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阿佐ヶ谷の家


「いま干しぶどうから酵母を起こしていてさ、たまらなく可愛いんよ。会社行かずにずっと眺めていたいくらい!」

というわたしの言葉に

「抱きしめてあげて。」

という返信をくれた おっさん。

この世に話が通じるひとがいて、わたしはほっとした。

トンチンカンなわたしの感受性と
支離滅裂なことばにちっともイヤな顔をせず
おっさんは対話する機会をくれる。
男とか女とかである前に、人として
知ろうとしてくれる。

フツウの枠組みに当てはめようとせず
宙をゆくわたしの考えを、行動を、どんどんゆけと風を送ってくれる。ありがたいことにその風に乗って、わたしは今日まで生きてきた。

おっさん とわたしが呼ぶ男性は、
わたしより歳はふたつ上で
出会ったのはおっさんが20代半ばの頃だったっけ。
全然おっさんと言われるに足らない年齢や見た目だけど、わたしとしては おっさん と呼ぶのがふさわしく、とてもしっくりきた。
もちろん下げずんだ意味で呼んでいるわけではない。


おっさん の家は6畳の部屋にキッチンがつながっていて、バストトイレは一緒だった。

わたしたちはその家によく集った。とにかく話をした。料理をした。ワインとコーヒーを飲んだ。

わたしたち といっても、恋人ではなく、ふたりだけという意味でもない。

類は友を呼ぶというが、読んで字の如く
類が友を呼び、そして集ったのだった。

若者たちがひとつ屋根の下で頻繁に集うと、いかがわしいイメージや新興宗教なのではという目も向けられがちだが、全く違う。

わたしたちはその家で、料理をして、食べて、ワインとコーヒーを飲んで、とにかく話をした。
会社ではひと言ふた言話すかどうかのわたしが、ものすごく喋った。それが個人的に一番凄いことだった。自分の中にこんなに言葉があるものかと。

これまで生きてきた中で考えたこと、今在る環境の中で思うこと、これからのこと。

あの魚はどうやって捌こうか、味付けはどうしようか、飲み物はなにが合うか。

コーヒーはエチオピアがうまいだの、あの器が最高にかわいいだの、日本酒の菌が愛おしいだの、なんだのと。いろんな話をした。

家の中に時計がなかったので、みんなたまに終電を逃しタクシーで帰宅することさえあった。
それでも話は尽きないし、そこではなんでも話せた。

いわゆる、世間一般的にこうでなければならないとか、こう振る舞わなければおかしいとか、そういったものが無くて、(無くてというのは語弊が生じそうなので説明すると
みんなそういうものがあるというのは分かっているけれど、それは一旦置いて自らの考えを、感じたことを思う存分話せるということ。)
それはわたしをとてものびのびとさせた。

わたしたちはインスタグラムで出会った。
普段なら絶対に、そう、絶対に 会うことなんてしない。だけどどうにもおっさんのことは気になった。ので、会ってみたらこれだ。
最高に楽しい日々だった。

それは何年か続いて、
それぞれの恋人や友人を連れて集った。
いつも明日には突然、消えて無くなるかもしれないような、奇跡のような関係性だった。

いまではみんな(世の中がこんな状況だからというのもあるけれど)頻繁に会ったり連絡を取るわけではないし、居る国も違う。だけど、いい関係性ではあると思う。(少なくともわたしはそう感じている。)

家でもない、会社でもない、昔からの友人でもないところで、わたしは生きていくこころを育てた。時々くじけそうになるときも、チーズを削ってなんとか強くなった。

みなさんには人生のなかで、自分をのびのびとさせてくれる存在がいるだろうか。思う存分、自分の中の熱量を出せる場があるだろうか。

あるならば、どうか。

周りからはその関係性が変だと言われようが、
どうか大切にしてほしい。自らの判断を尊重してほしい。と、わたしは思う。
その時期の経験があって、いまわたしは生きている。

今はもう誰か、
違うひとが住んでいるその阿佐ヶ谷の家に
心が時々帰る。




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