noterさんがコメントで書いてくれた映画を観てみた。2

#映画

ぷらすです、こんばんは。

前回に引き続き、yosh.ashさんが、コメント内で書いてくださった(僕が未見の)映画を観て、感想を書きます。

実は、もう一本の未鑑賞の「欲望の翼」をと思ったんですが、レンタル店にDVDがなかったので、もう一本の、以前一度観た映画を再鑑賞してみました。

「青いパパイヤの香り」(1993年)

とにかく全体的にセリフが少ない。エピソードはぶつ切り。音楽がなんか不穏。なので登場人物の心情が計り辛い。前に観たときも思ったけれど、日本やアメリカとは演出や演技や音楽など、表現の「文法」が違う印象。

それがベトナム映画の特徴なのか、この映画だからなのかは分からないけど。

父親を亡くした主人公ムイが布屋に奉公にくる所から物語が始まる。裕福で一見幸せそうな家族だけど、主人は放蕩癖があり、奥さんはその事で主人の母親から責められ、次男はそんな母の様子に傷つき、主人の母親は早くに夫を亡くして以来、ずっと二階に篭って供養の毎日。長男は家に寄り付かず親友クェンと遊び惚けていて、長女は幼くして他界。幼い三男は(多分)父親の放蕩癖のことで友人に苛められてる?と、それぞれが何かしら問題を抱えながら、一つ屋根の下で日々を過ごしている。

そんなある日、長女が他界して以来おさまっていた主人の放蕩癖が再発。全財産を持って家出。家は困窮し家財を売りながら何とか暮らすも、帰ってきた主人は病気?で数日後に死亡。

それから十年が経ち、店は長男夫婦が継ぎ、奥さんは隠居して二階に引きこもって供養の毎日。時代が変わって店は昔ほど儲からなくなって、ムイは長男の親友で作曲家のクェンの家に奉公先を変えることに。

最初は、主人と奉公人の関係だった二人だけど、ある事がキッカケでクェンはムイを女性として意識するようになり、子供ができ二人は結婚するという、一見シンプルなシンデレラストーリーなんだけど、その実、一人の「少女」が「女」そして「母親」になるまでの様子を官能的に描いている作品…なんだと思う。

セリフなど具体的な表現は殆どない。けれど、ムイを始めとしたキャラクターの心情は、劇中登場する小道具やその扱いで表現している。

性に目覚め始めた少女期のムイが、長男の親友クェンを単なる憧れてだけでなく男性としてぼんやり意識している事は、パパイヤの調理シーンで印象的に暗喩され、大人になったムイがクェンの為にパパイヤを調理するシーンは、成長したムイがハッキリとクェンを「男」として意識していることを示している。

劇中何個も登場する壺は、奥さんであったり、主人であったり、その時の家族の関係であったりを示す小道具として、また、一見少女の頃のまま大人になったようなムイだけど、クェンに婚約者がプレゼントした壺を割ることで、彼女が「女」としてクェンの婚約者に嫉妬している心情を示している。

とにかく、この作品はそうした道具による「見立て」によって、ドラマが進行していくスタイルの映画なので、深読みしようとすればいくらでも深読みできちゃうし、↑で書いた事も全部(多分)がついちゃう、観客側が意識的に読み取るタイプの、絵画で言えば「静物画」みたいな映画なんだと思う。





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