ギルバート・グレイプ(1994) 感想【ネタバレあり】

  #映画

  ピーター・ヘッジスの同名小説の映画化(現題はWhat's Eating Gilbert Grape)。若き日のジョニー・デップとレオナルド・ディカプリオが共演している。監督はスウェーデン人のラッセ・ハルストレム。

実は、この映画は知らなかったんだけど、ラジオで聞いてネットで調べてみたら、レヴューの評判がすごく良かったので鑑賞することに。

前半はとにかく淡々とした描写が続くんだけど、そこで光るのがレオナルド・ディカプリオの演技。
重度の知的障害を持つ少年を、実にリアルに演じていてビックリする。
例えば、突然テンションが上がって叫びだす時の声の感じとか、他の人との受け答えとか 、ちょっとした仕草や表情とか。ディカプリオと知らないで観てたら、そういう子をキャスティングしたのかと思っちゃうくらい。ディカプリオはこの役でアカデミー賞を取ったみたいだけど、納得の上手さだった。

映画の冒頭、ジョニデ演じるギルバートが、ディカプリオ演じるアーニーを連れて、キャンピングトレーラーが走っているのを見に行くシーン(毎年一回、キャンピングトレーラーのオーナーが集まる大会?があるらしい)で、アーニーの説明は「10歳まで生きられないと医者に言われたけど今年18歳になる」位しかないんだけど、アーニーとギルバートのやり取りで、アーニーが知的障害を伴う病気だということが分かる。

そして、町が寂れている様子を映しながら、町の説明、巨大スーパーの進出なんかがギルバートの独白で説明されていく。
父親が亡くなって以来、家族は上手くいってない。
父親の素人仕事で作られた家はあちこちボロがきていて、ギルバートは、仕事とアーニーの世話に追われながら、友人の手を借りて、家の修繕もしている。
なのに、父親の死後、家に引きこもりっぱなしの母親はアーニーばかりを可愛がり、二人の妹は勝手なことばかり、当のアーニーは問題ばかり起こしてギルバートを困らせる。
ベティという人妻と、不倫を続けてるんだけど、不倫はベティの旦那に(多分)バレてて、事あるごとに呼び出されてるんだけど、ギルバートは逃げ回ってる。
母親がいつも座っているソファーのある床は、過食症で太った母親の体重で今にも抜けそうなありさまで、ギルバートはそんな母親を蔑み、友人に母親の文句や悪態を言いながらも、内緒で、地下室から床の補強をしたりする。

このシーンでは、父親の死が自殺だったことの説明でもあるんだけど、同時に「家族」の重さに押しつぶされそうになりながらも、「家族の形を維持しよう」と踏ん張ってしているギルバートの心情を表してるんだと思う。

この前半部分で、ギルバートが鬱々とした日常に押しつぶされそうになってる様子が、これでもかと描写されて、観ているコッチまでしんどくなっていく。
そんなギルバートの日常に変化を与えるのが、トレーラーの故障でこの町に留まっている女の子ベッキーとの出会い。

家や家族に縛られて生きてきて、狭いコミュニティーの中で人目を気にして生きているギルバートに対して、ベッキーは離婚した両親の家を行ったり来たりで、安定した家や家族を持っていないし、今も祖母と二人でトレーラーであちこち移動しながら暮らす遊牧民のような生活と、全てが対照的な二人。
そんなベッキーがギルバートに「カマキリの交尾」の話をするシーンがあるんだけど、これは後の不倫相手のベティの旦那の最後を暗示してるのかな。

ギルバートの不倫相手、ベティの旦那は、外ではやり手な保険会社の社長なんだけど、ベティにはベタ甘で、彼女に振り回された挙句に、ビニールプールで溺れ死ぬ。ビニールプールに頭をつっこんで死んでいる彼の様子は、ベッキーの話に出てくるカマキリのオスに酷似してるんだよね。

ベティには多額の保険が入るけど、町の人はベティが旦那を殺したんじゃないかと疑ってる。ベティは町を出る前にギルバートに会いに来るんだけど、丁度その時にベッキーとも鉢合わせになって、彼女はベッキーに「譲るわ」と言って町を去る。
ベティと旦那の間に何があったのか、真相は闇の中だけど、旦那を「食べ尽くした」ベティは、ギルバートを「次の獲物」として狙ってたのかもしれない。

閑話休題

ベッキーに惹かれるギルバートは、徐々にアーニーを疎ましく思うことが多くなる。というか、ベッキーに惹かれつつも好意を素直に表せないギルバートにすれば、奔放に素直にベッキーに接しているアーニーに嫉妬してるようにも見える。ただ、これってベッキーに対する愛情とか恋心って言うより、母性を求めてる感じ。
そんなある日、何度も町の給水塔に登って騒ぎを起こしてきたアーニーが、再び登って、とうとう警察に拘留されてしまう。
その時、長年家から出ずにアーニーのこともギルバートに任せっきりだった母親が、アーニーを取り返す警察に出向く。

警察署から出てきた母親を、町の人たちは嘲笑するように見物したり写真を撮ったりするんだけど、今まで、町の人と同じような目で母親を見ていたギルバートは、この時母親を笑いものにした町の人に怒りを感じるし、そのことに家族はひどく傷つく。
この瞬間、ギルバートは母親への愛情を失っていない自分を自覚したんだと思う。

さらにすったもんだあって、アーニー誕生日の前日、せっかくアーニーのために準備してるのに、本人は相変わらず好き勝手ばかりで言うことをきかない。
それで、ついにキレたギルバートはアーニーを殴ってしまう。
誰にも傷つけられないように、ずっと守ってきたアーニーを自分の手で殴ったことに傷つくギルバート。
で、次の日、アーニーのパーティーが始まっている家に戻ったギルバートを妹は責めないし、アーニーもいつも通りに接する。(一応殴り返すけど、まぁこれでチャラ的な感じ)
母親のもとに行くと、アーニーを殴ったことより、黙って出て行ったことに怒る母親。
ここまでの小さな『事件』を経て、彼らはやっと「家族の形」を取り戻したんだと思う。
そのあと、ギルバートはベッキーを母親に紹介する。

パーティーも終わって、家族だけになったとき、母親は二階の自室?に自分の足で上がっていく。
傍から見れば驚く程小さな変化だけど、彼女にとっては(多分)家族を安心させるための決意表明だったんじゃないかと思う。
なんとか二階まであがり疲れきった母親はベッドに横になり、ギルバートと二人になる。
そこで母親はギルバートに、「お前は光り輝く甲冑を着た王子様よ」と。 ギルバートは「輝く甲冑だろ?」と聞き返すけど、母親は 「いいえ、お前は光り輝いている。眩しく光り輝いている」という。

正直、このやりとりをどう捉えていいのか、よく分からない。
結局、このやりとりを最後に、母親はそのまま眠るように亡くなってしまうんだけど、自分の死を予感した母親が、応援の意味も込めて、息子に自信を持たせるために言った言葉なのか、それとも苦労をかけた息子への感謝をこめての言葉なのか、ギルバートを「甲冑を着た王子」と言ったのは自分にとってなのか、家族にとってなのか、ベッキーにとってなのか。
全部なのかもしれないし、全部違うのかもしれない。
ただ、ギルバートが母親の愛情を確認し、今までの苦労がこの瞬間に報われたのだけは確かだと思う。

二階で亡くなった母親を、運び出すために保安官たちはクレーンを使うか、州警察に応援を頼むかなんて相談をしてる。
このままでは、亡くなった母親が『また』笑いものになってしまう。
そんなことはさせないと、ギルバートは妹やアーニーと家財道具を運び出し、母親の眠る家に火を放つ。
彼らは母親と、父親そのものでもあった「家」を、自分たちの手で『葬る』ことで、大人になったんだと思う。

そして、一年後。
映画冒頭の道で、ギルバートと19歳になったアーニーは、再開したベッキーのトレーラーで旅立っていく。

最初の出会いでは、家族の面倒をみて支えていても、まだ『子供』だったギルバートだけれど、一連の出来事を経験したラストシーンでは、絵面は同じでも、確かに一人前の大人になっているように見えた。


この話は、終始「グレイプ家」の物語なんだと思う。

ヒロイン役のベッキーはあくまで、ストーリーを回すためのキャラクターとして登場するだけで、だから、彼女の内面や性格は、あまり深くは語られないしね。

物語の中で、近隣の町に大型スーパーが出来たり、寂れた町に全国チェーンのハンバーガーショップがやってきたり、ずっと変わらないように見えた町にも少しづつ変化が現れていくる。
大型スーパーの影響で、客がこなくなったギルバートの勤める店や、そこのオーナー、ベティの旦那なんかは、これから滅びるだろう今までの価値観や常識を。
コンテナで店ごと運ばれてくるプレハブのハンバーガーショップや、そこに就職を決めるギルバートの親友は、これからの新たな価値観や常識を、それぞれ暗示してるし、町の変化(代謝?)とグレープ家の出来事がリンクしてるようにも見えるのは、多分意図的なんだと思う。

多分、もっと若い時にこの映画を観ていたら、受けた印象も、この作品に対する熱量ももっと高かったかもしれない。(それこそ多くのレヴュアーさんが言うように、生涯ベスト級になってたかも)





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