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小説版「フラクタル」 プロローグ

プロローグ

『染み入る様な退屈と走らせる自転車と夜。』

 自転車を漕ぎ、片田舎のどこまでも続く田園風景を脇目に夜道を帰っていた。

暗黒に響くのは、蛙達の大合唱と時折、風でかさかさと音を立てて揺れる稲穂だけだった。
お決まりの帰路を陽気に鼻歌混じりに行く彼の名は、常磐哲〈トキワサトル〉。彼が齢十八の夏の事である。この、清条ヶ丘には最近できた新興住宅地と、その奥まった山手に古くから立ち並ぶ古民家の地帯があり、それを大きく取り囲むように田畑が広がっている。彼が住んでいるのは、古民家地帯の中でも長らくこの地を仕切ってきた『常磐』の本家である。それ故に無駄に奥まった所にあった。舗装された真新しい道路を抜けて、むき出しの山道へと差し掛かり、ほんのり勾配も出てきたその時、ふと目前の街路灯が消えた。

「マジか、勘弁してくれよ・・・」

 そうぼやくと、哲は仕方なしに自転車を降りて押しながら進むことにした。勾配の中で辺りは段々と木々も生い茂る山道へと入っていく。田舎特有の、道標程度の間隔にしかない街灯も有るだけまだ、ありがたいのだとこの時になって知ったのだった。心もとない灯りが消えてしまえば、辺りは、一面の闇に支配されてしまう。そうすれば、否応無しに這い出して来るのが、恐怖心というものだろう。思わず「はぁ」とついた溜息さえも反響して不気味に響いてしまう始末で、頼りの明かりは木々の間から覗く月光と、自転車の回転式のライトのみ。

「一寸先は闇ってのは、これを言うんだな」

 などと、暢気な事の一つでも言っていないと恐怖に負けてしまいそうになる。夜道とは哲にとってそれほどに怖いものだった。そうこうしている内に、山道は更に深くなり、哲の緊張も徐々に振り切れてくる。と、その時、不意に思い出した言葉があった。

「そういえば、学の父ちゃんが言ってたっけ・・・」

 夜の暗がりってのは、何でも自由に思い描ける時間なんだよ。暗闇は決して味方してくれないが、反対に敵でもねぇって事だ。良いか、おチビ。闇夜は真っ黒に塗りつぶしたキャンバスだ。その黒の中に目を凝らせば、どんな色だって見つけられる。夜の暗がりは、そういう遊び心を投影してくれるんだ。

 常磐千花〈センカ〉常磐分家の人間で、哲の目付け役である常磐学〈マナブ〉の父、常磐家始まって以来の大傾奇者の彼に、哲は心底惚れ込んで懐いていた。千花は、常に世界を飛び回り仕事をしている為、清条ヶ丘にいる事は少なかったが、その姿を見せたときは必ず哲は会いに行っていた。一度は親に勘当されてしまった過去もあった千花だったが、学の母と結婚する折に、諸々の決着は付けたようで、今では年に数回は顔を出している。相変わらず、居つくことがない辺りが千花らしいが。

「夜は、何だって描ける、か。」

 哲自身、夜は昔から怖いものだったが、不思議と嫌いではなかった。常磐という家系の中で、望みとは裏腹に本家に生まれた使命を昔から背負わされていた彼には、そのしがらみから抜け出して自由に思い描いた夢を見ていられる時間だったからだろうか。

「やっぱ、上京してぇな・・・。綺麗さっぱり捨て去ってさ。」

 高校生活最後の夏、進路指導の教員から進路について皆が聞かれる中で、何も聞かれることもなく過ぎて行かれるのが行く道は一本しかない事を物語るようで、遂にしびれを切らしてしまった。
 彼の中で、決まりきったレールの上でやりたくもない事を、負いたくもない責任を背負わされて、このまま退屈が自分を飲み込んでしまう様な、そんな焦りを隠せなくなったのだ。きっと誰もがその岐路に立たされて、初めて選択の余地を得る物だと思っていた。そう思っていたのに、思えば自分には選択の余地なんか無かったことに気がついてしまったのだ。

 小学生の作文で書いた、将来の夢。
 今はどうしても思い出すことが出来ない。
 確か途方もなくて、馬鹿げてるような夢だった。
 でも、きっと今だって同じ夢を持っている。
 それなのに、どうして思い出せないんだろう。

 哲は、焦燥感を感じながら歩みを早めた。途端に足が重たく感じて、それを振り払うかのように大声で歌い始めた。流行りのメロディをぶっきらぼうに歌い上げて、緩くなった勾配に自転車を跨いだ。家の明かりが山道の奥にぼんやりと見えだしていた。

 蝉の声が、少しずつ騒々しくなり始めた季節の深まり。もうすぐ、あの夏祭りが始まる。長い長いあの夜が三人を分かつ事になるとは、この時の哲には想像も出来なかった。


「生き辛さと夜、物語の傍には常にこの二つが寄り添ってる」 幻創Pocketを主宰する脚本・演出家村崎逞が日々のアレコレを書き殴るnote あなたの生き辛さの答えはココにあるかもしれない。