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キッチン・セラピー 宇野碧 〈カレーの混沌〉

本が読める体調になった。

昨夜に会話の流れでこういう本があってそれのこういう一節が記憶に残ってて〜みたいな話を聞いてもらっていて、家に帰ったらいまは本が読めるような気がして、そのまま鞄につっこんだ。結果、読めた。行きの通勤電車でずっと、休憩中ごはんを食べ終わったあとも。疲れ切っているので帰りは読めてないけど、短編集のうちの二話は一気に読んでしまった。

カレーとみそ汁はすべてをまとめてくれるって私の友達も言ってたなってすぐに思い出した。本当にそうらしい。町田さんはぶっ飛んでいるし言っていることはとても共感できるけどルール無用は如何なものかと思うタイプだなということは踏まえても、カレーに正解なんてないのくだりとその理屈は、たしかに。って思った。

私もね、同じだから分かるよ巧己さん。
正解が用意されている世界でしか生きてこなかったから、しかもうちら真面目だからさ、頑張って頑張ってその世界のいちばんになれちゃったりしてさ、なおさら正解がある世界が当たり前なんだ全てには誰かが用意してくれた正解があって採点をしてくれて花丸をくれる誰かがいるんだって思っちゃうよね。本当はそんな存在いなくて、はいここからは一人前だから自分で正解決めて採点してね、って放り出されるの。放り出されることに気付けていたらまだいいんだよね、それでもどこかに正解があると信じて永遠に満たされない思いをするよりも、どこかですっ転んで痛みで気付ける瞬間が来るのは幸せなのかもしれないよ。

私の母は私に「言う通りにしなさい」なんてひと言も言ったことは無かったけど、何をすれば褒めてくれるかは知っていたから褒められたくてずっと母の言われてもいない願いを叶えるように色々と決めていた節があった。今でもそうだ。私は母を愛しているから時折それが心から無性につらくなる。勝手に母の心を決めつけた上でそれに従えなかった自分が嫌になるなんて不毛すぎるそれ、に捕まっちゃうときがある。こうしておいたら母はもっと喜んで私のことを自慢していたかもしれないなんて思うのだ、母はそんなことわたしに一言も言っていないのに。分からない、本当にそう思っているのかもしれないしやっぱり思っていないかもしれないし、結局どっちにしたって現状ただの私の妄想でしかないのに、それが正解だったはずなのにと言う気がしてつらくなるのは、私はまだしばらく数十年は続けるだろうと思っている。だってそうやって上手にここまで来てしまった。誰かが用意してくれる正解の上でどれだけ上手に振る舞えるかだけが全てで、それしか知らないで来てしまった。

自分で正解を決めるって覚悟を決めることだから、自分で責任を取ることだから、怖くて仕方ない。それを自覚のないままずっと恐れている巧己さんの描写に共感が過ぎてつらかった。
荒療治だろと思いはしたけど時たま手綱を引いてあげる町田さんは優しい。でも今まで誰かの正解に乗っかり続けてきたツケに2日で一気に向き合わされる巧己さんは相当しんどかっただろうと思えて、分かるよって肩を撫でてあげたくなった。
私もいまカレー鍋かき混ぜてるところだからさ。
いつか全部カレーになるよね。大丈夫。

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