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ローファイ・ヒップホップ

どうしても寂しい夜は引き出しの奥にしまってあるiQOSに手を伸ばしてしまう。それが煙草ではなくiQOSだというところが、丁寧な生活に憧れる粗雑な人間の悪足掻きのようで見苦しい。月が細い。空気が冷たく影が暗い。今日は一日中誰からも見放されているような気がしていて、だから私は駄目なんだと何処からか声がする。自分一人で自分を満足させられる人間になってみろよ、と。そんなのはどうしたって無理だろう、人間一人じゃ生きられないって今までそこらかしこで言われてきたじゃあないか。そういうことじゃないんだ、私は私を認めたいんだ、ってただそういうこと。

スマホで文章を打っている途中、ぽん、と完成したばかりのローファイ・ヒップホップの音源が送られてきた。再生を始めると同時にイヤフォンから流れ込んでくる心地よい音の波が、彼と私との違いを突きつけてくる。ぐわんと世界が曲がり、iQOSの電源が落ちて静かに光が消えた。

「なにもかも捨て去ってまるごときれいになりたいの。あなたたち、人間の汚い部分を描いた映画を素晴らしいって言うけれど、自分が自分の汚い部分から逃れられないことを知っているのでしょう?だからそうやって素晴らしいだなんて言っちゃって、自己を肯定しようとしているのでしょう?」

歳を重ねるほど相手を深読みする場面が増えてきて、それは時に己を守ることにも繋がるけれど、やはりどこか悲しく虚しい。

「それは違うね。人間は汚くて醜くて、だからこそ綺麗なんだ。」

「嘘。そんなの、綺麗事よ。」

複雑な思考を得た人間のその汚さが、他の動物と一線を画す強みの核だというのなら、汚さが汚さを超越する術を教えてほしい。そう考えたところで、いやそうではないな、と思いつく。汚さ醜さを超えた先に綺麗なものがあるのではない。汚さ醜さを噛み締めた人間だけが持ち合わせる綺麗さというものがあって、だからそれは汚さ醜さと共存するのではないか?

君は不幸な考え方をしたがるよね、不幸な考え方をすることで気持ちよくなる人なんだね。恋人にそう言われて、そうではないのだと思う。私にとって、マイナスの感情を積極的に感じにいく行為は私を楽にしてあげる行為なのだ。内にあるもやもやは、目を凝らして感覚を研ぎ澄まして感じる方が案外楽だったりするし、その先に希望の光があるはずだといつも心の何処かで期待しているのだと思う。そうすることで私という人間がひとつまともな人間になれるのではないかという期待。

今度はiQOSではなく煙草を手に取る。久々だ。煙草に関してはただただ身体に悪いだけだ。でもいいだろう、感情を感じにいくのにはそれなりのエネルギーが必要なんだ、今夜くらい許してくれよ。夜はまだまだ、これからだろう。

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