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いったいいつになったら悟りを開くのか
去年の冬、大学時代に同じサークルにいた同級生の訃報が届いた。まだ67歳、肺癌だった。年末に届くのはこれまではたいてい親の喪中の知らせだったので、ショックだった。
もうそんなことがいつあってもおかしくない齢になったのは理解しているつもりだったが、身近な人が亡くなると、不安と焦燥感がとても強くなる。
不安はあと何年生きられるのだろうかということだ。ここ数年、狭心症などの血管系の疾患で何度か手術を受けた身としては、明日も元気である保障は全くないからだ。
いつ死んでもおかしくないとなると色々な想いが頭の中で錯綜する。残る人たちのことや自分がどんな思いでその時を迎えるのかなど、日々その時々で色々なことが頭に浮かぶのだ。
例えば死ぬ瞬間を想像してみる。もちろん大抵は思い通りにいかないものだとわかりつつも静かに往けたらと願う自分がいる。
死んだらどうなるのか考えてみる。たぶん寝ているときに夢を見ていない無意識の状態が続くのだろう。何も見えない、聞こえない、ただ静寂が永遠に続くだけ。その静寂でさえ静寂と認識できない状態だと想像する。
永遠の静寂に包まれるのなら何が怖いのだろう。生きていても天変地異や争いなどの恐ろしさで不安な気持ちに苛まれることは多々ある。死んで静寂に包まれれば何の不安も感じることもなく、逆に楽じゃないかとも思える•••••が、
いやいや、そうかといって死にたいとはとんと思わない。そう、生に対する執着があるのだ。刺激のない時間は御免蒙るだ。
一病息災ではないが、思いもよらず長生きしてしまうかもしれないという淡い期待感がある。同世代の芸能人の訃報のニュースを聞いてその方の年齢から自分の年齢を引算し「あと何年しかないか〜」と感傷的になっても、直ぐに忘れてしまい他人事で済ましてしまう自分がいるのだ。
きっとそうした不安とわずかな期待を抱いて同じことを繰り返し考えながら今後も生き続けていくのだろう。それはそれでしょうがないと諦めもつくのだが、厄介なことにもう一つ諦められず心に焦りを抱かせるものがある。
子育てが終わり、自宅のローンも終わった。年金でなんとか生活もできる。人生一丁上がりなのだが、なぜか落ち着かない。「このまま終われないぜ」という気持ちがある。どうも私は人一倍自己顕示欲が強いようだ。
ここまで長く生きてきて何もしなかった、やり遂げなかった訳ではないとは思うが、なぜか果たしたという達成感が未だにない。どんな形でもいいからもっと何らかの爪痕を残したい。そう思いつつ、何もできていない自分に焦りを感じているのだ。
ただ特に有名になりたいわけではないし、まずなれることもない。あるとすれば、これまで出会ってきた人たちに彼らの知らない自分を見てもらうことぐらいか。
「あの人にはこんな才能があったのね」とか、「こんなことをあいつができたのか」と驚かせられれば少しは満足するような気がする。まあ器の小さいことではある。
そんなこんなで、まずはエッセイを書くことから始めてみた。手当たり次第賞に応募したが、結果は全滅。原因は大体分かっている。特筆できるエピソードもなく、人を惹きつけ感動させる文章力がないようだ。
しかし今はそれぐらいしか思いつかないので、暫くは拙い文章を書きながら鍛錬しチャンスを狙い続けるのだろう。ただ、もしそれが出来たからといって満足できるかはわからない。また別のことを考えていそうだ。
いい歳こいて何してんのだろう。うーん、結局目立ちたいだけなんだな。こんなんじゃあ悟りなんて絶対開けない。悪あがきを死ぬまで続けるのだろう。
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