平均 ゆらぎ 魅力

YOSHIKIさんがテレビに出ていて、こんなことを言っていた。
「悩んでいるときでないと(メロディやアイディアが)降ってこない」(ニュアンス)。

それを聞いて妙に納得してしまった。

「人は余白に惹かれる」と友人も言う。
昔読んだ百田尚樹にも「機械が作った完璧な均衡を持ったお皿は美しいが、人は陶芸家が作ったわずかに歪みがある皿の方に魅力を感じる」と評論家が語るシーンがあった。
黄金比は美しいが、「ゆらぎ」のもたらす魅力とは違う。人は完璧でないものに惹かれるんだ、と直感的に理解出来るところが私にもあった。

人並みに豊かであることが素晴らしいアイディアをもたらす訳では無いというYOSHIKIさんのお話と、人はゆらぎに惹かれるという話は、似ているようで少し違うけれど。

天才、平凡、才能、平均、普通……そのあたりの言葉が連なって脳内を駆けていく。
普通であることは平均であることとも言える。
平均に近いほど、それは普通で、王道だから。
だから普通の生活を営める才能が、素晴らしいアイディアを授かる才能と対極にあるのは定義からして当たり前のことだ。
正常でいない時ほど授かりやすいというYOSHIKIさんの話も、恐らく同じこと、のような。

正常でいない時ほど、という言葉でもうひとつ思い出した。東野圭吾の『夢幻花』。
幻覚がひとつのキーワードになっているその物語の中で、不思議な魅力を持った楽曲が出てくる。読み進めていくと実はそれは作曲した2人が幻覚剤を飲んでトリップしている最中に生まれたものだと分かる。トリップ中、自分がひとつ高次元の存在になった気がした、正気に戻り出来上がっていた曲を聴いた時、本物の天才になれた気がした、と2人のうちの1人が語っていた。

平らに均された基準のど真ん中を叩き出している作品はきっと洗練されていて美しい。機械が作った寸分の狂いもないお皿も、数百万曲分のデータを取り込んだAIが生み出してくれる楽曲も、きっと美しく整っていると私たちは感じる。
でも、それは魅力とは違う。
だから高度に器用であることと、才能は違う。

私たちは普通であることにほっと安心する一方で、そこから外れたゆらぎに魅力を覚える。
それは自分が凡だから、遠く感じるそれに惹かれるのか。不安定に思えるそれに惹かれるのは何でだろう。


私は才能に恵まれているというよりも高度に器用な方なので、何かをこの手でこの世に生み出そうと思ったらそれ相応分のインプットが要るのです。やってることの骨組みはAIと同じ。でも私の方が仕上げが甘いから、そこが魅力になるのかもしれない。
そう思うと、人間がAIと結婚する日はまだ遠いかなーと思ったり。いや黄金比に強烈な魅力を覚える人ならば今からでもAIと結婚できるのかもしれない。とも思ったり。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?