僕は僕の人生を生きる。
小林さんはどうしてそこまで何にも忖度せず、
物事を発信したり発言したり生きれるんですか?
そんな質問を先日受けたインタビュー(これは本になるらしいです。)
でされた。
多少、回答に困りながらも、
「誰に忖度して生きる必要があるんですか?」と逆に質問し返してしまったのだが おそらく、多くの人は資本主義経済の中で経済活動を行い、強いものに巻かれ、弱きものを使い、無言のヒエラルキーの階段を行ったり来たりしてるんだろう。
大手にへつらい、地位に溺れ、長いものに巻かれる人生が当たり前と錯覚してる人間がいかに多いことか。
僕は昔から「そういった世界観」に全く興味がなかった。
自分が間違ったことを言えば自分が痛い目に遭うし、
人を助ければ感謝され、
蹴落とすことがあれば恨まれる。
それくらい人生はシンプルな構造で出来上がってると思っているしそうなんだろうと思ってる。
しかしながら、無意識のうちに無言のヒエラルキーの階段を上り下りしているうちに自分がそこにいることがいつの間にか心地良くなってしまうのか、感じることや考えることを辞め、その世界観に違和感すら感じなくなってしまうのだろう。
僕は僕の人生を生きる
誰に忖度することもなく、自分の正義を見つめ(これは独善的に生きるという意味とは違う。なので僕は人の意見も聞くし本も読む。)正しいと命で感じたものに従い行動する。
なぜ一見すると息苦しく思われそうな人生を生きると決めてしまったのか、、、、。
先日のインタビューで最後の質問への答えの中にその問いへの答えがあった気がする。
その質問は、
僕の人生を変えるような言葉や本はありますか? という質問だった。
これまた、返答に時間をようしたわけだが、ふと、昔読んだタイトルも忘れてしまった文章が頭によぎった。
うろ覚えなので、正確ではないがこんなエピソードだ。
4歳で、まだ語彙力もつく前の女の子のそのシンプルな言葉は僕の命の柱に突き刺さった。
僕の生き方がそこで決まってしまったかのようだった。
いつ死んでしまうかなんて、誰にもわからない世の中で
僕はこの命を使い切るまでこれから出会う全ての人を
何かの形で勇気づけていく。
その生き方が彼女の遺志を僕の人生で全うすることになると思ったのかもしれない。
そうだった、僕は彼女の分まで嘘のない人生を歩むのだ。
そんな大事な決意を、決断を、
この忙しさの中で忘れてしまっていたのだ。
心の中で、あの子に土下座して謝罪し、今後残された人生のひとときもこの決意を忘れることなく生きることを再度決意した。
そこに、自分の思い描く本当の「感動の人生」があると信じている。
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