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鑑賞するってことについて本気出して考えてみた

この記事では映画や音楽ライブなどを鑑賞するということについて、私の考えをまとめました。

公共性を持つ個人的な鑑賞行動

突然ですが、ライブバーなどで録音されたライブCD音源を聞いたことありますか?
お客さんや演者のオー!という声や、皿やカップなどのぶつかるカチカチという音が入っていているような音源です。
ともすれば演奏にとって邪魔なノイズだ、雑音だと感じる方ももいるかもしれません。

でも私はそういう雑音が好きです。
お客さんが興奮して唸ったり、緊張感がある展開を終えた時に、カップをテーブルに置いたりします。
雑音にも意味があると思うんです。
会場にいた全ての人がライブを作っている感じが伝わってくるのが好きなんです。
雑音は会場の空気感を伝えていて

スタジオレコーディング音源では聴くことができないとても尊い音なのです。

似たようなものに、映画館で他人が驚いた声、笑い声をあげるというものがあります。

知らない人の声が邪魔だ、嫌だと思う方がいるかもしれません。
私は映画館で他人の声が聞こえる事も好きです。

名前も知らない人ですが、同じ作品を一緒に見てる人たちと言葉を交わす事なく
やっぱりそこ驚くよね?とか、ここ笑えるよねっていう気持ちを交換しあうのです

映画館やライブ会場は積極的にコミュニケーションを取らないですが、社交の場だと思うんです。

ライブや映画館のように、作品に人の反応が乗っかる事で、深みや新し意味、楽しみ方が生まれると感じています。

私は学問に疎いので正式な名前があるかどうか分かりませんが
このように積極的な意見交換はしないけど、他人と鑑賞を共にすることは、特別な意味があると感じます。

この記事では、そういう鑑賞行為を「公共性を持つ個人的な鑑賞行動」と名前をつけさせていただきます。

公共性を持つ個人的な鑑賞行動は、感受性を育む上でとても大事だと感じます。
子どもの頃は親や友だちとテレビを見たり、漫画を読んだり、ゲームをして、楽しみ方や感じ方を共有してきたと思うんです。

でもその時に鑑賞してきた題材は子ども向けのコンテンツだったと思うんですね。
では、大人向けとされるのコンテンツ、小説や歴史、クラシック音楽などを
他人と鑑賞行動をシェアする機会って結構少ないような気がしませんか?
そういう機会は意図して設けないとグンと減ってしまうと思うんです。

そして機会がないから興味もなくなり、どこに興味を持っていいのかさえ分からなくなり
ひっそりと遠ざけてしまったり…

たぶん誰もがみんな悩んでることだと思うんですけど
世の中には、めっちゃくちゃ面白いものがたくさんあるにも関わらず
何が面白いか分からないなぁと気持ちを塞いでしまったり、ひとりで過ごす時間が苦手に感じてしまったりしちゃうんですよね。

そういう時こそ、人と一緒に何か見たり聞いたりするのが効くんじゃないかなぁと。
というのも鑑賞するというモチベーションに
あの人どう感じるかな?っという別の動機が付与されるから、鑑賞が苦しくなくなると思うんですね。

あれ?最近塞ぎ込んでるなぁって思ったら

ライブ行きましょうよ!ひとりでもいいじゃない!映画もひとりでも全然楽しめんじゃないかな?

公共性を持つ個人的な鑑賞行動やっていきましょう!

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