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中上健次『蛇淫』

小説を芸術の域に持っていくには、「物語」という”定型”に作家の肉体・精神を流し込む必要がある、それは作家の肉体・精神と結びついた経験(記憶)から文章のひとつひとつに「色」をつけていくことを意味する、中上ははじめから作家固有の「色」を掴んでいた、だからニ十歳そこらで「海へ」を書き上げることができた。

とはいえ、「海へ」に――物語の原型となり得る主題はあっても――物語と呼べるものはない。あるのは作家固有の「色」だけ、中上の身体感覚が反映された描写で保っているような作品だ。「海へ」は、講談社文芸文庫の年譜で詩に分類されているが、僕は小説だと思う(この言葉の過剰さは小説でこそ真価を発揮する類のものだ)、作家として未成熟、気取った記述が鼻につく、ナルシシズムに抑制が効いていない、いかにもといった感じの若書き、主題があからさまに語られ、くどいほど繰り返される、だがそこには剥き出しの才能があった。僕は実際の中上を知らないが、気性が荒く、涙もろい人だったのではないかと思う、短編でもあっても気分のムラが見られ、途中から文章のテンションががらりと変わってしまうこともめずらしくない。

『十八歳、海へ』の解説だったか、津島祐子が(同い年の)中上に対して嫉妬に近い感情を抱いたことを吐露していた記憶がある。ああ、だろうな、と僕は思った、物語として成立する以前の、作家固有の「色」だけでひとつの小説を書き上げてしまうエネルギーに満ち溢れた中上を目の当たりにして、津島は自身の作家としての物足りなさを指摘されたような気分になったのではないか。……逆に言えば、中上は物語をつくるのが下手だった、物語/反物語どうこうと熱く語っていた割に堪え性がなく、自分以外の人間(特に女)を三人称で描こうとすると――『鳳仙花』がただの通俗小説に堕していたように――通俗に流れやすい欠点があった、作品ごと出来不出来の差が激しいのもそのせいだろう。いっぽう、中上の素質と中上の描きたいものが上手く嚙み合った時は『奇蹟』のような傑作が生まれた。

つい最近、講談社文芸文庫の『蛇淫』を手に取った。僕は中上の小説が好きだが、それほど熱心な読者という訳ではない、表題作「蛇淫」は何年か前にざっと読んだだけで放置していた。ふたたび手に取ったきっかけは、岩波文庫から道籏泰三編『中上健次短篇集』が発売されたことだった。僕は道籏泰三を知らないが、「隆男と美津子」、「十九歳の地図」、「眠りの日々」、「修験」、「穢土」、「蛇淫」、「楽土」、「ラプラタ綺譚」、「かげろう」、「重力の都」というチョイスを面白く感じた、その流れから、講談社文芸文庫の『蛇淫』をまだちゃんと読んでいなかったことを思い出し、妻の買った本と僕の買った本とがごちゃごちゃに混ざっている本棚から引っ張り出した。

正直、講談社文芸文庫の『蛇淫』は質が高い短編集と言えない、表題作「蛇淫」を読んで思ったのは、手抜き、ということ、この作品は「岬」とほぼ同時期に発表されているはずだが、「岬」の力の入れように比べ、「蛇淫」は(悪い意味で)楽に書かれている。書き出しは、上手い。文章の呼吸が整っている、個々の描写に生々しさがあり、独特な精彩を放っている。ただ、あくまで中上が描きたかったのは冒頭の描写――女のゆれる髪、女が浴場のタイルを洗う姿、殺害した母のパンツに性器の形が浮き上がっている――だけだったのだと思う、それ以降、回想に入ってからはぱっとしない描写が続く(母の台詞だけは筆が乗っている)。

「蛇淫」のもとになったのは市原両親殺害事件だそうだ。wikiの情報を参照すると、市原両親殺害事件の犯人である息子は、風俗店勤務の女との結婚を反対されたことに激怒して両親を殺している。中上は「蛇淫」で似た場面を再現しながらも、「彼」(「蛇淫」の語り手に近い位置にいる主人公)が女との結婚を反対されたことに激怒したことは直接的に書かず、《原因など、ことさらなかった。元々彼はグレていた。この町一番の不良だった。》と濁すに留めている。ならば、だ。今作の価値は、「彼」が原因などことさらないのに父と母を死に至らしめる場面を、「彼」が暴力の衝動に突き動かされる瞬間を、どれだけ説得力を持って描き出せるかで決まると言える。だが、中上は両親を殺害する前後だけで作品を構成し、「彼」が暴力の衝動に突き動かされる瞬間、ひいては両親を殺害するシークエンスを丸ごと省略してしまった。これは技巧ではない、ただの逃げだ。

中上は「親殺し」の主題に興味を惹かれただけで、市原両親殺害事件の犯人の人物像には関心がなかったのではないか、中上がそれまでの作品で散々書いてきたような(いかにも)”中上的”な人物らが、市原両親殺害事件に倣ってそれに近い役を当てられているだけ、「蛇淫」はそれ以上でもそれ以下でもない。中上が息抜き程度に書いた(中上の熱心な読者のための)ファンアイテムということなら納得できるが、表題作として掲げるほどの作品かは疑問が残る(「蛇淫」は岩波文庫の短編集にも収録されている)。

両親との会話の後、一行空きで、「彼」は《いまでこそそう思う。そんなに、灰皿で、いきなり殴りつけるほどのことでもなかった。》と両親を殺害する場面を振り返る。両親に暴力を振るった時の描写はこれだけだ。この時、中上は作家としての想像力を巡らせることを放棄している。市原両親殺害事件の息子は両親を登山ナイフで刺し殺しているが、「蛇淫」の「彼」の手もとにあったのは灰皿という殺傷力の低い武器だけ。相手は一人ではない、父と母の二人、しかもその場には「彼」の恋人である女も居合わせている、女は何もせず、「彼」が父と母をそれぞれ灰皿で殴り続けて殺すのを黙って見ていたとでもいうのか、発想が子供のそれでリアリティがない、「読者の脳内でテキトーに補完してください」と言わんばかり、中上はもととなる事件があることに胡坐を掻き、もととなる事件と異なる状況下における両親の殺害シーンをろくに検証せずに書いている。

最後の一文、《家に火をつけ、二人を火葬にして、車で行けるところまで行き、汽車に乗り、天王寺にでも出ようと思う。》これは蛇足だ、それまでの文体と変わってただの日記になっている。この最後の一文はどうかと思うが、基本的には中上は筆力のある作家だ。だが、筆力があることは、大して考えずとも「それっぽく」書けてしまうという危うさを含んでいる、だから作家はナルシシズムに自覚的になり、自分の書いた小説に対して厳しい目を向ける必要がある。「蛇淫」は純文学ではない、習作レベル、”純文学ふう”の三文小説、中上の悪い癖、露悪趣味がもろに出てしまっている。

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