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分かり合えない、は絶望ではなかった

分かり合えない、は絶望ではなかった。

うちを縛りつけていた最大の思い込みは、
「100%分かり合える関係性こそが真の幸せ、100%分かり合えなければ99%分かり合えても意味がない0に等しい、不幸、生き地獄、死んだほうが幸せ」

気づいてみれば、
なんでそんな突拍子もない信念を1mmの疑いもなく頑なに信じていたんだろ

とても不思議な感覚、魔法とも洗脳ともいえるなにかが解けたような感覚に包まれている。

じぶん自身のことを、100%分かってあげられているだろうか?
答えは明らかにノー。

じぶん自身ですら100%分かれない、コントロールしきれないことを

苦しくて恥ずかしい

そう捉えていた。

そうじゃない、そうじゃない。

面白いじゃん。
分からないから、知りたくなるし色んなことに興味もてるし楽しめるし面白がれるんじゃん。

コントロールしきれない?
だから何、笑
溢れだすから人間くさくて愛おしいんじゃん。

じぶん自身と大切なひと達を分かれない自分に、じぶんで、死刑を断罪してしまっていた。

でもまぁ、そもそもむりな要求というか。笑
人間という生き物はきっと、寿命を全うするその瞬間ですら、じぶん自身や他者や世界を100%理解なんてしてない。

不可能な信念に囚われ続けるのは、もうやめる。

誰かや社会を、分かる必要もわかり合う必要もない。

ただ、じぶんを分かりたいという欲求に身を委ねて、のらりくらりと漂流してれば
囚われという壁が、少しずつ崩れていく。
崩れた壁の先や隙間に
今も昔も未来も変わらずそこにある、
大好きな人たちのありのままの姿や、美しく愛おしい日常を

そのまんま、みつめることができるようになる。

そんな気が、いや今までもそうだった気が、する。

囚われは、そんな感動を人生おわるまで感じ続けられるための仕掛けなのかもしれない。

そんな簡単にぜんぶ解けたら、人生つまんないっしょひまっしょ、遊ぼうよって神さまにダル絡みされてるのかもしれない。神さまかまちょ説。笑

しゃーない遊んでやるか、うちはかまちょ大好きだからな

これからも少しずつ壁が崩れて、大好きな人たちや日常がとてつもなく美しく愛おしく感じる感動が、さらに大きくなっていくんだろうなぁ

わくわくがとまらない幸幸幸っ。

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