許すと赦す
唐突におじさんの過去の話から話は始まる。外神田某所にあった台湾系PCパーツ製造大手日本支社に勤務してたワイは、ある日営業担当と共に代理店へ新商品の説明に出かけた訳だ。ものっすごくけちょんけちょんにダメ出しされた。実際ダメなんだからグゥの音も出ない(虚無)
一緒に行った営業担当はそれなりに美人で若く、寝坊して出社して来た時は眉なしの化け物面だったがキチンと化粧をしたら美人であった(尚、社外の人間は化け物面を知らない)、但しチャットツールの表示名をプリンセス××とかやる痛い子ではあったが。
まぁまぁ、それでも若い女子さんである。客先でけちょんけちょんにされたら凹みもする。見てて気の毒になる程消沈してたツラを見て私にも菩提心が湧き上がり、気分転換に喫茶店でコーヒーでも飲むかと誘ったのさ。
で、いいの?と目を輝かせる台湾人同僚に「えーぞえーぞ、好きなもん頼め。憂さ晴らしじゃ」と寛大なところを見せたら
「ケーキもいい?」
と来たもんだ。おまっ……このっ……と一瞬笑顔が凍り付いたが、私は赦した。辛気臭い顔でオフィス戻って隣の席でぷりぷりされても困るしな。
ほぼ実話である。
で、ここで私は「許す」ではなく「赦す」を用いた。コーヒー奢るってゆーてんのにケーキセット求めるのは罪深いからである。暴食は7つの大罪の一つだってはっきりわかんだね。
恋愛感情は微塵も無かったが(化ているのを既に知ってたし)、同じ企業で働き懐具合も知ってる同僚だ。同胞愛的なシンパシーは有るにはある。つまり筆記者の私は驕りだからって「ケーキも頼む」姿を罪深いと感じていて、更にそれをある種の愛でノーカンとしたから「赦す」という言葉を選択したのだ。「許す」ではこのニュアンスが出ない。
キリスト教では人間は皆罪を背負って生きており(原罪)、救い主イエス・キリストが磔刑に遭う事で原罪を贖い、我々人間は神に「赦された」事になっておる。人間誰しも罪を犯す。これはしゃーない……生まれた時点で原罪背負ってるもんな! でもお互いキリストさんと父なる神に「赦された」身や、俺らも互いに至らない所やダメな所を「赦しあって」仲良く生きていこうぜ兄弟!
大変雑だが、キリスト教ってこんな感じ。隣人を愛せとかも「赦し」の為に必要だから愛せよとゆーてんの。この「愛」も日本では仏教により言葉の語義が少しマイナス方面に振れている為ザビエルとかは微妙に困った。キリスト教における「神の愛」は日本語の愛という言葉と完全互換じゃないの。
日本で初期キリスト教伝道者が「神の愛」とか言っちゃうと、ドロドロウネウネの昼ドラマじみた「愛」を行使する神様を思い浮かべて大変邪神なのであった。なので伝道初期には今でいう「神の愛」を「神のご大切」と訳したらしい。
前にも書いたが中世初期……或いは中世以前のアルプス以北のゲルマン・ノルマンのヴァンダリング連中はアグレッシブに他者を(勝てそうなら)襲ってしまう野盗気質高めの連中である。これにアガペーを教えようってんだから難航するのは当たり前。そして蛮族地方に1000年ぐらいかけて学術文化が「ギリシャ・ローマ時代まで復興した」のがルネサンス。この頃ようやく全土的にキリスト教文化が根付き、フランスの国境近くに生まれ育ったジャンヌちゃん(富農の娘)までキリストもの的な思考が出来るレベルになるのだ。(ジャンヌダルクはイギリス・フランス100年戦争末期の人物ね)
なお、広く民衆にキリスト教が広まり、印刷技術が発展したら……ルターやカルヴァンがカトリック批判始めてプロテスタントが生まれたりしてアレ。上手くいかないもんだネ☆
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