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#3.自分にとっての先生って

こんにちは、

今日はゼミの5月課題図書だった、

「先生はえらい」内田樹 (ちくまプリマー新書)の読んだ感想についてまとめていこうと思います。

この本は今までの私の先生というあり方を考えさせるものでした。でも、初めて読んで思ったのは、「なんか言いたいことはわかるけどよくわからない」が一番に感じたことでした。しかし、本書からすると「私にとって良い文章」に当たったと考える。

この文章を読みながら見えてきたものは

今までの先生や学習は私が考えてきたものってちょっと違うんじゃ、、、?ということでした。

まず、いい先生の定義は

「あなたがえらいと思った人それがあなたの先生である」いい先生はあらかじめ存在するものではないとのことだ。

学びにも大きく分けて2種類存在してて

①ほかの人が出来ることを習得する(自動車免許、計算、、、)
②自分の存在を認めてもらう

①の学びには先生はむしろ「必要ない」。

本書での学びは②の学びについてだ。

それでは質問です。

「コミュニケーションは正解に達するのが目的なのか?」

この問いに対してどう答えますか?この問いに対して、私は「「はい」に決まってるじゃん。」と思いました。しかし、それでは聴き手や解釈者は必要ないということになりました。

コミュニケーションは常に誤解の余地を確保するようにされているわかりやすい例として同じ意味を持つのに正反対の意味を持つ言葉が多く存在していることだ。これにより相手の話を注意深く聞いたり人それぞれの誤解が生み出されている。そのため、話す相手、聞く人の数だけ「誤解」は生みだされていることになる。誤解が生みだされ続くことによってコミュニケーションが続いていって、私たちはコミュニケーションが楽しいと感じる。

私だけが生み出す誤解によってコミュニケーションが成立していることは私の存在を証明していることにもなる。

先生に対しても行動や動作にしても1人1人学ぶことに自分だけの「誤解」が生まれる。誤解について話すことがアイデンティティや主体性の形成につながるのである。

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言ってしまえば、行動に意味もなくても「誤解」や規則性を生み出すことも人によれば可能なのである。

現代の教育の定義は本来は本人が決めるべきであったえらい、えらくないを識見が高く人格高潔など決めてしまったのが間違いであった。

学ぶものとは自分が先生から何を学ぶのか教わる前はわからず、習得した後に先生が教えてくれたことが分かる。

つまり、先生を教育的に機能させるのは学ぶ側であり、先生はいかなる機能も果たすのである


この本を読んで自分だけの先生を見つけたいと思った。でももう人生の中ですでに「私だけの先生」に出会っているのではないかとも思った。

私にとってのいい先生が私の先生だ。そんな先生を探し出したいと思う。


本書ではさらに様々な観点について触れている。ぜひ読んでみてください。

ここまで読んでいただきありがとうございました。






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