昨今のポスター問題などについて

女性の方々に言っておきたい。
見知らぬ人に「おっぱい大きいね」と言われて嫌なのは、ごく自然な事です。
何故なら、男であったとしても、見知らぬたくさんの人から「おっぱい大きいね」って言われたら嫌だし、それでジロジロ見られるようになれば、男でも恥ずかしい。

だから本当の問題は「人の体をジロジロと見て、その身体的特徴を公にする」という行為なのである。
これは、性教育の一番初めの段階で説明されるべき事である。
「身体的特徴はセンシティブなものであり、本人の許可なく触れたり、必要以上の観察や、それを公にする事は、してはいけない事である」

つまり、広告やポスターを焼き払っても、おっぱいをジロジロと見て「おっぱい大きいね」と言う人を減らす事はできない。
そんな広告やポスターが人の意思をコントロールしてそうさせているわけではないからだ。
「人権や性への教育が十分に浸透していない」のが本当の理由なのである。

創作物における私達への影響

こんな所で書くのもなんだが、総合的に言って創作物や表現には、行動への動機としての影響力など存在しない。
「影響力がない」というのは、「影響を受ける人が一人もいない」という意味ではなく、「影響力がある」とは「影響を受けない人が一人もいない」という意味でもない。
つまり、「環境とは行動への動機の方向付けの要因の一つとして存在し得ないとは言えないかも知れない」といったレベルのものであり、例えば、見るものといえば人を殺す作品で、やるゲームといったら敵を一人残らず殺すゲームで、趣味といったら武器や兵器を集めることで、実際に従軍経験があり、敵を自分の手で殺した事のある人でも、いじめられたり、差別されたりしてさえ、ランボーの様に銃器や兵器を持ち出して向かってくる者を全てなぎ倒す、なんてハリウッド映画みたいな事は起こらない。
従軍経験があるという事は、人を殺す教育まで受けているわけである。
そこまでいっても、創作と現実は全く違うものなのである。

もちろん、ナチュラルボーンキラー、つまり生まれながらにしての殺戮者、としか形容の出来ないリミッターのぶっ壊れた存在は否定できない。でも大丈夫、そんな奴らは創作なんて概念がない頃からいたし、何があろうがなかろうが人を殺すので気を使う必要は全くない。

つまり結局、表現を規制し、ポスターや広告、本を焼いても何の役にも立たない。これが何の役にも立たないだけで終わるのなら、誰もさしてこだわらないのである。じゃあ何故こんなにもそれらを焼くのに抵抗する人達がいるのかというと、過去の歴史に学んだからである。

歴史に学ぶという事

1933年5月10日夜、ヒトラーが政権を握ったその年、ナチスに扇動された学生たちがこの広場に集まり、「享楽的、堕落的な作家たちをドイツから追放せよ」と叫びながら、多数の書物を投げ捨て、そこに火を放った。
シラー、トーマス・マン、アインシュタインなどドイツを代表する人たちの著作が炎の中で灰になっていった。
ちょうどこの広場は大学図書館と隣接しており、そこからも多数の書籍が投げすてられた。その数2万5千冊ともいわれる。
この焚書事件をきっかけにナチスの一方的な文化抑圧が進み、差別の極致としてのユダヤ人虐殺へと進んでいく。
「これは序曲に過ぎなかった。書を焼く者は、人をも焼いてしまう者である」
ハインリッヒ・ハイネの言葉だ。
と言っても、1933年に書かれたものではない。
1世紀以上も前の1820年当時、ヴァルトヴルグの祭典で書物が焼かれた時に記されたものだ。
その言葉が、100年もの時を超えて起きたことを、実に的確に言い当ててしまっているのだ。戦慄さえ覚える。ハイネもユダヤ人。哀しくも同胞の悲劇を予言したこの言葉が、今もベーベル広場の一角に刻まれている。
イタリアの誘惑より転載

学生達はユダヤ人を虐殺したいから、書を焼いたのだろうか?
それは明らかに違うと言えるだろう。
退廃的な文化が世を蝕むと考えた、つまり、昨今のポスター問題とさして差がないのである。
それはつまり、この焚書が上手くいけば、次に焼かれるのは人であるという事だ。
そんな事をするはずがない、と声を上げている人達は言うかもしれない。
しかし、当時の学生もユダヤ人を虐殺したいと考える人達が始めたとは思えない。
そして物事というものは、ある程度動き始めたら、人はそれが終わるまで見守るしかない時期を迎えるのである。

そこで私が言ったようにならなければ、私が笑われて終わりである。
しかし、声を上げる人達の言うがまま創作物を焼いて、それがもし人を焼くようになった時、笑ってすむ話なのだろうか?
誰かが止める事のできる流れなのだろうか?
国全体が動いているムーブメントを阻止して、人権や性の教育に力を入れる事と、私を笑って人権や性の教育に力を入れる事は、どちらが容易だろうか?

これから本当にすべき事

言うまでもなく表現への規制ではなく、人権や性への教育である。
それは意識を変えるという事である。男も女もである。
一つ、いい動画がある。これを見れば、本当に変るべき方向性というものが分かるのではないかと思う。

レーティングやゾーニングは、昨日今日決まったり、変化したものではない。
たくさんの時間をかけて決まってきたものだし、もちろんこれからもいくばくかの変化はあるだろう。
それらを突然飛び越えて表現を燃やしても、結局良い結果は得られないのである。

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