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国際化する日本の行く先

「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏説きおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられ候ふ。しかれば往生はいよいよ一定とおもひたまふなり。」(『歎異抄』第十二条)

外国人労働者の受け入れ

さて、今回は移民や外国人労働者の受け入れについてです。
日本では大っぴらに移民、ということを受け入れていません。難民ですらかなり厳しく受け入れを規制している国でもあります。しかし、人口減少社会にむけて外国人労働者の受け入れは広げようとの動きがあります。実際法務省のホームページによると、外国人労働者は約200万人、そのうち在留資格が永住権をもっていたり日本人の配偶者だったりする人たちは60万人、のこりの140万人くらいは専門的分野で就労目的の外国人や技能実習生などのいわゆる外国人労働者だそうです。

ヒジャブをつけた女の子と運動会

YOUTUBEの動画で上がっているのですが、とある中学校での運動会での話です。そのとき各クラス別に分かれて大縄跳びの大会が行われていました。あるクラスにはインドネシアからやってきたイスラム教徒の子が混じっていました。その女の子はイスラム教徒ですからヒジャブという頭を覆い隠すスカーフのようなものをまいていました。イスラム教では成人した女性が顔と手以外の場所を家族以外の人に見られることを厳しく規制しています。彼女もその規律に従ってヒジャブをまいて腕や足は長袖やスパッツのようなもので覆ったうえで参加していました。外は青空、とても天気のいい日、ほかのクラスメイト達は普通に半袖半ズボンでの参加です。一生懸命競技に参加して、縄跳びを飛ぶ女の子。とすると当然心配されるようなことが起こりました。インドネシアの子は一旦飛び終わったときに、ふらふらになって運動場で倒れてしまったのです。その数秒後ちょうど競技の時間が終わりました。するとクラスメイト達は彼女の周りを取り囲み始めました。そこで倒れたのが普通の日本の女の子だったら「大丈夫?」「影を作るよ」という感じで内側を向いて取り囲んだでしょう。しかしイスラムの規律でヒジャブをしていて、家族以外に見られてはいけないということを知っているクラスメイト達は、逆に外側を向いて自分たちも見ない、見えないようにという意識で取り囲みました。そして人垣が足りないと判断すると他のクラスの子にも声をかけ、彼女の姿が周りに見えないように、観客や男の先生方にも見えないように、人垣を作ったのです。しばらくして女の子は少し回復したのか、先生方に連れられてヒジャブをつけた状態で避難していきました。人垣を崩していいよ、と言われて競技に戻る子どもたちには観客から拍手が送られました。
この映像はこのインドネシアの女の子のご家族が撮影したもので、インドネシアで話題になり感動と賞賛のコメントが多く発信されたそうです。

相手の尊厳を守る姿

この映像を見ると、本当に感動します。なんて優しくて思いやりのある子どもたちだろう、そしてそれが自分と同じ日本人であることも、その感動の一つです。自分と違う宗教を持ったクラスメイトがいる。神道や仏教とは根本的に違う考えの宗教である。日本のコミュニティにおいては少数派であるその子を勝手にしろ、とか捨て置く、というのではなく、相手の考え・主義主張は尊重し、その尊厳を守ろうとしている、そのために動けるということはすごいことです。
ただそれは学校という場で起こっていることであることは、日本人として意識しなければならないと思います。学校という場は、先生がいて生徒がいて、模範的な生き方・姿を求められる場です。このクラスメイト達もインドネシアの子が転校してくる際には、イスラム教とはどのような宗教か、なぜヒジャブをしているのか、どういうことが規律で決まっているのかということは、ざっくりとでも先生から指導があったうえで、彼女と接していたことでしょう。そういう前提があったうえでの彼女たちの行動であるということは、日本人ならわかりますし、そういう前提を頭の中から外してはならないと思うのです。

イスラム教徒のお墓問題

イスラム教徒の人が日本で暮らしていくということは、私たち日本人はいろいろな文化の違いを受け入れるということでもあります。お祈りのための部屋やハラルフードを用意することもその一つでしょう。実はもっと深刻なこともあってイスラムの方々を受け入れるなら考えなければならない、と宗教学者の釈徹宗先生はおっしゃっています。それは何かというとお墓の問題です。
イスラム教の教えというのは、亡くなった人を葬る際は、土葬だそうです。イスラム教の聖典のコーランには人は土に埋め、やがて望みの時によみがえるという記述があるそうで、死後の再生を願うイスラム教徒は土葬を望みます
裕福なイスラム教徒ばかりが日本にやってくるなら、もし日本で亡くなったとしても、飛行機で亡骸を本国へ移送して、そこで土葬をするという選択をすることでしょう。ところが、今の日本にやってくるイスラム教徒の方はそんなことができるかたばかりではありません。労働者としてやってくるわけですから、基本的に裕福ではない、しかも年を取ったら本国に帰ろうと思っていたとしても、病気や事故で日本にいる間に亡くなる可能性は十分にあります。そうすると日本で土葬をしたいと望むわけですが、それを受け入れる墓地は今のところ日本で10カ所程度しかないそうです。
生きている間に暮らしていた身近な場所で、自分が望む通りの葬送の方法で弔ってもらいたい、もしイスラム教徒の方が日本人でも思うそのようなことを願ったとしても、おそらく叶わないのではないかと思います。それは火葬が当たり前になった日本でいきなりお墓に土葬したいとなれば、受け入れる住民の意見はひとつに統一されないでしょう。
これは人権にかかわる問題でもあります。日本国憲法が信仰の自由を謳っている以上、葬送儀礼に関してもそれは個人の自由が尊重されるべきです。どのように弔ってもらいたいかということは、国から強制されるようなことではない、基本的人権の尊重に関わる問題です。それをわかっていたとしても、全員が納得する結論を出すことができるのだろうか、と不安になります。

多文化を無制限に受け入れるべきか

最初に紹介した、中学校での運動会の日本の子どもたちの姿は、素晴らしい姿です。インドネシアでも日本の子どもたちは「真の寛容と相互尊重を学んでいる」と讃えられています。しかし、日本という国が全体で「真の寛容と相互尊重」ができている夢のような国、と判断してしまうのは間違いです。それは学校という環境が整っていれば、そのようにふるまうことができる、というだけで、違う環境違う状況が社会の中で起これば、日本人だってすぐに不寛容になり、相手をないがしろにすることはしてしまう、たとえそれが相手の基本的人権の尊重のためには間違っていたとしても、論理ではなく感情で判断することだっていくらでもあるということを、肝に銘じておくべきだと思います。
そしてその感情で判断すること自体が全く間違っていると言い切れるわけでもないことも、考えておかなければならないことです。他宗教の人他文化の人を受け入れる。それはいいけれどもそれをやりすぎてどんどん受け入れていけば日本の独自の文化というものが消えていく可能性もはらんでいます。今、インターネットが発達してそれぞれの地域で受け継がれてきた文化は、平板化して消えていく流れになっています。同じように何の議論もなくどの宗教の人もどの文化の人もいくらでも迎え入れてしまえば、日本らしさ、日本の文化は消えていくでしょう。国際化していけばそれは仕方がないと受け入れる人もいれば、それが許せないという人も出てくる。本当は今、日本全体で議論して、どのように受け入れるのか、受け入れないのか、日本らしさを保つべきか保つのは諦めるのか、保つべきならどういうところで線を引くのか、ということを詰めていくべきなのに、それをしていない、ここがとても怖い所であり、自分の意見を持つ必要はあると思います。

真宗と他教の教え 共生のために

最初のご讃題は『歎異抄』第十二条からいただきました。
浄土真宗の教え、阿弥陀様の教えを信ずる者もいれば、そしるものもいる、そのようにお釈迦さまはおっしゃっていたと書いていて、私はすでにこの阿弥陀様の教えを信じている。また人がいて、この阿弥陀様の教えをそしるのを見ると、お釈迦様の説かれたことは本当であるとわかる。だから、お釈迦様のおっしゃった阿弥陀様の浄土への往生はいよいよ決定していると思うことができるのである。
親鸞聖人はそのようにおっしゃっていたと、歎異抄に書かれています。
浄土真宗は他教や他宗の教えを全く否定したりはしません。この教えは間違っているとか、こっちの方がいい教えだとかいう人がいたとしても、それはお経にすでに書かれていることなので、いて当然である、と考えます。またそういう人がいるという事は、お釈迦さまは真実を説かれたという事でもあり、であれば私の往生を決定してくださっているということもまた真実であると考えることができます。
そういう他教の方々と共生していく社会にするならば、どのようなことが必要なのか、あるいは日本の文化日本らしさを守りたいと思うならどこまでで線を引くべきなのか、そういうこともこれからは考えていかなければならない時期に来ているように思います。

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