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じぶんがそこにいることで

師事している人に理解を得られないのはツラい。
僕はそのタイプの人間だ。
トップをとることができず、良くてNo2なのだと思う。

職場で、決めつけられ、レッテルを張られ扱われる。批判の的になる。
だからお前は駄目なんだと言われる。
それが尊敬してやまない上司からの言葉であればなおのこと傷つく。
ただ、構造は同じ。決めつけだ。僕は結論ありきの人間にはことごとく不快な想いをしてきた。そして都度戦ってきた。

でも今回は負けるが勝ち。
事実を紐解いていって自分の正当性が見えている。
戦う意味が自分にはなかった。
自分が無実であることの証明を現組織ですることの意味はなにがあるのか。
人間関係は惑星に例えられるとするなら、きっと僕たちはこの職場をもって二度と会わないほどの周期にさらされる。それでも僕が彼にマウントを取った状態で別れるより少しでもいい関係で終わりたい。決めつけていたことを彼が認識したらきっと彼も傷つく。ただきっと認めないだろうけど。彼はそんな人だ。

僕は人の五感でものを考えることができることがある。どんな人にも、というわけではないが、興味を持った人に関してはという場合は特に。師事した人たちの思考は割と再現度高く想像できる。そして不快に思った人もだ。

彼らの五感でものを考えられることが多くもちろん誤差はあるけれども
解像度は高め。他人の思考でものごとを考えることができるので他人のイヤなところもわかる。

職場でのレッテル張り。それは僕への批判そのもの。批判したい気持ちがありありとある。口では君のために話し合いの場を設けるという。けれどその時間を共に過ごしたことで結論ありきであれば僕はどんなメリットがあるだろう。そこで僕の主張が正しかった時、裁判官の上司は『レッテル張りをしてごめん』とはならず『お互いに歩み寄りが必要だよね』というだろう。たぶんそんな結論ではイチミリも納得することはなく、お前らいい加減にせえよコラ!と罵詈雑言を吐くことになる。きっとそうなる。そうなればレッテル張りの人間と同じ土俵で相撲を取ることになるのだ。

そんな話し合いにどんな意味を持つのか?
立場上話し合いの場を設けたいだけの現場監督のエゴ。それに付き合って、やっぱり僕が間違ってましたというまで終わらない時間。だから結論ありきの人間はイヤなのだ。

結論ありき人間は多くの場合損得に支配されている。こっちを応援すると得だな、が中心にある。何度も見てきた。組織として何が最善で、組織としてどうあるべきか、組織としてどこに向かうべきか、そんな思想はまるでないのだ。そのマインドで個人の人間性を量ることなどできるだろうか。もっと言えば個人を大切にすることができるだろうか。自分の所属している社会を富ませることができるだろうか。

こういう困ったちゃん一人動かせない自分にも嫌気がさす。このくらいの理解力の人間を操るくらいの技術を蓄えてこなかった自分にも腹が立つ。いろいろと操りながら組織を前進させることがこの職場の個人的ミッションだった。それが叶わなかったことを恥じたい。

この想いは決して忘れない。悔しい、悲しい、苦しい、腹立たしい、情けない、、。心臓を掴まれるような感覚がいっそう心の火に薪をくべる。引き受ける、そして考えて、向き合う。これが息を吸うようにできるようにしたい。そして同時に自分のコミュニティに貢献したい、豊かにしたい、自分がそこにいることで。目立たなくてもいい。でも確かにそこにいる、そう感じてほしい。


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