そして召命に気づく

(2022年3月東京基督教大学入学時の証の締めくくり部分から)

神様を中心にした生活を送れるのでは無いか

ずっと、若手経営者と言われてきた私も、いつの間にか50歳。

今、やっているブランドは、ファン(顧客)の方々もつき、少しずつ大きくなっている。このファンの方々が抱いている憧れに対する責任みたいなものは、勿論あります。でも、それはこれから20年間続けなければいけないものなのだろうか。一定の年数、新しい商品を開発し、お届けをしていくことで、果たされるものではないだろうか。

その移行期間を経て、その後は、神様を中心にした生活を送れるのでは無いだろうかと考えました。以前は準備ができていないなかで、上手くいかなかったノンクリスチャン向けの伝道ができるのでは無いかと思えました。

今、50歳。これから5年から10年近くかけて、聖書のことを学んでも、そこから20年以上も、伝道の働きが出来る。

以前に失敗をしたのは、あまりにも準備不足だったから、という面が否めません。

私は、どこまで聖書のことを理解できているだろうか。中途半端な、何か偏ったものを読み齧っただけの知識になってしまっていないだろうか。特にイエス様がいらっしゃってからの新約聖書のことを深く理解できているだろうか。神のみ言葉として語れるだけの学びをしているだろうか。神学の基礎から学ばないといけないと感じています。


特にイエス様のことを伝えていく、新約聖書のことを伝えていくには、やはり聖書そのものが何と語っているかを深く理解をしなければいけません。そのためには、日本語訳だけではなく原典を読み、理解していかないといけません。幸いにして、私は自分で自分の時間をコントロールできる立場にあり、これからまだ7年間をかけて、しっかりと学びを深めていくことが出来ます。大学院後期課程まで含めて考えた時に、日本の中で、福音派の立場に立ち神学の研究ができる唯一の場所として、東京基督教大学を福澤牧師に紹介されました。

示された働き

日本宣教の歩みはゆっくりとしたものである、と言われて久しい。
では、それは個々のクリスチャンの信仰が足りないのか、それとも日本はそもそもキリスト教を受け入れない場所だからなのでしょうか。
勿論、そうではありません。「あらゆる国」「全世界」に福音を届けよ、と我々は命じられています。もちろん日本が含まれています。

日本の中で、本当に多くのクリスチャンが、その信仰をもとに尊い働きをしていらっしゃいます。様々な教会が、多くの牧師が、福音を伝えるために仕えていらっしゃいます。ただ、もしかすると、その働きを繋ぐ動きが足りないのかもしれません。

母が牧師として支えている大阪の西成の教会(牧師は5名ぐらいいます)は、大阪の西成で路上生活をせざるを得ない人々にも、食事を提供し、聖書勉強会を行い、人々を信仰告白に導いています。
また、私が知っている別の教会は、小学校が終わったあと、居場所がない子ども達に、居場所を提供し、その中で聖書の勉強会も行っています。尊いです。
他にも日本中に福音を伝えるべく様々な尊敬をすべき活動をしているクリスチャンが多くいらっしゃるでしょう。

では、これらの働きは、お互いに、どこまで学び合っているのでしょうか。

西成で信仰告白に導かれた後、そして路上生活から抜け出した後、どの教会にその人たちは導かれるのでしょう。あるいは西成でしている活動から、他の都市の人たちが参考に出来たり出来ることはないのでしょうか。西成の教会は、他の都市の教会や、あるいは教会以外がしている活動から取り入れることが出来ることはないのでしょうか。この西成の教会でしている活動に共感を持ち、支援に入りたい、寄付をしたい、という人も生まれてもいいと思います。しかしこの教会は現実には電気代の支払いにも苦しんでいます。

学童向けの活動をしている教会のことからは、多くの教会が学べることがあるでしょう。アレンジをした形で、似た働きが出来る教会が多くあることでしょう。でもその働きの試行錯誤からの学びは共有されているでしょうか。

神は我々に福音を届けよ、と命令をされました。しかし日本では福音が急速に広まっているとは言えません。

個々のクリスチャンは努力をしているが、個別バラバラに戦っているに等しい状況かもしれません。

クリスチャン同士の間で、あるいはノンクリスチャンと接して、孤独感を感じたり、限界を感じたりすることもあるでしょう。

この「破れ口」の回復と修復に、私の経験と能力を使え、と神に導かれました。

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