「パンはパンでも食べられないパンは?」にマジレスしてみる
「パンはパンでも食べられないパンは?」
誰もが一度は聞いたことがあるであろう問いであるが、この問いの想定解は「フライパン」である。
なぞなぞに対してこんなことを言うのは無粋かもしれないが、私はこの想定解に全く納得できない。納得できない理由は三つある。
第一に、答えが「フライパン」である必要性が無いということである。なぜなら、「ジーパン」や「サイパン」のような「〇〇パン」という形で、かつ食べられない名詞なら何でも答えになりうるからだ。なぜ「ジーパン」や「サイパン」は正答として認められていないのか、本問ではその明確な根拠が提示されていない。また、別解として「パンダ」や「パンツ」を挙げる人もいるが、私はこれには賛同しない。現実世界における食べられるパンは「あんパン」「食パン」「カレーパン」のように「〇〇パン」という形になっており、「パン〇〇」を「パン」として認めるのは「パン」の呼称の法則に反しているからである。事実、「パン屋」や「パン食い競争」は「パン〇〇」という形の名詞であるが、「パン」ではない。
第二に、問いと答えに普遍性が無いということである。この問いと答えが成立するのは日本語圏のみであり、他の言語圏では一切成立しない。試しに英語の場合で考えてみよう。
Q. What kind of bread can't be eaten even if it's bread?
A. Frying pan.
「bread」の話をしているのに「frying pan」の話をしている狂人の完成である。そもそも、日本語において「bread」を「パン」と呼ぶのは、ポルトガル語の「pão」に由来している。フランス語(pain)やスペイン語(pane)でも「パン」と呼び、イタリア語(pane)では「パネ」と呼ぶ。これは、ラテン語で食料を意味する「panis:パニス」が語源である。一方、英語においての「pan」は「なべ」を意味する単語であり、食べ物の「パン」を意味していない。このように、日本語は、別々の言語から「パン」「フライパン」という語彙を獲得したのだ。よって、「パンはパンでも食べられないパンは?」という問いに「フライパン」という答えが成立するのは、世界広しと言えどもおそらく日本語だけであり、この問いは普遍性が無い。
第三に、そもそも「フライパン」は「パン」ではないということである。「パンはパンでも食べられないパンは?」の「パン」が英語圏の「pan」を意味しているならば、「フライパン」が正答になるのはまだ分かるが、「パンはパンでも食べられないパン」という逆説的な文言から、この「パンはパンでも」の「パン」はポルトガル語由来の食べられる「パン」を指していることが分かる。つまり、この問いにおける「パン」とは「pan」ではないので、正答として「フライパン」を想定するのは不適切である。
以上のことから、「パンはパンでも食べられないパンは?」の正答として「フライパン」を想定することに、私は納得できない。
では、「パンはパンでも食べられないパンは?」の想定解しては何がふさわしいだろうか。真っ先に思い浮かばれるのは「腐ったパン」「かびたパン」「賞味期限切れのパン」等の衛生的な観点から食べられないパンであろう。しかし、この場合での「食べられない」は狭義での「食べられない」であり、広義の「食べられない」を満たしていない。なぜなら、腐っていようが、かびていようが、賞味期限切れであろうが、食べようと思えば食べられるからである。このように、物理的に存在している以上、万物は食べられる可能性が不可避的に存在してしまうのである。そう考えると、想定解である「フライパン」ですら、何らかの手を施すことによって食べられる可能性が無いとは言いきれないのだ(何らかの手を施された「フライパン」は果たして「フライパン」と呼べるのかという問題もあるが、この記事では触れないことにする)。よって、「パンはパンでも食べられないパンは?」という条件を満たすためには、「ポルトガル語由来の『パン』であること」「物理的に食べることが出来ない『パン』であること」の2つの条件を満たした「パン」である必要がある。
物理的に食べられない「パン」とは何か。私は、それは「形而上のパン」だと考える。「形而上」とは哲学の用語で、「形のないもの、形を超えたもの、精神的なもの」のことである。例えば、「心」や「神様」がこれに該当する。簡単に言えば、「思考の中の世界」が「形而上」なのである。
一方、「形而上」の対義語は「形而下」である。これは「形があるもの」というものであり、もちろん我々が普段食べているパンも「形而下」のものである。よって、「パンはパンでも食べられないパンは?」の答えは「形而上のパン」と言えるだろう。
では、「形而上のパン」とはどのようなものだろうか。私の考えでは、頭の中で「あんパン」を思い浮かべたとしても、それは「形而上のパン」ではない。なぜなら、「あんパン」は「形而下」のものとして世界に存在しているからである。「形而上」とは「形のないもの、形を超えたもの、精神的なもの」であり、現実世界に形あるものとして存在しているものではない。なので、「形而上のパン」は、現実世界に形あるものとして存在せず、人間の思考の中の世界にのみ存在するパンでなければならない。つまり、まだこの世界に存在していないパンを思考の中の世界で想像したのであれば、それは「形而上のパン」である。それは、「地球くらい大きなパン」でもいいし、「食べると不死身になるパン」でもいい。思考の中で想像したパン自体が「形而上のパン」であり、食べられないパンなのだ。
あなたも、世の中で正解だとまかり通っているものに疑問を感じたならば、自分なりに論考し、自分なりの解答を見つけてみてはどうだろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?