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中陰・お盆(真宗と他宗の違い)

「信は願より生ずれば 念仏成仏自然なり 自然はすなはち報土なり 証大涅槃うたがわず」(高僧和讃81善導讃)

中陰日程のご案内

今月は多くのご葬儀に会わせていただきました。うちのお寺ではそれぞれの葬儀、還骨・初七日が終わりますと、中陰日程という形で二七日から満中陰までのお勤めのご案内をします。
満中陰という言葉は本来浄土真宗では使うべきではないことから、前住がある時期から「尽七日」と正式には呼んでいます。七日七日のお勤めを七週間する、このお勤めを尽くしましたよ、という意味で「尽七日」といいます。古代のインドでは7進法だったのでそうなった、とか、六道を越えるという意味で7だ、とか、いろいろ説があるそうです。

中陰のもともとの意味

中陰というのは、死者が中有をさまよう期間というような意味で、亡くなって次の生へと転生する間と他宗では説明されます。仏教は基本的に命あるものは輪廻転生すると考えます。輪廻転生とは、生まれ変わりのこと、前生があって、今生があって、後生がある、という考え方です。「袖振り合うも他生の縁」ということわざがありますが、他生というのはつまり前生、または前前生、またはもっと前の生で親や兄弟姉妹だったかもしれない他の生では縁あった方かもしれないよ、という意味です。今生の別れというのも、今の生での現世での別れという意味。親鸞聖人の教行信証総序のなかでもとくに有名な、「ああ弘誓の強縁、多生にももうあいがたく真実の浄信億劫にもえがたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」という文の最初、「多生にももうあいがたく」は「多くの生を重ねても簡単に会えるものではなく」の意味であり、何回も輪廻転生を繰り返しても、そうそう会えるものではない阿弥陀様の弘誓に今生で出会えることができたこと、そうさせてくれた宿縁(前世からの因縁)を慶びなさい、ということを書かれています。
他宗では亡くなった方が49日間経った時にどこへ生まれ変わるのか決まる、という期間が中陰です。七日ごとに供養を尽くすのは、亡き人により良いところへいってもらうために、この世に残った者が亡き人の分の功徳を振り向けるという形でお勤めをされます。

真宗の考え――往生即成仏

ところが真宗はこの考え方をしません。
親鸞聖人の考え方として、浄土に往生したならば、すぐに阿弥陀様のお力によって仏とならせていただける、と考えるからです。
阿弥陀様の建てられた48個の願のうち「第十一願ーー必至滅度の願」にはこのように書かれています
「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」
もしも私が仏となったならば、私の極楽浄土に生れた者たちはみな正定聚に入り、必ずさとりを得ることができなければ、私は決してさとりをひらきません。
この第十一願が成就している、ということはお経に書かれています。それはお浄土に生れたならば、すぐに悟りを開き仏とならせていただけるということと親鸞聖人は解釈されています。49日間かけてどこに行くか決まる、ではなく、この世との縁が尽きた時にはすぐに阿弥陀様はその方をお浄土に迎え、仏としていただけるのです。

浄土往生=輪廻を抜ける

そして、浄土に往生するという事は輪廻転生の輪の中から抜けるという事でもあります。
人生は苦であると仏教は説きますが、それは絶対に人生は自分の思い通りにならないから、苦であるといいます。その苦から抜けるため、悟りを開き、仏のなることを目指します。親鸞聖人はこの苦から抜ける道を「生死いづべき道」生まれ変わり死に変わりすることから抜け出す道と表現されています。仏になるという事は、輪廻転生の輪の中から、つまり苦の中で生きる道を抜けるということでもあるのです。そしてそれを浄土真宗では、阿弥陀様のお浄土に行かせていただいて、すぐに仏とならせていただくことで、苦の中から抜けることができるのです。
浄土に往生され、すぐに仏とならせていただけるならば、中陰の間どこかにさまようという事はありません。次の生へと生まれ変わるのではなくお浄土に行かせていただくので、亡き人がよりよい所に行くようにと願う必要もありません。最上の極楽世界に往生されたのですから、ただただありがとうございます、とお念仏申しあげることが私たちができることなのです。
では中陰の日程は何のためにするかといいますと、阿弥陀様の亡き人も私も迎えてくださるという大きな慈悲、この御恩に感謝するため、あらためて浄土真宗のみ教えをお聴聞いただくためにお勤めをさせていただいています。

亡き人は常に還っていらっしゃる

また、世間ではお盆は亡き人が迎え火によってこの世に帰ってきて、送り火によってあちらへ帰って行かれる、と説きますが、それも浄土真宗ではそのように言いません。
それは還相という姿があるからです。還相とは亡くなった人がお浄土に往生して仏となられた後、この世に帰ってくる姿をいいます。
阿弥陀様のもとに往生されて、すぐに仏とならせていただいた後、阿弥陀様の四十八願の通りにこの世に帰っていらっしゃいます。私たちはその姿を見ることはできませんが、亡き人はこの世界に帰っていらっしゃって、自分と縁があった人に向かってずっと呼びかけ続けられるのです。
なんだ、結局帰ってくるということかい、と思われるかもしれません。でもこの還相という考え方は、この時期だからどう、とかお彼岸だからとか、お盆だからとか、そういうことは全くなくどの時期だろうが暑かろうが寒かろうが、どんな時でも「大切なことに気づいてくれ」と縁ある人にずーっとよびかけつづけていらっしゃる。浄土真宗は「常に」帰っていらっしゃっている、常に見守っていただいていると考えるのです。
とすると、お盆に迎え火や送り火もいりませんし、今年が初盆かどうかということもいいません。お寺ではご依頼があれば、お盆のお勤めはさせていただきますが、それは普段のお参りと変わることはありません。初盆もしたいというお話しであればお勤めしますが、そのお勤めは初盆だからではなく、亡き方への感謝・阿弥陀様への報謝のあらわれとしてお勤めさせていただいています。

証大涅槃うたがわず

「信は願より生ずれば 念仏成仏自然なり 自然はすなはち報土なり 証大涅槃うたがわず」
私たちの信心というのは阿弥陀様の本願から生まれ出でたものであるから、おのずと念仏によって仏のさとりを開くことができる。おのずと仏となるというのは真実の浄土にそなわっているはたらきなので、間違いなくこの上ない悟りをひらくということは疑うことはできない。
本願を信じ念仏を申せば、(浄土で)仏となる。浄土に往生すれば、かならず悟りを開く、仏となる。だからすでに亡き人は往生なさってすぐに仏となっていらっしゃる。そして私たちに呼びかけてくださっている。その考えから浄土真宗というのは他宗と違うところが多くあります。なぜ他宗と違うのかというところを考えながらお聴聞を続けていただければと思うところです。 




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