モノの書き方

多分世に蔓延る「叙述訓練」は盛大に間違っている。モノを書くのに必要なのはテクではなく、気の遠くなる様な基礎訓練の反復だ。

以前、カクヨムにこんなの書いた。

例えば小説とまで言わずとも、なにがしかの物語を書くに当たり「必須となるのは」物語とは何ぞやという概念を把握する事である。そんなもん分かってるわ!とか怒声が飛びそうだが…ならば問おう、物語の定義を言語化し、叙述してみよう。完璧に把握した概念というのは言語化可能であり、他者に説明するために叙述することができる。勉強において「他者に教えると自分の学力も向上する」なんてのは良く知られた話だが、これは他者に教える為に要点を整理して言語化するという行為そのものが「理解をより鮮明にする」からだ。

叙述や喋ることは、ともすれば脳の仕事で身体的なものとは異なると思われがちだが、およそ人間が行う全ての事柄…歩くこと、自転車にのること、喋ること、物を書くこと…全ては反復訓練により体得するものである。英語何年も勉強してるのに喋れないなんてのも同じであり、英会話の反復訓練しないからだ。日本人がなぜ日本語話せるか考えるといい。日本語の勉強…文法その他を学ぶより先に我々は日本語を話す。幼き日に父母と共にしつこくパパ、ママから始まる日本語会話の訓練をしたからである。呆れるほどの時間我々は日本語の反復訓練をして、空手家が正拳突きから回し受け、エンピ打ち…と次々と技を学んでいく様に、疑問形や過去形などの「日本語の技」を習得し、「考えずに感じるままに日本語を操れる」ようにまでなる。叙述や物語を書き連ねることも、気の遠くなる様な反復訓練を積み重ねれば出来る様になるし、語学同様「出力するより先に大量の入力を行う」必要がある。

モノを書けない人々というのは書くという行為部分に対して赤子なのだ。赤子に脚を交互に出してバランス取ったら歩けるとか、脚の筋力が必要だなんて講釈しても歩ける様にはならない。何度も書き、何度も下手な文を書き、うまい文と下手な文を見比べ、その差を読み比べから体得してより上手い文を目指す…テクは後からついてくる。先ずは空手家の如く正拳突きだ。基礎を疎かにして身に付く「ちから」などこの世にはない。そして基礎訓練を正しい型で正しく繰り返す…ただ闇雲に繰り返すのではなく「正誤を気にして」繰り返す。

世の中に特別なことはない。何事も反復訓練という「修行」により獲得できる。英語喋れなかったりモノを書けないなんていうのも、「学んだだけ」で「修行を積んでない」から出来ないのだ。基礎を怠らず寸暇を惜しんで修行をし、功夫を薄紙の様に積み重ねて後に大成する。畳の上の水練で泳げるようになる訳がない。読む書くを呼吸するかの如く「己のもの」とせよ。功成れば夢の中でもオチが付く。

ガチで夢なのにオチがついてた。

ここから先は

0字

¥ 100

方針変えて、noteでの収益は我が家の愛犬「ジンくんさん」の牛乳代やオヤツ代にする事にしました! ジンくんさんが太り過ぎない様に節度あるドネートをお願いしたいっ!