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新しい「客観性」を定義しよう―高階客観性理論

(※この記事は自身のブログからの転載となります。ご了承ください)

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お断り

※本記事では社会学全般を批判的に書いているが、社会学の各派閥すべてに当てはまるものではない。
社会科学に分類されている学問のすべてが、自然科学的研究や数理を軽んじているとは限らない。
社会科学であっても、論理的あるいは科学的整合性が十分確保されているものに対しては、本記事における批判の対象から除外するものとしてお読みいただきたい。

1. 現状―科学からの逃避と女性崇拝

1-1. 科学から逃げ、科学を悪用する社会ガク

社会ガクの致命的な欠点は、「弱者が誰であるのか」を科学的に議論しきれていない点にある。
例えば「女性が弱者であること」は充分すぎるくらいに議論が尽くされているが、「弱者を探してみると、女性が見つかる」ことは証明できていない
このようなことをいうと、「『男女比』という視点に立って考えて弱者を探せば、女性が見つかることが多い」というような反論をいただくかもしれない。
しかし、それはフェミニズム(女性至上主義)による洗脳なのだ。そもそも「男女比」という視点が弱者を探すことにおいて正当なものであるという証拠はどこにもない
(この反論に対する)反例として、図1-1-1の生態系ピラミッドなどが挙げられる。

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図1-1-1. 生態系ピラミッド[1]

肉食動物は、草食動物を食べるという点において、草食動物よりも上位に位置する。
一般的に上位に位置する種は、下位に位置する種と比べて個体数が少ない。
また近代の人間社会においても、貴族の人口は農民の人口よりも少ないということが常であった。
 
このように、「少数派こそ弱者である」というのは容易に反論可能で、科学的根拠に乏しい命題なのである
 
社会ガク者が万が一、学者の一員であるというのなら、
「女性の人数が少ないから女性が弱者なのだ」と叫ぶためには「人数の少なければ、それは弱者なのだ」という命題を科学的に証明しなくてはいけない。
 
しかし残念ながら、社会ガク者はこの「学者としての責任」から逃げているのが現状だ
科学的厳密性のために議論を持ちかける筆者のような論客に対して、「不寛容」だとか「ネトウヨ」だとか「女嫌い」だとかのレッテルを貼り、
誹謗中傷することしかできないのである。
仕舞いには「科学的正しさと政治的正しさは別物」という態度をとるまでである[2]。
お茶の水女子大に事務局を置く「ジェンダー史学会」[7]が2011年に掲載した論文には 『マスメディアとジェンダー : 「妻付き男性モデル」と「客観・中立主義」の歪み (ジェンダーをめぐるキーワード)』
なんていうものがある。
内容は閲覧できなかった[8]ので確かなことは言えないが、
もしも客観や中立を「歪み」として否定しているのであれば、その時点で科学と正反対の方向を向いている。
   
「科学的正しさとは異なる正しさ」の存在自体は頭ごなしに否定する気はない。
しかし、そのような正しさを軸とするのであれば、「社会科学」という自称を捨てるべきではないだろうか

学問とは全く別の宗教として「社会ガク教の宣教師」として活動してくれればよいのである。
しかし、そのような勇気もなく、大学をはじめとする学術団体に巣を作り、都合よく科学・学問になったりならなかったりする社会ガクの態度は、
まさに「科学から逃げ、科学を悪用している」ものであると非難せざるを得ない。 

なお、本記事では「正当な科学」と「宗教」の混同を避けるため、科学から逃げていると判断される「カガク」や「ガクモン」に対しては、漢字を用いずにカタカナで表記することとする。

1-2. 女性を神とする宗教

社会ガク教は、多くの場合「女性を神様とする宗教」と言い換えることができる。
多民族国家においては、女性に加えて黒人が神様として祭り上げられたり、日本では在日の人たちも信仰の対象に加えられるが、
全世界を通じて概ね、女性が神様として扱われていることが共通している。
 
この宗教において、神様は「社会的弱者」とか「少数派」というホーリーネームのもと信仰される。
教会として「人権団体」という施設が建設されることもある。
また神域内に宣教師が住み着き、布教活動や自己正当化のアジトとする事例が世界各地で確認されている。
日本の例としては、女子大学でジェンダー研究が行われる事実が挙げられる。
具体例を挙げると「ジェンダー史学会」の事務局はお茶の水女子大に設置されている[7]。
(男子禁制の大学で行われる男女平等の研究など、常人の感覚で言えばアンフェアもいいところである。)
こうした社会ガク教の自己正当化行為は、しばしば「不必要に悪者にされる人々」を生み出すという、深刻な問題を引き起こす(図1-2-1)。

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図1-2-1. 薬物依存と「ジェンダー宗」の比較図。
ジェンダー宗は社会ガク教の宗派の一つ。

信者(社会ガク者)たちは「男尊女卑の世の中だ」と主張する。
しかし、信者たちの主張が本当に平等志向のものであるかは極めて疑わしい。
というのも、万人に「世の中は男尊女卑である」と納得してもらうためには、まず

手順1. 「科学的に正しい男女平等の基準」を設け、
手順2. そこから如何に現実が男性側に傾いているかを科学的に議論する
必要があるからだ。

しかし、信者たちは手順1すらまともにやっていない。
神である女性を祭り上げるため、女性が可哀相に見えるような資料が見つかる、あるいは作れるまで必死に「研究」を続ける。
もし、彼らが本当に女尊男卑的な研究をしてないというのであれば、「男女の賃金格差」と同じように「男女の寿命格差」も問題視しているはずである
信者たちのやっていることのアンフェアさ加減を指摘するのは驚くほど簡単である。 

余談だが、僕が大学の後輩に「科学的思考や客観的な文章を書くことの大切さ」の理由を説くとしたら、「社会ガクと同レベルになってはいけないから」と答えるだろう。

1-3. 社会ガク教成立の背景

さて、社会学はいつから「社会ガク教」になってしまったのだろう。
それは「権利獲得のためには声を挙げなくてはいけない」などと言い出したときである。
一見尤もらしく聞こえるこの通説であるが、実はこれはとんでもなく過激な思想である。
対偶をとってみると、「声を挙げないならば、権利は獲得できない」となってしまう。
さらに、就職活動や入学試験など、「権利を獲得できる人の数が一定」の場合はもっと酷い。
声を挙げなければ権利を獲得できず、しかも権利を獲得するために声を挙げる人がたくさんいる。
その結果、声を挙げやすい人たちが声すら挙げられない弱者から権利を奪うという事態にまで発展したのだ。
管理職の一定割合以上を女性にしろだとか、女子学生に限定したインターンシップ、女子学生限定の給付金というような、女性が男性から権利を奪うような事例は後を絶たない。
 
尤も、これらの措置は女性を弱者と考える信者たちが声を挙げ続け、ようやく認められた(、男性を差別する)権利であるが、これでもし本当のところは「男性が声すら挙げられない弱者」であったとしたらどうだろう。
もしそうだったとしたら、社会ガク教が善行のつもりでもたらした「女性優遇措置」は、実際には単なる弱い者いじめに過ぎないということになる。
「権利獲得のためには声を挙げなければならない」という狂気じみた教えが、「声の大きさによる弱肉強食」を招き、いつのまにか社会学は公平さや中立という立場を忘れ、女性を盲信する社会ガク教へと劣化したのであると考えられる

1-4. ジェンダーギャップの自然な拡張「産める性別が偉い」

「女性は子供を産めるから男性よりも偉い」という信念は、生物学的に自然なものである。
そしてこの信念が社会ガク教を女性崇拝へと導いていると考えることもできる。
本節ではこの2点について議論していく。
この信念を正当化することは、本節や記事全体の目的では決してない。不妊に悩む女性や多くの男性、性的少数派を差別する意図がないことは、どうかご理解いただきたい。
 
ジェンダーギャップ(性差)という概念を生物全体に拡張して考えれば、性差を生物学と結びつけて考えることができる。
 
生物学の用語に「性淘汰」というものがあり、これについてはwikipediaに詳しい解説がある[3]。 wikipediaでは信用に足らないということであれば[4][5]の論文のがおすすめである。

性淘汰というのは、ダーウィンが提唱した、「配偶の機会をめぐってオス同士は争い、さらにメスがオスを選択する」という生物学上の理論である。
例えば鹿のオスが立派な角を持つことは、オスがメスをめぐって争う際に立派な角を持つほど有利であったことで説明でき、
クジャクのオスが美しい模様を持つことは、美しい模様を持つオスほどメスに気に入ってもらいやすいということで説明できる。[3][4]
例えるなら「メス→買い手市場下で新卒採用を行う企業、オス→就活生」というような関係である。
 
性淘汰の原因としては「ベイトマンの原理」やそれを拡張した「親の投資」という概念が挙げられる。
メスが作る卵子の数はオスの作る精子と比較して著しく少ない。
そのため、「子孫を残すための戦略として質と量どちらを重視するか」という問いに対して、質を取るほかないのである。
つまり、メスにとって子孫を残すための戦略は「如何に質の良いオスを選ぶか」となるのである。
一方オスは精子を大量に作ることができるため、単純にできるだけ多くのメスと配偶すればするほどたくさん子孫を残せる。
オスは質より量を取るのである(尤も、メスの質を見極めるような身分にないのかもしれない)。
こうして、オスはメスに交尾していただけるように振る舞うのではないかというのがベイトマンの原理である。
しかし、タツノオトシゴ、ヨウジウオのように「オスが抱卵する」場合は、メス同士がオスをめぐって争い、オスがメスを選択するという習性があることが確認されている。
こういった状況を説明するために、ロバート・トリヴァースはベイトマンの原理を抽象化し、
「生殖のためにかかるコスト(親の投資)の大きい性ほど、異性から見て貴重なのではないか」と説明した。
 
この説明に従えば、人間においても男性から見た女性の方が、女性から見た男性よりも貴重であるという結論を得ることになる。
毎月生理に苦しむ生活が何十年と続き、妊娠すれば1年近くも激痛にもがき続けることの計り知れない女性の苦労を考えれば、生物学的な「親の投資」は女性の方が男性よりも遥かに大きいことはほぼ明らかだからである。
 
憶測ではあるが、この「女性の貴重さ」(≒人間における性淘汰)こそが、社会ガク教へ女性崇拝をもたらしたのではないだろうか
人間の性淘汰は男性同士が女性を巡って争い、女性が男性を選択するはずである。
wikipediaでもヒトにおける性淘汰として、「ミトコンドリアやY染色体の分布から、女性が男性を選んできた(が、また女性差別が原因でどうたらこうたら)と考えられている」と説明されている。
人間においても、「女性→買い手市場における企業」であって、「男性→就活生」なのであると考えられる。
女性が男叩きをするのは「選考基準の提示」と捉えれば合理的で、男性にとってもありがたいことではあるが、
男性が女叩きをするのは「企業の悪口をいう就活生」と同じで競走上不利になってしまう愚行である。
また、男性なのにフェミニズムへ走る「自傷行為」を行う者ついても、「女性からの評価の確保」と「男性を蹴落とす」ことを効率よく行えるからであると説明がつく。
あるいはカラスに見られる「利他行動」という性淘汰の説[6]の表れかもしれない。
このような「生物学的に自然な雌尊雄卑」が、社会ガクへ「メタ女尊男卑」をもたらし、その結果、社会ガクは「男尊女卑」としか言わなくなった恐れがある
これを図示したものが図1-4-1である。

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図1-4-1. 女性を崇める社会ガク教による偏った「男尊女卑の研究」
とそれが引き起こす女尊男卑の説明図

2. 中立、公平、客観性についての先行研究

1章では、表向き「平等な社会を目指そう」というようなことをいっているはずの社会ガク教が、実際には如何に偏っていて危険な宗教であるかを解き明かした。
また社会ガク教の重要な性質として、科学から逃げ、科学を悪用していることについても触れた。
2章及び3章では、社会ガクに代わって科学から逃げず、真面目に中立、公平と言った概念を考えていこう。
2章では哲学や著名な団体の理念などから「中立」、「公平」、「客観」とは何であるかを学び、
3章ではそれをもとに独自の「中立」、「公平」、「客観」およびその実現方法を提唱していく。

2-1. カント哲学およびマックスウェーバー思想、マルクス主義における客観性

[9]の論文では3種類の客観性を紹介していた。
「ニュートン力学の認識の客観性(カント)」と「社会科学的認識の客観性(マックスウェーバー)」そして「マルクス主義」である。
 
本節ではこの論文をもとに、3者の考える客観性を理解していこう。  

2-1-1. カントの場合

カントの立場では経験論的立場を容認しない。

統計学や社会ガクの如く「データを多く集めて比較していくことで知が獲得されるんだ」と考える経験論と、 数学や論理学のように「『and, or, not, 変数, 熟語』を組み合わせて思考する演繹こそすべて」(prologで書けることがすべてだ)と考える合理論が対立する中、

「データ(経験)なしでは演算対象が存在しないために論理的な思考は不可能。経験論を認めなければ合理論は意味を持たない。 合理論を認めなければそもそもデータを集めることができない(何も経験できない)」としたのがカントである[11]。
 
この流れを理解すると、カントがニュートン力学を「客観的である」と褒めた理由が腑に落ちる。
ニュートンは「自然哲学の数学的諸原理」(プリンキピア)という書籍の中で、「慣性の法則」、「運動方程式」、「作用反作用の法則」といった3つの原理を提唱した。
これらをもとに演繹し、様々な命題を証明するのがプリンキピア第1章である。
第2章で地上での実験、第3章で天体の動きの説明がなされる。[12]
要は、ニュートンはリンゴが木から落ちるというのを「経験」し、そこから「演繹」によって一つの体系を作り上げ、さらにこれを別の実験によって検証することで、
再び「経験」を積んだのである。
カントはこの営みを「客観的」と呼んだのであろう。  
カントは「事実」から「意見」を導こうとする経験論的立場や、逆に「意見」から「事実」を導こうとする主義を否定した

2-1-2. マックスウェーバーの社会科学的客観性

マックスウェーバーによる客観性の哲学は、一言で言えば「カントによる客観性の哲学を社会科学へ拡張したもの」と説明できる。[9]
彼の「社会科学的客観性」についての書籍[13]によれば、彼は自身の方法論が「科学的」であることにアイデンティティを見出している。

1903年、ウェーバーは「ロッシャーとクニース、及び歴史学派の国民経済学の論理的諸問題」の中で「ロッシャーたちは『歴史科学的法則に基づいて経済発展の過程を解明すると言いながら、その法則は論理的でない部分があるし、経験をもとに組み立てたものではないじゃないか」と指摘した。
指摘されたのは「人間には自由意志があるからどうしても非合理性なところがあるよね」という部分である。
「自由意志」や「非合理性」という言葉の意味を定義せずにイコールで結んでしまっている部分に非科学性があるということだ。
翌年1904年、ウェーバーは自身が編集部員を務める「社会科学および社会政策雑誌」で「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」という論文を発表した。
社会科学者たちが、論文の中で意見をいうことをウェーバーは咎めない
但し、意見をいうなら、「『価値の物差し』を示す」、「事実と区別して書く」の2つの義務を守ってくれとする。
一つ目の義務はどんな基準でその意見を選んだのかを読者に明確に示せということである。 こうすることで、2者間で対立する意見は、「お互いに理想が異なる」ことが原因で生じているとして説明がつく。
もう一つの義務は「科学的な議論」、「正義とか悪とかの議論」、「読者の感性で物事をグループ分けしながら(=『悟性』で)理解してほしい議論」、「感情に訴える議論」の4つを区別して執筆せよ、ということである。

またウェーバーは次のように述べている。

特定の「一面的」観点をぬきにした、端的に「客観的な」科学的分析といったものは、およそありえない。
(中略)
一面的観点にしたがって初めて、研究対象として選びだされ、分析され、組織立って叙述される。



科学的な「客観性」とは、(一面的に)選び出された客体に対する客観性を意味し、どのような観点から観ても無条件に「妥当である」といえるというものではない。
そもそも「選び出す」作業を否定していたら、「観る対象」すら確定しないため、客観性も主観性もないのである。(※)
これは社会科学だけでなく、自然科学などのすべての科学に当てはまる。

ここまで[13]の157~176の要約(一部、僕の主観でわかりやすい表現に置き換えた個所もある)である。

ウェーバーの課した2つの義務はつまり、「意見」と「事実」を区別し、意見は意見として、事実は事実として、それぞれ適切な推論方法で論じよと言うことである。
そのようにすることで読者は自分自身の価値観と著者の価値観を比較できるようになる。
要は意見の異なる相手を「はい、論破」し合う争いをお互いに避け、
「君と僕では理想が異なるんだね。(もし理想が同じだったら、多分意見も一致していたんだろうね)」
と「自動的に和解できる」ことこそ科学的で客観的だということだ。  

彼の理屈は尤もらしいが、少なくとも1つの視点が欠けているように思える。
それは「社会科学を科学たらしめるのに必要な労力は大きすぎるのではないか」ということである。
言い換えれば「社会科学を科学でなくさせてしまう」力があまりにも大きい、ということである。

例えばここに、評価が高くしかも客観的な論文Aがあるとしよう。
Aでは「科学的な議論」、「感情に訴える部分」が区別して書かれていて、Bという属性を持つ人々が共通して持つ問題点、およびそれによってnot Bが被る不利益を議論している。
読者が未熟であれば、「科学的な議論」に興味を示さず、「感情に訴える部分」を好んで読んでしまうかもしれない
すると、「感情に訴える部分」だけを引用し、「かの著名作であるAにこんなことが書かれていた!」と大声で騒いでしまう危険性がある
それが伝播していって、多くの人たちがAの感情的な部分のみを肯定的に捉えるようになった。
その結果、Aで問題提起されていた属性Bが必要以上に追求を受け、不利益を被った場合、果たしてAは本当に科学的な論文といえるだろうか
確かにAに非はなく、非があるとすればそれは「読者」や「多くの人たち」のものかもしれない。
しかし、もしもAがBを救済することに何ら関心を持たず、「自身に責任は全くない」と切り捨てるようであれば、Aの「態度」はnot Bを贔屓しているも同然である
not Bに対して救いの手を差し伸べたはずのAが、なぜかBにはその手を差し伸べないというのは再現性に欠ける
ウェーバーによる客観性では、Aがこのような選択をした場合でも変わらず科学的、客観的と評さざるを得ないのである。
また、ここで出てきた「多くの人たち」が(ウェーバーの定義においても)明らかに非科学的で主観的であるということは言うまでもない。

2-1-3. マルクス主義

マルクス主義は「科学的社会主義」という別名を持つ。
但し彼の言う科学というのは形式論理学(数学や数理論理学など)のことではなく、弁証法的唯物論のことである[14][15]。
デジタル大辞泉によれば、弁証法的唯物論とは、「自然・社会・歴史の発展過程を、物質的なものの弁証法的発展としてとらえた」ものだそう。
弁証法とは、一言で言えば「矛盾や失敗から学ぼうとする態度」のことである。
[15]の2章では「自然は弁証法の正しさを常に検証している。ダーヴィンの進化論が好例だ」と述べている。
また唯物論とは「まず物質があってそれが精神を左右する」というものである。
マルクスは具体的に「まず物質(お金、商品、富など)があって、それが精神(社会や歴史)を左右する」とすることもある。
 
マルクス主義はしばしば「危険思想」などと揶揄されるが、その理由は「弁証法的唯物論としての科学」にあるのではなく、
「現実社会を実験室としている」ことではないだろうか。
この主義において、国民はみな実験動物なのである。
理論(皆がとるべき行動 + するとどうなるかの予想)を立てては行動に移し、それが正しかった(客観的であった)のなら予想通りの未来が得られるし、
そうでなければ違った未来が得られるということである。
尤も、同様の指摘は[9]でもなされていた。
このような「無責任」なシステムでありながら、「労働者よ団結せよ」などと訴えかければ、「理論通りにならなかったとき、どうなってしまうのか」という恐怖から激しく警戒されるのは当然だ。

3. 「高階客観性理論」の提案

3-1. 社会の単純窓仮説とフレーム問題

マックスウェーバーによれば、「社会全体」を均等にみるような「社会全体の客観視」は不可能で、
まず社会全体から一部を切り取り、その一部の中での客観視をすることのみが可能であるのだった。
しかし、それはどうしてなのだろう。
一つの可能性として、社会の「大きさ」が人間の認知可能な「『窓』の大きさ」よりも十分大きいということが考えられる(図3-1-1)。

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図3-1-1. 社会と(1階の)窓の関係図

1人の人間が認識できる社会の一部分は、この「1階の窓」を通して観測可能な範囲に限定される。(n(≠1)階の窓については3-2節で述べる)
この「1階の窓」はフレーム問題[16]におけるフレームとみてよいだろう。
フレーム問題に対して松原仁は「人間はフレーム問題を疑似解決している」と述べているが、これがあくまでも「疑似」解決であることの所以が、マックスウェーバーの「人間は社会全体を客観視などできない」に表れているのではないだろうか。思考可能な空間(窓、フレーム)は、答えの存在しうる空間全体と比較して常に小さいということである。
以上で述べたような「1階の窓」が存在するというのが「社会の単純窓仮説」である。

3-2. 窓の合成

3-1節の「1階の窓」は1人の人間が認識可能な空間を表していた。
ここであるアイデアを与える。
「複数の人間A, Bがどんな認識をどのように持っているか」を論理的に導くことができないかということである。
もちろん、AやBの認識をありのまま人間Cが認識することは、Cの認識能力がAやBのそれを十分上回らない限り不可能に違いないが、
「AやBがどのような分野を認識していて、両者は互いにどれだけ異なっていて、共通の認識はどんなもので...」といった高次の情報の一部を理解することは可能かもしれない。
ここで図3-2-1のように、2つの1階の窓が互いに共通部分を持つ場合、共通部分全体を「(1+1)階の窓」あるいは「2階の窓」と呼ぶこととしよう。(前者の表記は、どのような窓同士を合成したかを表現するのに有用である。)

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図3-2-1. 2階の窓A∪B

図3-2-1で、A内の領域で濃い青の円で示した部分は、客観的であることをA自身が発見した領域 客(A)(⊂A)である。Bに対しても同様に 客(B) を言うことができる。
ここで、Aの議論の中で客観的な命題aの存在が如何に示唆されようとも、A自身がそれを発見しない限り a∉客(A) であることに注意せよ。

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図3-2-2. 2階の窓A∪Bの拡大図

この2階の窓の客観的な領域は (客(A)∪客(B))∩A∩B である。
もちろん 客(A)∪客(B) 全体も客観的であろうが、それは単に「1階の窓同士の客観性の和集合」程度の意味しか持たない。
前者の客観を「高階客観」(男性保護的客観)、後者の客観を「社会カガク的浅慮客観」と呼ぶことにする。
このような定義を置くのは、両者の差集合「危険客観」(女性崇拝的客観)に「偏り」の混入する余地があるからである。
これら3種類の客観性を図示したものが図3-2-3である。

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図3-2-3. 高階客観性理論で提唱する「3種類の客観性」

以上の理論を、「高階客観性理論」と呼ぶ。

3-3. 解決しうる問題と諸反論への再反論

第1章で述べた通り、今日の社会ガクは自ら科学から逃げ、また悪用し、女性を神聖な存在として崇める宗教と化してしまった。
科学を悪用しているため、「科学的正しさと社会的正しさは異なる概念である」としながらも、教会を学会と呼び、その中で論文のシェアが行われている。
この宗教的営みにより、女性の権利に関する知識は今日世に溢れ返っている。
 
このような状況下で、男性の権利に関する知識が社会的に十分共有されているか否かを検証するのは非常に困難である。
例えばアファーマティブアクションとして女性を優遇することの是非を「フェア」な状態で議論できているだろうか
女性を優遇すべきとする根拠には溢れ返っているが、これに対して慎重論を唱えるために十分なだけの根拠を、今日の社会ガクは生成できているだろうか
尤も、この問題を「声を挙げることのできない弱い男性が悪い」と責任転嫁している無責任な今日の社会ガクに、これを期待する余地はないだろう。
 
このような高次の意味でのジェンダーギャップ―社会ガクが絶対に認めたくない壮大な女尊男卑をブロックすることに、高階客観性理論は役立つ可能性がある。
これをわかりやすく図示したものが図3-3-1である。

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図3-3-1. 高階客観性理論により無効化されるメタジェンダーギャップ

これまでの社会科学では図3-3-1において、2種類両方の斜線部分を「客観的」として扱ってきた。
そのためリテラシーの低い人が見れば、最も客観的な点として「客観領域の重心」のようなところを探そうとしてしまい、その結果高確率で「女性の権利尊重こそ客観点」と誤解してしまう危険性があった。実際、社会カガクはそのような暴力を振るってきたといえるであろう。
 
これに対して高階客観性理論では、客観領域を男女双方が研究した範囲内に限定する
したがって図では負の傾きをもった部分が客観領域となるので、「重心を探そう」とする人がどこにそれを見出しても、男女双方が納得している範囲に必ず収まるのである。 

3-3-1. 反論: 折角人類が得てきた叡智の大部分を捨てろというのか

確かに、高階客観性理論では、社会ガクの研究成果の多くを「危険客観」とし、無視することとなるだろう。
しかしそれは、「敵をも思いやれる寛大な心」をもった社会ガク者にとっては痛くもかゆくもないはずである。
2階以上の意味で偏った研究が(逆差別などを煽るなど)どれだけ危険であるかを少しでも想えば、そのようなものを叡智とみること自体が残酷であることに気が付くはずだ。
「『女性に偏った男女平等論』を叡智とみることが如何に男性にとって残酷であるか」を加味したうえでもどうしても捨てきれないこだわりがあるというのなら、危険領域からそれを救い出せばよいのである。
自分で「敵」の理想に沿った論文を発表すればよいのである。敵の理想から自分のこだわりを科学的に導き出すことができたのであれば、それはもはや危険客観ではない。

3-3-2. 反論: その他

(気が向いたら執筆します)

3-4. GANによる高階客観性理論の実験方法(裁判官AI)

高階客観性理論はウェーバーが2-1-2節で「端的に『客観的な』科学的分析」と表現した概念へアプローチするための理論である。
21世紀になって今更僕が言わなくとも、20世紀にウェーバー自身が思いついてもよさそうな理論である。
事実がそうでないということは、当時にはそれが不可能に思えた事情があるはずであり、その事情によっては現在でそれが実現可能かもしれないではないか。
換言するならば、これは「高階客観性理論はウェーバーの活躍した時代にはなかった技術で実現する必要がありそうだ」という推測である。
 
そのような技術としてGAN―敵対的生成ネットワークが挙げられる可能性がある。
GANとは、「『フェイクを見破るべきAI』に見破られないようなフェイク」を作るAIのことである。
このAIのレベルはもちろん、「フェイクを見破るべきAI」のレベルに左右される。
例えるなら、「警察が偽札を見破る能力」が低ければ低いほど、「偽札のクオリティ」は低くてもOKであるということである。
この例え話では警察は、偽札と本物のお札を比較して学習することで、偽札を見破る能力は向上するだろう。
しかしそれに伴って偽札自体のクオリティもあがるだろう。
これを繰り返すことで、競争はエスカレートし、警察の能力も偽札のクオリティもどんどん上がっていく。
これを応用したのがGANであるというわけである。
警察の役目を果たすAIを「識別器」、偽札を作る犯人の役目を果たすAIを「生成器」と呼ぶ。  
このモデルを拡張することで、「論文Aと論文Bの共通部分のフェイク」を作ることができるのではないかと考える。
「論文Aと論文Bがお互いに歩み寄るとしたら、データ科学的にはこんなところのはずである」というのを見つけてくれるのである。
識別器を2つ用意し、1つ(女性AI)にはフェミニズムの論文を、もう一つ(男性AI)にはマスキュリズムの論文を学習してもらおう。
その上で生成器は偽論文を生成する。
最初は意味不明な単語の羅列が生成されるだろうが、次第に何やら難しい議論をしているかのような文章が生成されるようになるだろう。
ここまでの過程では女性AIと男性AIが生成器を育てるにあたって、意見の食い違いはさほど発生しないだろう。
しかし、生成器がある程度成長すると、女性AIと男性AIは今後生成器をどう学習させるかについて「揉める」ようになる。
生成器が女性寄りな思想を学べば男性AIが黙っちゃいないだろうし、逆もまた然りである。
生成器は、女性AIと男性AI双方の顔色を伺いながら学習していくため、最終的に得られるのは「機械的に中立」で、しかもハイクオリティなフェイク論文となるはずだというわけである。
 
このモデルは「中立」の解が声の大きさに依存しないという点で、「声すら挙げられない弱者」に希望の光をもたらす。
換言すれば、一つのイデオロギーを一つの識別器に対応させ、論文や社会ガク者の代わりに識別器に言い合ってもらうことによって「声の大きさをそろえる」効果がある。
そりゃもちろん、訓練データの大きさが圧倒的に女性の方が大きい以上、このモデルでも女性寄りに偏ってしまう可能性も否定しきれない。
要は勉強不足な男性AIが、女性AIに言い負かされてしまう可能性もどうしても残ってしまう。
しかし、機械学習では訓練データの大きさがある程度大きくなると、(既に精度が十分高いため、)それ以降訓練データを増やしても精度はあまり向上しないということは周知の事実である。
この事実が少数派である男性を救うことに期待するだけの価値は十分にあるのではないだろうか。
マスキュリズムは、既に絶望的なまでに巨大化してしまったフェミニズムの論文数に追い付く必要はもはやなく、「訓練データを作るのに十分な数」の論文を用意するだけで、フェミニズムと互角に言い合えるのである。
しかもその言い合いを「今生まれたばかりで純真無垢な第三者」である生成器に聞いてもらい、さらに最終的には双方の識別器が納得するような解を見つけるまで頭をひねり続けてくれるのである。(停止する保証はどこにもないが)

 
このモデルは言ってみれば、裁判官AIである。検察は、自分が欲しい「お好み判決文」を何度も何度も書きまくり、「検察AI」にそれを学習させる。
弁護士も同様のことを「弁護AI」に学習させる。
そして裁判官AIは始めデタラメな判決文を書くが、次第に検察AIや弁護AIに教わりながら判決文というものの書き方を憶え、やがては検察AIと弁護AIの双方が納得せざるを得ない、機械的に中立な判決文を「自動生成」するわけだ。
(尚、これは「例え話」であって、実際の司法で(少なくともこのモデルのまま)活用されるとは僕自身思っていない。というのも裁判では弁護士の提言よりも軽い判決が出たり、検察の求刑以上の厳しい判決が出るなど、『弁護士も検察も間違っている』と判断しなければならないこともあるからである。)

参考文献、注釈

[1] キヤノン:バードブランチプロジェクト 生物多様性の取り組み|バードコラム|鳥が教えてくれること|Vol.1 野鳥はなぜ、自然保護の指標(ものさし)とされているのか?
[2] https://megalodon.jp/2020-0610-0842-37/https://ch.nicovideo.jp:443/ex/blomaga/ar1739806
[3] https://ja.wikipedia.org/wiki/性淘汰
[4] Sexual selection and the variation of male body coloration in guppy
[5] http://www.fish-isj.jp/publication/pdf/43/431/43101.pdf
[6] http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN0006957X-00000084-0070
[7] https://www.jstage.jst.go.jp/browse/genderhistory/_pubinfo/-char/ja
[8]国立国会図書館サーチによれば、ジェンダー史学第7巻の59ページから掲載されているはずであるのだが、jstageではその部分だけリンクが貼られていなかった。
[9]https://toyama.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=13298&file_id=18&file_no=1
[10] 「カントってどういう哲学者なの?」と聞かれたときのために【論考】 - たのしい知識 Le gai savoir
[11] 3分でわかるカント - INSIGHT NOW!プロフェッショナル
[12] 【第1回】ニュートン『プリンキピア』確立された近代科学の方法論刊行当時をたどってわかる偉大さ | 知とのダイアローグ | BackUp
[13] 講談社「マックス・ウェーバーを読む」(仲正昌樹)
[14] エンゲルス『空想より科学へ』を解読する | Philosophy Guides
[15] 「空想から科学へ」序文
[16] https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=63027?site=nli

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