法話「1月2日羽田空港の事故に思うこと」
今年の正月は、いつものお正月と思っていたところに、いろいろとニュースの多いお正月となってしまいました。元日はゆっくりと過ごしていた人の多い中、北陸地方で地震。一番お知らせが早かったのがスマホの地震速報で大きな音を立てて知らせるのでびっくりしている中、その時2階にいたんですが小さな揺れの中で、大きくゆったりと揺れているような、そういう揺れを感じました。そして二日の飛行機事故。残念なことに死者が出てしまいましたが、それでもJAL機の乗客たちがたった18分で全員が脱出したというのは、世界でもすごい奇跡が起こった、と言われるほどのことでした。
地震については、仏教から言えることがあるとすればやはり「今日とも知らず、明日とも知らず」と言われてます。
私たちは明日がある、一週間後がある、一か月後がある、一年後がある、そのように思って生きていますし、そのように思わないと、生きていけないところがあります。しかしながら、それを保証してくれているものはなにもありません。誰もがいつ死ぬかということは知らされていませんし、知る方法はありません。今の時代は、病院のベッドの上で家族に見守られて…という人は多いと思いますが、全員ではありませんし、また急変で家族が間に合わなかったということも、あります。事故や事件で亡くなる方も多いですが、まさか自分が、と思っていたことでしょう。今回の北陸の犠牲となった方々も、まさか自分が、の気持ちの中で亡くなられたのだろうと、推察できます。
仏様の教えの諸行無常といいますが、自分の命はどこで終わるかなんてわからない、今日かもしれない明日かもしれない、自分だけは大丈夫だ、なんていうことは絶対にない、ということを感じる出来事でありました。
2日に羽田空港で起こった航空機事故については、地震があったからこそ起こった事故ではありますが、人災の面もありました。
地上にいた海上保安庁の飛行機は、どちらかというと小さめの飛行機でした。羽田空港の滑走路上にその飛行機がいたところ、JALの300人以上が乗る大きな飛行機が着陸して衝突。海上保安庁の機体が爆発炎上。JALの旅客機も翼が燃えて、大きな火災となりました。
今回の事故のことで航空機の専門家や空港で働いていた元管制官という人たちが出てきて、いろいろと解説してくれていました。それを聞いていると、もしかすると今回の事故の原因について、中途半端にしか語らない人が多いな、という印象を抱かれた方もいるかもしれません。
本当は、今回の原因は明らかなんです。航空業界の方なら、どこが原因かというのはよくわかってらっしゃるんですね。
すでに羽田空港のタワー管制と飛行機とのやり取りは、公開されています。管制というのは空港で、飛行機同士がぶつからないように、事故にならないようにそれぞれの機長さんにあなたはこうしなさい、あなたはこうしなさい、と指示する人たちのことで、特にタワー管制は離陸と着陸を担当するとても大事な役割をしている人のことです。
このやり取りは別に秘密にされているものでもなんでもなくて、一般に公開されています。専門の機械があれば一般人でも聞くことができます。
そのなかで、海上保安庁の飛行機に向かってタワー管制が「滑走路前待機」といったにもかかわらず、「滑走路上待機」と勘違いし、滑走路上に入ってしまったのが、今回の事故の原因です、そういうと、ちょっとしか違わないんだから、それは聞き違えるよね、と思われるかもしれません。でも、実はそんなことはないんです。というか、聞き違えが原因の事故はすでに起きているので、その対策はすでにされていたんです。
だいたいの新聞などがやり取りを公開する時には日本語に訳されて公開していました。けれど、実は本当のやり取りは英語です。飛行機は国内線だろうが、国際線だろうが、どの国の人が機長だろうが、全員がタワー管制とのやりとりを理解できるように、基本的に英語でやり取りします。しかも、そのやり取りは普通の会話と違っていて、この用語を言ったら、これをしていい、こっちの用語はここまでしていい、と使う言葉まできっちり決まっているわけです
その中で、今回は「Holding point C5」と管制官は指示していました。そして、海上保安庁の機長もこれを復唱していました。これは滑走路手前のC5というところで待機せよ、の意味です。そして滑走路内に入っていい時の用語は「Line up and wait」という言葉で、こちらを管制官が言ったという記録はありません。日本語で聞いた時には似たような滑走路前待機と滑走路上待機ですけれど、英語で聞いた時にはまったく違う用語が使うようにされていたわけです。
そういう風に工夫されていたのもかかわらず、海上保安庁の飛行機が勘違いを起こしたので今回のような事故になったわけです。
ところが、航空業界の専門家の人たちからはその機長を責める声というのはあまり聞こえてきません。
多分、みなさん「なぜ…」とは思ってらっしゃるんだと思います。滑走路手前まで進んでいいとは指示があったけれど、滑走路内に入っていいとは指示してないのに、なぜ入ってしまったんだ、と思ってらっしゃることでしょう。
けれど、それで機長を責めて、あいつが悪い、勘違いしていなければ…という気持ちだけではダメだ、とも思っているんだと思います。
飛行機を飛ばし続けるということは、それなりにリスクがあることです。世の中には絶対安全、なんてものはありません。特に飛行機は空を飛ぶ以上、リスクはあります。でもそのリスクがあることを続けていくためには、誰かを責めているだけではダメだ、改善できることを改善していかなければ、なるべくリスクを減らすようにできる限りの工夫をしなければならない。そういった思いが航空業界の方の中で一致した思いだからこそ、そうやって一人の人を責める、ということをしない、してはいけない、と思っていらっしゃるのではないでしょうか。飛行機を飛ばし続けること、空路という交通手段をなくさないこと、そういった目的があるから、今回の事故についてもどうにか回避するための方法はあるのではないか、といつも考えていらっしゃるんでしょう。
非常に成熟した大人の姿勢だと、今回は感じました。
私たちは自分のうちから湧き上がる煩悩に振り回されて生きています。もし、自分にとって嫌なこと、歓迎しないことがおこったら、それは自分のせいではなく、誰かほかの人のせいだ、と思いたくて仕方がないのが人間です。自分には責任がある、なんてこれっぽっちも思いたくないのです。あいつが悪い、あいつのせいで、と思っていれば、安心します。自分のせいではないのだから、自分には責任はない、と思いたいのです。そして、それを口にして攻撃して、とにかく自分のせいじゃないんだから、と言いたくて仕方がない。それは今回の航空機の事故以外のところでもいつも私たちが思ってしまっていることです
でも、それでは何も発展しない、何も生み出さない。それがわかっているから、航空業界の人たちは機長のことだけを責めません。管制官が到着機があることを伝えていたら、滑走路に入った海上保安庁の飛行機に気が付いてJAL機に伝えられてたら、海上保安庁の機体に他の機体に存在を知らせる装置がついていたら、いろんな可能性を考えて今回のようなことが起こらないような対策を考えようとしています
「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし」
これは親鸞聖人の教行信証のうち、信の巻の一節です。
私たちの煩悩が決して私を離れない有様を、親鸞聖人は「遠い昔から今まで清らかな心はない、真実の心はない」と表現されました。どうしても誰かのせいにしたいという煩悩に振り回されている私を、全く清らかな心などないのだ、ときっぱりと言い切っています。自分は善人だ、自分が悪いのではない、そう思いたい自分というものを正面から見つめきったとき、ああなるほど自分の有様とはこのようなものであったか、と深い自省から現れた言葉だと感じます。
このような自分から離れることは難しいことですが、今回の航空業界の人たちを見習って、とりあえず誰かのせいだけで片付けることは自分の煩悩がさせているのだ、ということを感じていければいいと思う出来事でした。
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