見出し画像

ホログラフィー原理 (1/2)

「ホログラフィー原理」を初期に提唱した論文 "The world as a hologram" (L.Susskind, Ref.[1])等を通じて、パートン模型、カラーグラス凝縮など、場の量子論の高エネルギー現象について書きたいと思っています。

そのために、今回と次回の記事でこの論文の主題「ホログラフィー原理」について述べます。

以下、$${\hbar}$$: 換算プランク定数、$${c}$$: 光速、$${G}$$: 重力定数とします。

The world as a hologram

「この世はホログラムだ」という話を聞いたことはあるでしょうか。これは

     $${3次元空間の情報は完全に2次元に投影できる}$$

というパラダイムです。SFでもスピリチュアルでもなく、物理学で真面目に議論されている話です。

「ブラック・ホール戦争」というレナード・サスキンドの著書があります(Ref.[2])。この本には、このパラダイムが成立する過程における物理学者の闘争が描かれています。これによれば、事の起こりは1983年にヴェルナー・エルハルトという億万長者の物理好きが開催した、超有名物理学者達のミニ会議だそうです。そこに招かれたスティーブン・ホーキングが「ブラックホールに落とした物体の情報は消失する」と言い出したのが、このパラダイムの生まれるきっかけでした。

以下このパラダイムがどのようなものか説明します。

ブラックホールの情報喪失問題

ブラックホールはたった3つの量でその状態を完全に記述できます。質量、電荷、そして角運動量(回転の程度を表す量)です。いま簡単のため質量だけ考えます。すると、同じ重さなら、ゾウをブラックホールに投げ込もうが車を投げ込もうが、それを吸い込んだ後のブラックホールの状態は同じです。しかもブラックホールはホーキング輻射という現象により蒸発するので、その後何も投入しなければ無くなります。ホーキング輻射は熱分布と同じ形をしているため何の情報も持てず、その蒸発から何が入っているかを推測することもできません。蒸発しきれば、もうどうやっても元々何を投げ込んだかを知るすべはありません。つまり、ブラックホールに投入された物体の情報は消失します(下図)。


ゾウと車、どちらを投げ込んだ?

だからどうした?と思うかもしれません。実際、前章で述べた会議に集まった綺羅星の如き物理学者らも、ゲラルド・トホーフトとレナード・サスキンドを除き、特にこの問題に深くは取り組まなかったようです(Ref.[2])しかしこの2人は深刻に受け止めました。

物理学において、運動を司る基本法則は「過去を辿れる」という性質を持ちます。「古典論は決定論的」と言われますが、これは未来がどこまでも定まっているということです。未来が定まっているというのは裏を返せば過去も定まっており、それを(原理的には)未来から辿れるということです。量子力学は確率的だから違うと思うかもしれませんが、事象が起こる確率はやはり決定論的です。量子力学及び場の量子論における確率の決定論的性質は「ユニタリ−性」という性質により保証されます。ホーキングが言った情報消失を受け入れるなら、量子力学が本質的に依拠する「理論のユニタリー性 ≒ 過去の情報は無くならないという性質」が破れてしまうことになります。

これを「ブラックホールの情報喪失問題」と呼びます。

この問題を解決できなければ、それは量子力学の一般相対論に対する敗北、もっと言えば素粒子論屋の宇宙物理学・相対論屋に対する敗北を意味します。このような思いの下、彼らは懸命にこの問題に取り組みました。ちなみに会議出席者以外では、他にもこの問題に挑んだ物理学者はいました。

ブラックホールにおける熱力学第2法則

すこし時を遡ります。1973年にベッケンシュタインは、ブラックホールにおいて熱力学が成立するのではないか?と提唱しました(Ref.[3])。その背景にあるのは以下の事実です(以下ブラックホールをBHと略記します):

  • 2つのBHの融合に際し、融合前の2つのBHの表面積の合計より融合後のBHの表面積の方が大きい(減少しない)ことが示せる。
    … これはエントロピー増大則=熱力学第2法則に似ている

  • Kerr BHの質量$${M}$$、表面積$${\alpha}$$、角運動量$${\vec L}$$、電荷$${Q}$$の変化$${dM, d\alpha, d\vec L, dQ}$$の間には以下の関係が成立する:

    $${\hspace{1cm} dM=\Theta d\alpha+\vec \Omega\cdot d\vec L+\phi dQ}$$

    ここでは$${\Theta, \vec \Omega, \phi }$$は何らかの係数と思っておいて下さい。この式は熱力学で成立する以下の式に似ています:

    $${\hspace{1cm} dE=TdS-pdV}$$ 

    ここで$${dE}$$:エネルギー変化、$${dS}$$:エントロピー変化、$${T}$$: 温度、$${-pdV}$$: 系に為された仕事($${p}$$:圧力, $${V}$$:系の体積)です。
    $${\Theta d\alpha\xleftrightarrow{対応} TdS,\ \ \vec\Omega\cdot d\vec L + \phi dQ\xleftrightarrow{対応} -pdV}$$のように対応しています。

これらの対応によれば、エントロピーはBHの表面積に比例します。そしてエントロピー($${\propto}$$BHの表面積)は増大するという「BHの熱力学第2法則」が成立します。そしてこのエントロピーは、情報科学におけるシャノンエントロピーのように情報と関係し、BHの内部状態が外部観測者からはわからないことにより生じるのではないか、と主張しました。

ブラックホールの熱力学はホーキング輻射の発見によって確固としたものになりました。1974年、ホーキングはBHのメトリックを背景時空とする場の量子論の計算から、BHは輻射により物質を放出し蒸発することを示しました(Ref.[4])。この輻射 −ホーキング輻射− は熱力学的な輻射と同じ形をしていて、その温度は

$$
\displaystyle
T=\frac{\hbar c^3}{8\pi kGM}
$$

で与えられます。$${k}$$はボルツマン定数、$${M}$$はBHの質量です。単に熱力学と似ている、という予想を超え、温度およびそれによる輻射が実際にBHで実現することが示されたのです。

ブラックホールがもたらす矛盾とその解決

そして1981年、ベッケンシュタインは、BHの熱力学第2法則を仮定することで、ある領域のエントロピーには以下の上限が存在することを主張しました(ベッケンシュタイン限界、Bekenstein boundと呼ばれる。Ref.[5])

$$
\begin{aligned}
S\le 2\pi ER
\end{aligned}
$$

$${E,R}$$はそれぞれBHのエネルギーと半径です。このベッケンシュタインの考察はホログラフィー原理のパラダイムに重要です。なぜこのような上限が必要か、Ref.[1]に従って定性的なレベルで考察します。

顕微鏡でこの世界の微細構造を見ることを想像します。分子のスケール、原子のスケール、原子核のスケール、陽子・中性子のスケール(=強い相互作用の低エネルギー領域)、クォーク・グルーオンのスケール(=強い相互作用が漸近的自由になるスケール)、弱い相互作用のスケール、大統一理論のスケール…とどんどん細かいスケールを見ていきます。そして究極的には重力の量子論のスケールに辿り着きます。重力の量子力学的性質を垣間見るには、とてつもなく小さなスケールである「プランクスケール」まで細かく見ないといけません。プランクスケールは$${l_p \simeq 1.62\times 10^{-35}}$$mくらいです。原子がだいたい$${10^{-10}}$$m、原子核が$${10^{-14}}$$m、重力波のゆらぎは$${10^{-18}}$$m、LHCにおける粒子衝突で見ることのできる最小の長さは$${10^{-20}}$$m程度です。これらと比較しても桁違いに小さなスケールです。$${l_p}$$はこの世の長さの最小単位と考えられます。

このような極微の領域で、以下のようなことを考えます(Ref.[1]に基づく)。格子間隔$${l_p}$$で離散化された時空の格子を考えます。そこに一辺の長さが$${r \ (\gtrsim l_p)}$$の箱を用意します。箱の中の格子点上に、スピン1/2の粒子を置きます(下図参照)。スピンのz成分は2つの値を取ります。よってこれら粒子は1ビットの情報を蓄える情報元とみなせます。箱の中の粒子数$${n}$$は$${(r/l_p)^3}$$であり、箱の体積$${V}$$に比例します。スピン自由度によるエントロピー$${S}$$は$${n}$$に比例します(エントロピー$${\propto}$$状態数$${2^n}$$のlog$${\propto n\propto V}$$)。よって$${S}$$は体積$${V}$$に比例します。直観的にもヘンなことはありません。

プランクスケールにスピンを配置する

いやでも、この計算では考慮していないことがあります。こんな小さな領域に粒子を詰め込めば、ブラックホールができるかもしれません。ではブラック・ホールができたら何が起こるでしょうか。

これを考慮するため、以下のような状況を考えます(Ref.[1])。いま、ある体積$${V}$$の中に、BHになるのにほんのちょっと足りないエネルギー$${E}$$を一様に注入します。ほんのちょっとのエネルギー$${\delta E \ (\ll E)}$$を足せばその体積とちょうど同じ大きさのBHができるように調整しておきます。半径$${r \ (\gtrsim l_p)}$$を、$${E+\delta E}$$のエネルギーをもつブラック・ホールの半径とします。すると$${V\propto r^3}$$です。また$${E}$$と$${r}$$の関係は

$$
\begin{aligned}
r=\frac{2G(E+\delta E)}{c^4}\simeq\frac{2GE}{c^4}
\end{aligned}
$$

です。ブラック・ホールができる直前のエントロピー$${S_0}$$は、エネルギーが$${V}$$内に一様に存在するので、$${V/l_p^3 \propto (r/l_p)^3}$$に比例します。

この領域に$${\delta E}$$のエネルギーを注入します。するとシュバルツシルト半径$${r}$$のブラック・ホールが形成されます。ところがこのとき、エントロピーは以下のように表面積に比例します(ベッケンシュタイン・ホーキング公式)

$$
\begin{aligned}
S=\frac{\text{area}}{l_p^2}\log 2=\frac{\text{area}}{4G}
\end{aligned}
$$

これにより、$${S_0\sim V/l_p^3 \propto (r/l_p)^3}$$から$${S_B\sim {\rm area}/l_p^2 \propto (r/l_p)^2}$$に変化します。すると正のエネルギーを注入したにも関わらずエントロピーは減ります。これは困った事態です。なぜならBHの熱力学第2法則・エントロピー増大則に反するからです(下図)。
(※Ref.[1]にはたぶんこのようなことが書いてあると思うのですが、自分の解釈も入っているので違っていたらすみません)


ブラックホールにおける熱力学第2法則の破れ

この矛盾を解消するには、ある領域のエントロピーの最大値はその領域にフィットするBHにより実現される、とすればよいです。BH2つが融合すると表面積は融合前の2つのBHの表面積の合計より大きいので、エントロピーは必ず増大し、BHの熱力学第2法則が成立します。ベッケンシュタインが提唱した限界は、これに類似の考察に基づきます。

上記の矛盾は、BHになる前の領域のエントロピーが大きすぎたことによります。プランクスケールの格子にスピンを配置してできるような高密度状態において、体積に比例するエントロピーはベッケンシュタイン限界を破ってしまうのです。実際にはそんなに大きくできないのです。エントロピーは情報量を反映します。つまりは、ある領域に詰め込める情報量には上限があり、それは領域の表面積に比例するのです。

この上限はマクロスケールでも成立します。USBメモリに詰め込める最大の情報量は、そのサイズのブラックホールがもつ情報量で与えられます。ただ、この上限は人間の扱う情報量のスケールと比較してとてつもなく大きいので、感じることはできないし気にする必要もないです。現在の技術レベルでは、の話ですが…

ホログラフィー原理の提唱

なるほどベッケンシュタイン限界は前章の矛盾を解決するように思えます。しかしながら、この限界はあくまで状況証拠とアナロジーによる無矛盾性からの帰結です。エントロピー・情報量の上限が存在し、それが表面積に比例するミクロスコピックな理由はなんなのでしょうか?

トホーフトは情報喪失問題を取り巻く状況を鑑み、量子重力理論が備えるべき性質として次のことを提唱しました(Ref.[6])。それは「3次元に埋め込まれた情報は、その表面、すなわちそれを囲う2次元面に過不足無くすべて現れる。量子重力はそのような次元縮約の性質を備えている」というものです。つまりは、3次元の理論が2次元の何らかの理論にマップされるというのです。これが正しければ、BHの中身の情報はその表面に現れます(下図)。ならば当然エントロピーもBHの表面積に比例します。さらにはBHの情報喪失問題も解決します。なぜなら、BHの表面を見れば、ゾウが投入されたか車が投入されたかわかるからです。

2次元面に完全に投射される3次元の人間

トホーフトはこれをホログラムに例えました。ホログラムは2次元の写真なのに画像が立体的に見えるので、確かに状況は似ています。そのためこのパラダイムは

$$
ホログラフィー原理
$$

と言われます。

ここで注意です。状況によっては3次元の情報を2次元にマップできるのが不思議ではないこともあります。例えば金太郎飴は3次元の物体ですが、どこで切っても断面は一緒です。よって、金太郎飴の長い方の軸は重要ではなく、それと直交する2次元平面のみが重要です。このような自明な2次元性が起こる事はあります。物理的に言えば、初期条件がz軸に対し並進不変なら、その後の時間発展が$${x\text{-}y}$$平面における2次元のみの情報で記述されるのは当然です(対称性は自発的に破れないとする)。しかしホログラフィーが語るのは、そんなチャチで自明な2次元性ではありません。どんな状況でも、どんなに3次元で非自明なことが起ころうとも、2次元の理論で書ける、というのがホログラフィー原理です。量子重力はこのような性質をもつべし、というのです。ちょっと信じがたい原理です。

トホーフトはRef.[6]において「現在まで量子的ブラック・ホールの数学的記述ができていないのはこの理由による」と述べています。つまり量子重力を記述するには、数学的にホログラフィー原理を備える量子論を作る必要があると訴えました。

サスキンドも彼と同様ホログラフィー原理を考察し、2次元に映し出される3次元の「完全な影」に関し、より具体的な考察を行いました(Ref.[1][7])。ちなみに"holographic principle"という言葉を最初に使ったのはサスキンドだと思います。

次回予告

今回はここまでにしておきます。次回は

$$
ホログラフィー原理は超弦理論において実現されている
$$

ことを説明します。

おしまい。$${{}_\blacksquare}$$


References

  1. Susskind, L. "The world as a hologram," J. Math. Phys. 36, 6377–6396 (1995), arXiv:hep-th/9409089 [hep-th].

  2. 「ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い」レオナルド・サスキンド(著)、林田陽子(翻訳) (日経BP、2009).

  3. Bekenstein, J. D. "Black Holes and Entropy," Phys. Rev. D 7, 2333–2346 (1973).

  4. Hawking, S. W. "Black hole explosions?" Nature 248, 30–31 (1974); "Particle creation by black holes," Commun. Math. Phys. 43, 199–220 (1975).

  5. Bekenstein, J. D. "Entropy bounds and the second law for black holes,"  Phys. Rev. D Part. Fields 27, 2262–2270 (1983).

  6. ’t Hooft, G. "Dimensional Reduction in Quantum Gravity," Contribution to 
    Conference on Highlights of Particle and Condensed Matter Physics (SALAMFEST) (1993), arXiv:gr-qc/9310026 [gr-qc] .

  7. Susskind, L. "Strings, black holes, and Lorentz contraction," Phys. Rev. D Part. Fields 49, 6606–6611 (1994).

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?