眠れぬ夜はケーキを焼いて 3 午後
大好きな本。たくさん助けてもらった本。
昨日、必要なものがあって本屋さんに行ったときに見つけた。奥付を見たら発売日は4日前。それもこんなに凹んでいるときに出会えるなんて、運命かもしれない(と、本気で思うタイプの人間)。私はまた助けてもらうんだな、と思った。
1を繰り返し繰り返し読んでいた頃と比べて、だいぶ強くなれたのかもしれないなと3を読んでいて思った。息が詰まるような、泣きたくなるような、縋りたくなるような、苦しさは無い。そうだろうな、とどこか俯瞰しているような、驚きの少ないままに落ち着いて読めるようになった。癒される内容なんだとはなから信頼して読んでいるからかもしれない。
己のしんどさと共存するためのハックというか。午後さんのそれらを参考にしながら私も私のしんどさと向き合う。憂鬱に沈んで動けなくなる日はあの頃と比べて少なくなった。そんな暇無くなった、と言えばいいのか悪いのか。暇を無くせたことに価値があるのか、暇がひとたび生まれればまた私は沈んでいくのか。沈まなくなるために暇を無くすようにしたということなら、対策が取れているなと考えて良いのか。それは何か、見逃してはいないのか。少なくとも、今の私は、午後さんの言葉が分かるままに、それに縋らなくても良くなった。図々しいけれど、肩を並べたような気になって。分かるよ、分かる、私はこうしてるよ、って言えるような。私は昨日も書いた通り今でもなお弱いけど、手を貸してもらわなくても立てるようにはなれたんだと思う。
真珠の話を読んで、私は中学生か高校生の頃に教科書に載っていた原爆の話を思い出した。被爆によって身体にたくさん突き刺さった細かなガラス片が、何十年も年月を経てからその人の身体から取り出されるというくだり(そこは話の本軸では無いのだけれど)。その取り出されたガラス片は身体の機能によって脂肪に覆われていて、まあるい球体のようになっていて、まるで真珠のようだったと。真珠のつくられ方を私は知らなかったけど、こうしてみると「真珠のよう」という例えは見た目のたとえだけではなくてそう意味のたとえでもあったんだなと今更気が付いた。なんで当時の国語の先生は教えてくれなかったんだろうと思ったけど、私が忘れているだけかもしれない。
アコヤガイも人間の身体も、異物を取り込んでまあるい何かに変える機能を持っていて、そしてそれはもしかしたら、元の異物以上の価値を付与されうるものだったりするのかもしれない。午後さんと同じように私の中にも無数の漆黒の棘があって、普段は奥底にしまいこんでいるそれが何かの拍子にぽろりと表へ出てきて頭が真っ白になることもある。でもそれは、取り出す度に角をヤスリでかけるように、厚い脂肪で丸めるように、するための作業だって思ってもいいのかもしれない。直ちに根源から取り除くことは私にとっては難しく、それなら覆われてまあるくなるまで待って、それからどうするか考えてみるでもいいのかもしれない。
オーロラ、私も死ぬまでには一度観にいきたいです。満点の星空は長野でみました。生まれて初めて観測した流れ星も。
あとがきでいつも祈ってくださるように、貴女の日常も穏やかで、輝かんものでありますように。
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