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現代に生きる”えびすまわし”ーー「えびす様と人形劇」対談 <15年そして未来>

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 写真は、今年の1月5日、兵庫県の西宮神社で開催された「百太夫神社祭」にて、撮影したものです。偶然、カメラのほうにえびす様が向いていて、お酒を勧められているみたいでしょう? とても、めでたい気持ちになります。
 えびす様の人形を遣うのは、人形芝居えびす座の座長・武地秀実さん。武地さんは西宮の情報紙「ともも」の編集長を担う傍ら、1995年の阪神・淡路大震災をきっかけに、「えびすまわし」(人形浄瑠璃の源流となったと言われます)の復興を自ら行ってきました。私(研究員・佐藤譲)は、「えびすまわし」だけでなく、「編集者兼人形遣い」の武地さんの生き方にも強い関心があります。

 そもそも、七福神信仰は室町時代の頃から盛んになったそうです(吉井貞俊『えびす信仰とその風土』1989年より)。大黒天・毘沙門天・弁財天は天竺で、福禄寿・寿老人・布袋は中国に出自がありますが、天竺でも中国でも祀られていないのがえびす神。ゆえに、日本人だけが信仰した神様であろう、というのが通説です。えびす様は海上守護神として信仰されてきて、のちに、漁獲物を市場で売買するところから市場神ともなり、広く商売繁盛の守り神へとも変わっていきます。

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【写真】えびすさんがもてなす酒を飲む新型コロナウイルス。人形を遣うのは「人形芝居えびす座」の松田恵司さん(右)

 七福神信仰は500〜600年前から人々にあったわけですが、私には「福」という考え方が改めて新鮮に思えます。
 1月5日に披露された「えびすまわし」は、武地さんの脚本。えびすさんがいつものように釣りをしていると、新型コロナウイルスが釣れました。突然の新型コロナウイルスの登場。えびすさんはどうしたか、というと、なんと、”お酒でコロナをもてなした”のです。
 私は、「そんな発想があるのか!?」と驚きました。驚くと同時に、「なんて優しい発想だろう」と感銘を受けました。そして、「人形劇の図書館」館長の潟見英明さんのもとで、えびす様に関する書籍をご紹介いただき読んでみると、「福を分ける」えびすさんにとっては、とても自然な考え方であることも知りました。
 たとえば、江戸時代。大地震の様を、「鯰(なまず)」を描いて表現する絵があり、その中に、えびすさんが鯰をもてなしている絵がありました。もちろん、鯰を蒲焼きにしたり、瓢箪で押さえつけている絵もあったのですが、えびすさんがもてなして恐縮している鯰の絵がありました。これが「福」という発想だなぁ、と思いました。

 えびす様をもっと知りたい。そこで、潟見英明さんとともに、武地秀実さんのもとを訪ねました。

【写真提供】人形芝居えびす座
【取材・文】佐藤譲(「人形劇の図書館」研究員)

■ 対談者プロフィール

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武地秀実(たけち・ひでみ)
 愛媛生まれ。青山学院大学への進学を機に東京へ。大学時代は、体を使って表現する「創作ダンス」と、さまざまな国へ赴き、そこで暮らす人々の生活を取材し伝える「ルポライター」、その両方に関心があり、特にダンスに注力する。
 大学卒業後は商社へ就職。ダンスからはしばらく離れていたが、働き始めて3年後、会社を退職して再びダンスの世界に入る。ライターをしつつ、師であるアキコ・カンダの舞台に立った。
 結婚を機に、神戸へ。子どもにも恵まれ、主婦として暮らす。自分が住む地域を知りたいと思っていたときに、朝日新聞地域情報紙「あんてな」で働くことに。のちに、編集長となる。1995年、阪神・淡路大震災で被災。より一層、日々の生活に必要な情報を発信するようになる。
 2001年、「あんてな」休刊を受けて、自ら起業し、情報紙「ともも」を創刊。そんな折、西宮中央商店街から、「新たな街づくりに協力してほしい」という依頼を受け、まちおこしに着手。
 地域の歴史を調べると、西宮神社周辺には人形浄瑠璃の源流となった「えびすまわし」と呼ばれる傀儡師がいたことが分かる。震災復興基金を活用し、商店街の復興と地域のシンボルとして、えびすまわしの復活に取り組む。全国に残る神楽や人形浄瑠璃の「えびす舞」を参考に、独自の解釈を加えて、平成の人形芝居としての復活に奔走。
 2006年、人形芝居えびす座を結成して、本格的に活動をスタート。2011年、東日本大震災では被災地へ赴いたほか、フランスでの国際人形劇フェスティバルにも参加。2016年、カンボジアでも演じる。毎年1月5日に西宮神社の百太夫祭でも、えびす舞を披露する。


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潟見英明(かたみ・えいめい)
 1948年、京都生まれ。1971年に「トロッコ人形劇場」を創立(1975年~「人形劇・トロッコ」)以来50年、日本国内のみならず世界16ヵ国100万人以上の子どもたちを中心にファンタジーを届けている。人形遣いとしての舞台は保育園、幼稚園での上演を主として、高校生やおとなたちにも時には観てもらっているが、とくに小さな子どもたちへの上演は一番のお気に入りである。
 上演活動を続けながら、国際人形劇フェスの企画制作には、1984年にUNIMA評議員に選出され第15回大会(日本開催)の担当、1986年からUNIMA第15回大会・88世界人形劇フェス組織委員会事務局次長を務める。また、人形劇研究者として、1991年から「人形劇の図書館」を開設しているほか、京都女子大学などで「児童文化活動論「人形劇講座」といった講師も務める。2005年に文楽世界無形遺産登録記念大阪国際人形劇フェス実行委員、2008年に国立劇場文化デジタルライブラリー『民俗芸能・人形芝居』監修、2013年に『人形劇図書資料目録』刊行、2019年発行の『日本人形玩具大辞典』編集委員も務めた、『東北地方一人遣い人形芝居調査報告書ー猿倉人形を中心に―』2009年、『人形劇全科』子どもの文化特集号2012年、『阿波木偶箱廻し調査報告書』2013、2014,2015年、などの出版もある。

■ 日本人は、もてなしてきた。

ーーえびす様が新型コロナウイルスをもてなす姿を見て、なぜか涙が溢れてきて。たぶん、その分け隔てなく優しい発想に、私は心底感銘を受けたのだと思います。

武地秀実(以下、武地):
 日本の疫病の神は、もてなしてきたんですよね。それが基本なので、私があの演目をつくるときも、もてなすほうがいい、と思って脚本を変えました。
 もともとはね、新型コロナウイルスをやっつける筋書きだったんです。でも、「いや、これはあかん。ちがうちがう」と気づいて、もてなす話になりました。

ーーご時世としても勇気がいる変更だったかもしれませんが、私はあの演目を見られて本当に嬉しかったです。

潟見英明(以下、潟見):
 敵対するほうがドラマ展開としては一般的には分かりやすいですからね。でも、えびすさんなら、もてなしますよね。

ーー日本の神様や「福」という発想をお伝えすることは、今だからこそ一層意味があるんじゃないか、と思って、本日はお二人の「えびす様」のお話を伺いたいと思います。よろしくお願いいたします。

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人形芝居えびす座は、老人ホームで上演をすることもある。写真は2015年の新年の集いにて。

■ えびすさんと付き合って15年

武地:
 もう15年ほど、「人形芝居えびす座」をやっています。
 はじめのうちは、お客さんに楽しく受け入れられることを願う分、只々人形をつくり、形に囚われていたところがあったかもしれないなと思っています。タイを釣って、めでたいめでたい、と。一所懸命やっていたものの、「でも、これじゃあかんな」と試行錯誤してきました。

ーー主に、お子さんやお年寄りへの上演が多いですか?

武地:
 そうですね、子どもとお年寄りは特に伝わるんです。その間の大人たちは仕事で忙しいですからね。

潟見:
 みんな余裕がないからね。信仰心やえびすさんというのも、見えるところではピンとこない。

武地:
 そうです。でも、お年寄りに向けてやると、「えべっさんが来たー!」と心が動くんです。
 東日本大震災の後に、一人で、東北を回り、仮設住宅を訪問しました。部屋の窓はピシッと締まっていて、シーンとしているんです。窓側から、家の中に位牌が置いてあるのも見えた。
「西宮から、えべっさんがやって来た!」と大声で叫びました。突然、自分で言いたくなって。
 すると、仮設住宅の中にいた数軒の方々が、窓を開けたんです。そして、「えびすさーん」と言って、家から出てきました。
 その中のある方が話してくれました。うちの夫が亡くなったんだけど、漁師として生きてきて、いつもえびすさんにお願いしてきた、と。「大漁でね。無事に帰ってきてね」って。話をしながら、えびすさんの人形と私を抱きかかえるんです。有り難いお話を聴きながら、その方が旦那さんを思い出して、心が安らぐのが伝わってくる。
 そういう体験が、長年、えびすさんと付き合う中で、度重なるようになりました。

ーーえびすさんの人形を遣われているからこその体験ですね。

武地:
 子どもの反応も大きなものです。えびすさんと一緒に踊り始める子もいるんですよ。
 とある、知的障害をもつ子どもたちの学校へ行ったときは、特に、反応が凄かったです。私には、人形劇をしたらそうなるのか、えびすさんだからそうなるのか、はたまた太鼓の音が影響しているのか、分かりません。相乗効果もあるのかもしれません。
 その子たちが、みんなで、えびすさんと一緒に、踊ったんです。その場に、えびすさんがたくさんいるような感じがしました。

ーーえびすさんのリズムに子どもたちが乗っていくのは、とてもイメージが湧きますね。
 1月5日の西宮神社の百太夫神社祭で私は初めて拝見しましたが、武地さんの笑顔が印象的でした。

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武地:
 私は笑顔をつくっているわけではなく、やり始めると、ものすごく楽しくなるんです。本当に。「これは一体なんだろう?」といつもいつも感じています。
 信じる信じないは別にしても、えびすさんという神様がいて、そのエネルギーがあるとしたらね。人形を通して、そのエネルギーを表現しています。
 言葉ではどうにも説明がつかない体験が増えるほど、自然と、「今日もえびすさんになって、福がいくところに、授けさせていただきたいと思います」と唱えて、やるようになりました。えびすさんをまわせばまわすほど、私に変化が出てきています。

潟見:
 一体化していますよね。観ている側の、おばあさんたちは、本物のえびすさんを観ているような、ありがたみのある気持ちを彷彿させられるんじゃないかな。

武地:
 有り難いことに、長年やってきたら、それくらいになってきたのかな。
 最近はコロナ禍でえびすまわしを披露することが少なくなってきたら、ときどきちょっとギクシャクしていますけれどね。

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こちらの写真は、2019年の西宮でのイベントにて。子どもたちがえびすさんに向かって身を乗り出す。

■ 7代目になる、えびすさんの人形

潟見:
 とくに、この(新しい)人形になってからですね。前のえびすさんも良かったですが、ちょっとおもちゃっぽい感じがあったので。こういう仕立てのえびすさんになると、重みが出ますよね。

武地:
 その力は大きいです。人形自体がもう「えびすさん」という風に見てくれるので。

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ーーこのえびす様にたどり着くまでには、時間はかかりましたか?

武地:
 かかりましたよ。もう7代目になります。
 一番最初は、紙粘土でつくって、ボロボロの着物を縫って着せて、・・・・・・貧乏神か、って言われるくらい(笑)。それから、フェルトでつくったり、紙粘土でつくったり、ファンから頂いたりいろいろ試行錯誤を繰り返してきました。
 そして、甘利さんという方に頼めることになって。

潟見:
 いま、唯一、職業的に人形芝居の人形を作っている甘利洋一郎さんという人が阿波にいるんです。昔から他の地域にはアマリいない。よく知られている天狗久も、大江巳之助さんも含めて、伝統的に人形浄瑠璃の人形の作り手は阿波ということです。

*注釈:甘利洋一郎 
 「人形洋」の名をもつ阿波の人形師 現在、専門的に人形浄瑠璃のかしらを彫る人はほかにない。

ーーそうなんですね。

潟見:
 他には、アマリ、いない。
 二回、言うてますけれど。笑

ーーあ! アマリだけに。気づかずスミマセン。

武地:
 阿波の甘利さんに人形をつくっていただいて、着物は自分たちでつくっています。
 
潟見:
 あと、いま思い出したけれど。武地さんたちが人形まわしをやりだす前に、西宮神社の中の展示をやっている部屋にモニターがあって、そこでずっと西宮の「傀儡師」の映像を流していたんですが。あれ、私が演じていたんです。

武地:
 えぇ?! そうなんですか。知らなかった。

潟見:
 何かのテレビ番組で撮ったものがあったんですよね。今は、武地さんたちの映像が出ていますね。
 自分でこう言っちゃなんなんだけど、おっさんがやっているよりも、女性がやっているほうが見た目にもすごく華が出る。観る側には心地良さが出る。

武地:
 私も、もうちょっと若ければ良かったですけれどね。笑 

■ 「めでたい」という新しさ

ーーえびす座さんの演目も、観劇後にまず何が残るかというと、めでたい、ということで。「すごく、めでたい!」という感覚が。うまく言葉にできないんですが、「めでたい」って、何周か回って、新しい気がするんです。

武地:
 以前は、えびすまわしをしていて、最後に舞って握手をして、福分けをするところだけが一番いいのかな、と考えたこともありました。でも、意外とそうでもなくて。やっとこさ、ですが、全体の話が面白い、と言ってもらえるようになってきました。

潟見:
 それはそうですね。ダイジェストでも本質が見えればいいけれど、そうでなければ伝わってこない。

ーーたとえば、「引札」って今、新しいように感じるんです。
 江戸時代後半〜大正・昭和時代まで流行った広告手法で、えびす様や大黒様の絵に、屋号や商売の名前を載せる、と。見るだけでめでたい気持ちになります。
 情報がありすぎて、広告を見たくなくなっている現在に、「引札」ってとても効果的なんじゃないか、と私は思いました。

武地:
 新しく見えますよね。

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引札は、いずれも「人形劇の図書館」蔵。実物をご覧になりたい方は、「人形劇の図書館」へ。

ーーここに自分の会社の名前や、自分の名前を入れてみたいです。「めでたい!」から。

潟見:
 それは面白いかもしれないですね。「人形劇の図書館」にもえびすさんが描かれた引札はたくさんコレクションしてますから、何かできるといいですね。
 私の記憶では、昔はどこの家も台所や居間に、こういう引札が貼ってあったんですよ。あるいは、薬箱みたいなものにも貼ってあったり。

■ 真似したくなる人形芝居

武地:
 コロナ禍で少し遠のいていますが、近年は、西宮神社から派生した、全国のえびす神社を訪ねる旅をしています。その土地とえびすさんとの関わりを様々な人に話を聴いて回ります。
 大分県の佐伯へ行ったときに、「昔えびすまわしが来ていたけれど、それを見た人が自分で人形をつくって回していた」という話を聴きました。

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写真は、大分県佐伯の港にて。

潟見:
 全国的に人形芝居が盛んなのは、それの積み重ねなんですよね。西宮、淡路、阿波から来た人形まわしや人形芝居を見た若者たちが、自分たちで真似してやりだした。だから、台本とか、そういうものはほとんどないわけです。完全な口伝。
 いや、口伝というと教える・教わるものですから、口伝ではなくて「聞き覚え」。伝言ゲームみたいなものです。

武地:
 毎年来るから、それで覚えるんですね。「だいたいこんな感じ」っていって、あとは自分のオリジナル、ですよね。

潟見:
 面白いことに、なのに、意外と本来のと違っていないんですよね。正確なんですよね。

ーー当時はエンターテインメントが少なくて、演目を見るときの集中力が凄かったのかもしれませんね。

武地:
 娯楽も少なかったから、村の人たちが喜んでやっていたんでしょうね。

潟見:
 東北の猿倉人形芝居が、東北の各地に人形座があるのも同じです。明治中頃に始まって、その上演を観た村の次男坊・三男坊たちが、土地も畑も仕事もないから、面白がってやっているうちにあっちからこっちから声がかかり、職業になっていった。いつの間にか100にもなる人形座が東北各地にあった。高知の西畑人形芝居もそうです。西畑というところで始まった新しい人形芝居が、短期間のうちに40座以上もでき四国、中国、九州と興行をした。
 いろんな意味で、教えは乞うでしょうが、何か講座があって教わるんじゃなくて、観た人形芝居の真似して始まった。広がっていった、という展開ですね。

武地:
 きっと素直な動きですよね。儲けようとかではなく、「わあ、すごいな! やりたいな!」って。

潟見:
 素直に心を動かすような魅力を、人形芝居は感じさせたってことですよ。

■ 人形劇と、日本のアニメーション

ーー私はあるとき、東京で人形劇団プークの演目を観て、帰り道に「人形劇を一生やっていきたい」と心の底から思って。日本全国、様々な舞台を見る中で、「人形劇の図書館」そして潟見英明さんと巡り会いました。
 社会に出るときにスタジオジブリへ入社するんですが、潟見さんからお話を聴いて、日本のアニメーション業界も人形劇とは縁が深いことを知りました。
 たとえば、高畑勲さんや宮崎駿さんが入社した東映動画という会社は、もともと人形劇の・・・

潟見:
 山根能文(ペンネーム・上原信)さんですね。

*注釈
 山根能文さんの息子さんである元NHKニュースキャスターの山根一眞さんが書かれた記事に、山根能文さんや「白蛇伝」の話は詳しい。

潟見:
 彼は、武地さんの師匠でもあるんですよ。

ーーえ、そうなんですか?

武地:
 実はそうなんです。山根(一眞)さんから物書きとしての基礎を習いました。その時は山根(一眞)さんが人形劇と関係があるとは知りませんでした。彼も人形操りが上手なんですよ。不思議なご縁です。

ーー山根(能文)さんたち人形劇のチームが、実写映画のチームと組んで、日本初の長編アニメーション映画「白蛇伝」をつくりました。そして、「白蛇伝」を観た若き日の宮崎駿さんが、アニメーションの道を志す・・・・・・。
 「人形劇」という流れは、時代をくだっても脈々と続いてきたからこそ、私が人形劇に惹かれたのかもしれないな、と思っています。

潟見:
 人形劇は戦後盛り上がりましたからね。若い人が人形劇に関わった時代があります。当時は、「戦後の民主的な世の中をつくるために人形劇は必要なんだ」とさえ言われていました。

武地:
 「人間的な表現」を考えている人たちの中で、人形劇をやっている人は多かったですよね。

潟見:
 それは現在も同じです。演劇のひとつだし、比較的とっつきやすいように見える。また、芝居なんかやるのは恥ずかしいという人でも、自分の顔を出さずにやれますからね。ただそれだけでなく、人形劇にはどこか前衛的というか最先端を行くような表現手段でもあるのです。いつの時代でも。

武地:
 私は演劇も好きだけれど、人形だからこそ出せるものがあることが好きで。

潟見:
 先ほどのおばあさんたちの反応のように、人形に対する何とも言えない想いというか、人形だからこそ心が開かれるようなことがある。
 たとえば、ものすごいファンがいるようなカリスマ的な人ならともかく、武地さんが生身のまま出て行ったら、どこからどう見ても武地秀実だけど、でも、人形を持つと違ってくる。人形にはそうした生身の部分がないから、観ている側が、自分のイメージする想いをそこにつくることが出来る。
 そこが、人間と、人形との違いですよね。

武地:
 神の依り代、じゃないですが、もともとの人形の源流にも通じますね。

■ えびすさんと東京・恵比寿

ーー私は東京に暮らしていた頃、恵比寿に住んでいたんです。そこに会社の事務所があって。
 でも、恵比寿に住んでいながら、当時はまだ、えびす様に馴染みがなくて。注目したことがなかったんです。

武地:
 それが今の方の普通の感覚なのかもしれませんね。ヱビスビールはよくご存知でしょうけれど。

*長い注釈
 明治時代になってしばらく経った1890年、サッポロビールの前身である日本麦酒醸造会社が、ドイツから輸入した醸造用機械と、ドイツ人技師のもとで、とあるビールを完成させました。そのビールは、えびす様を祀る総本社・西宮神社神前で命名され、正式名称が「ヱビスビール」に。
 ヱビスビールは、日清戦争期に売れ、また、1900年のパリ万博でも賞をもらい、売れ行きがよく、出荷用貨物駅「恵比寿駅」ができるほどに。戦後の1960年代に、「恵比寿」という名称がその地域の正式名称となります。恵比寿駅周辺はビール工場の街でした。
 恵比寿の街が今のイメージになるのは、1994年の恵比寿ガーデンプレイスが開業してから、だそうです。恵比寿ガーデンプレイスにも、恵比寿神社が祀られる際は、西宮神社から歓請されました。
 東京の恵比寿という場所は、元々は「ヱビスビール」という商品名からですし、元を辿ると、西宮神社、そして、えびす様から付いた名前です。

ーー東京の恵比寿という街が、えびす様から始まっていたと思うと、私には面白いです。西宮と恵比寿って姉妹都市・兄弟都市なんじゃないか、と思えますよね。

武地:
 そうでしょう? 私はいつか、恵比寿で、えびすまわしをやりたいんですよ。

■ これからの展開

潟見:
 長年やってこられて、だんだんと表現する技術も上がって、人形もあらたになり、これからさらにどう展開をしていけるか、ですね。

武地:
 先日、鳴尾にある西宮能楽堂で上演をしました。「鳴尾からえびすさんがやってきた」という一節があったから、鳴尾で一度やってみたかったんです。
 えびすまわしだけじゃなく、二胡ともコラボレーションをしました。二胡の胡は、えびすとも呼びますからね。

武地:
 そのときに、最後に人形をもって語る、ということもやりました。最近は語りに力を入れているんです。
「親にも捨てられて、イジメにもあって、災難にも遭って、でも鳴尾の人たちに助けられて。わしは海の神じゃけど、福の神になろう、と。みんなと目線を一緒にした、福の神でいたいんじゃ」ということを語る。オリジナルの演目で、脚色を入れていますが。この語りをすると、私は涙が出て来る。

潟見:
 武地さんのえびすまわしとしての仕事は、最近とみに広がっていますよね。

武地:
 広がってきました。コロナがなければ、本当はもっと広がっていましたが。今は、神社さんや、小学校・中学校に呼ばれて上演することが多いです。

潟見:
 それは地元の伝統文化ということで?

武地:
 そうです。おかげさまで、市民の認識が広がってきました。西宮市のパンフレットにも5年ほど前から「見どころ」に掲載いただいたので。あと、西宮神社さんにテレビ撮影や取材が入るときに呼ばれたりします。有り難いことです。

潟見:
 テレビの場合は、えびすさんは本当に絵になりますからね。
 次の世代にどう伝えていくのか、というのは私にも課題です。

ーーできることからやっていこう、ということで、このnoteも始めてみているので。今は地道に、「人形劇の図書館」の蔵書をひとつひとつ紹介していますが。

潟見:
 人形劇の人たちだけに限らず、人形劇に興味が無い人たちにもどう知ってもらえるか、に力を入れていきたいですね。

武地:
 潟見先生、ぜひ一緒に定期的にお話ししましょうよ。滋賀の先生のところへ私たちが行ったり、西宮のこちらに来ていただいてもいいですね。

潟見:
 そうですね、ぜひとも一緒に勉強会をしていきましょう。

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           2021年2月22日 「人形芝居えびす座」事務所にて

■ 対談後記

 西宮は「傀儡師」発祥の地ともいわれ、阪神電車の西宮駅ちかくに石碑と傀儡師の胸像が建っている。その「傀儡師」には諸説あるも、中国大陸から朝鮮半島を経て渡来し、九州は大分、福岡県境に残る「傀儡子」神事は、朝鮮半島の「コクトウカクシノルム」人形と類似し、平安時代後期の大江匡房『傀儡子記』に書かれた傀儡子集団はやはり朝鮮半島の「男寺党」(ナムサダン)に類似し、そこが原点で、流れて西宮に日本の「傀儡師」が現れたとなるだろうか。
 いずれにしても、西宮の「傀儡師」はえびすさんの人形を舞わす「えびすまわし」として知られていたが、明治期以降はその痕跡も消えてしまっているも、西宮の傀儡師が京の四条河原あたりで浄瑠璃という音楽と結びつき、淡路島で「人形浄瑠璃」というあらたな人形芝居につながっていく中で、西宮の傀儡師の「百太夫」が人形芝居の神様として祀られ、西宮神社の本殿脇の「百太夫神社」では、毎年1月5日に「百太夫祭」が行われている。
 その西宮で地域コミュニティ紙を発行する武地秀実さんが、途絶えた西宮の傀儡師の流れを「えびすまわし」として復活させようとの思いから、自ら人形遣いすなわち「傀儡師」となって15年を経て、人形まわしとしての重みも形成されつつあり、次の展開を期待したい思いから話を聞くことになった。
 何も残っていない伝統を復活させるのは想像以上の労力を有することで、それは並々ならぬ意思を持っての行動なのだ。
                 「人形劇の図書館」館長・潟見英明

*注釈
 ちなみに、「コクトウカクシノルム」については、この『図解・韓国の伝統人形芝居コクトウカクシノルム』に詳しい。「人形劇の図書館」に蔵書があります。
韓国民俗劇研究所/編 梁民基・平井美津子/訳
出版社名 :現代人形劇センター
出版年月 :1986年

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