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まずはガンの自然治癒一連のこと

さて、最初にまずはガンという事象で表出した一連の流れについて書いておこうと思う。

私の気付きを伴った自然治癒に関して興味ある方が一定数いるのは承知している。私は前投稿の通りゆるふわスピ系ではないので、何より私が一番理解したいと思っている故、ここから言語化してゆこう。

まずはNPO法人 日本ホリスティック医学協会さんの会報誌「HOLISTIC News Letter」Vol.94(6/25発刊) テーマは「自然治癒力をオンにする。~がんが自然に治る生き方」に掲載された記事を載せる。(ブログにて既に読んでいる方は飛ばして最下部へ。)


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自然治癒体験談「身体の声」

2006年秋、子宮頸ガン検診を受け、異形細胞の疑いとのことで、念のため再検査しました。このときは異形細胞か良性腫瘍か、といった説明でしたが、12月に結果が出た時に初期がん(ステージ0A)との診断で、膣式で子宮頚部切除術と言われました。

初期がんと言う事と年末年始ゆえ手術室が一杯との事で2007年2月1日に手術をしました。膣式でしたので開腹はせずに済み、手術は一時間もかからず、入院も1泊、先生も始終リラックスした雰囲気で笑顔、まるで退院と共に問題が消えてしまうかのような雰囲気でした。

その切除部の病理検査が出た2月後半のある日、病院に行くと思わぬ事を告げられました。
「病理の結果、ステージⅠb1、広範子宮全摘出術です。進行がとても早く、このままではあっという間にリンパ節転移、いや、もうしているかもしれないので早急に手術が必要です。骨盤のリンパ節を廓清しますので、それを調べ、もし転移していたら全身疾患ですのでここの婦人科では対応出来なくなってしまいます。」

なぜか「やっぱり。。。」と思いました。

あの手術で終わる訳がない、、、という不思議な感覚がありました。

未婚妙齢(当時33歳)の女性として子宮やその周囲の器官を失って生きると言うことに全力で向き合わなければ、と感じました。

死に対する恐れや不安、そして悲しむ暇もなく「なぜこの疾病にご縁があったのか、それはなぜ“今”なのか」という命題にとにかく全力で向き合おうと思いました。今までも全力で悩み、苦しみ、未熟な己を露呈し、傷付き、傷付けながら若輩者なりに精一杯生きてきましたので、後悔ややり残す事はありません。親を泣かせてしまう事だけは申し訳なく思いましたので、せめてもお金の苦労だけはかけないように治療代や生活費、そして万一のときの葬式代等は用意しておこうと思いました。

どう向き合うかなんて全く分かりませんでした。ただ、こうなった以上、とにかく目の前「いま、この瞬間」に目一杯集中し、生き切ろうと、それだけでした。

その後はベルトコンベアに乗せられたようにめまぐるしく6時間の大手術へ向けて何回もの検査と準備が進みました。家でもインターネットで同じステージの方の体験談を検索し、後遺症や術後の回復にどれくらいかかるかを調べ、仕事の段取り等をしてゆきました。

病理検査のシステムやNCCN(National Comprehensive Cancer Network)ガイドライン、同じ手術に関しての様々な国(フランス・ドイツ・イギリス・アメリカ)の論文、そして経験者の後遺症などを調べ、セカンドオピニオン、サードオピニオン、、と幾つかの病院で先生達の意見を聞くうちに、手術に対する覚悟や納得がいき、有り難いご縁に恵まれ、幸いにも ”神の手” と呼ばれる素晴らしい先生の手術を受ける事が決まりました。
 
 
【自分の内側から湧きあがる声】
 
そんなある日「手術は必要ない」という感情がふと出てきました。
私は最初それを「うんうん、手術はイヤだし怖いよね。後遺症も不安だし。。でも、手術をしてくださる先生は世界でもトップクラス、大丈夫、大丈夫。」と収めていました。

ところが、、、何度言い聞かせても「手術は必要ない」と胸の辺りに湧き出てくるのです。日増しにそれは強くなり「手術は怖い・イヤだ」ではなく「必要ない」というハッキリとした感覚になり、段々言い聞かせる事が困難になりました。

「この想いは一体なんだろう? どこから出てくるの?」
「必要ないと言う根拠はどこに?」
「私はおかしくなっちゃったのかしら?」

自分の想いであるにも関わらず、全く理解が出来ない感情に段々困惑し、そしてとうとう手術3日前を迎えてしまいました。その日は手術に関する書面を病院に提出する日だったのですが、その書類にどうしてもサインが出来ません。私はこのままでは手術を受ける事は出来ないと判断し、親の承諾が得られなかったと言う理由で「手術の延期」をお願いしました。ですが、受け入れられず、この手術を受けないのであれば、もう対応は出来ないと、その先生からも見放されてしまいました。

帰り道、この後一体どうしたら良いのかと呆然としながら鞄に目をやると、行きの乗換駅にある本屋で平積みになっていた何冊かの本を買っていた事を思い出しました。その中に「バイブレーショナル・メディスン(リチャード・ガーバー著)」「体温免疫力で病気は治る(安保徹著)」があり、藁にもすがる想いの私は帰りの電車で夢中で読みました。

ここで補完・代替療法と言う世界を初めて知ったのです。
一気に世界が明るく開け、自分の探していた「なぜ今この病気になったのか」の答えがこの先にある予感がしました。

それからは帯津先生や安保先生の本を端から読み、時間とお金が許す範囲で取り入れられるものは積極的に取り入れ試しました。特に食と呼吸の変化は体感が大きく、半年も経たないうちに感情の変化に気がつきました。

以前に比べ、心がとても穏やかで、イライラする事が減っていたのです。そして、この変化が楽しかった為、もっと自分の体を知りたい・感じてみたいと思いました。

私はここで初めて自ら「身体の声を聴こう」と意識したのだと思います。

そこからは、自分の身体が何でどう反応するかを調べ楽しむ事が日常になりました。
自分の身体の声を今までこんなにも無視していたのかと反省し、こうやって気付く事が出来た有り難さに涙しました。

また、身体を意識しその声を尊重すると、次々奇跡的と呼べるような不思議な事やご縁が起こるようになりました。まるで身体が私を導いてくれているようなのです。若干疑いを持ちつつも徐々に胸に沸き起る感覚に素直に従って生きるようになりました。
心の感じるままに行動し、出会ったご縁に感謝し、どんな時間であれ丁寧に過ごすようにしました。自然と、生きるお役目のようなものも見えてきました。
 
 
【がんに対する深い感謝】
 
それから3年ほど経ち「いま、この瞬間」に感謝する事が習慣になってきたある日、突然「もう、私はがんじゃない」と胸に沸き起ってきました。涙がぼろぼろとこぼれ落ち、気付くと何故がんになったのかの答えが目の前にありました。

その瞬間、がんに対する深い深い感謝と愛に包まれ、この世の理、そして素晴らしい身体のシステムの美しさと緻密さに畏敬の念しかなく、ただただ頭が下がる思いでした。

「あぁ、がんは恩寵であったのだ。。。これを気付かせて頂く為に、私にはがんという事象が必要であったのだ。そして、気付いた以上、もうがんは必要ない。」

私は、自分にとっての完治は、これである、と確信し、同時に、病気になるキッカケが千差万別であるように、完治も各々で違うという事を知りました。(その後、検診で寛解を確認)

人はみな違います。身体も、生き方も、今生でのお題も、兄弟であっても違います。ただ、向かう先は同じなのだと思います。善悪や正誤を超えて全てが愛であるという真理、そして人は、最後は愛に生きるしかないという事実を学ぶ為に、この世が、そして病気を含む艱難辛苦があるのだと思います。

拙い文章の体験談ですが、読んでくださりありがとうございます。ご縁ある皆様がその周囲の方々含め、お健やかでありますように。
 
感謝、合掌。


・・・・・・・・ 引用以上 ・・・・・・・・・・

ここには当時の私のリアルな感情や現実生活で起こった事象に関してはほぼ記載していないので、内的に何がきっかけとなり どうアクションしたことで変化に繋がったのかはわからないと思う。次の投稿から可能な限り思い出して記録してゆく。

では、今日もお健やかに。

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