見出し画像

自己紹介

桔梗ケ原病院

平成元年11月24日

今はもう産婦人科がないが、私の幼馴染は桔梗ケ原病院で生まれた人が多い。
私もその一人。そして兄二人もそうだった。
末っ子長女として、よく「親御さんはうれしかったと思うよ」「待望の女の子だったでしょ」「可愛がってもらったでしょ」と言われた。
ただ、正直一番、兄妹の中で負けん気が強く、男勝りのところも多かった(今も多い)から、可愛かったかは全くわからない。
兄にはお尻にBB銃を撃たれたこともあったし、膝蹴りされたこともあった。
そのせいもあってか?小学校のころから、活発に動き回っていた。
兄の影響で習い事は小さいころから色々と通わせてもらった。
ピアノ・書道・スイミング
末っ子はラッキーだ、始めるのが早いから、上達もそれなりにできる。
スイミングは最終的に週5日やっていた。小学校の文集で「オリンピックに出る!」などと書いたほどだ(恥ずかしい)。
逆にピアノは全然だった。
兄のほうがよっぽど上手で、それを聴いているほうが心地よかった。

中学になり、スイミングからソフトテニスに変更。
そこからソフトテニス一色となった。
負けん気が強く、威圧もあっただろうが、部長も任せてもらい、皆で練習を頑張った。思春期で、両親には迷惑をかけただろう。だが楽しかった。
小・中学の友達とは、細く長く交流が続いている。

高校に進学し、部活を迷ったが、結局はソフトテニスに落ち着いた。
県内強豪校だったため、休みは少なく、上下関係も厳しかった。学校にコートがなく、毎回自転車で30分ほど爆走し、別のコートへも向かった。
途中で先輩がいると、挨拶をしながら追い越さないといけない。
そして、謎の日焼け止め禁止(毎回真っ赤のやけどだった)や髪の毛が肩についてはいけないなどなど、謎のルールたち。
今考えると、よくやっていたと自分を褒めてあげたい。支えてくれた母にも感謝だ。高校時代から、私は年上の人といるのが落ち着くと知る。最も面白い先輩がいたからもあるが。
そんな高校2年の時、心臓が苦しいのが治らず、内科を受診。鉄欠乏性貧血がひどく、治療が必要と診断された。確かにその時の写真を見ると顔は真っ白、唇の色も悪い。朝のランニングも全く走れず、連中も足が重く動かないなど症状はあったが、自分の中で貧血には結びつかず、「筋肉が落ちている」と思い込み、さらに自主練をするという謎の行動をしていた。
食事と運動のバランスが合っていなかったのが貧血の原因だった。この経験があったから、食事の大切さを痛感し、「管理栄養士」を目指すきっかけになった。
頑張ったソフトテニス、高校総体の団体では全国にいけたが、個人では2回戦負け。
ネットミスで終わったことが尾を引き、全国でも試合に出ることはできなかった。よく言う「自分に負ける」で試合に負けたいた。
高校でも部長を任せてもらったが、中学のようにうまくはいかなかった。
だが、色々と経験できてよかったと今は思えている。

高校の経験から地元の栄養の大学に入学し、4年間学んだ。
大学は自由が増え、解禁になるものが多かった。お酒、合コン、いろいろなアルバイト、車。(ピアスとエクステを一度に解禁したら、母に怒られてエクステを即取った思い出)
県内色々なところから来た同級生と今も仲良くしている。一緒に栄養士を目指していたからもあるが、みんな食べることが好きで(そこか?)、楽しいことをする人が多かった。
生ごみたい肥化プロジェクトで、山形県に行ったり、卒業論文を広島の学会で発表したり、思い返すと色々と経験させてもらっていた。
食料自給率もこのあたりから気になりだしていた。

そして一時離れていたソフトテニスを再開する。
高校最後のネットミスがどうしても夢に出てくるのだ。一回ではなく何度も。これで終わるのか?いいのか自分と何度も問いかけ、再度始めた。
一般女子で高校でも選ばれなかった国体選手に選出され、高校時代の後悔を払拭することができた。

大学在学中に大好きだった、母方の父が倒れた。
口からは食べることができなかったため、胃瘻を造った。この時期は、胃瘻を造る人が多かったように思う。
口から食べられるまでは、おいしいものを食べてほしい、ミキサーにかけた食事ではなく、形状のわかるものを提供したいと、ソフト食にに興味をもちつつ、管理栄養士としてまず現場から知りたいと直営の高齢者施設を探し、採用してもらえることとなり、私の社会人生活が始まった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?