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コロナでわかったこと

公共交通機関で移動中に突然の倦怠感に襲われた。
立っていられなくなってとても家にたどり着ける体力が残っていないどころかこのままだと死んでしまうかもしれないと恐怖を感じて救急車を呼んでほしいとお願いするのだった。病院に搬送されコロナと診断。

精神的ストレスと、コロナによる身体的ストレスできっと過換気気味になったりで血圧がストンと下がったのだろう。立っていられなくなりストレッチャーに移る力も残されていなかった。

その日はなんとなくけだるかったので水分は多めに飲んでいて1L以上は摂取していたのに、そして糖分もとっていたのに尿からはケトン体が2+。しかし他の採血項目はほぼ異常がなかったのには驚いた。40過ぎのおじさんが動けなくなるほどにしんどいというのに採血結果は全くそのしんどさを反映していない。患者の症状を数値化できるわけではないことを患者になって改めて知った。

体調を壊すといつも病床で考える。普段の健康がいかに奇跡のバランスの上に成り立っているか。そして現在受けている抱えきれない精神ストレスについて。コロナになってやっぱり今の職場で疲弊し続けることはもう自分にはできないな、だった。第一線から離れて新たな職場で社会に貢献したいなぁという想いが固まった。もうやり切った感があったのも大きい。仕事についてあれやこれやと評価を受け続けるしんどさももうたくさん。評価する側が評価できるだけのスキルをもっていないのに、『おまえが言うな』とも思っていた。まあ上司にしたって僕の火消しで仕事が増えるわけだし、お互いにとって良くないわけで。

組織として自分のスキルが買われていたのではなくてただ駒が欲しかっただけなんでしょ?素直に言えよ、と思う自分がいる総合病院を漂流してきた自分はどの組織でも感じたことだった。そこに理念なんかない。コンセプトなんかない。損得で役職にしがみつくだけじゃないか。理念に忠実な部下とそうでない部下と区別すらつかなくなっている。とまあ不満はでるでる。

そんなこんなでやっぱり転職。自分が今やらなきゃいけないのは職探しだなってことに気づけた。

そして今置かれた環境で財産だなぁと感じたのはパートナーの存在。こんなに体調がすぐれない自分に笑顔で変わらず接してくれる。テレビ電話で連絡をとると一日分の笑顔を振りまいている自分がいる。電話を切るころには元気と勇気をもらえている気がして自分はなんてラッキーなんだと思えてくる。

体調が悪くならないと環境の良し悪しが見えてこないというのは以前からあった。でも健康をすこぶる損なっているときだからこそ生きるのに必要な条件みたいなものがむしろ冷静に見える気がしている。体調不良の極期にはもちろんこんなことを考える余裕もないけれど回復フェイズに入ったら一度総括するのがおススメ。


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