人は最初かその次に聞きますよ」
「次に聞く人は最初に何を聞くの?」
「私がなんなのか、です。7割くらいの人は『もしかして天使ですか?』って聞いてくるんですよねぇ」
まぁ、そうとしか見えない見た目だし。
そろそろ行きましょうと言ってほとちゃんが歩き出したので、私もそれについていくことにした。どこに向かってるんだろうという疑問はすぐに霧散した。どうでもいいから。
「天使ではないんだ?」
「もう、質問は絞ってくださいよ」
頭上に鉛筆でぐりぐり試し書きした跡みたいなものが浮かんだ。背中、というか畳んだ羽と金髪の後頭部しか見えないけれど、どんな表情をしているかよくわかる。この表現を最初に考えた人は何を思ってそうしようと思ったんだろう。
「えーっと……まず天使ではないです。ていうか、あなた方人間が知っているような存在ではないです」
「ラッパとか吹かないんだ」
「だから天使じゃないって。一番近い言葉で表現するなら案内人ですかね」
「なんの?」
「死の」
あっさり言ってくれるなぁ。
「じゃあ、やっぱりここって天国?」
ほとちゃんは目をまんまるくした。
「天国?」
「だって、ここ、そんな感じに見えるんだもん」
だだっ広い野原と柔らかい日差し。そこだけ抜き取ればすごく天国っぽいのだ。まぁ、変なものはたくさんあるけど。
「そうですかねぇ。ここの風景は自殺した人によって変わるからなんとも言えませんね。あなたが天国だっていうなら天国なのかもしれません。いや、そういえば結構いたかな、そう言う人」
顎に手を当てながら考える様子。さっきからずっとはっきりした回答が得られていない。なんだかはぐらかされえているような気がしてきた。
「それで?結局ここって?」
わたしの口調は知らず、ほんの少しだけ強くなっていた。ほとちゃんはそれを全く意に介していないようだった。
「ここはですね、言うなれば生と死の狭間です」
わたしは黙って先を促した。今まで無風だったけど、ほんの少し涼しい風が吹いた気がした。
「そしてさらに言うなれば。赤坂さん。あなたの頭の中です」
ほとちゃんは前を向いている。表情はわからない。
「そして、あなたたち人間が住む世界とは別の世界です」
「え……はい?」
「今言ったやつ、全部ここ・・のこと言ってますよ?」
ほとちゃんは自分の足元を指さしながら言った。わたしは無意識に自分の足元を見た。自分の裸足に踏みつけられる造花たちが見えた。
「どういうこと」
ほとちゃんは振り返ってちらりとわたしの顔を見た。ほんの一瞬目が合ったとき、その目はわたしを試すような色をしていた。彼はすぐに前に向き直ってしまった。
「うーん。今のところはまだそれくらいですかね、言えるのは」
「今、聞きたいんだけど」
「物事には順序があります。それをバイパスしてもいい結果にはなりませんよ。今あなたがすべきことはこの世界をもっと知ること、向き合うことです。そうさせるのが私の……仕事?でもありますし」
わたしは、ふうん、と鼻を鳴らした。
わたしたちはしばらく黙って歩き続けた。
てくてく。
てくてく。
相も変わらず、日差しは柔らかく暖かい。
ずっと視界に入っている彼方の観音像が、あくびをしたように見えた。




見慣れないものはたくさんあったけれど、広がる野原と遠くの観音像という景観のベースはずっと変わらなかった。ときどき町とか村らしきものはあったけど、近づいてみると全部蜃気楼だった。わたし以外の人は、やっぱりいなかった。いつの間にか太陽が傾きかけていた。
「うーん、結構歩きましたね。疲れました?ってそんなわけないんですけども」
わたしとほとちゃんは、くぼんだ地形にたまった湖のそばに座り込んで大きなタコの触手を眺めていた。これに関する説明は「タコの触手ですね」だけだった。見ればわかる。
「疲れないし、裸足でも足の裏痛くないし。不思議なところ」
「ここはあなたを傷つけるものは何もないようにできてるんですよ」
「物理的に?」
「精神的にも、です。ただこっちに関しては私という不確定要素はありますが」
ほとちゃんはごろんと寝転がった。わたしもそれに倣った。わたしの視界の右側に紅く染まった太陽が沈んでいく。視界の左端には薄っすら三日月が昇ってきていた。
「ほとちゃんは、ここの世界の住人じゃないんだ」
「違いますね。普段はホームの世界があるんでそこにいます。ただまあ、基本こうやって誰かを案内してるんでそこにいる時間も少ないですけどねぇ」
寝っ転がったほとちゃんの背中から羽が伸びていた。伸ばしていた方が楽なんだろうか。「羽を伸ばす」なんて慣用句があるけれど、鳥は休む時は羽をたたんでいるような。
わたしはもぞり・・・とほとちゃんに近づいた。
「ねぇねぇ、ほとさん」
「ほとさんて。何ですか一体」
「お願いがあるんですが」
「……なんか、怖いんですけど、目」
ほとちゃんの瞳に警戒の色が映った。それに反射しているわたしの顔は真顔で、たしかにちょっと怖い。
「羽を枕にしてみたいのですが」
ほとちゃんの顔が左右非対称に歪んだ。「ヒキッ」て文字が出た気がしたけど見なかったことにした。
しばらく無言で見つめあった。達人同士の立ち合いのような時間だ。
やがてほとちゃんは長い溜息をついた。
「……ちょっとだけですからね」
わさわさとこちらに伸ばしてくれた羽に、顔をうずめた。嗅いだことのあるようなないような、暖かい匂いがした。太陽の匂いとはこういうやつのことを言うのだろう。人目(といってもここには彼しかいないけれど)もはばからず、羽毛に顔を擦り付けた。滑らかな感触が顔を撫でて心地よかった。
「そんなにいいかなあ……。そこまで羽に執着したのはさすがにあなたが初めてですよ」
「んあ……前にも……いたんですか……?」
「初めて見る顔してる……。いやまあ、鳥類の学者さんとか興味深そうにしてましたけど」
一通り堪能したあと、羽を頭にして上を向いた。このまま爆睡できてしまいそうだ。
「……ほとちゃんって今までに何人ぐらい案内したの?」
「さあ、どうでしょう。私はかなり若い方なんで3桁ぐらいかなあ」
「3桁で少ないんんだ」
「そりゃあ多い人は何億と案内してますから」
——案内。
「それだけ自殺してるってことだよね」
「そうなりますね」
空が暗くなっていく。太陽が上がっている時間は長かったのに夕方の時間は短い。空気から赤味が抜けたとき、宇宙に散らばる控えめな輝きがようやくわたしの目にも届いた。
「あれくらい?」
わたしは空を指差した。ほとちゃんは空を見上げた。
「あれよりは少ないんじゃないかな」
「……そう」
自分で自分の生命に決着をつける人。ほとちゃんみたいな案内人が何百人とか何億人とかそれと相対してて、それでもあの星々にも数は満たない。
わたしは、今見えている輝きの何分の一の薄さになるのだろう。
「ていうか、珍しいですよ。星が出ているの」
「え?」
「この世界で星が見えるのは珍しいです。そもそも夜が来ること自体もあんまりないかな」
「人によって違うってこと?」
「ええ。さっきも言いましたがここはあなたの頭の中でもあります。”この世界”は人の数だけあるんですよ。今は私がそこにお邪魔している状態ですね」
「……お茶とか出した方がいい?」
「……いえ……お構いなく……」
わたしの世界。今日(?)一日、見てきたものを思い出す。
門、塔、寺。お墓にヤシの木にミキサー。
何とも統一性のないものばかりだ。わたしの頭の中、どうなってるんだろ。
「ねえ、わたし、どうなるの?」
「どうって?」
「もう死んでるんでしょ?天国に行く?地獄に落ちる?それとも消える?」
ほとちゃんは黙ってわたしの目を見つめた。わたしは目を逸らさなかった。人と目を合わせるのは、苦手だけれど。
「まあ……いいか、言っても」
そういって彼はポリポリと頭をかいた。基本的に子供みたいな見た目と仕草なのに、ときどきすごく大人っぽいというか淡白に見える。彼にとって”仕事”をしている瞬間はそうなるのだろうか。
天使は残酷だって話を、どこかで聞いた。
「まず前提を話しましょう。あなたはまだ死んでいません」
自分の心臓の音が聞こえた。
「というかまだ生きています。さっきここは生と死の狭間と言いましたが、それは死に向かっているという意味でなくどちらにも振れ得るという意味です。私のここでの目的はあなたの行く先を決めること。死の案内人とは言いましたが、実のところそうなるかはまだ確定してませんね」
沈黙。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫じゃない」
「でしょうね」
わたしは知らず体を丸めていた。ほとちゃんの大きな羽に全身を載せていた。
そうか。わたし、まだ生きてたんだ。
「もう少し説明しても?」
「どうぞ」
わたしは丸まったまま返事をした。
「あなたは学校の屋上から飛び降りたみたいですね。だから制服だったんでしょう。靴を履いてないのは単になかったから。靴下はわかりませんが」
「どう死んだか知らないんじゃなかったの?」
「あなたと、この世界を見て回って知ったんです」彼の顔をちらりと見ると、瞳に相変わらずただ揺らめき続けるタコの触手が映っていた。「この世界を構成するもの。すべてあなたの頭の中から出てきたものです。それらが持つイメージの裏にはあなたが経験したものと、それに付随する思考と感覚が潜んでいました。あなたには見えなかったと思いますが」
「この世界に元々あったものじゃなくて?ほとちゃん、解説してくれたからそう思ってた」
ひまわりのお墓とか、逆ミキサーとか、今日見たいろいろな変なものを思い出す。彼はそれら1つ1つを知り尽くしたように語っていた。
「私が説明したのは名前と機能だけですよ。あなたが持っているイメージが具現化——というとちょっと違いますが——したときにどのような働きをするか、ということはある程度経験則でわかりますから」
「よくわかんない」
「まあ、それでもいいです。重要なのは機能じゃありません。本質です。この場合はあなたの頭の中にあるイメージですね」
返事の代わりにため息をついた。なんだか急に言葉が難しくなったようだった。ほとちゃんの頭の周りも今は静かだ。
「私にはイメージが見えます。ので、あなたが生前どんな経験をしてきたかも見えました」
わたしは何も言わない。丸くなって、自分の太ももとお腹と頭で作った空間の暗闇を見つめている。
「靴がなかったり制服がボロボロだったりしてたんで想像はできましたけどね」
「趣味悪~い……」
ほとちゃんが苦笑いした、ような気がする。
「ここでは基本的に苦痛を感じない、というのを前提にちょっと踏み込んだ質問をさせてください。あなたは私が見てきた中でちょっと特殊な部類の人です。たいてい自分の命を絶つ人って何かしらの形で追い詰められた人たちです。赤坂さん、あなたはどうでした?私にはそのようには見えないのですが」
どうして……だったかな。
さっきも思った。わたしはもう死んでしまった。もう死んでしまった人間にはこれから死のうとする気持ちはわからない。もちろん、まったく死のうなんて思わない人よりはわかるんだろうけど、きっとその程度だ。あの頃の自分。過去の自分。それは”わたし”ではない。
「よく覚えてない。けど、たしかにすごく追い詰められたって感じではなかった。つらかったし少し苦しかったけど自分で死んでしまうほどではなかった、のかも」
ほとちゃんは黙って私の話に耳を傾けていた。
「なんでわたし自殺したんだろ……。ううん、あんまり自殺しようなんて思ってなかった気がする。なんていうか、そこからいなくなってしまおうって思った。あの世界はわたしの居場所じゃないって思った。あの時は屋上が世界の出口だと思った。ここ・・からいなくなろう、だったらそこから踏み出そう。そんな感じ。ひょっとしたら知らないうちに追い詰められてたのかもしれない。よくわからない。あんまり深く考えなかった。パパとママとクラスメートが……わたしにとって良い人たちじゃなかったのも、どうも思わなかった。だって、わたしとみんなは違うから。人は誰だって同じじゃないから。わかる?わたしはほとちゃんじゃないし、ほとちゃんはわたしじゃないんだよ。だから痛いこととか苦しいこととか、できるんだろうなって。……わたしは、他の人にそういうことをしたいと思ったことはないけれど。でもそれは当たり前で、なぜってやっぱり、わたしが他の人の気持ちにはなれないからってだけなんだ。みんなはわたしに酷いことしたい。わたしは誰にも酷いことしたくない。これ、おんなじだよ」
わたしは丸めてた体をグーをパーにするみたく広げた。大の字になって空を見てみると、さっきより星が多くなってる気がした。
「だからどこかへ行こうと思った。そこにいても誰も幸せにならないなら、多分この世界はわたしとの相性が悪いんだなって、一歩踏み出した。うん。あんまり追い詰められたって感じじゃなかった。ただちょっと、赤信号を渡るぐらいの気分だったよ」
今夜は満月だった。不思議だ。上ってくるときには三日月だったのに。それに太陽よりも大きく見える。
あれは何?
聞こうと思って、やめた。
ほとちゃんも同じものを見ていた。
「不思議ですねぇ……。同じヒトって生き物でも色々いるんですね」
「案内人さんたちはそうじゃないの?」
「ええ。私たちはみんな私みたいな性格、考え方だと思いますよ。見た目は入る世界で微妙に変わったりしますけどね」
「へぇ~」
「複雑性、って点で人はちょっと特殊です。地球において自殺をする生き物自体は別に珍しくないんですよ。サルとかトリとか、それこそそこにいるタコだって自殺します」
わたしは顔を脚の方向に向けた。いつの間にか湖から延びる触手が1本から5本に増えている。月をつかんで湖に引きずり込もうとしてるように見えた。
「でも人間は特殊な動機が多いですからねぇ。正直それを聞くのはちょっと楽しみでもあるんですよ」
不謹慎だなぁ、と思ったけれどどうだろう。死が話題としてはセンシティブなものとされているのは悲しいことだからだ。一度死んでしまえば悲しくない。あの世がこことは別にあって、そこに死んだ人たちがみんないるのなら、自分の死に方がトークテーマになったりするのだろうか。
「あなたたちの星の特殊性はその多様さにあります。あらゆる生命が多様に発展すること。停滞せず世代交代による適応を繰り返すこと。それが地球という星で生き居残る上での最適解、少なくともベターな解答だった。その星での到達点として個を獲得したあなたたちが自死を選んでいる。それは知性と多様性が乗り越えられなかった呪いなのか?それともほかの生物のそれとは一線を画す『獲得したもの』なのか?答えはないでしょうが……思いふけるのは面白いです」
ほとちゃんの頭の周りには「きらきら」と出ていた。正確には瞳の周りだったかもしれないし、その瞳に映った星の周りかもしれない。
難しい話はよく分からない。
急に眠たくなってきた。この世界でも眠くなることがあるのだろうか?
「眠いです?」
まぶたが重くて、ほとちゃんがどんな顔をしているのかわからない。わたしは無言でこくりと頷いた。
「眠ってもいいですよ」
羽の上で丸まったわたしの上に、もう一つの羽が重ねられた。
あったかい。質量はありそうなのに重たくない。
文字通り羽のような軽さ。
羽のサンドイッチ。わたしは具。
制服はレタス。下着はチーズ。わたしはベーコン。
だんだん意識がとろけてとけて。
苦しみのない穴に、さようなら。
「おやすみなさい」




夢を見ている。
夢を見ているとき、それを認識できる人とできない人がいる。
認識できる人はある程度夢を操作できるそうだが、残念ながらわたしはそちら側ではないので基本は起きたときにどうやら夢だったらしいと気が付くばかり。
で、そんな前提とは何の関係もなしに、わたしは今夢を見ている。
それは記憶の夢だった。
わたしの視界にはわたしが映っている。わたしは自分の目を水平方向に向けたのち、30°ほど下を向いた角度にいる。つまり、空を飛んでいるわたしが、地面を歩くわたしを見ていた。
わたしはほとちゃんの視点で世界を見ていた。
それはほとんどわたしが見ていた景色と同じだったけれど、決定的に違うところがあった。
そこは天国ではなかった。
天国にあるべき幻想性がなかった。
地獄の入り口みたいな門は校門だった。
花畑にはアスファルトが透けて見えた。
遠くに見えた観音像は校舎の遠景だった。
東京タワーもエッフェル塔も、お寺もタコもお墓もヤシもミキサーも。
みんな現実の何かの影だった。
不思議と嫌な気分にはならなかった。
やっぱり天国なんてなかったって、それだけ。
なるほど。
死んでみて初めて分かった。
どうやら、死んだって天国に行けるわけじゃないらしい。




だれもが一度は経験したことがあるはずの最高の目覚めとともに、わたしは目覚めた。目を開けるとちょうど太陽が視界の左側から登ってきていて、右側には不思議な色合いの月が沈んでいくところだった。暁月というやつだろうか。金とプラチナの間の色だった。
そしてその月を眺めている、子供みたいに幼くて大人みたいに大人びた顔。金色の髪が日に照らされて、きらきらと光っていた。
「おはようございます」
「……おはよう」
わたしは動いていなかったけど、ほとちゃんはわたしが起きたことにごく自然に気が付いたみたいだった。わたしが寝ている間ずっと起きていたんだろうか。二枚の羽は、まだわたしの寝具となっている。
「どんな夢見ました?」
彼は聞いた。
「夢を見たとは限らないじゃん」
「ここに来た人はみんな見ますよぉ。夢は記憶の整理。昨日のことを夢見てたでしょう」
「見てきたみたいに言う」
ほとちゃんは頭をぽりぽりとかいた。
「いやまあ、実は見てました。案内人の能力というかなんというか。自然と見えてしまうんですよね」
「……えっち」
「……なんで……?」
わたしはもぞもぞと上体を起こして、腰を浮かせてほとちゃんの羽から身をよけた。特別折れたり羽毛が抜けたりはしてなさそうでよかった。
「羽、ありがとうね。すっごく気持ちよく寝れた」
「そりゃよかった。羽を枕にしたいなんて言う人今までいなかったから寝具としての性能は保証できませんでしたが」
「枕っていうか、敷布団と掛布団になっちゃったけど。重くなかった?」
ほとちゃんは懐から櫛を取り出した。昨日見たのと同じやつだ。
「さあ?どうなんでしょう。ここそんな神経通ってなくて」
わたしはちょっとばかし面食らった。ほとちゃんって神経通ってるんだ。彼は母親が腕に抱いた子供を撫でるように、自分の羽のケアを始めた。羽のないわたしでも大切なものなのだとよくわかる。今更ながらそんなものの上で寝てしまって申し訳ないような気がしてきた。
ほとちゃんが自分の羽のケアに満足いくまで、わたしはそれをただ眺めていた。宗教画みたいだと思った。ここは天国ではなかったけど、天使みたいな人はいた。
「さて……そろそろ行きましょか」
櫛を懐にしまって、ほとちゃんは立ち上がった。わたしも立ち上がり、歩き出したほとちゃんについて行った。寝起きにしては走り出せそうなくらい体が軽かったけれど、そんな気分じゃなかったので歩いてついて行った。
ほとちゃんは行き先を言わなかったし、わたしも聞かなかった。
そこがどこであれ、多分わたしの結末は同じことだと思ったから。


昨日はたくさん変なモノが落ちていたのに、今日は何もなかった。ミキサーもヤシもないし、遠くに見えていた観音像も見えなくなっていた。2人とも黙ってぼーっと歩いていたせいで気が付かなかったけれど、空から太陽が消えていた。光源のなくなったこの世界は、ただ存在が浮き上がるようにそこにあるのだった。
足元を見ると、裸足のわたしの足が踏みつけるのは造花ではなかった。足の裏の感触はだんだんと乾いたものから薄く湿ったものへと変わっていった。わたしはこの花を知っている。彼岸花。真っ白な彼岸花が一面に広がっていた。
なんてわかりやすい、と、そう思った。
「着きましたよ」
ほとちゃんが立ち止まったところは、崖の縁だった。
いや、違う。わたしはここを知っている。
景色は違う。街並みが見えるわけじゃないし、フェンスだってない。見下ろしてみてもそこに広がるのはグラウンドではなく、鏡面のような湖が限りなく広がっている。けれどここは、学校の上だ。あの時私が飛び降りた。わたしの自殺が決定したあの場所だ。
「ここがどこか、わかりますか?」
わたしはこくりと頷いた。
「ええ、ここはあなたが飛び降りた校舎の上です。もちろんあなたの頭の中にあるものですから、そのものではありませんが。赤坂さん、ここで何をするかわかりますか」
「選ぶんでしょ、わたしが」
「なにを?」
「生きるか死ぬか」
わたしはほとちゃんの顔を見て答えた。ほとちゃんは何も言わなかった。肯定するのと同じことだ。
なんとなくわかっていた。昨日の夜、湖のそばでわたしが死んでいないことがわかってから。ひょっとしたら、わたしがこの世界にきたときから。わたしはきっと選択するんだって。
ほとちゃんが指をパチンと鳴らした。するとわたしのそばにドアが出てきた。空気にクレヨンで絵を描いたみたいな簡素なドアだった。
「そのドアはあなたにとっての現実へつながるドアです。つまり、そのドアを開けたらあなたは生き返って、元の世界で生活を続けることになります」
このドアには看板はなかったし、「このドアをくぐるものは……」なんて文言も書かれていなかった。
「下の湖は、あなたの言葉を借りるなら死に連なる湖です、飛び降りればあなたは死にます」
「わたしの言葉を借りるならって?」
ほとちゃんは肩をすくめた。
「人間の言葉を借りるなら、って言い換えてもいいですが。とにかく生命としての活動は終わります」
「じゃあやっぱり死ぬんだ」
「さあ?どうなんでしょう。少なくともわたしは死んだことがないから」
禅問答みたいだと思った。実際禅問答ってこんな感じなんじゃないだろうか。ほとちゃんは無限に広がる湖の水平線を見ていた。
「死という言葉が意味するイメージは、わたしも見たことがありません。『死のようなイメージ』はよく見ます。なにせそれを選んだ人と関わるのでね。でも誰も死を知らないんです。死が何なのか知っている人はいませんでした。当たり前です。死んだことがある人なんていないんだから」
膝小僧のあたりまでの背丈がある彼岸花が、わたしの肌をくすぐった。風はないし、花は自分では動かない。それを感じたのはわたしが動いたから。
「不思議ですよねえ。死がどんなものなのか誰も知らないのに死を選ぶ人がいます。現実が辛いんでしょうが、ひょっとしたら死はもっと辛いものかもしれないのに」
「そんなこと考える余裕なんて、きっとなかったと思う」
足元の彼岸花を一輪摘み取ってみた。
「ほとちゃんは昨日言ってたよね。人が死を選ぶ動機について思いを馳せるのは面白いって。でも多分掘り下げても、そこに埋まってるのはとってもつまらないものだよ」
「反射?」
「逃避」
摘み取った彼岸花を顔に近づけると独特な香りがした。この花は今死んだのだろうか?死んでも香りは消えないままだ。
「ねえ、この世界って何のためにあるの?自殺した人が本当に死ぬかやっぱりやめるかの確認のため?やっぱりやめる、なんて選択する人そんないないと思うんだけれど」
「ほとんどは、そうですね。割合としては9対1くらいです。でも必要なんですよ。フラットな気持ちでもう一度確認するのって。『本当に死んでしまっていいですか?』『はい』『いいえ』ってね。ここは現実じゃないので、そんなやり直しがきいてもいいはずです」
「そういうもんかな」
「生き返ったところでうまくいくとは限りませんけどね。それこそその人次第です。体にハンデを負ったりするかもしれないし、周囲からの目も変わるでしょう。でもそこ・・そう・・することができるのは生きているからであり、その人が選んだからであり、それは確実に死んでいてはできないことであり……。それはとても尊いと、私は思いますよ?」
「詭弁じゃないの」
「人生は詭弁です。でなきゃ死しか残りません」
それもそうかもしれない。そうじゃないかもしれない。わからないってことさえも本当にはわからない。
「むずかしいなあ……」
「ええ、まったく」
しばらく沈黙があった。その沈黙は何の意味もないものだと、きっと二人ともわかっていた。だからそれは長くは続かなかった。
わたしは立ち上がった。
「……決めたんですか?」
「うん」
わたしは湖に背を向けた。そして落書きみたいなドアと相対した。
ドアはわたしを招き入れようとしていた……なんてこともなく、ただそこにあるだけだった。ここに立ったのは、わたしの意思。
「いいんですね」
「別によくないよ。わたしがこれを選んだのは、ただ他の人たちよりも楽観的だってだけ。それに、わたしが飛び降りたって知った周りの人たちがどんな風に接してくるのか気になるの」
「人間らしい理由で好ましい」
「わたしの世界には、死のうと思えば何でもできる、とか、死ななきゃ何してもいい、みたいな考え方があったけど、1回死にかけたわたしが何ができるか気になった。わたしはあの世界との相性が悪かった。だからわたしがそこから離れたんだけど……別にわたしのために世界の方を変えたって良かったんだ」
「強く生きようと決めた、と?」
「そんなかっこいいものじゃない。ただ、ちょっと気に食わない世界に不意打ちを食らわせたいだけ」
わたしは摘み取った彼岸花を放り投げた。それはそのまま崖の向こうへ消えていった。
「っふふ、あはははっ」
ほとちゃんが笑った。声をあげて笑った。いい笑顔ってきっとこういうものを言うんだろうと思った。彼の顔の周りは形容しがたい記号が飛び回っている。なんて言うか、まつ毛みたいなアレだ。
「ああ、いいですね。そういうの。うまく言えないけどなんか好きです」
「そりゃどうも」
「好きなので1つプレゼントを差し上げましょう」
ほとちゃんはアイドルがやるみたいな(実際にアイドルがそんなことするかは知らないけど)投げキッスをした。すると空中に手のひらサイズのハートが現れて、ふよふよと飛んだかと思うと、わたしの胸の中に溶けていった。
「今、あなたにちょっとした能力というか機能を与えました。生き返ったあなたが強く願うと今度こそ本当に死ねる機能です。痛みも苦しみもなく、スイッチが消えるみたいに死ねますよ」
「そんな魔法みたいなことできるんだ」
「魔法ってほどでもないですよ。人間の体って結構そういうとこあります」
ざっくりした解答。ともかくありがたいとは思った。生き返ってみたはいいけど全身不随でどうにもならなったらちょっと困るなあとは思っていたから。
「ありがとう」
「いえいえ」
わたしはドアと向き合った。もう一度ちょっとだけ振り返って、横目で湖の方を見た。それはそれは魅力的な水面だったけれど、とりあえず今回は縁がなかったということで、またの機会によろしくお願いします。
ドアノブに手をかける。
「ねえ、ほとちゃん」
「はい」
「次に死んだときも、ほとちゃんに会えるかな」
「残念ながら、この世界に来るのは一度きりです。次に死ぬようなことがあればあなたはそのまま死んでしまうでしょうね」
「じゃあ、ここでお別れだ」
「ええ、そうなります」
少しだけひねってみる。かちゃり、と、とても軽く開いた。
「本当にもう会えないかな?」
「どうでしょう。本当に死んだとき、死後の世界があるのならそこで会ったりするかもしれませんね。死んでしまったらどうなるか、誰にもわからないわけですから」
「その世界って何て言うんだろ」
「天国かも地獄かもしれません。まあ単に次の世界ということで、『来世』あたりが妥当ですかね」
ドアの向こうが見えた。その先には何もない。
「じゃあ、そこで会えるのかも」
「ええ、会えるのかも」
わたしは振り返ってほとちゃんの顔を見た。
「じゃあ、来世で」
「ええ、来世で」
「さようなら」
「さようなら」
ドアが開ききった。
向こうの世界がなだれ込んできて、わたしはそれに溶けていく。
ほとちゃんの笑顔が見えた。
彼は手を振っている。
笑顔で。
それも溶けて消えていく。
また会えるかな。
会いたいな。
でもそれは一旦お預け。
とりあえずは自分の物語に向き合おう。
世界に復讐する話になるのか。
世界に圧殺される話になるのか。
どうなるかわからない。
生きてみよう。
目下それでよし。
あの電柱までは頑張って走ろう、だ。
さようならと言った。
次はなんだっけ。
えっと。
ああ。
たしか。




「こんにちは」

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