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「進撃の巨人」に出会えたわたしの幸福な人生

自分がどれくらい進撃の巨人を好きか、いくら言葉にしたところで伝えられる気がしない。
でも伝えたい。
その矛盾に自分が耐えられないので、今まで進撃の巨人についてnoteで語ることはしてこなかったのだけど、でもやっぱり伝わらなくても一回言葉にして残しておきたいと思ったので、書いてみます。

わたしは意味がわからないくらいにこの作品が好き。
これ以上に好きな作品に今後出会える気がしない。出会えたら幸福だろうけど、でもやっぱり超えて欲しくないような、不思議な気持ちがする。
今まであるひとつの作品に対してここまでの感情を抱いたことはない。
進撃は人生。
原作者の諫山創先生が聞いたらきっとドン引きして苦笑いされてしまいそうなほどに、進撃はわたしの人生を、思考回路までを変えてしまったと思う。
でもそれはきっとわたしだけじゃない。
日本だけに留まらず、進撃は世界でも人気のある作品で、ただの一読者であるわたしの想いなどかき消されてしまうほどに、多くの人を熱狂させている。

わたしは昔から空想好きの子供だった。
それは、現実が辛いから、現実が自分の思い描いたものではないから、まるでそこから逃避するように、「こんな自分だったら」「人生がこんなものだったら」と、思い返すと4、5歳の頃からずっと考えていた。自分の人生をより良いものにしていく勇気がなかったのだと思う。だから、空想に逃げた。
今も空想しがちな人間ではあるが、進撃に出会った前と後ではまるでその内容が変わっている。
わたしはもう、都合のいい空想はしない。

わたしは今までフィクション作品を摂取するときには、空想の助けになるような、人生がうまくいきそうな「理想のキャラクター」を探すような気持ちで見ていた気がする。無意識のうちに、それを自分の心に取り入れ、自分をそのキャラクターに似せることで自分の人生がうまくいくかもしれないと信じていたのかもしれない。
進撃は魅力的なキャラクターがたくさん出てくるけど、どのキャラクターも、決して「その立場になりたい」とは言えないほどに壮絶な人生を必死に生きている。
わたしが「もしかしたらどこかにはあるんじゃないか」と思い描いていた、「運がいいことに都合の良い世界を生きるキャラクター」が、たった一人としていない。
皆、まるで自分一人が生きているように感じていた「そう簡単に思い通りには進んでくれない世界」を、必死に、精一杯生きていたのだ。

今までのわたしは、どうせうまくいきっこないなら、頑張っても頑張らなくても同じ運命かもしれないなら、最初から頑張らなければいい、と、絶対にうまくいく保証がないと頑張れない人間だった。実際、今もわたしは根っこはそういう人間なんだと思う。
進撃にはそういう思考を持つキャラクターも出てくる。
期待したことが果たされない経験を重ねたら、心が壊れてしまうから。
頑張れなかった今までのわたしだって、長い目で見たら、自分の心を守る行動をしていたのかもしれない。それはそれで、別にいいんだと思う。勇気を出せなかったとして、それはそれでいいんだと思う。
でも何かを果たしたいのなら、その考えでは何も変えられない。
守りに入りながらも何かを成し遂げられるほどには、世界は甘くない。
守りに入ることだって正当な行為だ。わたしたちはそもそも何かを成し遂げたり、誰か別の人間から見て素晴らしい人間になる必要だってない。何者にもならなくていい。ただ生きているだけでいい。
でも、それが嫌なんだとしたら、何かを強く求められるのなら、それは自分の問題であって、それ相応の障害を乗り越えていかないと、何者かになる未来には辿り着けない。

この世には優しい人もたくさんいる。
誰もが意地悪ではないし、わたしの敵でもない。
それでもわたしにどこまでも都合よくいてくれる存在など、この世にいない。
いなくていい。わたし自身も、誰かによって都合のいい人間になどならなくていい。
わたしはわたし自身のために生きている。わたし以外の人間も、みんなそうだ。
進撃を読んだり見たりしていると、そんな一見当たり前のことを忘れてしまう自分自身に気付かされ、わかりやすい答えを得られるわけではないけど、でもやっぱり自分のことは自分自身が考えなくてはいけないんだと、そんなやっぱり当たり前のことを思い知らせてくれる。

進撃の巨人に出会って、幸福になったわけではない。
でも、この世界の残酷さに向き合わなくてはならない時に、立ち向かう力を与えてくれる作品だと思う。
だから、進撃を知った今、わたしは何事にも挑戦できる。
うまくいく保証なんてないけど、それでもわたしはこの世界が残酷ながらも、美しさも依然として在ることを知っているからだ。

進撃の巨人に出会えた自分の人生は幸福です。

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