在庫は無尽蔵です
書きたいことすごくたくさんある。
色んな人とお話して、意見を交わしてって最近は多くの機会に恵まれているので、ここに記録したいことは指折り数えられるくらいある。一日ひと記事だから、ぽつぽつ白紙に投げて整理していこう。
とりあえず今日は。
なんとなく分かっていた自分自身のある部分を、久しぶりに再会した人たちと会話する中で改めて自覚した、みたいな話。
「与えることに躊躇いがない」ってやつ。
私の性格のうちのひとつ。
みんなそうだと思ってたんだけど、それは違うらしいということは何となく学んだ。
なんかちょっと照れくさい上によく分からん言い方をすると、たぶん所謂「恋は求める、愛は与える」みたいなやつの「与える愛」の在庫がたぶん無尽蔵なんだと思う、わたし。
え在庫ってなに?というか、上限みたいなものが普通の人にはあるってことだと思ってるけど。普通はいくらでもあげられるものじゃないらしい。あげすぎると見返りが欲しくなったり枯渇して疲れたりするらしい、そう聞いた。
私は人を褒めるのが好きなのね。
で、人が欲しがっている言葉を察して言ってあげるのが得意だし好き。(これが苦手、または得意だけど疲れちゃう、という人が多いということも聞いた)同時に色んなものを平行して好きになるし、取っかえ引っ変えじゃなくてコレクションが増えていくから捧げるすきの気持ちは次第に体積を増していくけどそれだって全然大丈夫。
だからなんか無尽蔵なんだよね。
上手く言えないけど…。
いくらでもあげられるのよ。言って欲しいならいくらでも何度でも「かわいい」って言うし「すき」って言う。別に言って欲しくなくても、言っても良いなら言いたいだけ言う。なんかそれが趣味みたいなもんなんだよなぁ。愛を振りまくのが趣味みたいなもんなのたぶん。そういう性癖なんだと思う。(だから「無責任に褒めたい」なんだよね)
そう…だから、いくらでも利用してって最近はよく思うんだよね。「利用」って言い方すると抵抗感生まれるというか私が可哀想な人に見えるかもしれないけど、でも本当に好きなだけ利用してって思ってる。肯定や承認の言葉がほしいならいくらでも私に欲しがったらいいよ。いくらでもあげる、私もそれが楽しいんだもん。そうやってある意味「利用し合」ったらお互いウィン・ウィンじゃん?そういうのひねくれた考え方かなぁ。
そんなことを、久しぶりに俗世の人たち(もっと他に言い方無いのか)と話していて改めて思った。慣れ親しんだ環境にいると忘れかけるが、やっぱり私は普通の社会に混ざると「変なところの多い人」なんだなぁと。悪くいうとズレてるっていうか、良くいうと希少価値があるというか(?)
そんな私です。これからも生きていきます。
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