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演技と驚き◇Wonder of Acting #22

タイトル画像:グイド・レーニ「聖マタイと天使」
演技を記憶する、マガジン [October 2021]

00.今月の作品役名演者インデックス

『おかえりモネ』永浦百音:清原果耶/『万引き家族』柴田信代:安藤サクラ/『おカネの切れ目が恋のはじまり』猿渡慶太:三浦春馬/『ウルトラマン』ウルトラマン:古谷敏/東出昌大/松岡茉優/『恋です!〜ヤンキー君と白杖ガール〜』赤座ユキコ:杉咲花/『おかえりモネ』及川新次:浅野忠信/『偶然と想像「もう一度」』占部房子、河井青葉/『護られなかった者たちへ』円山幹子:清原果耶/『マイ・ダディ』御堂一男:ムロツヨシ/平岳大/『マドモアゼル・モーツァルト』モーツァルト(エリーザ):明日海りお/『ひらいて』木村愛:山田杏奈

01.今月の演技をめぐる言葉

ー メインコンテンツです。毎月、編集人が見つけた、演技に触れた驚きを引用・記録しています。※引用先に画像がある場合、本文のみを引用し、リンクを張っています(ポスター・公式サイトトップ・書影などは除く)。

セキケンジ @SEKI00340111 元ツイート>
ゼットンにスペシウム光線がきかない。 指先で動揺を表すウルトラマン。 見事な演技だと思う。 セブン以降のグローブではなくゴム手袋だからとか言う理由ではない。 古谷さんのウルトラマンとしての演技が巧みなのだ。 そして動揺する姿さえも格好良い。

@SEKI00340111

シン・四畳半 元ツイート>
松岡茉優の凄さはどんな役でも前からそこに居たかのように自然で慣れた動きをする所だと思ってる そしてその挙動を少しオーバー気味にやることで観てる観客に気付かせる ちゃんと役を作ってる感じが松岡茉優への信頼感へ繋がる 理屈っぽいし計算高いんだけどその強かさがいやらしくなく頼もしい

@baiken0815

佐藤佐吉 Sakichi Sato 元ツイート>
水曜日の『おかえりモネ』をまた見て泣いてる。あの場面で脚本に書かれていたであろう「かもめはかもめ」を不自然なくあのタイミングで歌い出せる浅野忠信。上手いとか凄いとかのレベルではない崇高な芝居だった。

@sakichisato

いちろー 元ツイート>
偶然と想像、やはりどこまでいっても演技の映画を撮る人だなと改めて。芝居が堂に入る瞬間を、今回も見事にキャッチしていた。最小限の人物(役者)で構成されていることや、長回しはその瞬間の誕生に手を貸している。特に三話の、窓ガラスの前と仙台駅で二人が向かい合って会話する二つのシーンが最高

@shimesabaclub

背骨 † 元ツイート>
『護られなかった者たちへ』
いくつもの「清原果耶でなければならない理由」を背負って円山幹子を演じる清原果耶は、周囲の大人の期待など軽々とオーバードライブする演技を見せる。清原果耶はもう「期待の若手」などという領域にはいない女優さんです

@sebone_returns

引用させていただいた皆さんありがとうございます。†

02.雲水さんの今様歌舞伎旅(ときどき寄り道) 第十二回:オリジナルを生む日本の魅力~箕山 雲水

今まで観てきた中で、相当な衝撃を受けたミュージカルがある。『21C:マドモアゼル モーツァルト』。音楽座ミュージカルの作品だ。この作品では、モーツァルトはなんと女性である。音楽の才に恵まれた彼女だったが、当時は男でないと作曲家にはなれず、そのために父親に男として育てられる。もともとは女性として生まれたわけだから、男として生きる人生にはたくさんの逆境が待ち構えている。なぜ自分は女として生まれてきたのだろう、そんな苦しみの中で生きるうちに、モーツァルトは自分のミッションに気づいていく、そんな物語。そのミッションを与えたのが21世紀、つまり未来に生きる戦場の少女の祈りで、それが時代を超えてモーツァルトに曲を書かせていく……。一見突飛な設定を持った話のように見えるのに、どの瞬間も違和感がなく、当たり前のことのようにストンストンと自分の中に落ちてくる。さらに、目に見える華やかなエネルギーの奥底に、ドーンと大きく太い大河の流れのような不思議なものが流れているのだ。こんなものを私はそれまで観たことがなかったし、いまだに他に出会ったこともない。

そんな作品の姉妹作?というのだろうか、同じ原作、同じカンパニーによるものなのに全く違う作品といわれる『マドモアゼル・モーツァルト』を東宝がやると聞いて、せっかくだからと観劇してきた。脚本と音楽だけ元の作品のものを使って、それ以外は東宝スタイルでやるらしい。何作か音楽座ミュージカルの作品を観てきた中で感じていたドーンとした大河のような、ずっと作品を包んでいるあの「何か」は今回の演出では感じられず、かわりに「女性としての生き方」のようなものに焦点があてられていたように思う。好みはさておくとして、演出家の考えひとつでこんな変化をするのだなと、それがとにかく興味深かった。

そして、主演の明日海りおさんである。 女性が男として育てられるシチュエーションはたしか『ベルサイユのばら』のオスカルでやっていたはずだし、そもそも宝塚歌劇の男役を長くやられてきた人なのだから、きっとこの役もお手のものなのだろうと、開演前はそんなことを考えていた。ところがこのモーツァルトという役は、男を極めるタイプの「男として育てられた」人間ではなく、持って生まれた「女性」という性別を背負った上でいろんな葛藤とぶちあたっていく。男性らしく「男」や「男装の麗人」を演じる男役とは全く違う。そう一筋縄で行く役ではないのだ、と幕があいてはじめて実感した。目の前に生きるモーツァルトは、今までのどの明日海さんの枠にもはまらない、言葉を選ばずに言えば「女性」だった。剥き出しに生身の明日海さんがそこにいて「男」を演じる中で様々な葛藤にぶつかっている、そんな気がした。

きっと、演じるには大変な苦労があったのだろう、そのことが重なるせいだろうか。それとも、男性と並ぶとあまりにも小さく見えるその体で男役のトップスターとして中心を張っていた、その重責を経験してきたことが重なるのだろうか。後半、モーツァルトが何かに取り憑かれたように曲を書いていく場面など、とても演技とは思えないほど鬼気迫り、モーツァルトの「それでもやらなくてはいけない」使命感が重なってどうしようもなく涙が出た。それでいて、どんなにギリギリの状況になっても舞台に、そして客席に満ちる空気はとにかく明るいのだ。父親によって男として生きることになったモーツァルトは、それを恨むことだってできたはずである。音楽を投げ出すことだってできたかもしれない。でも、彼女は書き続けた。これが自分のミッションだと決めて、やり続けた。誰かのせいにするわけではなく、自分の人生を背負って生きているからこそできる表現。新しいモーツァルトが誕生した、と嬉しさがまた涙になる。

歌に関して言えば、このあいだまで男役をやっていた人がやるには酷な音域の曲ばかりだから、前半の日程ではまだまだ改善の余地があるようには感じられた。でも、それを超えても名演だった。こういう、新しいタイプのミュージカル女優が、新しいあり方で活躍できる作品がもっと増えれば面白いのだが…!

それにしても、あらためて音楽座ミュージカルの作品の強さときたら。最近は小さい規模でばかり公演を行っているようだけれど、こういう日本のオリジナルミュージカルこそもっと光があたるべきものなのではないだろうか。言葉のひとつひとつ、音楽のひとつひとつに無駄がなく、繊細なのに大胆。どの主人公も特別な人ではなく、ハッピーエンドとかバッドエンドとか一括りに判断できない物語が展開されていく。客席にいる私たちは、否応なしにその力強い物語に叱咤激励されるのだ。こういうものが生まれる日本の魅力に、もっとまっすぐに光があたっても良いのではないだろうか。そんなことを思いながら、また歌舞伎を観に行こう。一味違った世界が見えるかもしれない。

††

03.隔月連載 演技を散歩 ~ pulpo ficcion/第八回 『ひらいて』山田杏奈

※以下の記事は首藤凜監督作品映画『ひらいて』とその原作、綿矢りさ『ひらいて』について特段の配慮なく触れています。未見・未読の方はご注意ください。

日本映画の中で高校という舞台は特殊な位置を占めている。そこがただ「若さ」だけを描くことのできる特別な場所だからだ。

未熟さや幼さという意味ではない。無垢や輝ける未来という意味でもない。ここで言う若さとは自意識がすべてを覆いつくすことだ。そのようにしか世界と向かい合えない。そうした精神の一状態のことだ。

それは時として、ひどく「無理」しているようにみえる。

映画『ひらいて』を観た。主演の山田杏奈の無理が心に残った。それがいったいどういう無理だったのか無性に気になった。

例えば、展示物として作られた桜の木を蹴倒すシーン。あの時「愛」(山田杏奈演じる主人公)は本当に桜を蹴倒したかったのか。おそらくそうではない。このようなシチュエーションでは「今の自分」は桜を蹴倒すはずだという自意識に押されたのだ。けれど本人(愛)にはきっとそんな自覚はない。

そこに無理が生まれている。自意識に根拠はない。だのにそれは逃げ得ない運命のように見える。だから自意識だけに駆動された行為は、どこかわざとらしい。演技臭い。けれど当人にとってはそれ以外は考えもつかない行動なのだ。

一方、演ずるという行為は自意識に根ざさない。それは脚本や演出や監督の、あるいは俳優本人の「目論み」を根拠とする。演技とは<この身体>とは別のところから来た欲求に基づき、この身体を駆使することだ。そこにはまた別種の無理がある。

山田杏奈は、若さの持つ無理と、それを演じる無理の双方を一つの体の中で共存させていたように思う。いや、共存というのとは違うだろう。あからさまにバランスを失ったように見えるシーンもいくつかあった。

その綱渡りをつぶさに知りたくて、原作の小説を読んだ。

原作は、映画を観たものにとっては意外な一言からはじまる。

彼の瞳。

綿矢りさ『ひらいて』

初見、ファーストシーン。スクリーンから私を射抜いたのは山田杏奈の異様に黒い瞳だ。「彼の瞳」ではない。彼=思い人「たとえ君」(作間龍斗)を見つめる愛の瞳だ。

一語で改行され、小説は続く。

凝縮された悲しみが、目の奥で結晶化されて、微笑むときでさえ宿っている。本人は気付いていない。光の散る笑み。静かに降る雨、庇の薄暗い影。

(同上、以下も)

ここに書かれたのは愛の自意識が捉えた、たとえ君だ。小説はそのまま一貫して愛の視点で進む。彼女の自意識が丸ごと世界を包んでいる。包まれた世界がそのまま読者に届けられる。一方、映画はモノローグを排除していた。愛の自意識が奏でていた作品を、カメラアイの捉えた画で語る。地の文が紡ぐ愛の自意識は、丸ごと愛の瞳に映しかえられた。

この素晴らしいプロットの転換が愛の抱えた欲望をそのまま山田杏奈に受け取らせた。丸ごと受け取った山田杏奈の強靭な身体。

たとえにはひそかに付き合っている恋人がいた。「美幸」(芋生悠)だ。手紙を書き、机に忍ばせる。二人はそのことでつながり続けている。愛はその手紙を盗む。そして読む。美幸の存在を知り、近づく。そして美幸と関係を持つ。思い人から恋人を寝取るのだ。

物語は三人の抜き差しならない関係の行方を追う。小説は愛の視点で、映画は第三者の視点で。

物語には愛の自意識に覆われない言葉がいくつか登場する。1つは美幸の手紙だ。「たとえ君へ」ではじまる素朴な手紙だ。自意識が芽生えはじめた頃のまさにその場所にあるような書き言葉だ。芋生悠のフラットで澄んだ声が芽生えを見事に表現していた。

それから、たとえの朗読する文章だ。こちらは映画の冒頭で、秀才の確実な朗読で読み上げられ、愛の瞳を誘発する。

そして、たとえと美幸が愛にぶつける言葉だ。愛の独りよがりの行動を残酷なほど正確に見抜いてしまうナイフのような言葉だ。

美幸の携帯を使って、偽りのラインを送って、愛はたとえを深夜の高校に呼び出す。以下、小説より。

「うれしい?」
「うれしい」
「じゃあ態度で見せろ」
私はおずおずと笑顔を作り、彼を見上げた。彼は穏やかな表情を崩さずにそれを見下ろす。
「それが木村の本当の笑顔か。まずしい笑顔だな。いつも君が完璧に作っている笑顔とはくらべものにならないくらい、まずしくてわびしい。瞳がぼんやりすすけて、薄暗い。自分しか好きじゃない、なんでも自分の思い通りにしたいだけの人の笑顔だ。一度くらい、他人に向かって、おれに向かって、微笑みかけてみろよ」

<まずしい笑顔>を山田杏奈は完璧に体現していた。思い人に冷静にののしられても、なんの反論もできないゆがんだ笑顔が、貧しさのまま、あまりに美しい。

その表情にいたる過程。夜の教室で、愛はたとえに、抱きしめてキスしてほしいと願う。スクリーンから目をそむけたくなるほど痛々しかった。愛の自意識のゆえ、心と身体と言葉はまるでちぐはぐだ。同時に「愛のことがわからなかったし、正直今でもわかっていません(映画パンフレットより)」と語る山田杏奈の苦闘が生々しく記録されていた。<演じられているもの>と<演じていること>が混然一体となった二重の無理がそこにあった。かけらも美しくなく、ただ、ひどく心に焼き付くシーンだった。

ここからさき、愛はひたすら自分を罰するかのように行動する。山田杏奈は、その主人公を、自分ごとばらばらになってしまえとでもいうような捨て身で演じているかに見える。だが、愛も山田杏奈もぎりぎり投げ出さない。暴走する自意識と他者の声が行き交う身体。小説と映画が二重写しとなる身体。そんな身体を彼女たちは必死に、人の形におしとどめようとしていた。

自意識に操られる無理。その無理を理知的に演じる無理。映画『ひらいて』にはその格闘が記録されている。けっして倒れることなく、戦い続ける演技の際が記録されている。その記録を同時代に確認できたことを、誇りに思う。

ところで、「若さ」による無理が見えるのは、それは私が「若くない」からだ。

最後は明るい話題で終わりたい。

山田杏奈の瞳は終始黒いわけではない。一か所、はっきりと彼女の茶色いキュートな瞳が復活するシーンがあった。愛がこぶしを繰り出すシーンだ。小説から引く。

そう、私は恋をして自分のふがいなさを味わうまえは、怒りと自信に満ち溢れた女の子だった。私はまだ失っていない。この向こうみずの狂気があれば、何も恐くない。私はだれにも、負けたりしない。
「こっち向け、馬鹿!」

まとわりつく自意識が一瞬解除された。その瞬間を最大限の瞬発力で演じきる山田杏奈。天晴!

†††

04.こういう基準で言葉を選んでいます(といくつかのお願い)

舞台、アニメーション、映画、テレビ、配信、etc。ジャンルは問いません。人が<演技>を感じるもの全てが対象です。編集人が観ている/観ていない、共感できる/共感できないも問いません。熱い・鋭い・意義深い・好きすぎる、そんなチャームのある言葉を探しています。ほとんどがツイッターからの選択ですが、チラシやミニマガジン、ほっておくと消えてしまいそうな言葉を記録したいという方針です。

【引用中のスチルの扱い】引用文中に場面写真などの画像がある場合、直接引かず、文章のみを引用、リンクを張っています。ポスター、チラシや書影の場合は、直接引用しています。

【お願い1】タイトル画像と希望執筆者を募集しています。>

【お願い2】自薦他薦関わらず、演技をめぐる言葉を募集しています。>

05.執筆者紹介

箕山 雲水 @tabi_no_soryo兵庫県出身。音楽と時代劇、落語に浸って子ども時代をすごし、土地柄から宝塚歌劇を経由した結果、ミュージカルと映画とそして歌舞伎が三度の飯より好きな大人に育つ。最近はまった作品はともに歌舞伎座の2021年2月『袖萩祭文』、同3月『熊谷陣屋』、ミュージカルでは少し前になるが『7dolls』、『ナターシャ・ピエール・アンド・ザ・グレート・コメット・オブ・1812』、マイブームは日本舞踊。

pulpo ficción @m_homma
「演技と驚き」編集人。多分若い頃に芝居していたせいで演技への思い入れがけったいな風に育ってしまった。それはそれで仕方ないので自分の精神的圏域を少しでも広げたいとこのマガジンをつくった。今年は20年ぶりに芝居やってます。12/12(日) 大阪市内3カンパニーの短編オムニバス「マヂカデミルゲキ#1」@コモンカフェ!>

06.編集後記

まあ、こういう話は書かないほうがいいのかもしれませんが、今回の編集人記事、発行当日に書きだしました。良く間に合った。というか、大丈夫ですかね、これで。しばらくして文章が少し変わっていたりしたら、そういうことだとお察しください。まもなく2年です。次号は11/28(日)発行予定!

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