教育を投資と考えると不毛だと思う話

みなさまこんばんは。今日も今日とてしこしことできることをできるだけやるおじさん内科医です。

教育を引き受けて10年以上たつけれど、
優秀な人でもこっちが意図したことをくみ取る研修医はとっても少ない気がします。指摘が必要と感じないということも本人の成長を妨げている原因です。ただ彼らの理解力で『イイと思ったこと』をやるようになるので指導者の言うことを聞かないのもまあ納得で、いまさら驚くことでもないんです。

しかし、車輪の再発明ではあって、壁にぶつかって改善をしないと納得しない話でもいやいやそれは先人が培った技術を模倣すればそのピットフォールにハマらなくても済むよね的なことは茶飯事。そうなってくると指導のコンセプトを理解して修正する能力が高い人が成長を爆速でつかみ取ることになる。

膝を突き合わせて指導に当たっても数か月で卒業を迎えます。成長が続くような若手であれば成長が止まらぬうちにもうちょっと指導に当たりたいと思うものです。しかし指導してもうんともすんとも、むしろこの研修期間で何を学んだ?という若手の場合は明日にでも卒業してくんねえかなぁと思うのが人というものかもしれません。

成長を促し成長を見守るのが仕事です。
しかしこれを未来への投資と考えるとやはりやりきれなくなる。
数か月もの間懸命に向き合った結果、卒業と同時に研修前のレベルに戻るような若手をみることも多いです。この期間、いったい何の時間だったのか、なーんて感じることも少なくないですね。

そういう場面に立ち会うとカリスマ性を欲するようになります。
自分の言った言葉に真摯に向き合って個人を成長させようと研鑽に励むような若手であってほしいと願っても難しいのは百も承知。ただ仕事に置いて自分の言葉の影響力がもっとあれば、カリスマ指導医の言葉になればなぁという想いも同居するんですよね。

カリスマ性は多分持てる人が限られているんでしょう。
自分の家族にカリスマ性を感じないのはきっと、すべての分野で自分を凌駕する能力を持っているかどうかに影響されるからだと思うんです。一つでも自分よりしょぼい部分があればきっと人は『たしかにあの人はすごいけど、○○については自分の方が上だよね』と感じた瞬間に指導が入りにくくなるはず。そう考えるとカリスマであり続けることの難しさとそこまでの情熱を傾けるエネルギーは自分にはないよねとなる。結局のところなりたい自分とまあ他人は他人で技術がクソならそれで生きて行けよ自己責任な、って話に収束してしまう。

特別な才能がなくても一流の枠に入れることが医学の魅力だよなぁという考えをもつ自分。聞く耳持たぬ若手の人生。それはそれで無縁だったのか、それとも魅了するだけの力量が自分にあれば交差するはずもなかった若手の人生すら変える力があるのか。不惑を通りすぎた中年おじさんの長年抱える葛藤。つらつらと書いてみました。読んでくださってありがとうございます。

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